68話 出席番号十二番
数学二十七点、英語三十一点、理科三十四点。成績表の上で躍る悲惨な数字を見て紙を裏返そうとした手を稜子は素早く引っつかんだ。
「駄目です、奏斗くん。しっかり現実を見てください!」
「ひいい、待ってよりょうちゃん、こんなのはあんまりだああ」
「それはこちらの台詞です! あと、何回も言ってますが、『りょうちゃん』は禁止!」
稜子の手を押し返すと、笹村奏斗はだらしなく椅子の背もたれに寄りかかってへらへらと浮ついた笑顔を見せた。隣に座る母親に背中を叩かれて、おどけたように姿勢を正す。どう見ても反省していない。
親の顔が見たいとはよく言うが、クラス一のお調子者である奏斗の母親は存外真面目そうな人だった。それはそうかもしれない。何せ奏斗の父親は元プロサッカー選手なのだ。稜子も詳しくは知らないが、アスリートの妻は大変だと聞く。
再び奏斗に期末テストの成績表を突きつけて、稜子は厳しい声で言い放った。
「真面目に勉強しないとこれから大変ですよ。教科書の内容はどんどん難しくなります。主要五教科で赤点を取ったのはクラスでも奏斗くんともう一人だけで、」
「なあんだ、オレだけじゃないの?」
「そういう問題ではありません! 先生の話は最後まで聞いてください。――ですから、授業中に居眠りするのはやめましょう。他の先生方も気づいていますよ」
「げえ! ちょ、ちょっと、お母さんの前で言うのはやめてくださいって」
「こんな機会でもないと話を聞かないでしょう」
尚もニヤニヤとしている奏斗に、当の母親は深く溜息をついた。「いつも息子がご迷惑おかけして申し訳ありません」と小さく頭を下げる。随分慣れた調子だ。奏斗が小学生の頃から悪名高いトラブルメーカーであったことは稜子も知っている。
「ここまで成績が振るわないのなら、私立に進学しなくて正解だったかもしれませんね」
うっかり「えっ」と間抜けな声を上げてしまった。
「し、私立? 奏斗くんがですか?」
「そんなに驚く? 先生、失礼なんじゃないっすか?」
茶々を無視して母親から話を聞くと、どうも奏斗は私立烏羽学園の中等部に推薦入学する予定だったことが発覚した。烏羽学園と言えば県内でも有数のサッカーの名門で、全寮制の中高一貫校だ。しかも奏斗は烏羽サッカー部の顧問から熱烈に勧誘されており、面接さえ受ければ入学はほぼ確定的なものであったらしい。
では、なぜ奏斗はスカウトを蹴ってまで紅黄中に入学したのか。
「逃げたんですよ、この子」
平然としていた母親の顔がわずかに歪んだ。日差しが雲に遮られたのか、教室が途端に暗くなる。稜子はつい身震いした。
「面接の日、奏斗がどうしても大丈夫だからと言い張るので一人で電車に乗せたら、そのまま目的の駅を通り過ぎて県外まで行ってしまったんです。おまけに連絡もせず夕方まで遊び呆けて。ああもう、思い出しただけではらわたが煮えくり返りそうになりますね」
「そ、それは……大変でしたね」
冷や汗が稜子の背中を伝う。一息に吐き出された言葉に怨恨じみた濁りを感じるのは、さすがに気のせいだと信じたい。助けを求めるように奏斗の方を向くと、本人は相変わらず締まりのない口元で笑っていた。
「いやあ、ははは。怖じ気づいちゃった、みたいな? それにオレどうせ馬鹿だし、私立とか行ってもなあって前から思ってたんですよ」
この状況で笑顔を維持することができるのは肝が据わっているとしか言えないが、いつもの光景に安心したのも事実だ。稜子は奏斗と同じように微笑んで手を合わせた。
「烏羽学園はテストで赤点を取った生徒に部活動をさせないと聞きますし、奏斗くんには辛かったでしょう」
「そーなんですよ、オレ紅黄中でよかったあ」
「いえあの、勉強は真面目にしてほしいですが。自宅学習時間は確保できていますか? 部活の練習で忙しいのはわかりますけど、宿題だけでもちゃんと出してください」
「日野先生、その話なんですけど」
母親の剣呑な雰囲気に心臓が縮み上がり、声が出なくなる。今度ははっきりと稜子を標的にしていることがわかった。
「サッカー部の練習量をもっと増やしていただけませんか? 紅黄中には優秀な指導員がいると聞いたから部活に入れたのに、日曜日は部活自体がお休みだなんて、スポーツを舐めているとしか思えません。これなら素直にジュニアユースにしておくべきだったと後悔しています」
「……えっと」
その話と言いつつ完全に会話の流れに逆らった要望に、どう返すべきか咄嗟に思いつかなかった。中学生の心身に負担をかけることを抑えるために、運動部は大会前を除き週に一日以上休養日を設けるように県教育委員会から要請されている。サッカー部は盛んに練習している方だ。それに、闇雲に練習時間を増やすことが技術の向上に必要であるとは限らない――と、稜子は思うのだが、この母親に直接言うのは憚られた。
「さ、サッカー部の顧問の先生にお伝えしておきますね」
結局、稜子は当たり障りなく答えるしかないのだ。
笹村奏斗の母親がいわゆるスパルタ的であるということは、小学校からの申し送りにも書いてあった。日々の練習に疲れた奏斗が授業中に爆睡することは昔から珍しくなかったそうで、母親に彼の練習を制限するよう促した担任が逆に食ってかかられる、というのを繰り返していたらしい。聞いているだけで胃がキリキリしてくる話だ。
当事者の奏斗はどうやってこの重圧から逃れているのだろう。常に軽薄な言動と人を小馬鹿にしたような口調でのらりくらりと教師の叱責を躱しているのは、単に不誠実で他人の気持ちを考えていないからだと思っていたが、もしかすると彼なりの処世術なのかもしれない。そうだとすると、底抜けに明るい笑顔の裏には一体どんな感情が隠れているのか。
机の中には、今から手渡すつもりだった奏斗の性格検査結果が入っている。
奏斗はB型(不安定不適応積極型)に振り分けれらていた。人当たりが良く活動的であるところはD型と似ているが、こちらは不都合なことが起きると精神の均衡を崩しやすい傾向があるとされている。実は、このクラスでB型と診断されたのは奏斗だけだった。
それだけなら過剰に心配するほどでもないのだが、稜子が気になったのは教師用の判定表にしか載っていないとある項目の内容だ。
回答の歪曲の程度。でたらめ回答の程度。奏斗はこれらの得点が非常に高かった。
アンケートという手法をとっている検査である以上、回答の際に歪曲反応が起こるのは仕方がない。とりわけ自分に自信がない生徒、外面を取り繕っている生徒ほど、ネガティブな回答をしないように自然と嘘をついてしまうのだ。奏斗はそのどちらでもないと、稜子は根拠なくそう思っていた。
依然続いている母親の申し出を頷きと共に右から左へ聞き流しながら、向かいの席で軽やかに笑っている生徒の顔をぼんやりと見つめる。
多分、奏斗だけではない。楽しそうに、穏やかに毎日を過ごしているように見える生徒が本当は何を考えているかなど、大人の稜子が理解することは敵わないのだろう。
三日月型につり上がった口の端が、かすかに震えたような気がした。