67話 出席番号二十四番
三十四人の生徒とその親の面談を一人で担当させられるというのは、なかなかどうして気が狂っているのではないか。ついにそんなことを考え始めた四日目のことである。
しばらく難儀な家族の対応に頭を悩ませていたので、久しぶりのスムーズな面談に稜子は心の落ち着きを感じていた。普段の授業の準備に支障をきたさないためにも、これ以上心労が重ならないことを祈るばかりだ。このまま何事もなく終わってくれればよいのだが。
稜子の願いも虚しく雲行きが怪しくなり始めたのは、「紅黄中の子たちは元気が良いんですねえ」という母親の和やかな一言からだった。
「さっきも野球部の男の子たちと会ったんですけど、みんな明るく挨拶してくれたんですよ。こう、しっかり帽子を脱いでね。こんな見知らぬおばさんにまで頭を下げてくれるだなんて、感心します」
「あはは……野球部はその辺り、厳しく指導されていますから」
母親の隣に座る生徒――柏葉ひまりの表情に陰りが差したのを見て、この胸騒ぎは本物であると確信する。親子喧嘩の種がどこに潜んでいるかなど教師にわかるはずもないが、毎日面談を続けてきたこともあり、前兆ぐらいは察することができるようになってきた。
ふくふくした顔に笑みを湛えて、ひまりの母親は娘の肩を叩いている。
「ひまりちゃん、やっぱり部活に入らないのはもったいないんじゃない? お友達作るなら部活に入るのが一番だと思うの」
おっとりとした抑揚のある声で話しかける様はまさに娘思いの優しいお母さんといった印象を受ける。稜子も彼女の顔は覚えていた。風邪を引いて入学式を欠席した娘の代わりに、ひまりの母親は学校まで資料を受け取りに来たのだ。人見知りしがちな子ですが、ひまりをよろしくお願いしますと何度も頭を下げていた。今日も面談が始まる前から廊下で話し込んでいたようだし、たいそう娘のことを愛しているのだろう。
しかし、思春期の女の子が親の愛情を真っ直ぐ受け取るかどうかは別の話である。
「そういう話をするのはやめてねって、ついさっきも言ったのにもう忘れたの?」
小声で耳打ちしているが、稜子にもはっきりと聞こえていた。
有り体に言って、柏葉ひまりは手のかからない生徒だ。期末テストの成績はクラス内八位と比較的優秀だし、宿題も毎回欠かさず提出してくれている。教室で注目を浴びることこそないものの、優等生の部類に入ると思う。
稜子が唯一心配しているのは、彼女が部活動に所属しておらず、休み時間も一人で過ごしているということだ。
「先生この子ね、せっかく中学生になったのにうちに一度も友達を呼んでこないんですよ。土日は部屋にこもるか薄暗いキッチンで黙々とお菓子を作ってるかのどっちかで……」
「中学生になると、みんな部活や塾通いで忙しいですからね」
曖昧に微笑みを返すしかなかった。担任としては休日を親の管理下で過ごしてもらえるのはむしろありがたく、立ち入り禁止の施設に通われるよりよほどマシなのだが、親が不安を抱いてしまうのも無理はない。部活に関しても同様だ。部活動への所属は各生徒の意思に任せると一応校則に記載されているが、全校生徒が何らかの部に入ることはもはや暗黙の了解となっている。親の世代では尚のことその意識が強いのだろう。
「ねえひまりちゃん、今からでも何か入ろうよ。吹奏楽部なんてどう? お母さんテレビで見て感動しちゃった。明るくて華やかだし……」
「ちょっと、先生の前で余計なこと言わないでってば」
いかにも早く話題を変えたそうに母親の服を引っ張るひまりに、「始めるのはいつでもいいんですよ」と稜子も声を掛けてみる。初めから部活に入る気がないのなら無理強いはしないが、タイミングを逃して困っているだけなのかもしれない。
「どの部活でもほとんどの一年生は初心者ですし、まだ七月ですから。気になる部活があるのであれば、私の方から顧問の先生にお願いしても……」
「いいんです、ほんとに! そんなのないですから、やめてください!」
ますます強情に拒絶されてしまった。前から思ってはいたが、少し近づこうとすると跳ね上がって逃げてしまう、人に慣れていない子猫のような子だ。自分で出した大声に自分で傷ついたかのように身を竦ませると、ひまりは不満そうに唇を尖らせた。
「だ、だいたい、さっきからわたしに友達がいないみたいに言われてますけど、いるから、ともだち……」
意外な発言に、稜子とひまりの母親は思わず顔を見合わせた。母親の方が尋ねる。
「えっと、何て子?」
「あ、あいり。隣のクラスの」
「あいり……ああ、古澤愛理さんですか」
B組の生徒とは関わる機会がほとんどないので一瞬フルネームが出てこなかった。名前の通り愛嬌のある活発な子だ。確か女子バスケ部に所属していたような。いつも特定の二、三人とつるんでいて、廊下ですれ違うと稜子にもよく話しかけてくれる。
ただ、内気なひまりと相性が良いかというと疑問符を浮かべざるを得ない。そもそも稜子はひまりが他のクラスの生徒と会話をしているところすら見たことがないのだが、どういうことだろう。母親には覚えがあったようだ。
「愛理ちゃんって、小学校のときの友達でしょ? 結局あの子も一度も家に呼んできたことなかったじゃない」
「だーっ、もうやめて! 愛理の話おしまい!」
自分で始めた話を自分で終わらせたひまりは、拗ねたように視線を落とした。
彼女の姿を痛ましいと、勝手にも感じてしまう原因には自覚がある。きっと中学生の頃の自分を重ねているからだ。稜子も昔、よくわからない理由で友達の機嫌を損ねて教室で独りになってしまった時期がある。ひまりにも心安らぐ場所ができたらいいと思うのは、親切心の押し付けだろうか。私がどうにかしてやりたいという気持ちが頭をもたげる。
「古澤さんのことは置いておいて、うちのクラスの子に話しかけてみるのはどうでしょうか? みんな良い子ですよ。もしかしたら、ひまりさんを気にしている子もいるかもしれないですし。ええと、例えば小田巻さんとか」
「え、ええ? あの子はなんか……キラキラしてるし」
「うーん、それでは、若槻さんは? 色んなタイプの子と仲良くしてますよね、彼女」
「あそこは吹部で固まってるから……」
「……じゃ、じゃあ、柳井さんは」
「は? ろ、論外!」
こう並べてみるとC組の女子は結構大人数でグループを形成しているのだな、と稜子が一人で実感していると、見かねたらしいひまりの母親が口を挟んできた。
「ねえひまりちゃん、そんな調子だとずっと友達できないと思うよ」
「お母さんはちょっと黙ってて!」
ひまりは眉をつり上げて席から勢いよく立ち上がった。彼女の突飛な行動に稜子が言葉を失っていると、「友達がいたら文句ないんでしょ?」と怒ったような自棄になっているような発言が飛び出してくる。
「いや、何もそこまでは」
「作ってみせますよ、友達! その、ちゅ、中学校を卒業するまでには……」
潔く啖呵を切ったわりに長期的かつ現実的な目標を提示してきたひまりが恥ずかしそうに席について黙り込んだところで、柏葉家の三者面談は終わった。