59話 斉唱:騎士になれない少女へ②
遡ること一時間弱。
小田巻智春は、クラスメイトであり同じ吹奏楽部員でもある堂馬環に「どこに行くつもり?」と肩を叩かれた。スクールバッグを両腕に抱え込んでこっそりと教室を出ようとしていた智春はぎくしゃくと振り返る。後で問題になるかもしれないとは思っていたが、こんなに早く勘付かれるとは思っていなかった。さすがに環は鋭い。
「な、何のこと? あたしは今から部活に……」
「嘘。そのまま帰る気でしょう。わかりやすいのよ、あんたの行動は」
智春は環の手を払いのけると、脇目も振らず駆け出した。
今から音楽室で吹奏楽部の発表のリハーサルをすることぐらい、智春だってわかっている。風邪を引いた二年の先輩が文化祭に出られなくなってしまって、テナーサックスの担当者は智春一人しかいないということも。けれど、智春の足は迷いなく校門へと向かっていた。
同じく教室を後にした遼が、あまりに思い詰めたような顔をしていたから。
私の家の場所は絶対に詮索しないで。勝手についてきたら智春でも許さないから。遼には以前からそう言い含められていた。誰にだって知られたくないことはあるものだし、親しき仲にも礼儀ありじゃないかと、智春も今までは納得していた。
「ほら、やっぱり何も知らないじゃない」
音楽室で泣きながら笑っていた遼の顔が、どうしても忘れられない。腕の中のスクールバッグを抱え直して、智春は真っ直ぐ前を向いた。視界の中には遼の背中がある。
「何も知らないなんて、そんなこと、絶対ないんだから……!」
校門を出て直角に曲がり、スタスタと早足で歩いていく遼を、少し離れた位置から追いかける。足の速い遼に本気で走られたらまず敵わないので、適度な距離を保って気づかれないようにすることが重要だった。幸いにも遼に周囲を気にかける余裕はないようだ。
智春の横で群れを作っていた鳩が、盛大な羽音を立てて飛び立った。慌てて近くの茂みに転がり込むように隠れて、遼の様子をうかがう。遼はちょうど横断歩道を渡ろうとしているところで、こちらに気づいてはいないみたいだ。智春はほっと胸を撫で下ろした。なんだか、探偵にでもなったような気分だ。
「ねえ、何してるの?」
突然耳をくすぐった吐息に、智春は心臓が止まりそうなほど仰天した。思わずその場から飛び退こうとすると、「おっと、見つかっちゃうよ」と腕を掴んで乱暴に引き戻される。声の主を目の当たりにして、智春はさらに驚いた。
「れ、玲矢くん⁉」
「静かに静かに。尾行するならもっと上手くやらないと、ね?」
人差し指を唇に当てて、玲矢はにっこりと微笑んでいた。智春とは違って手ぶらのようだが、ここまで追いかけてきたのだろうか。何のために? 疑念が智春の胸の内に芽生えたが、気にかけている暇はなかった。遼は歩道を渡り終えていて、既に青信号は点滅している。
「それにしても、あんた幼馴染みの住所も知らなかったの?」
玲矢はそう言って当然のようについてきた。それどころか、危うく遼を見失いかけた智春の手を引いて「こっちの方に行ったよ」などと先導してくる。智春は仕方なく玲矢を追い返すことを諦めた。色々と物申したいことはあったが、玲矢を頼りにしないと遼を追うことすらできないのも事実だ。細かいことは後で聞き出せばいい。
迷いなく住宅街の中へ入っていく遼を見たとき、薄々抱いていた違和感の正体がわかった。椎本家の住所はずっと知らなかったものの、二人で一緒に帰宅したときに解散する位置や遼の帰っていく方向から、おおよその場所は見当がついていたのだ。しかし、遼は智春の思い描いていた場所と全く違う方へと歩いていた。
「椎本さん、明らかに回り道しているね」と、玲矢は智春の耳元で囁いた。
「わざとわかりづらい道を通ってる。俺たちに気づいているようには見えないから、あれは普段から意識的にやってるんじゃないかな」
クスクスとせせら笑っている玲矢のことは無視して、智春は遠くから遼の背中を見つめた。遼は日当たりの悪い入り組んだ路地へと足を踏み入れていく。おそらくこの一帯は、治安があまり良くないからと母に近づくことを禁じられていた地域だ。住宅の窓から顔を出している人間も、人相の悪さが目立つ。
何より智春が今歩いている場所は、智春と遼の通っていた紅黄小ではなく万寿小の校区だ。もし遼が今までこの地域に住んでいたのだとすれば、校区外から紅黄小に通っていたことになる。そんなことが可能なのだろうか。遼、あなた一体、どこに住んでるのよ――
狭い路地をどうにか抜けると、少し開けた場所に出た。団地、なのだと思う。似たような見た目の古びたアパートが密集している。漂う空気はかすかに下水の匂いがして、智春は思わず鼻を摘まんだ。不衛生な町だ。
「こんなところに住宅地があったのね……」
「はは、あんたが知らないわけだ」
遼は数あるアパートのうちの一つの前で立ち止まると、ゆっくりと階段を上っていき、三階にある左から二番目の部屋に入った。軋んだ音を立ててドアが閉まる。智春と玲矢は隣のアパートの陰に身を潜めた。玲矢は智春の顔を覗き込むと、面白がるような目で「さて、どうする」と微笑んだ。
「インターホンはついていないようだけど、ノックでもしてみる?」
「で……でも、急に訪ねたりしたら、怒らないかな……」
「呼ばれてもいないのにあんたが勝手に住所を突き止めてのこのこやって来たら、それは怒ると思うけど。じゃあ、何のために尾行してきたわけ?」
「そ、そこはあんまり考えてなかったんだけど……」
地面に腰を下ろした玲矢が呆れたように笑って口を開きかけたそのとき、弱々しい悲鳴が隣のアパートから聞こえてきた。小さいものの、智春の耳に残る甲高い悲鳴。
遼の声だ。声の主を断定できるほど大きくはなかったけれど、今のは間違いなく遼の声だという確信めいたものがあった。
切羽詰まると深く考えるより先に行動してしまうのは智春の悪い癖だ。スクールバッグを放り出すと、智春は全速力で走り出した。「玲矢くんはそこで待ってて!」と叫んでから階段を三階まで駆け上り、遼の入っていった左から二番目の部屋の前に立つ。ノックぐらいはした方がいいのか、と混乱のまま右手で拳を握ろうとしたが、瞬時に頭を切り替えてその手でドアノブを掴んだ。今は礼儀なんて考えていられない!
鍵はかかっていなかった。立て付けが悪いのか、引っかかったように動かないドアを両手で押して開ける。途端に流れ出してきた肌にまとわりつくような濃密な空気と酒臭さ、何かが腐ったような臭いから、部屋の中が酷い有様であることはすぐにわかった。
最初に目に入ったのは、汗ばんだシャツを着た大男の背中だった。
男はごつごつとした拳を振り上げて、床に倒れた少女――遼に馬乗りになっている。遼のブレザーは半分脱げかかっていて、プリーツスカートはたくし上げられたように捲れていた。白い靴下に包まれた爪先だけが日光に照らされている。
智春は無意識に、ここにはいない少女の名を口走っていた。
「め…………い、か」
いくつもの光景が、古い映画のフィルムのように智春の脳内に映し出される。日の沈みゆく十九時の空き教室、赤い上靴の先に倒れている机、長い丈のスカート、動かない脚、天井からだらりと吊されたあの子の小さな体。
もう二度と動かない、彼女の心臓。
あたしにもう少し力があったら、死ななかったかもしれないあたしの友達。
「兄さんをずーっと好きでいるためなら、どんな間違った行いにも意義がある。僕はそう考えている」
これ以上、あたしの目の前で誰も失いたくなんかない。失ってなるものか。
ああ、それならあたしは何だってできるだろう。
だって、大切な人を失わないためならば、どんな間違った行いにも意義がある。
智春は足にぶつかったビール瓶を拾い上げ、両手で強く握り込んでいた。深く息を吸う。不思議と緊張や高揚感はなく、頭は冴え渡っている。智春は標的に狙いを定めることだけに全神経を集中させていた。カーテンの向こう側で微笑む悪魔の言葉が、智春の背中を押す。
「小田巻、あんたの一番大切なものは何なんだ?」
滅多に涙を見せない遼の泣き顔が、智春の脳裏をよぎって。
結局それが最後にして最大の一押しとなった。
大きく振り上げたビール瓶が男の後頭部の真ん中に当たったとき、硬いものが潰れるような気持ちの悪い手応えを感じた。
*
散らかった部屋の中央に、撲殺死体が一つ。その周りを取り囲んでいるC組の生徒が三人。思い思いの感情を抱えて佇んでいる。
三人のうちの一人である遼は内心忸怩たる思いだった。まさか智春に尾行されているとは思いもよらなかった。しかも帰り着くまで全く気づかず、家に入られることを許してしまうとは。普段は細心の注意を払いながら帰宅しているのだが、今日に限って怠っていた。あまりにも迂闊だった。完全に自分の失敗だ。
「ほ、本当に死んでる……のね」
最初に沈黙を破ったのは智春だった。青ざめた顔で死体を凝視し、自分の身体を両腕で抱きしめるようにしてガクガクと震えている。膝から力が抜けて床にくずおれそうになるのを、遼は素早く駆け寄って支えた。
「ごめ……ごめんなさっ……あたし……どうしよう、まさか遼のお父さんだったなんて、知らなくて……」
お父さん、というフレーズに遼は肩を揺らした。
本当に「これ」は、遼の父親だったものなのだろうか。
醜く陥没した後頭部から背中にかけて、目も当てられないほど赤黒く染まっている、人の体。髪の毛に絡みついた血は固まっている。部屋の真ん中へ引きずっていったときに直接肉体に触れたが、まだ体温は残っていた。うつ伏せの状態のまま動かしたので、遼も父の最期の顔は確認していない。身体をひっくり返して見る勇気はなかった。
「ごめん、ねえ、どうしよう、どうしようはるか、しんでる、こわい、こわいよ……」
怯えたように縮こまっている智春をそっと抱き寄せると、彼女は遼の胸に顔を押しつけて堪えていた涙をぽろぽろと零し始めた。腕の中にある智春の肩はひどく小さい。見なくていい、と遼は智春を安心させるように何度も言い聞かせる。
「怖いなら見なくていい。あんたは何も関係ない。関係ないんだから……」
遼の言葉を遮るように、落ちているポテトチップスの袋や潰れたペットボトルを踏みつける音がした。網瀬玲矢が床にしゃがみ込んで死体の頭部を観察しているのだ。彼の横顔は真面目な優等生そのもので、理科の実験でもしているようにしか見えなかった。これは派手にやったね、などとのたまう声は楽しそうに弾んでいる。
「ビール瓶で頭の後ろを一発、相手が立ち上がれないでいるところを二発三発……って感じかな? 闇雲に殴ったにしては綺麗にヒットしてる。小田巻もなかなか野蛮だ」
「さっきは訊きそびれたけど、何であんたがここにいるの」
玲矢は遼を見上げて「興味本位でついてきただけだよ」と和やかに笑った。この状況で普段通りの笑みを見せられることにぞっとする。部屋に入ってきてから今まで、玲矢は微塵も笑顔を崩していなかった。虚勢を張っているようには見えない。先ほどまでは気にする余裕もなかったが、遼はようやく実感し始めていた。
網瀬玲矢という人間の異質さに。
元より遼は玲矢のことをそこまで信用していなかった。今年の四月にC組の教室で出会ったときから、こいつの「良い子」の面は打算で作られたものだろうと本能的に感じていた。智春の隣でクラス委員の仕事をしているうちは特に害がないので気にする必要もなかったのだ。そもそも一年C組は基本的にそういう奴らばかりだ。
あの頃はまさか、彼にこんな一面があるとは思ってもみなかった。
「この家、家族で住んでいるにしては狭いようだけど、お母さんは?」
「……母親は、ここにはいない」
今更隠し通したところで意味はないだろう。遼は観念して説明した。
「両親はもうずっと前に離婚していて、私は元々母親の家に住んでいた。何年か前に家を追い出されて、今は父親の家で暮らしてる。でも、学校とか市には何も言ってないから、私がまだ母親のところにいると思われてる……はず」
一呼吸置いて、遼は続けた。
「で、母親はもうこの町にはいない」
合唱コンクールの指揮者や伴奏者を決めた日の前日、珍しく母親から電話がかかってきた。曰く、再婚相手と県外に引っ越すことが決まったとのことだ。多少は後ろめたさでもあるのか「それでいいのか」と尋ねてくる母に、遼は「私がやめてって言ったら、あんたはやめてくれるの?」と言い返して電話を切った。それ以来母とは一度も話していない。
玲矢はなるほどね、と頷いた。一応納得はしたようだ。
腕の中で息を止めたように動かなくなっていた智春が、ゆっくりと顔を上げた。頬には涙の跡がくっきりと残っており、二つの瞳は充血している。智春は弱々しく視線を虚空に彷徨わせて、躊躇いがちに色の抜けた唇を震わせた。
「あたし、警察に行く……」
遼は目を見開いた。「智春、待っ」
「むりよ、こんなの……あたしは隠しておけない……は、犯罪、よ……」
「だから、殺したのは私だって言ってるでしょう!」
両肩を掴んで前後に強く揺さぶると、智春の潤んだ目がこちらを向く。
「あんたが自首したら私も巻き添えなの。わかる? いいからおとなしくしてて」
強硬な物言いが効いたのか、智春はうつむいて黙り込んでしまった。口はかたく結ばれている。本当に自分一人で父の息の根を止めたのか、智春の中でも確信が持てないのかもしれない。ならば言いくるめることは容易いだろう。
「十三歳以下なら刑罰は科されないらしいし、別にいいんじゃない?」
玲矢はいつの間にか智春の鞄から勝手に取り出したスマホをいじっている。いちいち癪に障る言動を取る玲矢を黙って睨み付けると、彼はからりと笑った。
「冗談だって。じゃあこうしよう。死体は隠せばいいんだよ」
「……隠す?」
「よくある話だろ? 細かく切り刻んで、透けないゴミ袋に詰め込んで、どこかに捨ててしまえばいい。生ゴミなんだからさ」
ずいぶん簡単に言ってくれるが、そんなに簡単な話ではない。だが、今の状況ではその方向性で話を進めるしかなかった。死体を調べられればどの段階で父が死んだのか明らかになる。遼の嘘がバレてしまう。智春の未来を守るために、智春にすべてを失わせないために、自分にできることを考えなければならない。
案の定、智春は玲矢の意見に反発した。
「だ、だめだよ、そんなの……し、死体遺棄、よ。犯罪に犯罪を重ねるなんて……」
「でも、早く片付けないと臭って見つかっちゃうよ?」
「だから、あたしは最初から……」
智春がぐだぐだと余計なことを口にする前に「私がなんとかする」と遼は強い口調で言い切った。玲矢の目がすうっと三日月のように細くなる。楽しめる玩具を見つけた小さな子どものような目だ。遼は玲矢の表情に若干の薄気味悪さを感じた。
「椎本さんはどうやって捨てるつもり? これ、結構大きいよ」
「のこぎりとか……学校の木工室から適当に拝借してくればいい」
「今日はもうすぐ日が暮れてしまうけど、いつやるの?」
「……明日」
「明日は文化祭だろ。小田巻は伴奏、椎本は指揮があるじゃないか」
遼は荒々しく息を吐いた。「じゃあ、どうしろって言うの」
「俺に任せればいい」
堂々と自分の胸を叩いた玲矢に、遼も智春も絶句した。三人の間に再び気まずい静寂が訪れる。二人の反応が意外だったのか、玲矢はきょとんとした顔で首を傾げた。
「うーん? 遠慮しなくていいよ。俺はどうせ一般参加者だし。文化祭なんて三回もあるんだから、一回休むぐらいどうってことないよ」
「違う。あんたが文化祭に出るか出ないかはどうでもいい」
智春を背中の後ろに庇うようにして、遼は玲矢と対峙した。
「無関係のあんたにそこまでされる理由がわからない。そんなリスクを負って、あんたに何のメリットがあるの?」
「だから信用できないってわけ?」
玲矢を油断なく睨み続けながら、遼は無言でうなずいた。幸いにも智春は遼の後ろで黙り込んでいる。自分が口を挟む余地はないと思っているのかもしれない。つれないなあ、と玲矢は足元のペットボトルを蹴って口を尖らせた。
「さっきも言っただろ。興味本位だって。合唱なんかより死体を片付ける方が面白そうだと思っただけ。椎本さんたちだって、文化祭の間監視も付けずに死体を放置していくのは怖くない? 俺を存分に利用すればいい」
数秒の間、遼は沈黙した。何の見返りもなく、ただ興味関心のために自分とは無関係の死体を処理する。この男は本当にそういう人間なのだろうか。遼は玲矢のことを深く知らない。人気者の優等生らしい振る舞いがどこまで本当であるのかも、本性と思しき裏の顔に何が潜んでいるのかも。ここで玲矢の申し出を拒否した場合、手のひらを返して「百十番通報する」なんて言い出される可能性もあった。それは最悪のパターンだ。
遼にはこれ以上、どうしようもない。
「……わかった」
「遼!」
後ろからシャツの袖口を摘ままれて振り返ると、智春が不安げな目でこちらを見上げていた。智春の気持ちはわかっている。遼だって納得はしていないのだ。
「実際のところ、こいつの言うと通りにするしかないでしょう。私たちは弱みを握られているんだから」
智春はしばらくの間「でも」「あたしは」と何かを訴えようとしていたが、遼にも玲矢にも逆らえないと理解したのか、最終的にこくりと控えめにうなずいた。
遼と智春、二人の了承を得られたことがわかると、玲矢は「それじゃあ、俺は準備する物があるから」とにこやかに手を振りながら颯爽と帰っていった。
二人きりになった部屋は妙に広く感じる。開放感があると言ってもいい。単に大柄な父がいないからだろうか。あるいは、もっと精神的な理由だろうか。
これから一生、人殺しという重い十字架を背負って生きていかなければならないというのに、遼は不思議と晴れやかな気分だった。今なら遠くどこまでも見通せそうな気がする。肩の荷が落ちたのかもしれない。父という強大な敵がいなくなったからか、智春に対する隠し事が減ったからか、その両方が理由なのかはわからないが。
それは、諦めにも似た感情だった。
ねえ、遼、と智春はつぶやくように言った。こちらに向けられてはいるものの、か細い声には独り言のような響きがある。
「遼は……いつもあんな風に殴られていたの? あたしは全然、知らなかった」
「……あ、うん。いや、そんなことは」
肯定とも否定とも取れる曖昧な返事をして、遼は密かに胸を撫で下ろした。どうやら智春は、遼が父に暴力を振るわれていたとしか思っていないらしい。遼にとっては好都合だった。智春の鈍感さと無垢さに助けられたようだ。
「そんなこと、もうどうでもいいよ。あいつはいないんだから」
「どうでもよくなんか、ないでしょう」
さっきよりもずっと力強く、芯の通った声。遼は勢いよく顔を上げた。智春の透明な瞳の奥で、熾火のような怒りがちろちろと燃えている。父をビール瓶で殴りつけていた智春の殺意をはらんだ目を思い出す。遼の背中を嫌な汗が流れた。
「遼を傷つける人は、あたしが許さない」
「智春、お願い、話を聞いて」
「あたし、後悔してないから。また遼を殴る人がいたら、あたしが――」
ドン、と物音がして、気づくと遼は智春を床に押し倒していた。
両手で塞いだ智春の小さな口に、全身の体重を乗せて。上から見下ろしていると、智春は信じられないという目で遼を見返してくる。智春の頬を伝って落ちていく涙に遼の白い息がかかった。ばくばくと鳴り止まない心臓が痛い。
身体の自由を奪われた智春の姿が、つい先ほどまでの自分と重なる。否定しようのないその事実が嫌で嫌で仕方がなくて、けれど遼は手を退けることができなかった。
ああ、私、やっぱりあいつと同じことをしているんだ。
「智春、あんたが『殺す』なんて口にしたら、私も智春を許さないよ」
自分の声と二人の呼吸音以外、何も聞こえてこない。
「約束して。もう二度と、私のために誰かを殺そうとしないって」
一秒、二秒、三秒。額と額がくっつきそうなほど近くで見つめ合う。智春も遼も息を止めていた。四秒、五秒、六秒。智春の目の中の火が、酸素を失って静かに消えていく。
七秒目に智春は目を逸らし、首肯するように小さく顎を動かした。
口を押さえていた手を退けると、智春は咳き込みながら起き上がった。遼はごめん、と小声で謝った。乱暴な手段を取ったことを咎められるかと思ったが、智春は目を伏せたまま何も言わない。それがかえって後ろめたかった。
*
十七時を知らせる町内放送が夕焼け小焼けの音楽と共に流れる。智春は床に落ちていた鞄を拾い上げて、何事もなかったかのように帰る支度をし始めた。
今晩はうちに泊まればいい、と智春は言ったが、少し考えて断ることにした。文化祭の前日に普段と違う行動を取ろうものなら、智春の母親に怪しまれてしまう。なるべくいつも通りに過ごした方が良い。心配そうに部屋の中の死体を見る智春に、遼はニッと笑いかけた。網瀬玲矢などに比べると、かなり無理のある笑みだろうけども。
「ピアノを弾くんでしょう。あんたがそんな顔でどうするの」
智春は目を丸くすると、不服そうに「誰のせいよ」と答えた。それから少しだけ笑って、名残惜しそうに振り返りながら帰っていった。
見栄を張ったものの、死体の転がる部屋で眠ることはなかなか難しかった。幸い、肌寒い季節ということもあって死体が早々に腐り始める心配はなかったが、大量に流れ出た血の匂いが部屋に染みついていた。下手に窓を開けようものなら近隣の住民に気づかれる恐れがある。遼は壁にもたれかかると、諦めて目を瞑った。
今までで一番、静かで平和な夜だった。
*
翌朝は早くからよく晴れていた。制服に着替えて家を出る準備をしていると、窓越しの綺麗な青空が視界に入る。智春がこの日のためにてるてる坊主を作っていたことを思い出す。文化祭は体育館で行われるのだからどんな天気でもいいんじゃないのと指摘したら、「でも、晴れの方が気分が良いじゃない」と笑っていたっけ。
洗面所でスカートを穿いていると、固い何かが手に当たった。ごそごそとポケットの中を漁ると、智春に貰ったイルカのストラップが出てくる。そういえば、どこに付けようか迷っているうちに入れっぱなしになっていたのだった。鞄の中から筆箱を出そうとしゃがみ込んだとき、玄関のドアをノックする音が聞こえた。
「おはよう。昨日はよく眠れた?」
にこやかな笑顔の網瀬玲矢が、やたらと大きな袋を持って立っていた。皮肉とも取れる呑気な挨拶に、遼は眉根を寄せて「この状況で安眠できると思う?」と返す。玲矢は遼の返事も聞かずにお邪魔しまあすと明るい声で上がり込んできた。
死体の横に袋を下ろして一息ついている玲矢に、念を押すように問いかける。
「本当に、あんたに任せていいのね」
「ああ、うん。のこぎりはなんとか木工室から持ち出せたよ。あとはレインコートとか、ビニールシートとか? 人間の死体を解体するなんて初めてだから、わくわくして色々持ってきちゃった。でも、よく考えたら制服で来る必要はなかったね」
袋から持ってきた物を取り出して並べつつ、玲矢は嬉々として訊いてもいないことをぺらぺらと喋っている。玲矢はクラスにいるときもいつだって機嫌良さそうにしているが、こんなにも嬉しそうにしていることはそうそうない。本当に一人で死体処理を楽しむつもりのようだ。
「ねえ、当然のことだけど、一応言っておくから」
遼が隣に立つと、玲矢は手を止めて見上げてきた。
「万が一智春を嵌めようとしたり、弱みを盾に脅そうとしたりしたら、どうなるかはわかってるでしょうね」
「やだなあ、信用ないね。そんな酷いことしないよ」
何もする気がないことをアピールするように、玲矢は両手を開いてひらひらと振る。
「椎本こそ、小田巻に本当のことを教えなくていいの?」
玲矢は一箇所に集められている複数のゴミ袋や汚れた布団にちらりと目をやった。もしかすると玲矢は、部屋の様子を見ただけで智春の気づかなかった様々なことに勘付いたのかもしれない。本当に嫌な奴だ。いつの間にか馴れ馴れしい呼び捨てになっていることは無視して、遼は玲矢を睨み付けた。
「智春は何も知らなくていい。あの子は私が守る」
玲矢はしばらく真顔で黙り込んだ後、馬鹿にしたように笑った。
「あはは、あんた本当に小田巻が好きなんだね」
軽い気持ちで言ったのであろう玲矢の言葉が、遼の心の柔らかいところに触れる。
遼は玲矢の胸倉を掴むと、一段と声を低くして「黙れ」と凄んだ。遼の智春に対する好悪は、無関係の人間に踏み荒らされていい領域ではない。それは遼が一生胸の内に秘めると誓った想いだ。
「あんた、もしかして」
驚いたように目を見開くと、玲矢は言葉を途中で切って思案顔になった。
「何?」
「ううん。残念だな、と思っただけ」
大仰に肩をすくめた玲矢の困ったような表情の理由はよくわからない。気が削がれた遼は玲矢から手を放し、スクールバッグを肩にかけた。なんとなく、早くこの場を離れた方がいい気がする。玲矢から半歩分の距離を取ると、彼を突き放すように敢えて大きな声を出した。
「ともかく、あとはよろしく頼んだからね」
玲矢は後ろで手を組み、黙ってにこにこと微笑んでいる。見る者すべてを安堵させるような邪気のない笑顔だ。遼もぎこちなく笑い返して、ほんの少しだけ緊張を緩めた。
ドアノブを掴もうと玄関の方を向いた瞬間、
背中に氷のような冷たい気配を感じた。
「それじゃあ、本題に入ろうか」
ゾクリと、体中の皮膚が粟立つ。
振り向きざまに上から握り拳を振り落とそうとした遼は、違和感に気づいて宙で手を止めた。
遼の腰のやや右寄りの場所。首を回しても見えない辺りに、何かが突き刺さっている。
「う、あ……」
熱と、重い鈍痛が、腰を中心に全身へじくじくと広がっていく。痺れた指先から力が抜けて、握り込んでいたイルカのストラップが床に落ちる。遼はかくんと膝を折って前に倒れた。床にぶつかったときに額を切ったのか、視界がほんのりと赤く染まる。
「おやおや、おかしいなあ。あんた今俺を殴ろうとしたね? 不意打ちで刺されたにしては随分反応が早かったけど、もしかして最初から警戒してたかな?」
声が頭に響く。意識を失うほどの痛みはないが、脳みその代わりに綿を詰められたみたいに頭がぼんやりとしていた。焦燥から息を吸うこともままならず、遼は不規則に浅い呼吸を繰り返した。眼球をぐりぐりと動かして、どうにか相手の姿を一目見ようと試みる。
「き、さま…………」
「動いちゃだめだよ。もう一本あるからね。次は首の太い血管を刺そうか」
背後から奇襲してきた張本人――網瀬玲矢は床に片膝をつくと、玄関に倒れた遼の顔を横から覗き込んだ。言葉通りにひんやりとした何かが首筋に触れる。玲矢は相変わらず穏やかな微笑みを満面に湛えていた。
「っと、忘れてた。これを回収しないとね」
玲矢は無遠慮にも遼のスカートに手を突っ込んでいる。この角度から玲矢の手元は見えなかったが、彼の探し物が何なのかは尋ねずともわかってしまった。
「みいつけた。まったくもう、油断も隙もないや」
ぴらん、と遼の顔の前で見せつけるように出されたのは、数枚の写真だった。
どれも遼がインスタントカメラで撮った写真であり、今の今までスカートのポケットに忍ばせていたものである。洗濯機の後ろに隠していたこれらの写真を、遼は玲矢に見つかる前に持ち出そうとしていたのだ。特に重要なものは最初の二枚だ。
一枚は、玲矢の双子の兄である心良がコンビニで万引きをしている写真。
そしてもう一枚は、玲矢が自宅で心良に暴力を振るっている写真だった。
「よくこの瞬間を撮れたよね。すごく小さいけど、確かに様子がわからなくもない。カーテンが開いていたなんて気づきもしなかった。今度からはしっかりチェックしないと」
「おまえは、いつ、から……」
「いつから知っていたか、って? うーんと、文化祭の練習が始まる少し前かな」
ということは、ほとんど最初からではないか。遼は乾いた声で笑った。
「学校から帰っている途中に変な視線を感じるようになってね。警察か児相か……どこかの公的機関に持ち込むつもりだったのか、ネットに載せるつもりだったのかは知らないけど、あんたの様子を見るにまだ何もしていないのかな。真夜ちゃんはともかく、これは見逃せないなあ」
額を伝う血が床に染みこんでいく。刺された箇所はどんどん熱を帯び始め、一匹の生き物のようにドクドクと脈打っている。傷口の熱に気を取られて玲矢の声は断片的にしか頭に入ってこなかったが、どうやら自分は長い間泳がされていたらしいということは理解できた。
きっかけは、やはり明佳の言葉だった。
「ちはるちゃんが今いちばん誰のことを見ているか、あなたは知ってる?」
初めは他愛のない挑発だろうと思っていた。こいつの言うことを真に受けても仕方がないと。だが、明佳が亡くなって改めて彼女の言葉を振り返ったとき、あいつがわざわざ二人きりのときに意味のないことを伝えてくるだろうか、と思い直したのだ。
「ちはるちゃんの方が、はるかちゃんの知らないところで変わってしまうかもしれないよね」
早く忘れたいのにいつまでも忘れられない、明佳の甘やかな声。彼女の言葉の意味を知るために、遼は一人で動き出していた。
遼が智春の様子に違和感を覚え始めたのは二学期に入ってからだ。二学期の最初に起こった出来事といえば、網瀬心良が起こした盗難事件だろう。智春は以前から心良のことを気にかけていたし、彼が原因で間違いない、と遼は思った。しかし、事件以降の心良は極めておとなしく、クラスではほとんど目立った行動を起こしていない。
まさか、智春は学校外でも心良と関わりがあるのだろうか。陸上部が休みの日の放課後に心良を追跡したところ、彼はどこにも寄り道することなく家に入っていった。学校から二キロほど歩いた場所にあるありふれたマンションだ。部屋番号も確認した。そこで尾行を止めていたら何も見つかることはなかったのだが、遼はさらにこう考えた。
隣の建物からなら家の中の様子が見えるな――と。
翌日、遼は智春から土産に貰ったオペラグラスを携えて、マンションの横に建っているアパートに足を踏み入れた。三階のベランダから網瀬家の中を覗き込むと、白いレースカーテンがわずかに開いているのが見えた。
そうして遼は、網瀬兄弟の秘密を知ってしまうと同時に、諸悪の根源は心良ではなく弟の玲矢の方であることを知ってしまった。
故に、玲矢の清廉潔白な善人のような振る舞いは偽りにすぎないということを、遼は玲矢が家にやって来る前からわかっていた。智春が教室で玲矢と話しているときも、保健室で何かを吹き込まれているときも、ずっと外から聞き耳を立てていた。
クラスメイトが万引きをしていますと、コンビニの店員に教えたのも遼だ。
心良の万引きは尾行を続けていくうちにわかったことだった。店内で心良を監視していると、逆に遼が制服のままでコンビニにいることを見咎められてしまい、店に入った理由を苦し紛れにでっち上げる羽目になったのだ。
「俺もあんたの家を突き止めてやろうと思ったんだ」と玲矢は薄く微笑んだ。
「だけど、あんたは追っ手を撒くのが上手いからさ。ううん、普段から尾行されないように気をつけて帰っていたのかな? ここに辿り着くまで結構時間がかかったよ。いやあ、小田巻がいなかったら難しかったね」
玲矢は楽しそうに酷薄な笑い声を上げながら、遼の腰に刺している何かを捩じ込んでくる。ナイフか、包丁か――何らかの刃物だ。ずん、と体の内側にこだまするような激痛が脳髄を揺さぶり始めて、遼は声にならない悲鳴を上げた。歪んで二重にブレる真っ赤な視界に、震える指先がぼうっと映り込む。
網瀬玲矢は、智春の生きる世界にいてはならない。
こいつみたいな悪魔が、智春の隣で息をすることを許してはならない。外敵は早急に自分の手で排除しなければならない。智春の無垢な魂が、真っ黒な穢れに干渉して濁ってしまう前に、取り返しのつかないことになる前に。
だが、虐待の証拠を押さえてネットにばら撒くという回りくどい方法を取ろうとしたのは失策だったのだろう。玲矢が智春から離れるように、この町にいられなくなるようにできればそれでいいと遼は考えていた。この男のような得体の知れない人間を襲撃して、万が一返り討ちに遭ったら元も子もない。見えないところから玲矢を攻撃すると決めたのは、自分と智春の身を守りつつ安全に敵を排除するためだった。
甘かった。もっと確実な方法で、迅速にこいつを始末するべきだったのだ。
「恩を売る前に、仇で返されるとはね」
意識が飛ぶほどの激痛の中でも、玲矢の声ははっきりと聞こえた。
「あんたが今すぐこれまでの非を認めて、俺に服従を誓うなら、助けてやってもいいけど……どうする?」
「……っ、う」
簡単なことじゃないか、と遼の頭の隅で誰かが囁く。父の声なのか、明佳の声なのか、智春の声なのか、自分の声なのかもわからない、誰かの声。
へらへら笑って誤魔化すんだ。嘘をついて、感情に蓋をして、頑丈な鎧をまとって。今までずっとそうやって生き抜いてきた。そうやって智春を騙してきた。何も考えないまま、いつもみたいにごめんなさいって言えばいい。
声に従って口を開きかけた遼の思考に、新たな囁きが滑り込んでくる。
こいつが――――
きっとこいつが智春に余計なことを言わなければ、智春は殺しなんてしなかった。智春が自分の正義に疑問を持つこともなかった。虚ろな目で声を押し殺して泣くこともなかった。清らかな笑顔が穢されることもなかった!
私の智春を歪めたのはこの男だ!
「……網瀬、玲矢」
可能な限り首を回して、悪魔の姿を睨め付ける。
「私はおまえを、許さない」
遼の答えは予想通りだったのか。それとも最初から答えなど聞く気がなかったのだろうか。玲矢は驚いた様子もなく再びにっこりと笑った。
「あんたたち、二人揃って本当に愚かだね」
増幅していく傷口の痛みに、遼は歯を食いしばって耐えた。傷口を抉ることにも飽きたのか、玲矢は刃物から手を放して立ち上がった。声は遠くから聞こえてくる。
「あんたみたいな人間はよく知ってるよ。できもしないくせに『守る』って、騎士にでもなったつもり?」
「お、まえに……っ、おまえに、何がわかる!」
軋む床に爪を立てて、肺に空気を送り込んで、遼は最後の力を振り絞って叫んだ。
「演じ続けていれば……いつか本当になるだろうって祈ることのっ、何が悪いの! こんな私でも、高潔な騎士になれるかもしれないって期待することの、何が駄目、なのよ!」
「偽物は、本物にはなれないさ」
ひどく冷たい声が聞こえる。あとほんの少しだけ手を伸ばすことができたら、目の前に落ちている銀のイルカのストラップに指先が届きそうなのに、もはや遼の体力は微塵も残されていなかった。
玲矢が部屋の隅に転がるビール瓶を掴むのが見えた。頭上で空を切る音がする。
「あんたは変われないし、どこにも行けないし、何者にもなれはしないよ」
おやすみ。




