69話 出席番号二番
紅黄中の教師の中で最も生徒から恐れられているのは音楽の奥村先生であるらしい。それはそうだろうと稜子も頷いている。彼女は吹奏楽部の顧問を務めているので、副顧問の稜子は関わることが多いのだが、質実剛健、謹厳実直を絵に描いたような人だ。言葉に遠慮も虚飾もなく真っ当な発言をしている分、彼女に叱られると心に突き刺さってしまう。
三者面談の四日目。息子を連れて教室に入ってきたのは、その奥村先生の怖さを十倍増しにして人の温もりを捨て去ったような印象の女性だった。一挙手一投足が正確なテンポを刻むメトロノームのようにきびきびとしていて、呼吸一つさえ無駄にしない。服装も、鞄も、左腕に着けられた腕時計も機能性を最優先に考えられたデザインのものだ。間違いなく入学式に彼女は来ていなかった。きっと一目見たら忘れられないだろう。
一体全体何を言われるのか。この人に学校への要望を伝えられようものなら迷わず首を縦に振ってしまうかもしれない。母親の正面に座った稜子は最初、みっともなく声が震えそうになるほど緊張していた。だが、少しして杞憂だったと気づく。
拍子抜けするほどあっさりと、面談は終わったのだ。
「ええと、夏休みの宿題の説明は以上になります、が……」
母親の腕時計が視界に入る。まだ十分も経っていなかった。
「それでは、お暇してもよろしいでしょうか?」
「はい……えっ、え?」
こちらで用意していたステップを二つか三つすっ飛ばした展開に前のめりになる。よろしいでしょうかと言いながらも、母親はとうに帰る支度を始めていた。稜子が思わず「お、お母様!」と叫ぶと、無機質な双眸がこちらに向けられる。
「あの、あの……い、一応、心良くんにも図書室で待ってもらっているのですが、今から呼んできましょうか?」
こわごわと口にした提案に、表情を微塵も変えないまま即答される。
「休暇を一時間分しか申請しておりませんので。兄の方は明日夫が伺います」
「あ、はい。申し訳ございません、差し出がましいことを……」
失礼しますと一言だけ断って、母親は颯爽と退室していく。足取りまでプログラムされているみたいだった。教室の温度が五度は下がったような気がする。
堪えきれなくなったのか、稜子の斜め前に取り残された生徒がぷっと吹き出した。
「あはは、一時間分って、まさか……父さんはまた一本取られたなあ」
綺麗に磨かれた眼鏡の隙間から目元に浮かんだ涙を拭って、網瀬玲矢はくすくすと可笑しそうに笑っている。彼が友達と談笑しているときと変わらない笑顔だ。稜子の緊張の糸も急速に緩んでいき、つられて笑い声を上げてしまった。面談中に心から笑ったことなんていつぶりだろうか。初めてかもしれない。
「一本取られたなんて、そんな言い方」
稜子は改めて机の上の三者面談日程表を手に取った。紅黄中に兄弟姉妹で通わせている家庭は、面談を一日で済ませるために日程を調整してくることが多い。一年C組に揃って所属している双子の兄弟、網瀬心良と網瀬玲矢の面談も同日に続けて行うものだとばかり思っていた。しかし、実際に提出された確認票の備考欄には「兄弟で別の日取りにしてください」と書かれていたのだ。
「うちは父さんより母さんの方が圧倒的に強いから」と玲矢は尚も微笑する。
「確かに、その、格好いい方でしたね。仕事ができそうな」
「奥村先生とちょっと似てません? 俺、初めて授業を受けたとき寒気がしました」
胸の内を言い当てられたようでどきりとする。玲矢は冗談めかした口調で続けた。
「だけど、余計なことは言わないでしょう。アンドロイドみたいですよね。家でもほとんど何も注意してこないんですよ」
それはそれでどうなんだとは思うが、この玲矢に限って言えば無理もない。
網瀬玲矢は聡明かつ器用な子だ。テストの順位こそ一位ではなかったが、このクラスで最も賢いのは彼ではないかと稜子は常日頃から感じている。成績優秀であるのはもちろんだが、玲矢は教師や生徒の誰とも敵対することなく良好な関係を築くことが上手い。性格検査で優劣はつけられないものの、玲矢の診断結果は冊子に回答例として載っていそうだとつい思ってしまった。あまりにお手本のようだったから。
「あ! 今のは別に奥村先生が余計なことを言ってくるという意味ではないので。告げ口しないでくださいね」
「もう、告げ口って……私も先生ですよ」
玲矢は「わかってますって。ただのお願いです」と言ってにこりとした。母親が帰ったというのになかなか部活に戻ろうとしない。三者面談ついでにサボるつもりのようだ。今日の面談はこれで最後だし、時間いっぱいまでは大目に見てあげよう。
廊下で待っている間、教室から奏斗の母親の声が聞こえてきたと玲矢は話した。聞き耳を立てなくても内容がわかるぐらいには筒抜けだったと。最後まで防戦一方だった先ほどの面談をありありと思い出す。作り笑いを浮かべる稜子を気遣うように玲矢は言った。
「奏斗のお母さんって、あんな感じの人なんですね。夏休みに奏斗や将人たちと夏祭りに行く約束をしてるんですけど、あいつ本当に来られるのかな」
「夏祭り……ですか。紅黄市の?」
「はい。あと、柑歌川の花火大会も。俊輔のお母さんが連れて行ってくれるとか」
楽しそうですね。そう返した稜子の声は、窓の外で鳴きだした蝉の声に遮られた。
夕暮れ時の蒸し暑い教室と、夏の訪れを告げる音。かすかに漂う制汗剤の匂い。日差しに照らされた机の端をそっと撫でると、自分までもが中学生の夏に戻ったような気持ちになる。机に向かってシャーペンを走らせていたあの頃。
ああそうだ。私も紅黄中学校の生徒だった。もう社会人になってしまったけれど。昔の服は着られないし、友達とは連絡を取り合ってもいないし、嗜好も価値観も目指していたものも変わってしまったけれど。
学校は何も変わらない。制服も、校舎の造りも、生徒が廊下を駆ける音も――。
「網瀬くん、は」
「はい?」
「夏休み、ご家族で出かけたりはしませんか?」
稜子の質問にも表情を変えることなく、玲矢は淡々と「家族ですか」と答えた。
「部活と塾の夏期講習が忙しいので、特には。他に入っている予定も友達と遊ぶ約束ばっかりです。夏休みって、やりたいことやろうとすると意外と短いですよね」
玲矢は椅子に座り直すと、「そもそも」と続ける。
「俺の親、長い休みにわざわざどこかに連れ出してくれたことなんてほとんどないですよ。あの通り仕事漬けなので。あ、でも一回だけ遊園地に行ったことはあったなあ」
「おじいちゃんやおばあちゃんの家にも行かないんですか」
「え? えっと、母さんの方の祖父母のところは、年末年始に少し顔を出すぐらいですね。父さんの方は……もう六年ぐらい会ってないと思います」
どうしてそんなことを? とでも言いたげに玲矢は首を傾げている。
「日野先生の方こそ、夏休みはどこかに行かれないんですか。旅行とか」
「私、ですか?」
無邪気な質問についくすりとした。やはり考えることはまだまだ子どもらしい。
「網瀬くん、先生に夏休みはないんですよ」
「そうなんですか? 授業もないのに?」
「授業はありませんが、どうやったら勉強する内容をわかりやすく生徒に教えられるか考えたり、外部に講習を受けに行ったりするんです。授業に遅れている子のサポートをすることもありますね。あとはまあ、部活があるのは網瀬くんたちと同じですし。残念ですが、旅行に行っている暇はありません」
「ああ、なるほど」
玲矢は神妙な面持ちで素直に頷いている。本当はそれらの合間に校舎の見回りをしたり中庭の掃除をしたり、生徒が問題を起こした施設へ謝罪しに行ったりと細々とした仕事がたくさんあるのだが、すべて話すことでもあるまい。
「でも、楽しみにしていることはありますよ。公開を待っていた映画を見に行くんです」
「あはは、いいですね。俺も夏休みが楽しみです。家でしたいことが山ほどあるので」
「家で? 何をするつもりなんでしょう」
含みのある笑顔で、玲矢は「先生には秘密です」と答えた。