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閉塞学級  作者: 成春リラ
9章 私のかわいい生徒たち
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65話 出席番号三十一番

 せっかく前の生徒の面談を時間内に終わらせたというのに、無駄骨だったようだ。


「すみませんねえ、マイペースな子で」と、全くすまなく思ってはいなそうな声音でおざなりに謝られる。我の強い性格がよく表れた声だと思った。おそらく電話越しに聞いたら、彼女の娘と区別がつかないだろう。


 実際のところ、一人で教室に入ってきた彼女が(やな)()()()の母親であると、稜子は一目見てわかったのだ。その千紗が、面談の開始時間を過ぎてもC組の教室に来ない。今日の帰りの会の際に念を押したので忘れているはずはないのだが。


 肝心の生徒が来ないことには面談を始められない。成績表も夏休みの宿題も、まずは生徒に確認してもらう必要があるからだ。ともかく世間話で場を繋ぐしかなかった。


「一年生ですし、部活を抜け出しにくいのかもしれませんね」

「そうよぉ、女子テニス部の里中先生、でしたっけ? あの人絶対子どもたちから嫌われてるでしょ。中学校の部活なんてみんなで楽しくできたらいいのに、ああいう人がいるから問題になるのよ」


 適当に(あい)(づち)を打ちながらも、稜子は苦笑を引きつらせないようにするのに必死だった。以前よりまことしやかに囁かれていた噂はどうやら本当であったらしい。


 千紗には少し歳の離れた二人の兄がいて、その両方が紅黄中の卒業生だ。現在は社会人である長男の在籍時より千紗の母親はPTAの役員を務めていた。自然と校内における発言力を高めた母親は、次第に学校運営に対して自己中心的に要求を繰り返す悪質なクレーマー――いわゆるモンスターペアレントと化していったという。


 特に、三人目にして生まれた女の子である千紗のことを、母親は大層猫可愛がりしているそうだ。千紗の所属する女子テニス部の練習が中体連前にもかかわらず緩和されたり、給食の内容が理由もなく変更されたり、老朽化で使えなくなったプールの工事がいつまでも施工されなかったりしていることには、全て千紗の母親が関わっているという話もある。


 彼女の要望には一見正当性があるかのように見えるのがまた頭の痛いところだ。紅黄中に様々な問題が潜んでいることは否定できない。渋々受け入れたことが結果的に生徒のためになっていることもあるだろう。だが、それと一方的に一人の保護者の言い分を呑み続けることは別の話だ。


「日野先生は優しい良い先生でよかったぁ。こういうこと言うと怒られそうだけど、私はやっぱり担任の先生は若い人がいいんですよね。公立中学校にいるベテランの先生って古い考え方にとらわれてばっかりで、全然融通の利かない人が多いじゃないですか」


 これには稜子も乾いた笑みを漏らすしかなかった。褒められているのかもしれないが、若い女は言うことを聞かせやすくていいという意味にも聞こえる。


「あ、あと男の人もちょっと怖いです。何年か前に教師と生徒が関係を持ったなんて話がありましたよね。あれ結局どうなったんですか?」

「それは……私が赴任してくる前の話なので、私の一存では何とも……でも、今紅黄中にいる先生方は良識のある方々ばかりですよ。安心してお任せいただいて大丈夫かと」

「でもぉ、世の中何があるかわからないですし」


 千紗の母親は端正な顔立ちを歪めて(えん)(ぜん)と笑った。


「だってうちの子、とっても可愛いでしょう?」

「……えっと、はあ、まあ」


 唐突な我が子自慢に面食らい、稜子はとうとう気のない返事をしてしまう。こういうとき、どんな風に返すのが正解なのだろう? 謙虚を美徳とする家庭で育った稜子にとって、自分の子を人前で手放しに褒める親の考えは理解しがたかった。


「千紗ちゃん、一緒に歩いてるとよく同い年くらいの子たちにちらちら見られるんですよ。読者モデルとして若い子向けの雑誌に載ったこともあるし。入学式のときも、千紗ちゃんより可愛い子はいないって思ったわ」

「た、確かに千紗さんはアイドルみたいな子ですよね。お母様によく似ていて……」

「そう! そうなの、わかる? あの子私が中学生の頃にそっくりなの! 今も十分可愛いけど、大人になったらもっと美人になるわよねぇ。まあ、私の娘だから当然だけど」


 何の話がしたいんでしょう。と言いたくなる気持ちを抑えて稜子はにこにこと頷いた。男性教師が信用できないということなら真面目に相談に乗るが、目の前の女性はひどく得意げだ。生徒がこの場にいないとは言え面談なのだから、建設的な話をさせてほしい。


 だが、校内で権力のある保護者の機嫌を迂闊に損ねるわけにはいかなかった。こと紅黄中に関して千紗の母親は稜子の大先輩にあたるのだ。同じ国語科の教師であり紅黄中に六年勤続している富士川先生からも、「柳井千紗の母親だけは絶対に敵に回さないように」と言い含められている。


 面談の開始時間から十分が経過していた。千紗はまだ来ない。母親の弁舌も止まらない。


「千紗ちゃんは肌が綺麗なのよね。若いってほんと羨ましい。脚もすらーっと細くて、短いスカートが似合ってる。紅黄中の制服はダサいのが残念だけど」

「……いや、あの」


 この期に及んで教員の前で公然と娘の校則違反を認めるとは。脚が細かろうが太かろうが紅黄中に通っている以上校則は守ってもらわなければならないのだが、この母親にどこまで稜子の意見を聞き入れてもらえるだろうか。


 千紗の違反はスカートの長さどころではない。華美なアクセサリー、鞄に付けられた規定数以上のキーホルダー、指定外のカーディガン。制服を着崩していることもしばしば。間近で見たわけではないので確証は持てないが、爪に何か塗っているような様子もある。


 そういえば、先月紅黄中の生徒がゲームセンターに出入りしていたという報告を受けていたが、あれも千紗ではなかったか。細かいところを挙げ始めると切りがない。


 千紗一人が問題児であるならまだしも、下手に人望があるせいでクラスメイトの女子を複数巻き込んでいることが厄介なのだ。特に、入学した頃は控えめでおとなしい生徒だった錦辺詩央が千紗から悪い影響を受けていることは稜子の目にも明らかだった。


 この様子だと、親の方から攻めていくしかないのかもしれない。オブラートを二重三重に包んだ表現で注意しようと、稜子が浅く息を吸ったそのときだった。


 教室の戸がガラリと開いて、「ごめんなさぁい、遅くなりました」と可憐なハイトーンボイスが聞こえてきた。母親はぱあっと顔を輝かせる。稜子の方は口を開いたまま固まってしまった。行き場をなくした言葉をなんとか飲み下す。


 テニスウェアを着たままの千紗は、母親の隣の席を乱暴に引いて座った。いつもは教師に向かっても愛想の良い笑顔を忘れないというのに、珍しく仏頂面だ。千紗はさあどうぞ始めてくださいと言わんばかりに堂々と脚を組んだ。


 稜子が苦言を呈するより早く、母親が黄色い声を上げる。


「もーっ、千紗ちゃんってば、ママずっと先生と二人きりで退屈だったのよ。どうして時間通りに来てくれなかったのよぉ。もう面談の時間十分も残ってないじゃない」


 二人きりで退屈だったという言い様には釈然としないが、一応叱ってはくれるらしい。家でも常にこんな調子なのだろうか。どうりで千紗のような子どもが育つわけである。

 ところが、本人の反応は稜子の想像の斜め上を行った。


 向かい合わせに並べていた机に、地震のような衝撃が走る。


 稜子は椅子に座ったまま小さく飛び上がった。向かいの母親も目を見開いて硬直している。行儀悪く片肘をついた少女だけが涼しい顔をしていた。

 どうやら千紗が机を蹴り上げたらしいと、遅れて理解する。


「うるさいなあ!」


 怒りをはらんだ鋭い一閃に、雷が落ちたのかと錯覚した。


「何で時間ないのにグダグダ説教するの? 早く終わらせて部活戻りたいんだけど!」


 教室がしんと静まりかえって、運動部の生徒の伸びやかな声が耳に入るようになる。


 千紗が来るまであんなに饒舌だった母親は、以降面談が終わるまで一言も言葉を発さなかった。ほとんど半泣きの状態で俯いている母親を見ていると、さすがに居たたまれなくなってしまう。娘に怒鳴られたことがそこまでショックだったのだろうか。


 十分弱で成績表や検査結果を配り、夏休みの宿題の説明をするのは至難の業と思われたが、千紗も母親も何一つ質問をしたり話を膨らませたりしようとしなかったので、存外余裕を持って終わらせることができた。


 稜子の神経がすり減ったことに変わりはなかったが。

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