6話 真っ青な日記帳
後悔はどうしたって自分に付いて回る。
こんなことをするつもりじゃなかった。
こんなことをしたところで、どうしようもないとわかっているのに。
いつもより早く教室に入ったのは、ひまりの作文を読むためだった。それだけで終わるはずだった。真っ赤になって自分の夢を否定したひまりがどんなことを書いたのか知りたくて、奏斗は彼女の作文を捲った。ほんの少しの好奇心だったのだ。
いいや――振り返ってみるとわかるが、そこには確かに嫉妬心と苛立ちがあった。好きなことを好きと言えるのに本気で向き合おうとしないひまりに腹が立って、羨ましくて。ひまりの作文が薄っぺらく中身の無いものであることを願った。
奏斗の醜い期待は容易く裏切られた。ひまりの作文は、奏斗が想像していたより遥かに素直に書かれていた。言葉は拙くても誠実で、不器用でも想いが感じられた。読めば読むほど、決してこうはなれない自分を愚かしく思った。
自分で書いた自分のものではない作文を壁から引き剥がし、美術の授業で使う赤いクレヨンを塗りたくったとき、しがらみから少し解放されたような気がした。気がしただけだった。
さあ、後始末は自分でつけなければならない。
*
「また何か盗まれたの?」
「奏斗くんの作文だって」
朝の会が始まる前の教室は騒然としていた。生徒のほとんどが後ろに集まって壁を見上げている。先日の盗難事件が解決したばかりだというのに、奏斗の作文が紛失したからだ。
「許せねえよなあ、おい」
憤慨した様子の将人は、奏斗の肩を慰めるように叩いた。
「奏斗、元気出せよ。すぐ見つかるって」
「あ、ああ。へーきへーき」
焦りを悟られないように、努めて明るく返す。もちろん奏斗は作文のある場所を把握していて、それは今赤く塗り潰されて中庭の池に捨ててあるのだが、この状況で言えるはずもない。
同じく作文の所在を知っているはずの柏葉ひまりは、自分の席に座ったまま奏斗の方を時々窺うだけで、何も言わない。言い出すタイミングを決めかねているのだろうか。それとも、関わりたくないと思っているのだろうか。ひまりがいつ秘密を暴露するか気が気でなくて、勢いあまって全てを口走ってしまったことを、奏斗はひどく後悔していた。
脳をフル回転させてこの場を乗り切る方法を考えていると、奏斗の前にいた柳井千紗が「ていうかさあ」と胡乱げに声を上げた。
「一番怪しいの、網瀬じゃないの? 兄の方」
クラスメイトがどよめいて、一斉に振り返る。
網瀬玲矢の双子の兄、うら心ら良はひまりと同じように席についている。名前を呼ばれても特に気に留めなかったのか、こちらを見ようともしない。
「さすがに反省したんじゃないの」
「でも、やっぱり怪しいよね」
周囲でひそひそと囁きが聞こえる。あいつは関係ない、と舌の先まで出かかったが、声にはならない。ここで否定してしまえば、最悪の場合奏斗が捨てたことがばれてしまう。
皆に秘密がばれたら、何のためにこれまで苦労して「快活なサッカー少年」というキャラを作り上げてきたのかわからなくなる。下手をすると母に連絡がいくだろう。母に知られたらお終いだ。何回も何回も作文の書き直しを命じられたことを思い出して、顔から血の気が引いていく心地がした。
「本当にお前じゃないんだろうな」
将人が反応のない心良の肩を力いっぱい掴んで、強引に振り向かせようとした。やめろよ、と思わず奏斗が口を出しそうになったとき、
「兄さんはやってないよ」
騒然とする教室に入ってきたのは、玲矢だった。
玲矢はやんわりと将人の手を退けて奏斗を見ると、口元に柔らかな微笑を湛えた。
「忘れたの? 作文は授業参観の後に奏斗が持って帰っただろ」
もちろんそんな事実はない。何を言い出すんだお前は、と口にしかけて、玲矢が何かを目で訴えていることに気づく。玲矢は笑顔を崩さないまま続けた。今度は、皆の方を見ながら。
「奏斗のお母さん、奏斗の発表を最後まで見れなかったんだって。だから、家で作文の完成版を見せてあげたいって、奏斗は俺に頼んできたんだ。俺がりょうちゃんに発表者の作文を預けられてたから」
嘘八百を流暢に並べる玲矢の蛮勇に、奏斗は密かに冷や汗をかいた。奏斗の母は発表を最後まで廊下で見ていた。もし誰か一人でも気づいていたらすぐにばれる嘘だ。だが、指摘されることはなかった。玲矢はもう一度奏斗を見た。
「だから、奏斗は自分の作文を持って帰った。そうだったよな?」
口ぶりは穏やかでも、玲矢の目は全く笑っていない。「いいから俺に合わせろ」と奏斗に命じているかのようだ。
まさか、何もかも知っているのだろうか。ぞくりと悪寒が走る。
「もしかして奏斗、失くした?」
追い打ちをかけるような玲矢の言葉に奏斗はたじろぐ。
ここで話を合わせたら、奏斗は嘘を重ねることになる。皆に言えないことがまた一つ増えてしまう。だけど、真実なんて言えるわけがない。
何かを話せば話すほど、本当の自分からどんどん遠ざかっていく。自分で自分がわからなくなる。底無しの沼に足を取られるようだった。
そもそも、本当の笹村奏斗が何だったのか、奏斗はもう思い出せない。
自分はいつから嘘をついてきたのだろう。物心ついた頃には、既にサッカーボールを蹴らされていたような気がする。図書館から借りてきた児童書をベッドの下に必死で隠すようになったのはいつだったか。
これまでの人生で、自分は一度でも自分らしく振る舞ったことがあっただろうか。
「皆さん、何をしているんですか」
教室に入ってきた日野先生が、目を丸くして教室の後方に集まった生徒たちを見た。
「ほらほら、朝の会が始まりますよ。皆席についてください」
優しく注意されて、生徒はばらばらと席に戻っていく。
日野先生は動かない奏斗を不審に思ったのか、叱責するように言った。
「笹村くん、席につきなさい」
玲矢はまだ奏斗を見つめている。中学入学以来ずっと仲良くしてきた玲矢のことを、奏斗は初めて怖いと感じた。お前が自分で決めろ、自分で話せ、という無言の圧力がこれほどに恐ろしいものだとは思わなかった。
「先生、オレ、」
全部嘘なんです。サッカーも両親も大嫌いだし、サッカー選手になんてなりたくないし、本当はもっと意気地なしなんです。
「作文を、」
捨てました。赤く赤く、呪詛をかけるように赤く塗って、池に捨てました。
「……失くしちゃったんですよ! いや、マジですんません」
「ええっ?」
仮面をさっと被り直して、奏斗はにやりと笑った。
「そういや、作文渡してくれたの玲矢だったな。サンキュー、完全に忘れてた」
「だろ? 奏斗が言い出さないから、俺も焦ったよ」
「ごめんごめん」
あははは、と笑う玲矢と奏斗を交互に見て、日野先生は目を白黒させた。
「持って帰ったのはともかく、失くしたってどういうことですか?」
「や、それがですね、多分古い雑誌とか新聞とかと一緒に置いてたせいで、どっかに紛れ込んじゃったんですよ。昨日一晩中探したんですけど、やっぱり見つからなくって」
奏斗は戸惑うような視線を向けてくるクラスメイトに向かって、いつもの調子で言った。
「ごめん、失くしたとかちょっと言いにくくってさあ。カッコ悪いじゃん」
硬い顔で一連の出来事を見ていたクラスメイトは、一気に安堵したようだ。
「もー、なんだよ」
「びっくりしたあ。紛らわしいなお前」
「ごめんって。それでさ、先生」
奏斗は日野先生に向き直った。
「オレ、家に下書きあるんですよ。作文の。清書したのとほとんど同じやつです。なんで、もう一回書きます」
言った瞬間、奏斗の胸を深い後悔と不快感が蝕む。
あれをもう一回書くと、今自分は言ったのか。
「……わかりました。県の審査に出さなければいけないので、早めに書いてくださいね」
日野先生は物言いたげな顔をしていたが、それ以上は追及してこなかった。
ああ、やっちまった。
表向きはへらへらとしながらも、奏斗は今にも泣き出したい感情を抑え込んでいた。一文字書くだけで身を生きたまま焼かれるような思いになったあの文章を、自分はもう一度書かなければいけない。そうすると決めたのは、他ならぬ自分だ。奏斗は、また自分で自分の首を絞めてしまったのだ。
どうしたらこんなことを止められるのか教えてほしいと、心の中で願う。
自分がどうしたいのか、何をしたらこの苦しみから逃れることができるのか、奏斗にはわからない。
席に戻る前に、奏斗は作文が貼ってある壁を見た。奏斗の作文があった場所がぽっかりと空いている。まるで自分みたいだ、とぼんやり思う。空っぽになった自分の心の中みたいだと。
左側に視線を向けると、作文が貼られていない場所はもう一つあることに気がついた。男子の列の、一番前。
男子の出席番号一番は、確か――。
*
原稿用紙が消えた日の前日、月曜日の昼下がり。
鬼城真夜は黒いスニーカーを履いた足を自転車のペダルから離し、すとんと地面に下ろした。両手でハンドルを握ったまま、道路を挟んだ向こう側にある公園の一点をじいっと見つめる。やがて確信に満ちた目になると、真夜は自転車を押して横断歩道を渡った。
紅黄中学校のすぐ近くにある万寿公園。その中にたった一人で彼はいた。
明らかに体に合っていない、濃紅の大きなパーカー。ズボンのほつれた裾から飛び出した生白く細い脚を宙に浮かせて、網瀬心良がブランコに座っている。耳全体を覆うライムグリーンのヘッドホンは、昨今ほとんどお目にかかれない傷だらけのポータブルCDプレイヤーに繋がっていた。プレイヤーを大事そうに両手で抱え込む心良の頬には、赤い血が薄っすらと滲んだガーゼが貼ってある。
地面の上を真っ直ぐに滑る自転車のタイヤが、ブランコの前でぴたりと止まった。
「心良くん」
情感を込めた声で、大切なあの子の名前を呼ぶ。
「うらら、くん」
再び呼んでも、心良は応えない。焦点の合わない目には何も映っておらず、ぴったりと閉じられた口からはかすかな息遣いすらも聞こえてこなかった。
特に気にすることもなく、心良に目線を合わせて真夜は語りかける。
「ここにいたんだね。公園にはよく来るの?」
心良は長い睫毛を揺らしてぱちぱちと瞬きをした。緩慢な動きでヘッドホンを外し、膝の上に置く。質問に答えようとはしない。代わりに、長い前髪で隠れた丸っこい澄んだ目が真夜の方を向いた。真夜は心良の目を正面から見つめ返した。
互いに無言のまま、二秒、三秒。
ぐー、きゅるきゅる。五秒が経ったとき、二人の間で呑気な音がした。音は心良の腹部から聞こえてくる。心良の表情は変わらない。
自転車のカゴに入ったコンビニ袋からカレーパンを取り出すと、真夜は心良に差し出した。
心良は一瞬だけわずかに目を見開いたが、すぐに目を逸らしてしまう。その仕草の意味するところに気づき、真夜は小さく唇を噛む。それから、心良を安心させるように微笑んだ。
「誰にも言わない。誰も見てないよ。大丈夫」
「いらない」
心良は、目の前にいる真夜でも聞こえるか聞こえないかぐらいの枯れた声で答える。
「それは、玲矢にそう答えるように言われたから?」
一歩踏み込んだ質問で、ふわふわ揺れ動いていたブランコが止まった。
自転車のスタンドを立てて、真夜は心良の隣のブランコに座った。乾いた地面を思い切り蹴ると、仄暗い曇り空が近づいては離れ、近づいては離れる。
「ねえ、心良くんは、」
ブランコが頂点に辿り着いたところで言葉を切って。
「今でも玲矢のこと、好きなの?」
二人が一番接近するその瞬間、心良の瞳は真夜の顔を映した。
「すき」
心良の姿が、また遠ざかる。
「そう、だよね」
真夜はブランコを漕ぐのをやめていた。足が地面に付けられる速度になると、心良の真横で静止する。
そういうところは変わってないんだね、と言いかけて、真夜は言葉を変えた。
「心良くんの中身は、どこも変わってないんだね」
人はそう簡単には変われない。真夜の想いも、願いも変わらない。
だからきっと、心良の心根も「六年前」から変わっていない。
「でも、だめ。心良くんはそれだけではだめ。心良くんだけはだめ」
取り返すことは可能であるはずだ。
心だけでは不十分。今のままでは、真夜にとって心良は存在しないことと同じだった。
私は我儘だ、と言い聞かせる。心良に対する優しさでも同情でもないこの気持ちは、すべて自分のエゴなのだと、忘れないようにしなければならない。心良は救いを求めておらず、現状に満足しているのだから。真夜のことを必要としていないのだから。
今から救済するのは心良ではない。闇の中を今も漂っている、過去の自分だ。
心良の無垢な瞳を今一度見つめ直し、はっきりと意志を込めて真夜は言った。
「私は、心良くんの笑顔が見たい」
六年前の夏。
空色の日々が、ずっとずっと続いてほしいと願っていた。
あの夏の刹那のきらめきに、「私」は今でも囚われている。
*
たくさんのひまわり。
救急車のサイレン。
叫び声。
流れる赤い血。
麦わら帽子を被った、黒く長い髪に、白いワンピースの女の子。
女の子が振り返って、花が咲いたように笑った。
「…………だれ?」
浮かび上がる見覚えのない光景に、網瀬心良は首を傾げた。