60話 後奏:光の声は天高く
雷が落ちたかのような衝撃と共に、頭蓋骨に亀裂が入ったことがはっきりとわかった。
鈍い痛みはあったが、耐えられないほどではない。酒を飲まされたときのように頭がぼんやりとしていて、遼は一種の恍惚感すらも覚えていた。視界が端から静かにほろほろと崩れていく。朝の日差しの優しい熱を手の甲に感じる。見慣れた壁も薄汚れた床も白い光に侵食されて見えなくなり、遼の視界には指先に転がるイルカのストラップだけが残った。
穏やかな温もりに包まれた白い世界で、桜の花弁がひらひらと舞っていた。四月の入学式を思い出す。智春より先にクラスを確認してやろうと思って、いつもより数段早起きして学校に行ったら、昇降口の前には誰もいなかった。まばらに差し込む薄桃色の木漏れ日が、あの幼馴染みの微笑みのようだと思ったんだっけ。
そういえば、秋の桜と書いてコスモスと読むのだと、以前に智春が力説していた。合唱コンクールの自由曲が決まったときのことだ。この曲のタイトルはそのコスモスではないんじゃないのと返したら、「花も宇宙も同じ言葉で表すなんて、なんだかちょっとロマンチックじゃない?」と智春は幸せそうに笑った。いかにもあいつの言いそうなことだ。
ひらり、ひらりと舞い落ちる桜が、次第に黒ずんでぼろぼろになる。
すべて散ってしまう前に押し花を作るのだと、ランドセルをかたかたと揺らして智春は言った。校庭の桜の木の下に行儀良く脚を揃えてしゃがみ込み、まだ綺麗な花を拾い集めて瓶の中に入れる。真剣に地面を見つめる智春の横顔を、遼はいつまでも隣で見守っていた。繊細な柄の千代紙で彩られた押し花の栞は、今も遼の生徒手帳に挟まれている。
児童館で出会ったばかりの頃の智春は花のアクセサリーが大層お気に入りで、似たような髪飾りやブレスレットをいくつも持っていた。母親に留めてもらったらしいニット編みの花を遼がぼうっと見ていると、智春は躊躇いなく髪から外して「はるかちゃんも付けてみる?」と囁いてきた。自分の髪に留めることも人に付けてやることもできないくせに。
智春に出会うまでは桜並木で立ち止まることもほとんどなかった。どうせすぐに散ってしまう花なのに、なぜ大人どもは毎年毎年ありがたがって酒の肴にするのだろう。茶色くなって行き交う人に踏み潰されていく様は醜いとさえ思っていた。
今も、別に好きではない。
降り注ぐ桜も波のさざめきも焼き芋の匂いも粉雪の冷たさも、全部全部遼は大嫌いだ。四季を美しいと言って愛でる人間はもっと嫌いだった。今すぐに地球が滅亡して世界中の全てが即座に消えてしまったとしても、何も思い残すことはないと思っていた。
けれど、それが智春の好きなものであるならば、きっと価値はあるのだろう。
銀のイルカの向こう側に、グランドピアノの脚と赤い上靴が見えている。まったくもって私に都合の良い幻覚だな、と遼は感覚のない片頬で笑った。
地平線の彼方まで広がる無垢な世界で、『旅立ちの時』のピアノ伴奏が鳴り響く。誰かを気遣うような穏やかで優しい旋律。少し前までは楽器なんて誰が弾いても同じだと高を括っていたのに、遼は音に表れる弾き手の心情を全身で感じ取っていた。
智春の顔はここから見えないけれど、彼女の純粋な笑顔は容易に思い描くことができる。いつだって心の中の一番柔らかいところに刻み込まれている。今まで一方的に騙していた私の幼馴染み。私の天使。私の希望。私の祈り。私の智春!
この世界の醜悪さを、どうかあんただけは知らないでいてほしい。そう願い続けてきた。
だけど――もしかすると、この世界は初めから、私が思うよりずっと美しかったのかもしれない。
ああ、それならもう、私の居場所はなくてもいいや。
この世界が綺麗事ばかりで成り立つ、智春の生きやすい清浄なものになりますように。
透明なピアノの音がする。あの子の子守唄が聞こえる。
*
B組の自由曲である『心の瞳』の後奏が鳴り止むと同時に、会場内に盛大な拍手が沸き起こった。舞台裏は出番を待つC組の生徒でごった返している。小田巻智春は伴奏譜の束をぎゅっと抱きしめて、体育館の入り口をひたすらに見つめ続けていた。
「プログラム三番、一年C組。課題曲『旅立ちの時~Asian Dream Song~』。指揮者、椎本遼。自由曲『COSMOS』。指揮者――――」
「ちょっとどうするの智春、B組の出番終わっちゃったよ!」
普段は泰然としている那由が珍しく切羽詰まった声を出していて、それはいよいよ本当に余裕がないのだということを意味していた。C組の生徒はぞろぞろと壇上に上がり始めており、最後尾の菜々海が咎めるようにこちらを見ている。智春はそれでも自分のいる場所から動かず、「待って……もう少しだから、待って……」とうわごとのように繰り返した。
「遅刻はよくするけど、あたしとの約束は絶対に破らないの、遼は……だからお願い、あともう少しだけ……」
「そ、そんなこと言ったって……ど、どうすればいいのお」
鬼城さんお願いできるね、という菜々海の小声が聞こえてくる。返答は聞こえないが、相手はおそらく頷いたのだろう。朝の会に遼が現れなかった時点で、「B組の出番が終わるまでに遼が来なかったら課題曲の指揮は鬼城さんに任せる」と決まっていたのだ。智春は奥歯を食いしばると、震える膝に力を込めた。
「大丈夫だよね、遼。ぜったい、絶対大丈夫……」
何か不測の事態が起こっているのだろうか。本当は楽譜なんて捨てて今すぐにでも遼の下へ駆け出したい。けれど、肩を掴む那由の手が智春の衝動を阻んでいる。
「ほら、智春。ステージに上がるよ!」
強引に手を引かれて、智春は暗い体育倉庫から舞台に続く階段を駆け上った。眩しいスポットライトが薄闇に慣れた目をつんざく。客席は暗くてよく見えないが、生徒や親が大勢座っているのがわかる。ステージの上では既にC組の生徒が二列に並んでいた。クラスメイトの目が一斉にこちらを向く。みんな智春を待っているのだ。
指揮台に遼の姿はない。
伴奏者席の前へ連れて行かれた智春は、時間を稼ぐようにゆっくりとグランドピアノの蓋を開けた。真上から浴びせられる照明がひどく熱い。緊張と心配からか、手のひらにじっとりと汗をかいている。自分の心臓が一定間隔で拍動する音だけが聞こえていた。
「はるか……」
誰にも聞こえない小さな声で呟き、智春はごくんと生唾を飲んだ。
これまで智春が練習を頑張ってこれたのは、いつも遼が隣で見守ってくれていたおかげだった。一人だったらきっと途中で音を上げていただろう。そもそも遼が指揮を引き受けてくれるという確信がなかったら、長らくピアノを触ってもいなかったのに伴奏者に立候補するなんて怖くてできなかった。
「ごめ、ん、ごめんね、遼」
遼の言う通りだった。やはり自分は今までずっと遼に守られていたのだ。何も言わずに横にいてくれる遼の不器用な思いやりを、当たり前のものとして無自覚に享受していた。どうしてこんなことになるまで気づけなかったのだろう。
遼。遼に会いたい。今、遼はどこにいるの。
あの子がいないのに、ピアノなんて弾けない――――
両目から溢れそうになる涙を抑えられず、ステージの上で無様にくずおれそうになったそのとき、智春の視界に黒い影が映り込んだ。
舞台の端から颯爽と現れたのは、本来は自由曲の指揮のみを担当していたはずの鬼城真夜だった。当日になっていきなり代役を命じられたにも拘わらず、真夜の冷ややかな表情には微塵も動揺の色が見られない。腰まで伸びる黒髪は光を浴びて艶めいていた。
真夜は客席に向かって礼をすると、コツン、と軽い音を立てて指揮台に上がった。すべてを見透かすような怜悧な眼差しが智春へ向けられる。不安に揺れる智春の心も全く意に介さず、真夜は平然と左手の指揮棒を構えた。
まるで暴君のような真夜の態度に、智春の中で何かがぷつんと切れた。
――ああもう、やればいいんでしょう!
席に座って深く息を吸う。真夜の振る指揮棒に合わせて、智春は鍵盤に指を走らせた。
*
流れ始めた前奏を導くように淡々と指揮棒を振りながら、鬼城真夜はC組の生徒を見渡していた。クラスメイトの緊張の面持ちの中には混乱が垣間見える。真夜本人よりも歌う側の方が突然の指揮者変更に驚いているようだった。もちろん真夜も驚きはしたが、元々他に立候補者がいなければ課題曲の指揮者も自分が担当するつもりでいたのだ。
テノールパートの前列、右から四番目。網瀬心良はいつもの無表情にほんの少しだけ困惑を滲ませて立っていた。どこも見ていないような虚ろな目が、時折ちらちらと隣へ向けられる。ここにはいない玲矢を探しているのかもしれない。
玲矢が学校に来ていないということに、真夜はつい先ほど気づいたばかりだった。そういえば、朝の会で担任が何か言っていたような気もする。真夜にとってはどうでもいいことなので詳細はよく覚えていない。心良の様子を見るに、玲矢は兄にも欠席の理由を伝えていないのだろうか。どういうつもりなのかはわからないが、玲矢がこの場にいないのならむしろ好都合かもしれない。障害は少ない方がいい。
じっと心良の顔を見つめていると、ぱちん、と目が合った。
笑っては、くれないけれど。昔のように眩しい笑顔を向けてはくれないけれど、心良の飴玉のように甘くて美味しそうな瞳は、六年前と変わらない。だからきっと大丈夫。
私の前でなら、あの頃みたいに歌ってくれるよね。
心良の視線が躊躇うように揺れ動く。舞台も観客も他の生徒たちも掻き消えて、真夜と心良の間には『旅立ちの時』の前奏だけが流れていた。
歌が、始まる。
*
木工室に置いてあるのこぎりを使えばいいとは言ったものの、本当にこんなもので人間の骨を断ち切ることができるのかは甚だ疑問だった。もしかすると、電動チェーンソーなどを使わないと一人で切断するのは難しいのかもしれない。つまるところ、網瀬玲矢は死体の解体方法についてあまり深く考えていなかった。
ホームセンターで買ってきたビニールシートの上に死体が二つ、親子らしく川の字に並べられている。ここまで動かすだけでも結構な時間がかかった。智春に対して「野蛮だ」と言っておきながら、結局玲矢も同じ方法で遼を殺害してしまったので、シートの外には水っぽい真っ赤な血がびちゃびちゃと広がっていた。部屋の中は相も変わらず錆臭い。
遼の死体を部屋の真ん中までひいひいと動かして、どうにか二人の服を剥ぎ取ったところまではよかったものの、のこぎりの刃を死体に向けようとして手が止まった。
さて、人間の死体を解体するときにはどこから切っていくのがセオリーなのだろう。いいや、先に考えるべきなのは「どちらから」か。何と言っても死体は二つあるのだ。品数の多い料理を食卓に出されたときのように、玲矢はのこぎりを下ろしてしばし熟考した。
「やっぱり、初めてだし、肉が柔らかい方から慣らしていこうかな?」
父親の左側でうつ伏せになっている遼を爪先で押すように蹴り飛ばす。肉体は容易くころんとひっくり返された。遼の腕や脚にはいくつもの細かい擦り傷や痣がついている。まだ新しい傷のようなので、床の上で引きずったときについたものだろう。
床に座って顔を覗き込むと、瞳孔の開ききった目と視線がぶつかった。遼の眼球からは滾るような憎しみが失われており、もはや何の感情も込められていない。兄さんの瞳も死んでいるみたいに透明だけれど、本物には敵わないな、と玲矢は微笑んだ。
「それとも、最初に死んだ方を早めに片付けるべきかな……」
大きい方の死体は全長二メートル弱はあるように見える。この肉の塊をゴミ袋に入るように小分けにする作業はなかなか骨が折れそうだ。しかも、こちらは死後半日以上経過しているので、とっくに死後硬直が全身に回ってしまっている。遼の解体よりも手間がかかると見るべきだろう。果たして今日一日で終わるものだろうか。
玲矢は悩んだ末に遼の方から解体することにした。一旦のこぎりを床に置き、すっかり血で汚れてしまったゴム手袋を新しいものに取り替える。念のためマスクも付けておく。失敗だったのは死体を動かす前にレインコートを着なかったことだが、遼を撲殺した時点で返り血はついていた。仕方がないので、後で智春に替えの服を持ってきてもらおう。
遼の肘の裏側を上に向けて、両手で握ったのこぎりの刃ををそっと当てる。そのまま前後に引いてもギイ、ギシ、と骨をこする軽い音がするばかりで、なかなか切断することができない。試しに玲矢は肉を押し切るように全体重を乗せてみた。
ガッ、と突き抜けたような感触の後、遼の左腕が静かにシートの上に転がった。
「……コツを掴めば早い、かな」
手首の部分を鷲づかみにして、よいしょ、と切断した左腕を持ち上げる。こうなるとただの「物体」だ。少しずつ冷たくなり始めている遼の腕を、玲矢は隣に広げてあったゴミ袋の中に放り投げた。ずっ、ずるっ、と鈍い音がして腕は袋の底へ落ちていく。
玲矢は同じ要領で次々と遼の体を分解していった。血と脂のこびりついた刃は次第に切れ味が悪くなり、一つのパーツを切断する時間はどんどん長くなっていく。
「生きてる兄さんを壊すのは楽しいけど、」
遼の細い首に血塗れの刃を押しつけて、玲矢は疲れたように笑う。
「死んでる他人を解体するのは、つまらない、なあっ……」
呟きに返答はない。ゴロンと転がった遼の首が天井を向く。何かを訴えかけているような遼の顔にマスクを付けた口を近づけて、玲矢は優しい声で囁いた。
「大丈夫だよ、寂しくないさ」
だって、一人じゃないからね。
玲矢は床に腰を下ろすと、けらけらと愉快そうに笑い声を上げた。
離れた場所に置いてあるスマホのアラームが鳴る。丁度C組の合唱が始まった頃だろうか。あーあ、やっぱり俺もみんなと歌いたかったな、なんて遠い目でぼやいてみる。ここにはいない双子の兄に思いを馳せながら。
*
玲矢。玲矢がどこにもいない。どうしよう。どうしよう。おれはどうすればいいんだろう。網瀬心良の頭の中は今朝から同じことで支配されていた。
今日の文化祭、俺は欠席するから。りょうちゃんには風邪って言っておいて。玲矢はそう言って心良よりも早くに家を出た。なぜ玲矢は学校に来ないのか、何の用事があるのか、どうして風邪を引いたなんて嘘を吐くのか。そんなことはどうだっていい。心良にとっての問題は「隣に玲矢がいない」という、ただそれだけだった。
指揮棒を構える真夜が射抜くような目でこちらを睨み付けている。背筋に冷たい何かが走り、心良は思わずびくんと肩を震わせた。この前は心良の前で花のように笑っていたはずの少女が、今日は殺さんばかりの鋭い視線を送ってきている。怒っている、のだろうか。
おれが、まよちゃんを殺したから?
どこか懐かしい響きを持つピアノの音が、心良の記憶の扉を激しく叩いている。
玲矢の考えていることも、真夜の考えていることも、心良には何一つ理解できない。
それだけではない。もはや自分の感情も心良にはわからなかった。怖いときに笑えばいいのか、悲しいときに怒ればいいのか、嬉しいときに泣けばいいのか。どんなときも何もしてはならないのか。何も考えてはならないのか。
だが、脳内でぐるぐると渦巻く膨大な感情に、心良はもう抗うことができなかった。玲矢がここにいないことが怖い。真夜の刺すような視線が痛い。何よりも、自分の心の中にある得体の知れない空洞が怖い!
逃げるように天井を見上げると、スポットライトの白い光が格子状の枠組みに反射してきらきらと降り注いでいた。それは虹のようであり、粉雪のようでもあり、あの夏の日に眺めたしゃぼん玉の雨のようにも見えた。
寄り添うようなピアノの音に、脳が撹拌される。
「…………あ、あ」
歌が始まる。光の声が聞こえる。心良は誘われるように口を開いていた。
*
智春のスマホに玲矢から連絡があったのは、文化祭翌日の明朝のことだった。指定されたものを持って再び遼の家へ向かう。玄関のドアをノックすると、「はあい」という呑気な声と共に扉が開いた。むせ返るような血の臭いが溢れ出してくる。と思えば、隙間から伸ばされた手が智春の口に蓋をした。遅れて智春の目に映った玲矢の姿にうっかり悲鳴を上げそうになる。
「あはは、やっぱり口を塞いでおいてよかった。人に見られる前に早く入ってよ」
首元から足の甲にかけて、玲矢の体は返り血でどろどろに汚れていたのだ。
「いやあ、解体を始める前にレインコートを着るのを忘れていて。人の体っていっぱい血が詰まっているんだね。ここまで汚れるとは思っていなかったな」
玲矢は智春の持ってきた替えの服を受け取ると、「ちょっと着替えてくるね。その辺で待ってて」と言って洗面所に入っていった。
一人になった智春は、二日前に来たばかりの遼の家を見渡した。玲矢に言われるまでもなく土足で上がり込んでしまったが、どうやら正解のようだ。元から汚れていた床には大量の血がこびりついていて、見るも無惨な状態となっていた。部屋の中には口を縛られたゴミ袋が一箇所にいくつもまとめて置いてある。智春はぶるりと身震いをした。
あの中に、解体された死体が入っているのだろうか。
「お待たせ。服、貸してくれてありがとう。さすがにこの家から出られないところだった」
紺のシャツとジーンズを着た玲矢が、にこにこと笑って洗面所から出てくる。智春の持っている中で男子が着ても違和感のなさそうなものを選んだつもりだったが、やはりなんとなくむず痒い。玲矢から目を逸らしつつ、智春は「あの」と口を開いた。
「えっと……遼、は?」
玲矢がまだこの家に留まっていたのであれば、遼も一緒にいるのだろうと思っていた。きっと遼は玲矢に一人で死体を処理させることが忍びなくて、手伝うことにしたのだろうと。しかし、幼馴染みの気配はこの家のどこにもない。
ふう、と溜息をつくと、玲矢は珍しく気まずそうな顔になった。
「小田巻には言いづらいんだけど、椎本さんはね」
不自然に言葉を切って、頬を掻く。
「匿ってくれる親戚の家に、しばらく身を隠すことにしたんだって」
「え…………」
愕然として言葉を失った智春に、玲矢はぱん、と手を合わせた。申し訳なさそうに「ごめんね」と謝られて、そのことにまた驚く。玲矢の正体を知った盗難事件以降、智春の前でこんなにも殊勝に振る舞う玲矢は一度も目にしていなかった。
「家を出る前に言ったら絶対に止められるだろうからって、椎本さんに口止めされていたんだ。今まで言えなくて本当にごめんね」
「そっ……んな、どうして止めてくれなかったの! 遼はそんなこと、する必要ないのに」
「もちろん止めたさ。だけど、これ以上自分が智春の近くにいるのはまずいってね」
「……っ、何で!」
咄嗟に玲矢に掴みかかろうとして、すぐに意味がないことに気づく。智春は玲矢の服を掴んでずるずると膝を折った。玲矢は掴まれたまま何も言わない。
世界が真っ暗になったような気がした。
文化祭に遼が来なかったときから、なんとなく嫌な予感はしていたのだ。遼にはしばらく会えないのではないかと。だけど、まさか別れの挨拶すらできないだなんて思ってもみなかった。文化祭が終わったら色々と遼に訊きたいことがあったというのに。
「遼にはまた、会える、よね……?」
縋るように呟くと、玲矢は穏やかな声で答えた。
「それは、小田巻のこれから次第じゃないかな」
遼に迷惑がかからないように、人を殺したことを誰にも言わずおとなしくしておけという意味だろうか。智春はしばらく黙り込んでいたが、やがてこくんと頷いた。結局のところ、助けてもらっている智春が玲矢に何かを言う資格はない。
「じゃあ、あたしはもう帰っていいの?」
「まさか。まだやることは残っているよ。小田巻を呼んだのは、むしろこっちが本題」
玲矢は床にしゃがんで智春に目線を合わせると、元気づけるようにニコリと笑った。彼の指さす先にはゴミ袋の山がある。智春はもう一つ、玲矢に持ってくるように言われていたものを思い出した。使わなくなったボストンバッグだ。なるべくたくさん欲しいと言われていたが、家から持ち出せるのは三つが限界だった。
「運び出すのを手伝ってほしいんだ。さすがに何度も往復していたら怪しまれるからね」
「これ、全部、し、」
口にするだけでもおぞましくて、その先を言うことを躊躇ってしまう。真っ黒なゴミ袋の中身は見えないが、顔を向けただけでひどい悪臭がする。袋は全部で八つ置いてあった。
「すごい量、なんだね。人一人分って、こんなに多いの?」
「椎本さんのお父さんは大きかったからね。バラすのにも一苦労だったよ」
「ばっ……」
馴染みのない動詞に智春が絶句している間にも、玲矢は手際よくボストンバッグに袋を詰めていく。八つのうちの五つがバッグの中にぎゅうぎゅうに押し込まれた。玲矢は「はい、持って」と軽い調子でバッグを手渡してくる。言われるがままに受け取ると、ズン、と想像以上の重みが手の中に感じられた。途端に冷や汗が止まらなくなる。
「重い……」
「それはまあ、人の死体だからね。それじゃあ、行こうか」
玲矢はボストンバッグを両手に一つずつ持つと、少しよろめきながら歩き出した。慌てて玲矢を追いかけようとした智春は、ふと、残った三つの黒いゴミ袋に目を落とした。
よく見ると、銀色に光る何かがゴミ袋の下敷きになっている。
何だろう、これ――
「小田巻」
膝をついて何かを拾い上げようとした智春の目の前に、脚が強引に差し込まれる。玲矢の静かな声には不気味な強制力があり、ぞくりと背筋が冷えた。
「早く行かないと、日が昇って人に見つかりやすくなるよ」
「あ、うん……」
後ろ髪を引かれながらも、智春は玲矢にせっつかれるようにして椎本家を後にした。
*
人っ子一人いない夜明け前の住宅街を、死体を持って二人で歩く。玲矢に連れて行かれたのは遼の家の近くにある道路だった。軽自動車も通れないほど狭い道の真ん中に、玲矢は二つのバッグをどすんと下ろす。
「色々と考えたんだけどさ」と、玲矢は振り返って口にした。表情はよく見えない。
「マンホールの中に放り投げるのが、手頃でいいんじゃないかって思ったんだ」
「下水道に捨てる……ってこと?」
「そうそう。山の中に埋めるとか、海に捨てるとか、サスペンス物ではよくあるけど、車が使えない俺たちには現実的に考えて難しいよね」
そうは言っても、智春はテレビドラマをほとんど見ないのでよくわからない。
「ここなら防犯カメラの死角だから、見つかることはないよ。人が通らない限りはね」
玲矢はスマホのバックライトを智春の足元に向けた。比較的大きなサイズのマンホールが煌々と照らし出される。
「これ、開けられるの?」
「まあ見てなって」
ゴミ袋を詰めたバッグを開けると、玲矢は智春が見たことのない棒状の工具を取り出した。工具の先の平べったい部分をマンホールに取り付けると、ぐぐぐ、と力を入れる。数分後、智春が思っていたよりもあっさりとマンホールは開いた。鼻が曲がりそうなほどの汚水の臭いに、うっぷ、と吐きそうになる。
「死体を解体する前に目星はつけておいたんだ」
「こんなもの、どこで手に入れたの?」
「通販だよ、通販。ネットは便利だよね」
そうなんだ。つうはん、すごいね、と智春は平坦な声で言った。何のために買ったのかとかいつから持っているのかとか、尋ねたいことはたくさんあったが訊かないことにした。玲矢のことだから、怖い答えが返ってきそうな気がしたのだ。
玲矢はバッグの中からゴミ袋を取り出すと、無言で差し出してきた。智春が投げ込めということだろうか。同じく無言で受け取った智春は、おそるおそるマンホールの中を覗き込んだ。底の見えない深淵に足がすくんで動けなくなる。
「どうしたの?」
「……こんなところに、捨てていいのかな」
我ながら今更な発言だとは思う。けれど、智春が手に持っている物体はただのゴミではない。つい一昨日まで生きて息をしていた人間なのだ。本来ならきちんと埋葬されるべきものを自分の都合で捨てることに、智春はまだ躊躇いがあった。
「何言ってるんだよ、小田巻」
智春の両肩にゆっくりと手が置かれる。
「椎本を虐待していた親だよ? 死んで当然の奴だったんだ。お似合いの末路じゃないか」
玲矢はくすくすと笑った。密やかな息遣いを肌で感じる。どの口が言っているのかとは思ったが、玲矢の言い分自体は確かに正しいかもしれない。智春はすとんと覚悟を決めた。どちらにせよ、これは智春が始めてしまったことだ。最後くらいは自分の手で終わらせなければならない。
智春はゴミ袋を両手で掴むと、丸い穴の中へ一息に投げ込んだ。
きっとあたしの行いは間違っていないのだと言い聞かせながら。