62話 出席番号二十二番
三者面談は五日間にわたって行われる。面談時間は生徒一人につき二十分。当然、早く終わる生徒もいればギリギリまで話をする生徒もいる。初日は波乱の幕開けとなったが、智春の次の生徒からは比較的滞りなく面談が進んでいった。元より話さなければならない内容はそこまで多くないのだ。一年生の最初の三者面談は、生徒と親の関係や家庭内の様子を見るというのが大きな目的だった。
まだ一年とは言え、思春期真っ盛りの中学生である。誰しも保護者に対して反抗的な思いを抱えているものだ。職員室で話を聞く限り、どこの家庭にも大なり小なり不和が生じている。そういった面でも、今のところ面談してきた中に異常は見られない。
今のところは、だが。
教室の戸が引かれて、廊下から聞こえてくる金管楽器の音が大きくなる。稜子は次の生徒の資料を取り出しながら立ち上がり、二人分の椅子を後ろへ引いた。
「ようこそお越しくださいました。どうぞお掛けになってください」
「ああ、どうもありがとう」
額の汗をハンカチで拭きながら、母親はどっかりと腰を下ろした。念入りに化粧をしてきたのだろうが、少し崩れてしまっている。稜子は気づかなかったふりをして、母親の隣に座った女子生徒に視線を移した。「最近はすっかり暑くなっちゃって嫌ねえ」と豪快な笑顔で話す母親を冷めた目で見ている。部活を途中で抜けてきたらしく、彼女は紅黄中指定のテニスウェアを着たままだった。
出席番号二十二番、錦辺詩央。期末試験の順位はクラス内十六位、学年内四十九位。C組の生徒は全部で三十四人なので、彼女がちょうど平均に位置するということになる。実際、可もなく不可もない生徒だ。各科目の五段階評定も三や四がほとんど。関心・意欲・態度の項目が軒並みB評価なのは、授業中の発言が少ないからだろう。
どの学年のどのクラスにも四人か五人はいる、おとなしく主張の少ない子だ。それ故に安定していると言える。良くも悪くもクラスで注目を浴びる柳井千紗とつるんでいるのが唯一の懸念だが、他に目立った行動を取ることはない。
隣でぺちゃくちゃと話している母親が鬱陶しいのか、詩央は居心地悪そうに身を捩っていた。ちらちらと時計を気にしては小さく溜息をついている。部活に戻りたい、という感じではなさそうなので、とにかくこの空間から早く出たいのだろう。
三者面談を楽しみにしている生徒というのはそう多くはない。親の目の前で担任から成績表や通知表を渡され、自分の日常生活や自宅学習の進み具合について話をするなんて、面倒に思っても仕方ないかもしれない。親との関係が良好ではないのなら尚更だ。
「ええと、あまり時間もありませんので、そろそろ本題に入らせていただきますね」
詩央に気を遣って少し思い切って話題を変えさせたが、幸い母親は気を悪くしなかったようだ。期末試験の成績表を渡すと、詩央は控えめに開いてすぐに閉じた。順位のところだけを確認したのだろう。他の部分には大して興味もないようで、成績表を丸ごと母親に渡してしまった。母親も母親で他の生徒との差が気になるのか、クラスの平均点と学年の平均点を指でなぞって見比べている。
「このクラスには頭の良い子が多いのねえ。やっぱり小学校とは違うのよ。あんたももう少しお勉強頑張りなさい」
「詩央さんは、紅黄小出身でしたよね」
何の気なしに口にした一言に、詩央の小さな肩がぴくんと跳ねる。稜子は思わず口を結んだ。もしかして、何か地雷を踏んでしまったのだろうか。小学校からの申し送りには特に何も書いていなかったはずだが――
「そうそう。あ、このクラスには智春ちゃんがいるんだったわね! あの子、うちの近所に住んでいて、小学校でもうちの子と同じクラスになることが多かったのよぉ」
「ああ、そうなんですね。それは存じ上げませんでした」
突然智春の名前が出てきたことに面食らいながらも、稜子は適当に話を合わせた。詩央はと言うと、先ほどまでよりもはっきりと機嫌の悪さが顔に表れている。
「まあ、いわゆる幼馴染みってやつよ。智春ちゃんのお母さんとは昔っから仲良しでね、二人で一緒にお出かけしたこともあるの。家族ぐるみで長年お付き合いしてるのは小田巻さんちぐらいかしら」
「やめてよお母さん。恥ずかしい」
袖を強く引っ張って嫌悪感を露わにする詩央に構わず、母親は話し続ける。
「智春ちゃんってとっても優秀な子でしょう? あの子、小学生の頃から何でもできたのよ。書道を習ってないのに書き初めで賞を貰ったり、県模試の成績上位者に名前が載ったり。どうして私立の中学校を受験しなかったのか不思議ねえ」
饒舌な母親と黙り込んだ詩央を見比べて、稜子にも状況が掴めてきた。
人間関係が密になりがちな地方都市ではよくあることだ。親同士が子どもと関わりのないところでどんどん仲良くなっていくという現象。子どもは子どもで独自の繋がりがあるというのに、それを無視して自分たちの人間関係を我が子にも押しつけてしまう。子ども同士の仲が悪くないのであればまだしも、元から軋轢があった場合は話が拗れやすい。どうやら今回は後者のようだ。少なくとも稜子は、詩央と智春が教室で楽しげに話しているところを見たことはなかった。
「智春ちゃんとうちの子が一緒に映ってる写真、先生も見ます? あの頃はうちにもよく遊びに来てもらっていて――」
「う、詩央さんは、うちのクラスの柳井さんや松木さん、梶倉さんと仲が良いですよね。女子ソフトテニス部でもみんな一緒で」
少々強引に舵を切る。これ以上母親に彼女の話したいことを話させていたら、詩央はますます機嫌を損ねてしまう。詩央の面談でいつまでも本人の話ができないのは稜子にとっても不利益だ。話の腰を折られた母親は少し静かになった。
「ああ……テニス部。運動部なんて詩央には向いてないんじゃないかと思ったんだけど。この子体育の成績も良くないし。せっかく紅黄中にも書道部があるんだから、続ければよかったのに。せめて、智春ちゃんみたいに吹部にしていれば……」
「詩央さんは書道部に入っていたんですね。どうりで字が綺麗だと思いました」
なんとか褒めてみたつもりだが、詩央はあまり嬉しくなさそうだった。お世辞だと思われたのだろうか。それとも、入学以前の話題自体を避けるべきなのかもしれない。
「この子はいつもそうなのよ。あっちにふらふら、こっちにふらふらで。一つのことが長く続いたことなんてありゃしない。少しぐらい何かに一生懸命にならないかねえ」
母親が終始この調子ならそうなるだろうな、と稜子は胸中でつぶやいた。
「お言葉ですがお母様、詩央さんは部活でもとてもよく頑張っていますよ」
「りょうちゃん」
詩央の暗い目が初めて稜子の方を向いた。日野先生と呼んでくださいね、と注意するのも忘れて、彼女と真正面から見つめ合う。
「りょうちゃんは女テニの顧問じゃないから、あたしが部活でどうしてるかなんて知らないでしょ。無理しなくていいよ」
「そ、そんなことないですよ、顧問の花田先生から話は聞いています。えーっと」
二人に気づかれないように、稜子は詩央の資料にさっと目を通した。面談で話すことがなくなったときのために、少ない時間を切り詰めて必死に三十四人分作ったものだ。だが、詩央の資料の備考欄には何も書かれていない。
「ええと、休まず真面目に練習に参加している、と……」
「だから、もういい」
目を逸らした詩央は、それ以降面談が終わるまで一度も口を開くことはなかった。稜子は作り笑いを浮かべて母親の話に相槌を打つことに精一杯で、詩央をフォローすることはできなかった。