61話 出席番号六番
黒板を爪で引っ掻く音、椅子を引きずる音を聞くと、溶けかかった氷を飲み込んだような心地がする。だから稜子は指先の肉が手の甲の側から見えるほど爪を短く切り揃えているし、生徒の椅子の脚には四本全てに備品のテニスボールを嵌めさせていた。後者は生徒からの評判が悪く、二ヶ月もしない内に取り外されてしまったが。
目の前には一人の生徒と、その親がいる。二人は静かに椅子を引くと、スカートがしわにならないように手で押さえながら座った。稜子はほっと胸を撫で下ろし、同じように席につく。二つ並べた机の上には、これから配布する資料が重ねて置いてあった。
「改めまして、一年C組担任の日野と申します。本日はよろしくお願いいたします」
入学式の際に自己紹介を済ませているとは言え、第一印象は大切だ。しっかりと相手の目を見て、声が震えないように堂々と。簡単な世間話が終わったら、嫌でも本題に入らなければならない。
日野稜子、二十四歳。職業、中学校教諭。
紅黄生まれ紅黄育ち。実家は父、母、兄の四人家族。都内の大学を卒業後、紅黄市内の公立中学校で非常勤講師を二年間務める。教職生活三年目の春、晴れて母校である紅黄中学校の国語科教師として採用され、一年C組を受け持つことになった。
初日の挨拶に始まり、入学式、宿泊研修、定期試験と順調に担任の仕事をこなしてきたと思う。他の教員からの評価はそれなりだ。もちろん、自分だけの実力ではない。副担任の前田先生が頼れるベテラン教師ということもあるが、C組が非常に安定したクラスであるというのが大きい。経験の浅い新任教師に一クラス任せることに不安を覚えて、優秀でおとなしい生徒ばかりを集めたのではないかと邪推してしまうほどだ。
一学期の期末試験も終わり、生徒の成績評価も概ね出揃った。もうすぐ紅黄中学校は夏季休暇に入る。その直前、各クラスの担任に残された最後の大きな仕事――
三者面談だ。
*
「先生。この成績なら西高に入れるんでしょうか」
我が子の期末試験の結果を見るなり、母親は心配そうに質問してきた。成績表を両手で受け取って少しだけ嬉しそうにしていた生徒は一瞬で顔色を変え、「もう、いきなり何言い出すの、お母さん」と眉根を寄せる。
「まだ一年の一学期なんだよ? 面談で受験の話をする人なんていないよ」
「あのねえ、智春。そうやってダラダラ悠長に構えてると他の子に後れを取るでしょう。あんなに塾にお金を払ったのに結局中学受験しなかったんだから、高校ぐらいはちゃんとしたところに入ってもらわないと困るのよ」
「中学受験の話は今関係ないよね⁉」
突然始まった親子喧嘩に、稜子は思わず怯んでしまう。中三生のクラスでは志望校の話題をきっかけに生徒と親が教師そっちのけで口論になることは頻繁にあると聞いていたが、まさか自分も早々に体験することになるとは思わなかった。慌てて仲裁に入ろうとする。
「お、お母様。智春さんの言う通り、まだ一年の一学期ですので、今回の三者面談では学校生活や自宅学習の様子などが主なテーマになります。志望校について本格的に話し合うのは、早くても三学期からになるかと」
「え、そうなの」
途端に語気を弱めた母親とは対照的に、智春は勝ち誇ったような顔になる。稜子は緊張と共に唾を呑んだ。今の言い方は正しかったのだろうか。過剰に生徒の味方をすると親からの信頼を失う。親に肩入れすると生徒に見放される。バランスが難しいところだ。
目のやり場に困った稜子は手元の資料に視線を落とした。
出席番号六番、小田巻智春。期末試験の順位はクラス内一位、学年内三位。入学当初から優秀な子だったが、今回の定期テストでさらに順位を上げてきた。現状ではこの学級で一番の優等生だろう。授業に対する関心や意欲も高く、一学期の通知表はC組でも数少ないオール五だった。勉強面では特に言うことがない。
素直で明るく朗らかな性格故か、同級生との人間関係も良好のようだ。女子の中ではとりわけ椎本遼や野河明佳と仲が良い。クラス委員の仕事や吹奏楽部の活動にも熱心に取り組んでくれている。教師に向かって反抗的な態度を取ることもない。こういう言い方は良くないのかもしれないが、手のかからない良い子だ。
強いて欠点を挙げるとすれば、少し融通が利かないきらいがあるところだろうか。それは母親も同様のようだ。長い髪をすっきりと一つにまとめ、ライトグレーのブラウスに身を包んだ母親は、背筋を伸ばすようにして椅子に座り直した。
「でも、大体これぐらいの順位と成績を三年生まで維持していたらこの高校に入れる、という目安はあるんですよね?」
尚も食い下がる母親に、智春はさらに眉を釣り上げる。稜子は「ええと、そうですね」と曖昧に微笑んだ。多少は母親のフォローもしなければ。
「もちろん定期試験はうちの生徒しか受けていませんし、校内順位はあくまでこの学年内の順位なので、正確な目安にはなり得ませんが……紅黄中から毎年何人この高校に合格しているというデータはありますので、何番以内に入っていれば安心、という指標はあるかもしれませんね」
「じゃあ、西高はどうですか?」
智春の母親が口にしている西高というのは、茉莉西高校の通称だ。県内の公立高校では常に頂点に位置している有数の進学校で、とりあえず我が子は西高に入れさせたい、という親は多い。紅黄中からも毎年二、三人程度は受かっている。
「先生、その話なんですけど」
話を逸らすことを諦めたのか、智春は真剣な眼差しで稜子を見つめてきた。
「西高って学区外ですよね? 紅黄から電車とバスを乗り継いで一時間ぐらいかかるって先輩に聞きました。通うの大変じゃないんですか?」
稜子はつい口ごもった。確かに、茉莉西はここから遠い。そもそも肝心の電車の本数が少ないので、待ち時間も含めると実際は一時間以上かかるのだ。稜子の兄も西高出身だが、部活の朝練がある日は六時に家を出ていた。体力がないと通学するのは厳しいだろう。さすがに智春はよく考えている。
「あたしは通うならもっと近いところがいいです。紅黄東高校とか。ずっとそう言ってるのに、お母さん全然聞いてくれないんですよ。先生も近い方がいいって思いますよね?」
咄嗟に答えられなかった。安易に判断を下すことのできない、難しい問題だからだ。
紅黄東高校は生徒からも人気の高い県立高校で、紅黄中から歩いて三十分ほどの場所にある。自転車で通える範囲内だろう。偏差値もそれなりに高い方ではあるが、正直なところ、智春の成績ならよりレベルの高い学校を目指せるのでは、というのが稜子の所感だ。
智春は優秀な生徒だ。本人の口から直接聞いたことはないものの、彼女にとって紅黄中の授業は退屈なのではないだろうかと思ったことは幾度かある。公立の中学校ではどうしてもクラスの平均を引き上げることを目的とした授業構成をしがちだ。勉強のできる子たちに囲まれた刺激的な環境の方が、この子の可能性を伸ばせるだろう。
だが、智春の主張することも尤もだった。地方で電車通学をするのは何かと苦労が多い。学校側としても、無理に偏差値の高い高校を受けさせる必要はなく、本人の希望に沿って志望校を決めましょうという方針だ。進学塾のように合格実績を出さなければならないわけではないのだから。
「智春、中学受験のときも同じこと言ってたじゃない。遠い学校には行きたくないとか、吹部に入りたいとか。どうせ遼と離れたくなかっただけでしょう。いつまでその言い訳が通用すると思ってるの」
「言い訳じゃない、合理的な判断です! 通学に時間をかけるぐらいならその時間で楽器の練習したり勉強したりしたいだけだよ! お母さんは紅黄東の何が不満なの?」
「あそこは部活が強いところって印象が強いのよ。いくら偏差値はそこそこって言ったって、勉強は二の次なんじゃないかと」
「ほらあ、やっぱりお母さんの時代のイメージで決めつけてる!」
稜子が割って入る隙もなく、口論はヒートアップしていく。やはりこういうときの対処法を先輩教師から聞いておくべきだったのだ。智春の母親が息継ぎをしたタイミングで稜子はようやく「あ、あの!」と口を挟むことに成功した。担任に構わず言い合いをしていた二人の目が同時にこちらを向く。
「先生はどう思いますか⁉」
「え、えっと」
稜子は金魚のように口をパクパクさせた。何を言おうとしていたんだっけ。どちらに味方しても火に油を注ぐだけのような気がする。時間稼ぎも限界だと感じた稜子は、
「ま、まだまだ時間はありますので、ゆっくり話し合っていきましょうね……」
と、絞り出すように答えるのが精一杯だった。