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閉塞学級  作者: 成春リラ
2章 真っ赤な未来図
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5話 真っ赤な未来図②

 日曜日に四時間目まで授業を受けて月曜日が振替休日になるのだから、少し得をしたと言えなくもない。まあ、部活動もなく一緒に遊ぶ友達もいないひまりの場合、いつもは家で寝転んでいるだけで休日が過ぎ去ってしまうのだが、今日は朝から活動的に過ごしていた。


 張り切って作ったフィナンシェは、我ながら惚れ惚れするぐらい良い出来だった。ほんのり温かくて、外はさくさく、中はしっとり。皿に盛り付けていると、横からにゅっと手が伸びてきてつまみ食いされる。リビングからひまりの様子を覗いていた母だ。


「ちょっと、わたしより先に食べないでよ」

「えー、いいじゃない。ひまりちゃんの作るお菓子はいっつも美味しいね」

「あ、当たり前でしょ。ずっと前からやってるんだから。あと、ちゃん付けはいい加減やめて」


 ぶっきらぼうに言いつつ、褒められるのもまんざらではない。ひまりが気恥ずかしくてそっぽを向くと、母はきらきらした目でひまりにすーっと詰め寄った。


「ねえねえひまりちゃん、将来はパティシエになりたいんでしょ? お母さん、応援するよ」

「あーもう、だから違うってば。宿題で書けって言われたから書いただけ! お菓子作りはただの趣味! 子どもじゃないんだから、本気にしないでよ」


 ひまりは踵を返すと、スリッパの音をぱたぱたと鳴らして駆け足で台所に戻った。


 授業参観でひまりの作文を読んでから、母はことあるごとにパティシエの話を持ち出してくる。将来の夢なんて特に思いつかなくててきとうに書いた作文を、隅々まで母に読まれたうえに、ここまでしつこくエールを送られるのは想定外だった。これでは家で唯一の趣味に耽るのも難しくなる。――もっとも、わざわざ母が見ているときに作っているのはひまりの方だが。


 フィナンシェを齧りながらソファに座った母は、ひらめいたような顔で言った。


「回覧板を回すついでにさ、おばあちゃんちにこれ持っていきなさいよ。きっと喜ぶよ」

「はあ? 何でわたしが、」


 言いかけたが、確かにフィナンシェはまだまだたくさん余っているし、祖母はひまりの作ったお菓子をいつも美味しそうに食べてくれる。祖母の家は徒歩圏内にあるが、夏休みが終わってからはしばらく行っていない。顔を見がてら持っていくのもいいだろう。


 ひまりは小さな袋を取り出していくつかフィナンシェを詰めると、回覧板とウォークマンを掴んで外に出た。


 見上げると、飴色の空が広がっていた。菓子作りに熱中している間に結構時間が経っていたようだ。もう九月も下旬に差し掛かるからか、先週に比べると幾分過ごしやすい気温だ。ひまりは隣の家のポストに回覧板を投函すると、右手でフィナンシェの入った袋を持って道路の端をのろのろと歩いた。耳に挿したイヤホンからはお気に入りのポップスが流れている。


 近年、半ば大都市のベッドタウンと化した紅黄市には、ひまりの家の周りにあるような量産型の家屋が所狭しと並んでいる。地図を持たずに知らない住宅街に迷い込んでしまえば、抜け出すのは容易ではない。祖母の家は、柏葉家から角を三回曲がった辺りにある。


 しかし、最初の角を曲がりかけたとき、危うくイヤホンが耳からすっぽ抜けそうになった。踏み出した足を戻して後退し、陰に身を隠す。


「そういやさ、玲矢の兄ちゃん? 弟?」

「兄さんのこと?」

「そうそう、兄ちゃん。家にいなかったけど、今日はどうした?」

「さあね。兄さんはいつもふらっといなくなるからなあ」


 角の向こうにいたのは、同級生の笹村奏斗と網瀬玲矢だった。奏斗が自転車を押している横で、玲矢は歩いている。二人がこちらに近づいてきているのは明らかだ。


 玲矢がひまりと同じ金盞きんせん小学校出身で、近所に住んでいたことをすぐに思い出す。登校班は別だったし、同じクラスになったことも一度しかないので、面識はないに等しいのだけど。


 まさかこんなところでクラスメイトと出くわすとは思っておらず、ひまりはTシャツにショートパンツという雑な格好で出てきてしまっていた。奏斗と玲矢のことはどうとも思っていないし、むしろ二人とも苦手なくらいだが、だからこそ見られたくない。


 そもそも、二人はひまりのことをクラスメイトだと認識しているのだろうか。入学以来、奏斗とは一度も話したことがない。玲矢にしても、今と変わらず人見知りで目立たなかったひまりのことを彼が覚えているとは思えなかった。もしそうだったら気まずい。かなり気まずい。


 この世で最も嫌なことは、気が緩んでいるときに半端な顔見知りとばったり会うことだ。


 住宅街の中に隠れる場所はない。家に戻るには遅すぎる。結局、玲矢と奏斗が角を曲がってくるまで、いつ話しかけられてもいいように耳からイヤホンを抜いてポケットにぐしゃぐしゃと突っ込むことぐらいしかできなかった。いや、もっと他にすべきことがあるでしょう?


「あ、」


 ひまりの姿に一瞬怪訝な顔をした玲矢を見た途端、羞恥とも自己嫌悪ともつかない負の感情が押し寄せてきて、あっという間に死にたくなった。奏斗は「うわっと」とか言って自転車のブレーキを握った。その後続く言葉に、ひまりは目が点になる。


「柏葉さんだ。外で会うの初めてじゃねえ?」

「……へっ」


 自分の苗字を、面と向かって他人に呼ばれたのは随分と久しぶりだ。予想していなかった展開に言葉が出てこなかったひまりは、むやみに酸素を消費してようやく「なまえ」とだけ口にする。奏斗は眉を寄せて顔を近づけてきた。


「何か言った?」

「なっ、ななな何も言ってません!」


 緊張で滑りやすくなった手からフィナンシェの袋が落ちていったが、奏斗がそれを拾い上げるまでひまりが気づくことはなかった。笹村みたいなやつって何でこうパーソナルスペースが狭いんだろうとか八重歯があるなんて知らなかったとか思ってたより背が高いとか、その他諸々のまとまりのない考え事が頭の中を埋め尽くしていた。


 奏斗は拾い上げた袋を顔の前に持ってきて、くんくんと子犬のように鼻を鳴らしている。


「何これ、お菓子? 超うまそう」

「あ、えっと」


 何かを言おうと口を開いても、意味のある単語が一つも出てこない。男子に話しかけられるという異常事態に頭がついていけていなかった。


「これ、フィナンシェだよね」


 優しい微笑みを見せて、助け船を出してきたのは玲矢だ。睫毛、なっがいなあ。そんなことを思いつつ、ひまりは旧型のロボットのようにカクカクと頷く。


「そ、そう、フィナンシェ!」

「もしかして、柏葉さんが焼いたの?」


 しどろもどろになって答えるひまりに、玲矢は落ち着いた表情で尋ねてきた。


「う、うん。わたしが、さっき焼いた」

「へー、すっげえな! お菓子作れるんだ。やっべえ、ケーキ屋に並んでるやつみたい」

「奏斗もケーキ屋とか行くの? 意外」

「い、行かねえよ。前を通りがかったりするだろ」


 玲矢と奏斗は興味深そうに袋の中をじろじろと見ながら好き勝手に話している。そんなすごくないよ、とひまりは小声で言ったが、二人の会話に紛れて伝わらなかったようだ。


 自分の一番得意なことを家族以外から褒められて、ひまりは長らく使用していなかった表情筋をぴくぴく震わせていた。明らかに上手く笑えていない。不愛想な子だと思われていないだろうか。さっきまで二人のことなんてどうでもいいと思っていたのに、今はそればかりが気になって仕方ない。


 ひまりの方を向いた玲矢の発言に、心臓の鼓動がさらに跳ね上がった。


「柏葉さんは、パティシエになりたいんだっけ」

「……えっ」

「ほら、俺は作文を確認してたからさ。もちろん隅々までは読んでないけど、皆が大体何を書いたかは覚えてるよ」


 どくん、どくん、と心臓が脈打っている。


 読まれていた。覚えられていた。確かに作文は教室の後ろに飾ってあるのだから、クラス委員でなくとも生徒がそれを読むことは可能だ。でも、玲矢のような人気者でリーダー格の人間が自分の作文を読んでいたなんて、想像できたはずもない。


 何と答えたらいいかわからず黙り込んでいると、奏斗が感心したように言った。


「パティシエかあ。オレはよく知らねえけど、大変なんだろうな」

「いっ……いやいや、あれは、他に書くことがなかっただけで!」


 ひまりは慌てて否定した。顔から火が出る思いとはこのことだ。クラス全員の前で発表している奏斗と、てきとうに原稿用紙のマスを埋めている自分が、頭の中のスクリーンに交互に映し出されて、ひまりは自分がすごく矮小でどうしようもない人間であるように思えてくる。


「ほんとうに、本気じゃないから。わ、わたしのこれは、好きでやってるだけだし、誰でもできることだし、全然上手でもないし、そんな、将来とか、仕事とか、考えて書いてない」


 言い訳すればするほど、どつぼにはまっていくような気がした。もうこれ以上は話さない方がいい。舌を噛み切ってしまいたい。


「わたしは笹村くんみたいに、本気じゃないよ……」


 奏斗と玲矢が沈黙していることに気づき、喋りすぎた、と思った。わたしは本気じゃないなんて二回も繰り返して、それこそ本気でやっている人に対して失礼じゃないか。きっと感じが悪いと思われただろう。


 ところが、奏斗の表情は先ほどと全く変わらず、光が灯ったように明るいままだった。


「なー、これ食ってもいい?」

「……は?」


 一周回って呆けた声が出る。奏斗は手に持った袋をぴらぴらと振った。


「まだいっぱいあるんだろ? 一個ぐらいだめ?」

「べ……別に、いいけど」


 ひまりが言い終わる前に、奏斗は「らっきぃ」と器用に袋を開け始めていた。フィナンシェの一つを取り出すと、ためらいなく齧りつく。最初の一口は目線を上の方にやってゆっくりと咀嚼していたが、残りはそのまま口に放り込んで、瞬く間にぱくぱくと食べ終えてしまった。


 これには玲矢も苦笑いをしている。


「奏斗、もう少し味わって食べなよ。作った人の前だぞ」

「躾がなってなくてすみませーん。ふーん、ふむふむ、抹茶味か」


 ぺろりと唇の端を舐めると、奏斗は八重歯を見せて笑った。


「うまいじゃん。もっと自信持てよ」

「……え」

「そんな暗い顔すんなって。好きなことなんだろ? お菓子作り」


 肩を正面からポンポンと叩かれる。慰められているのか、それとも励まされているのか。


「好きって大事だと思うぞ。一番大事だ。好きなことなら永遠にやっててもいいもんな、うん」


 奏斗はそう言って、幸せそうに顔をほころばせた。


 釣られてひまりも少しだけ硬い表情を解く。すると、肩からも力が抜けたような気がした。


 好きなことなら、永遠にやっててもいい。奏斗の奥底から聞こえてくる飾り気のないその言葉は、ひまりの頑なな心を解きほぐしてするすると滑るように入ってきた。


 なんだか泣きそうだ。どうして自分は、笹村奏斗なんかに共感しているんだろう。いつもうるさくて、お調子者で、ひまりとは全く共通点のない人なのに。今日この日のこれ以上に奏斗と関わることなんて、きっともう二度とないのに。


 ひまりの前でフィナンシェを食べたのは、ただ好きなことに真摯に向き合う同級生だったのだ。奏斗を自分から切り離して「別の世界の住民」に分類することを、ひまりは一旦諦めるしかなかった。


「……笹村くんは、サッカーが本当に好きなんだね」

「おう!」


 間髪入れずに奏斗は溌剌とした声で答える。その即答がすべてだった。


 果てしなく遠く高い場所にいるだけで、奏斗は同じ世界に生きている人なのかもしれない。


 そんなこと、気づかなければよかった。悔しくなってしまうから。





 誰もいない火曜日の朝の校舎に、スニーキングミッション。と言えば格好がつくが、要は早朝に目が覚めたのでいつもより早く学校に着いてしまったというだけの話だ。人っ子一人いない、静謐な空気に包まれた昇降口を歩くと、ローファーの控えめな靴音が響いた。白く照らされた下駄箱には上靴だけが収められている。たくさんの生徒がやってくるピークの直前ぎりぎりくらいに登校し、誰よりも早く下校しているひまりにとっては、あまり見ることのない光景だった。


「あれ、柏葉さん」


 何もしていないのに、悪事の現場を取り押さえられたような気分になって、ひまりは自分の上靴を手に持ったままぎくりと振り向く。


「おはよう。いつもこんなに早いの?」


 網瀬玲矢が、乳白色の眩しい光の中に立っていた。ひまりは口角を歪めて笑顔を作る。


「お、おはよう。ううん、早く起きちゃった、だけです」

「そっかあ。俺、今日こそは一番だと思ったのになあ」


 靴を履きかえて下駄箱を覗いた玲矢は、あれ、と何かを見つけたように言った。


「奏斗の靴もあるね。なんだ、どのみち一番じゃなかったのか」


 ひまりは隣に人がいることを忘れて「ええっ」と声を上げた。よく見ると、「笹村」のネームプレートが貼られた靴箱に外靴が入っている。いつも朝の会が始まる寸前に教室に駆け込んでくる奏斗が、こんなに早く登校しているのは予想外だ。外靴がここにあるということは、サッカーの練習をしているわけでもないらしい。


 落胆が顔に出ていたのか、玲矢は気さくに笑った。


「そんなに不安そうにしなくても。昨日はごめんね」


「あっ、いや、」とひまりは落ち着きなく手を振る。


「えっと、笹村くんが、苦手とかではなくて……!」


 実は、早く来たついでに教室でやりたいことがあった。教室の後ろに飾ってある奏斗の作文を、こっそり自分で読んでみようと考えていたのだ。誰かに読んでいるところを見られるのはさすがに気が引けたが、教室にいるのが玲矢だけなら、頼めば秘密にしておいてくれるのではという淡い期待があった。だが、本人がいるとなると話は別だ。


 早起きのついで。ほんの気まぐれ。だから気にしていないと自分に言い聞かせながらも、通学路を歩きながらどきどきしていたのは本当だった。


「あのその……わたしの問題で……笹村くんに非はなく……」

「待って」


 しい、と玲矢は唇に人差し指を当てた。


「……この足音は、奏斗だな? 朝から何やってるんだろう、あいつ」


 玲矢に倣って耳を澄ませると、上の階からばたばたと階段を下る音が聞こえてきた。ひまりにはそれが奏斗のものであるかどうかまではわからなかったが、他に生徒がいる気配もない。


 南校舎から髪を乱して飛び出してきたのは、確かに奏斗だ。


 けれど、はっきりと何が、とは言えないが、どこか様子がおかしい。


「おはよう。今日は早いんだね」


 右手を上げて近寄った玲矢に、奏斗は目もくれなかった。


 外靴を履かずに下駄箱を通り抜ける刹那、横に退いたひまりを奏斗は一瞥した。


 奏斗の手に持っているものが、乳白色の視界の中で翻る。ひまりの見ている景色が、古い映画のワンシーンのようにぱらぱらとコマ送りになる。だから、「それ」が何なのか、ひまりにはわかってしまった。


 色鮮やかな「それ」は、午前七時の陽の光に照らし出されて、明確に異物としてひまりの目に映った。それぐらい、「それ」は異常なものだった。


「かなと? ……奏斗! 待てよ!」


 ひまりがはっと我に返ったとき、玲矢はもう一度スニーカーを履いて駆け出していた。


 白い無人の昇降口に一人残される。ひまりはローファーを履いたままの足に目を落とした。


 追いかけるべきなんだろうか。追いかけなくてもいいよね。だってもう網瀬が行ってくれたし、たぶん追いつくだろうし、見つけたら事情を聞いてくれるだろうし。何より――わたしは無関係だ。


 柏葉ひまりと笹村奏斗は無関係だった。四月から約半年間、一度だって喋ったことはなかった。ひまりは奏斗が大きな夢を抱いていることも知らなかった。二人の世界が交わることはなかったし、これからもないだろうと思っていた。


 ローファーから目を離すことができない。


 たった一回だ。たった一回話しかけられただけで、ひまりはゆっくりと一歩を踏み出し、そして走り始めていた。


「……ははっ」


 走りながら自嘲ぎみに笑う。我ながらばかみたいだ。


 奏斗がどこへ向かったのか、考える前にひまりは昇降口の裏側に回った。学校でひとりになりたいときに行ける場所は限られている。ならば、まずは中庭だ。


 果たして、生い茂る緑に囲まれた池の前に、奏斗はいた。


「笹村くん!」


 息せき切って名前を呼んだが、反応は返ってこない。


 万華鏡のようにくるくると表情を変えるいつもの奏斗はそこにはおらず、彼は一切の感情を失くした顔で校舎の方を見つめていた。手の中は空っぽだ。


 そばに駆け寄ってもう一度「笹村くん」と呼ぶと、奏斗は首を動かした。虚ろな瞳にじんわりと弱い光が戻った。


 小さな池の中に何かが浮かんでいる。


「これって、」


 声をかけようとしたら、奏斗の右手が上がった。


 ちょっとストップ、と蚊の鳴くような声で奏斗は言った。口を大きく膨らませて自分を落ち着けるようにふう、と息を吐く。頬を引っ張ったり、口の中でもごもごと舌を動かしたりした後、ひまりの顔を見た奏斗は何事もなかったかのようにへらへらと笑っていた。


「なんか、用?」


 池にはまるで見向きもしない。


 奏斗があんまり平然と態度を変えるので、尻込みして二の句が継げなくなる。ひまりは躊躇いがちに池の中を再び見た。


 水草に紛れてぷかぷか浮かんでいるのは、四枚の原稿用紙だ。


 そのうえ、全ての面は赤いクレヨンでぐちゃぐちゃと塗り潰されていた。水を弾くクレヨンは溶けだすこともなく、赤みは鮮烈さを増していくようであった。


「これ、笹村くんの、だよね?」


 確信は持てなかったが、おそらくそうなのだろう。奏斗は笑顔のまま答えない。


「だ、誰がこんなこと」


 最初に頭に浮かんだのは、妬み、という言葉だ。奏斗が代表に選ばれたことを妬んだ誰かがやったのだと。こんな手段で嫌がらせをするほどクラスメイトが幼稚だとは思いたくなかったが、つい先日もクラスで窃盗騒ぎがあったばかりだ。あり得ないとは言えない。


 ごくんと唾を飲み込んで、ひまりは早口で捲し立てた。


「みんなに訊いてみよう? 誰かっ、見てたかも。わ、わたしはあんま役に立たないかもしれないけど、あ、網瀬くんとかなら、見つけてくれるんじゃないかな」


 は、と奏斗は乾いた笑いを漏らした。さっきから瞳孔が開きっ放しになっている。


「オレのじゃない」

「は?」


 ひまりは思わず聞き返した。「な、なに?」


「オレのじゃない。オレのじゃない、これ」


 うわ言のように同じ言葉を重ねる奏斗に、よりいっそう当惑する。


「じゃあ、誰のなの?」

「……あー」


 奏斗は言いかけた言葉を喉の奥に押し戻すみたいに自分の口を塞ぎ、そのまま両手で顔を覆った。「ごめん」「待って」「違う」と短い単語を繰り返しながら顔にぎりぎりと指を食い込ませる奏斗の姿が、まるで崩れ落ちていく皮膚を無理矢理押さえつけて、なんとか形を保とうとしているようにひまりの目には映った。ズボンが汚れることも厭わずに膝を一つずつ折って、懺悔するかのような姿勢で奏斗は呟く。


「騙してるんだ、オレは」


 水が揺れるのに合わせて、池の中の原稿用紙がゆっくりと動く。


「本当のことなんて、一つも言っていない。全部、全部嘘で、自分のことさえ騙して、」

「え、えっと、つ……つまりどういうこと?」


 ピントの外れた応答が、かえって奏斗の背中を押したのだろうか。


 ひび割れた声が聞こえた。


「オレの、夢じゃない」


 この中庭だけ、時間が止まっていた。


 ますます顔に食い込む指は、皮を突き破って中身を引っ張り出そうとしているみたいだ。目の前にいるひまりに打ち明けるというよりも、ここではないどこかに向かって独り言を言うように、奏斗はぶつぶつと告白を始めた。


「本当は、したくない……。無理矢理させられてるだけだ。あいつが引退して、どいつもこいつもオレに期待をかけるようになって、あー、あのときも、お前はもっともっと練習して立派な選手になるんだぞとか言ってたなあ……。みんなは奏斗は上手いな、羨ましいなって、そればっかり言うけどさ……みんなの期待するオレはほんとうのオレじゃない。嘘だらけだ。オレは、騙してばっかりで、それで、全部あいつらのせいで、」


 ふいに言葉を切ったかと思えば、今度は「違う」と涙声になった。


「違う、違う! お父さんとお母さんは悪くない。オレが真面目に練習しないから殴るんだ。オレは、オレは……オレは笹村奏斗だ。サッカーが大好きで、試合が大好きで、スポーツマンにふさわしい性格で、明るくて前向きで調子に乗ってて先生の言うことは聞かなくて、そういう、そういうやつだ。ははは、そうだ、そうだったな!」


「……笹村、くん?」


 丸まった背中に伸ばしかけた手を、触れる直前で止める。一体奏斗はどうしてしまったんだろう。自分は何を見せられているのだろう。一つの身体の中に二つの人格が宿ったのかと錯覚するほど、奏斗の発言は支離滅裂だった。ただ――奏斗の本心がどこに表れているのかはひまりにもわかる。


 奏斗はまた悪態をつくような口調になった。


「やっと、あいつが死んで。解放されたと思ったのに。終わらない。全然終わらない。どんなにやっても終わらない!」

「あ、あいつってまさか、お父さんのこと?」


 ひまりの声が裏返ったことにも構わず、奏斗はどんどん声を張り上げていく。


「そうさ、やっと死んだんだ! あんな、自分の都合しか考えないクソ野郎が、ようやく地獄に落ちたんだよ! なのにどうして何も変わらない? どうしてオレの願いは叶わないんだ?」


 奏斗は唐突に顔からぱっと手を放して、ひまりのことを見た。不自然に晴れやかな笑顔の中に、充血した二つの目があった。笹村奏斗とは笑いたいときに笑い、怒りたいときに怒る、そういう男子だったはずなのに、今の奏斗は悲哀を脆い笑顔で隠そうとしているように見える。


 彼のような人間を、人は道化と呼ぶのだろうか。


「柏葉さんは、オレの夢、何だと思う?」

「そ、そんなの……わかんないよ」


 ひまりが俯いて正直に答えると、奏斗はぎくしゃくと顔を歪めた。


「みんなに言ったら、絶対笑われるから、黙ってたけど……最初は作文に、小説家になりたいって、書いてたんだ」

「小説家……」


 そう言われてみると確かに腑に落ちる。作文を褒められて喜んでいたのは、文章を評価されたことが純粋に嬉しかったのだろう。だが、続いた言葉にひまりは絶句した。


「でも、お母さんに見られて、ボールペンででっかくバツをつけられた。信じられるか? 酷いだろ?」

「そん、な」


 何と言っていいかわからなかった。自分の子どものことをそんな形で否定する親がいるなんて、ひまりには想像もつかない。奏斗がどれだけ自分の夢を否定され続けてきたのかをイメージしようとしても形にならず、砂塵になって散っていく。


 イメージできるわけがない。奏斗はひまりにとって、「成功者」そのものだったから。


「オレは、自分の夢を語ることも許されないんだってさ」


 諦めたような顔で、奏斗は淋しげに笑った。


 何かを――何かを言わなきゃ。ひまりは言葉を必死で探す。


「書かなくたって、いいじゃん」


 赤い目がひまりを見上げた。縋りつくような瞳に思わず「う……」と後ずさりして、それでもひまりは頭に浮かんだ言葉を勢いで言い切った。


「た、たかが作文だよ。書かなくたって、話さなくたって、笹村くんが夢見るのをやめなければ、いいだけでしょ。誰に否定されたって、可能性までなくなるわけじゃないし」

「……そうじゃないんだ、オレは 」


 奏斗は首を振って、足を引きずりながらのろのろと立ち上がる。


「オレは、もう嘘をつきたくない」


 血のように滴り落ちた言葉は切実だった。ひまりの励ましなんかが通じる段階は通り過ぎてしまったのだ。心の中を傷だらけにした奏斗は、とっくに崖っぷちに立っていた。


「オレはいつまで嘘をつけばいい? 中学を卒業したら? 高校を卒業したら? それとも、大人になるまで? オレは、もっと自分に正直に生きたい。誰も騙したくなんかない」


 奏斗は最後に言った。ねえ、オレうまく笑えてる?


 ひまりは、何も言葉を返すことができなかった。





 校舎の陰から中庭の様子を窺う人の影があった。二人の生徒の会話を聞き終わらない内に、踵を返して昇降口に戻っていく。たった今同級生の秘密を知ってしまったにも拘わらず、校内のアスファルトを踏む足取りは軽い。


 網瀬玲矢は再び靴を履き替えると、鼻歌を歌いながら階段を上った。白く照らされた四角い空間の真ん中を堂々と通り、小さな影で塗り潰す。


 一年C組は良い子ばかりの平和なクラスだ。すなわち人畜無害でつまらないという意味であり、ただでさえ面白くもない学校生活をさらに陳腐にする環境だった。元より学校に何も期待していない玲矢にとってはそれでも構わなかったが、楽しめるに越したことはない。


 どうもこのクラスには、巧妙に歪んだ自己を隠している生徒がいる。晒し者にされないように、後ろ指を指されないように、自分を糖衣で包んで洒落た仮面を被って。


 クラス委員の彼女も、サッカーの好きな彼も、虚ろな笑みを浮かべるあの子も、一見幸せそうなあの子も。みんな、欠け落ちた心を必死で繋ぎ合わせて普通の人間のふりをしている。


 たとえば奏斗。彼は馬鹿正直だと玲矢は思う。


 実を言うと、玲矢は最初から奏斗の懊悩を大方把握していた。夏休みに奏斗の家に遊びに行ったとき、奏斗がいない隙を見計らってゴミ箱に捨ててあった原稿用紙をこっそり広げて読んだのだ。作文ごときにそこまで思い悩む奏斗のことが、可笑しくもあり、哀れでもあった。学校に出す課題にまるっきり本当のことを書く生徒はいない。多かれ少なかれ皆虚構を書き連ねている。玲矢に至っては一から十まで嘘っぱちしか書いていない。


 奏斗が知ったらなんて言うだろうか。好奇心がほんの少し顔を覗かせたが、表に出ることはなかった。これだって暇潰しに過ぎない。至上のエンターテイメントは別にある。


「兄さんは、結局作文出さなかったんだっけ」


 声が、階段にこだまする。


「そりゃそうか。兄さんの未来は二つに一つだもんね。作文に書くことはないよな」


 人形の未来は、捨てられるか壊れるか。奏斗の夢とは違って驚くほどシンプルだ。


 玲矢の本当の願いだって、原稿用紙一枚目の半分も埋まらないぐらい単純明快。その願いは将来の夢とかいう曖昧で遠い未来の話ではなくて、いつでも玲矢の手の中にある。


「さて、俺はいつ叶えようかな」


 少年の笑い声と足音は、誰もいない静穏な朝の階段を赤く穢していった。

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