66話 出席番号十八番
何となしに手を止めると、右手の中指の腹に細い切り傷ができていた。まさに今切ったばかりだったのか、見ているうちにじわじわと血が滲んでくる。指先を擦り合わせて痒みを誤魔化そうとしたら余計に違和感が増してしまい、稜子は思わず唇を結んだ。
ハンカチで傷口を圧迫していると、向かいの席からほっそりとした大人の手が差し出される。「先生、良かったらこちらをお使いください」と机に置かれたのは絆創膏だった。
「い、いえいえ、そんな。大した怪我ではありませんから」
「でも、同じところをもう一度切ったら痛いでしょう。遠慮なさらないで」
「ええと、では、はい。ありがとうございます」
あまり時間を無駄にもできないので、二度は断らなかった。渡された絆創膏のテープを手早く剥がす。普通のものより少し小さめに作られているようで、稜子の指にぴったり合うサイズだった。気の利いていることだ。
目の前で微笑む女性の、足を踏み入れる前の雪原のような手が脳裏に刻まれる。あの手に切り傷でも作ろうものなら目立って仕方がないだろう。どれほど小まめに手入れをしたらあんなに綺麗な手を維持することができるのか。稜子の乾燥した手とは大違いだ。
品のある人だと思った。どこか浮世離れした雰囲気すらある。別に他の保護者が粗野だとかガサツだとか言いたいわけではないが、この町ではあまり見かけないタイプだ。
雪女。そんな形容が一瞬思い浮かんで、いやいやと首を振る。
「あ、あの。日野先生、大丈夫ですか……?」
うわずった声で呼びかけられる。母親の隣に座る小柄な女子生徒は、分厚いレンズの奥から稜子のことを案じるように見上げていた。「中断しちゃってごめんなさい」とはぐらかすように笑って次のプリントを取り出そうとしたところ、先ほど配った夏休みの宿題で最後だったことに気づく。稜子は改めて母娘に向き直った。
「ええと、お配りする資料は以上になります。最後に、十和子さんとお母様から質問などありましたら、どうぞ」
「私の方は、特に。丁寧にご説明くださいましてありがとうございました」
即答した母親に深々と頭を下げられて、いえいえとんでもありませんと両手を振る。保護者の中には友達のような距離感で接してくる人もいるというのに、律儀な人だ。
「あ、わ、わたしも、」
稜子の斜向かいで肩をこわばらせていた少女――手芝十和子の声がぷつりと途切れる。
口にしかけた言葉を慌てて無かったことにしたかのような、そういう切れ方だった。半ば次の生徒の面談に意識を向け始めていた稜子は一歩踏みとどまって手を止めた。
質問があれば、というのは終わりの挨拶みたいなものだ。特にありませんと返されるのが通例となっている。それ故に、十和子の煮え切らない反応には引っかかりを覚えた。
十和子はなかなか自分から話し始めようとしない。ちらりと母親に一瞥をくれると、困り顔で下を向く。保護者が隣にいると訊きづらいことでもあるのだろうか。別に今話す必要はない、質問や相談ならいつでも受け付けているから――ということを伝えようとしていると、十和子は突然机に両手をついた。
「せ、先生!」
甲高く裏返った声が放課後の教室に響き渡る。蚊の鳴くような声で喋る普段の彼女からは想像もつかない様相に、稜子はつい気圧された。
「わたし、ぶ、ぶぶぶ、部活を辞めようと、思ってるんです!」
「え……ええっ?」
稜子の困惑に束の間怯んだものの、一度口を開いたら引っ込みがつかなくなったのか、十和子は涙目になって早口でまくし立ててきた。顔は耳まで真っ赤だ。
「す、吹奏楽部って、いちばん忙しいじゃないですか。よく知らないまま入っちゃったの、後悔してて……わた、わたし、勉強もできないし、授業にもついていけてないし、このまま部活続けてていいのかなあって、ずっと悩んでて……」
教室の時計を見やって、これは思っていたよりも長引きそうな話が飛んできたぞ――と稜子は考えを巡らせた。後ろに次の生徒が控えていなければいくらでも相談に乗るのだが。
確かに手芝十和子の成績はお世辞にも良いとは言えなかった。期末テストのクラス内順位も三十四人中二十八位。自宅学習の計画表を見ている限りでは真面目に勉強しているようなので、単に本人の要領が悪いのだろう。だが、それと部活を続けるか否かは全く別の話だ。何と言ってもまだ一年の一学期なのである。
「ええっと、十和子さん。今はコンクールが近いですし、忙しいのもそのせいでしょう。結論を急ぐことはありませんよ」
「で、でも……どうせわたしコンクールメンバーじゃないし、ボーンも上手に吹けないし、みんなの足引っ張ってばっかりだから……や、やっぱり辞めるなら早く辞めた方が」
十和子は聞く耳を持たない。勉強ができないということと、演奏が上達しないことへの焦り、周囲に対する申し訳なさを混同しているらしい。稜子は助けを求めるように十和子の隣へ視線を送った。母親は依然たおやかに微笑んでいる。
「私は辞める必要まではないと言ったのですが、この子は言い出したら聞かない性格でして。先生は吹奏楽部の顧問でしたよね。どうお思いになりますか?」
そうですねぇ、と稜子は言葉を濁した。仰る通り、稜子は一応紅黄中の吹奏楽部を担当しているのだが、「高校時代に吹奏楽部員だったから」という理由で任されているだけの、何の権限もない副顧問だ。詳しいことは顧問の奥村先生から聞かなければならない。
「ひとまず、保留にしましょう。中学校生活はまだ始まったばかりですから、簡単に諦めてしまうのはもったいないですよ。勉強でわからないことはいつでも質問してもらっていいですし、部活に関しても、最初は皆上手くいかないものです。十和子さんは部活の練習をとてもよく頑張っていると思います、し……」
つい先日詩央に言われたことを思い出して、「その、私が見ている範囲では、ですが」と付け加えておく。母親も無言で頷いている。
「――や、やっぱり、そうですよね!」
十和子は途端に顔をほころばせて、心底安堵したように濡れた目元を拭った。
少女の唇と手の震えがぴたりと止まる。先ほどまでとは打って変わって晴れやかな表情だ。その場の緊張の糸が急速に緩んでいくのを稜子は肌で感じた。
先送りにしてもらえたことにはほっとしたが、狐につままれたような感覚がないでもなかった。なんというか、随分あっさりと説得されてくれたものだ。今の稜子の言葉のどこが彼女に響いたのかはよくわからなかった。
とは言え、気の弱い十和子のことだ。自分でも中学校生活を揺るがす重大な決断をすることに不安を抱いていたのだろう。辞めたいと訴えながらも、担任である稜子に止めてもらえることを期待していたのかもしれない。
私も少しは、生徒に信頼を寄せてもらえているのだろうか。そう思うと満更でもない。
三者面談が終わっても尚、十和子はまだ何かを言いたげに身を捩っていた。
「あの、日野先生。ありがとうござ――」
「十和子」
か細い声が、鋭さを伴った冷気に遮られる。
「早く帰りましょう。先生にご迷惑をかけてはいけませんよ」
「あ、はい……」
名残惜しそうに稜子を見つめながらも、十和子は母親に合わせて席を立つ。連れ立って教室の出口へ向かう親子を、稜子は座ったまま黙って見送った。
十和子の母親は娘の白い手をしっかりと掴んでいる。目を離した隙に走り出すような年齢でもないのに。飼い犬の手綱を持っているみたいだな、なんて考えてしまうのは、連日の疲労が脳に蓄積しているのだろう。
絆創膏をきつく巻き付けた指先がちりちりと疼いていた。




