58話 斉唱:騎士になれない少女へ①
いつからか、父の熟睡のサインであるいびきが聞こえてくるまで一睡もできないようになった。静かな環境にいると逆に眠れないだなんて、我ながら最悪の条件付けだと思う。そのせいで、五月に行われた宿泊研修でも遼はなかなか寝付けなかった。
父の家よりも広い大部屋にC組の女子の半分が寝泊まりしていたが、周りのお利口な生徒たちのほとんどは消灯時間を少し過ぎた頃に眠ってしまった。四方八方からすうすうと安らかな寝息が一定間隔で聞こえてくる。こうなると余計に寝られない。
ごろんと寝返りを打ち、窓から差し込むわずかな星明りを頼りに時計を読む。丁度日付が変わりかけていた。深々と溜息をつくと、呼応するように隣の布団の塊が動く。
「眠れないのね」
一瞬、驚きで声が出なかった。頭まで被った掛け布団から顔を覗かせて、智春がこちらを見ていたのだ。自分から家に泊まりに来るように誘っておきながら夜十時にはふわふわとあくびをして目をこすり始めるド健全体質のくせに、智春はまだ起きていた。「遼、枕が変わると眠れないタイプだよね」と言って、幼馴染みはくすくすと笑った。
「何であんたまで起きてるのよ。私はいいから早く寝なさい」
「だって、気になるんだもの」
智春は闇の中で微笑むと、遼の耳元に口を寄せて囁いた。
「ねえ、子守唄、歌ってあげようか?」
「……はあ?」
冗談なのか本気なのか判断がつかなくて、なんともリアクションに困る。この状況で智春が慣れない冗談を言うとは思えない。さりとて本気だとすると、こいつは自分の口にした言葉の意味がわかっているのだろうか。智春が自信に満ちた声で「あたし、実は結構得意なんだ」と続けてきて、遼はようやく「いや、」と反応を返した。
「いや、いや、馬鹿でしょ。馬鹿なの? 周りが起きるでしょうが」
「起きないわよ、子守唄だし。冬斗や露花にも評判いいんだよ」
軽く咳払いをすると、智春は本当に小さくハミングをし始めた。もはや呆れて言葉もない。こういうときの智春は一度言い出したら聞かないので、遼は早々に止めるのを諦めた。幸いにも他の生徒はよく眠っていて、誰かが起き出してくる気配はない。
聞いたことのない穏やかな旋律だ。目を瞑って鼻歌を口ずさむ智春に合わせて、遼もゆっくりと瞼を閉じる。智春の歌声は柔らかい毛布のようで、全身を包み込んでいく。まるで、遼の剥き出しの心を優しく覆い隠すかのように。
「ほんと、ばかなんだから」
私にまともな母親がいたらこんな感じなのかもしれない――なんて益体もないことを考えているうちに、遼の意識は途切れていた。
*
私は先に行ってる。智春の顔を見ずにそう言い捨てて、遼は音楽準備室を後にした。
担任の日野稜子先生には「椎本さんの遅刻は珍しいですね」と微笑まれた。特に遼を怪しんでいる様子はない。遅刻の理由も訊かれなかった。遼に限らず、誰に対してもこんな調子だから生徒に舐められるのだと思う。
午後の授業には一応出たが、どうやってやり過ごしたのかはあまり覚えていない。明日の文化祭についての連絡事項はほとんど頭に入らなかった。帰りの会が終わると、遼は部活にも顔を出さないまま真っ直ぐ帰路についた。
安アパートの三○五号室。六畳半のワンルーム。食事も睡眠も排泄も入浴も同居者に筒抜けで、遼のプライバシーなど微塵も存在しないこの家からは、できることなら一秒でも長く離れていたい。いつも完全下校時刻ぎりぎりまで陸上部で居残り練習をしているのはそのためだ。だが、今日はすべての体育会系の部活が学校から活動休止を命じられている。文化祭前日の浮かれた校舎に遼の居場所はないらしい。
結局、帰る場所はここにしかないのだ。
逡巡の末に玄関のドアを開けると、既に部屋の空気が酒臭かった。部屋の隅に置かれたテレビからは夕方のワイドショーが流れていて、父はこちらに背を向けて床に寝そべっている。遼は玄関に座り込んで靴紐を解こうとしたが、指先が小刻みに震えてうまくいかない。もっと靴に顔を近づけようと前屈みになったとき、真後ろから「はるかぁ」と気怠げな声がした。全身から血の気が引いていく。
咄嗟に振り返ろうとして、ブレザーの襟とシャツの隙間にぬるりと手を差し込まれる。留め金を外されたリボンが床に落ちていった。父は遼の胸を乱暴に揉みしだきながら「お前さあ、成長期のくせして乳萎んだよなあ」と不平をこぼしている。ったく、俺の許可なく陸上なんか始めるからだよ。使えねえ奴だな。
そのまま玄関に突き飛ばされそうになって、遼は思わず父の肩を掴んだ。小さな反抗も意に介さずそのまま押し切ろうとする父に向かって、「待って、話を聞いて!」と大声を上げる。遼の様子が普段と違うことに気づいたのか、父は眉を釣り上げた。
「なんだお前、また殴られたいのか?」
「ちがっ、違う、から……あの、」
駄目だ、舌が自由に回らない。声が上ずってしまう。自分の口で毅然と伝えると決めて帰ってきたはずなのに、遼は父を前にして早くも萎縮し始めていた。勢いをつけるためにハーッと鋭く息を吐いて、なんとか「に、にんしん」とだけ言う。まるで捕食者を前にした子ヤギのように弱々しい声しか出せなかった。
「妊娠、したかもしれなく、て……だから、もう、やめっ……」
瞬間、顔の真横から一直線に衝撃があって、遼は体ごと吹き飛んだ。
「ガキが一丁前に大人に逆らうつもりか! ええ⁉」
床に突っ伏して動けないでいると、胸ぐらを掴んで引っ張り起こされる。同じ箇所を集中的に張り飛ばされながら、遼は使いどころを失った手で半端に顔を庇った。
「やめ……て、お願い、殴らないで……」
「はあ? それが人に物を頼む態度か。親に『お願い』する態度か! ちょっとはどうすればいいか自分で考えろよ!」
父の一方的な怒鳴り声が、耳の中でわんわんと反響している。真っ白になった頭ではもう何の策を練ることもできず、遼は恐々と床に両手をついて服従の姿勢を取った。父は立ち上がると、遼の後頭部を踵でぐりぐりと押さえつけてきた。汚れた床に切れた唇が密着する。床板がギシギシと軋む音と饐えた匂いに、遼は吐き気を催した。
羞恥も屈辱も憎悪も、恐怖の前ではあまりに無力だった。遼が頭で何を思いついたところで、末端神経の一つ一つが初めからこの男に敗北しているのだ。
「できるじゃねえか。ガキの分際で大人に頼み事をするなら、いつもみたいに千回謝れ」
「……ごめんなさい」
「お父さん、ごめんなさいだろ」
全身の細胞という細胞が抵抗の意思を示したが、遼の口からは自然と言葉が滑り出していた。
「お父さん、ごめんなさい、お父さん、ごめんなさい、お父さん、ごめんなさい、お父さん、ごめんなさい、お父さん、ごめんなさい、お父さん、ごめんなさい……」
段々と、自分が何を言っているのかわからなくなってくる。
どうしてこんな奴に謝っているんだろう。私何か悪いことしたっけ。ああそうか、智春を騙していたんだった。何年も必要とされていない騎士を演じ続けてきたから――
わからない。考えるな。考えるな。言葉なんて意味のない文字の羅列だ。好きなだけくれてやればいい。心を殺して、頭を空っぽにして、機械的に繰り返せ。
父は頭上でゲラゲラと笑っている。遼に土下座で謝罪させていることが楽しくて仕方がないのだろう。父に対して「やめて」なんて言おうものなら、こうなることは目に見えていた。父はいつだって遼の嫌がることばかりを積極的に選んで実行してきたから。
「ほらほら、もっと誠意を見せろ!」
突然顎を蹴り上げられて、遼は思い切り舌を噛んだ。仰向けに倒されたかと思えば、制服のスカートをたくし上げられる。遼は裏返った声で叫んだ。
「やめっ、や、嫌、やああっ、いやあっ!」
「ピーピーピーピーうるっせえなあ!」
父は遼の口元を鷲掴みにすると、酒臭い顔を近づけてくる。
「はるかあ、てめえがどうして奴隷みたいに俺の言いなりになっているのか教えてやろうか」
遼はゆらゆらと揺れる視線を父の双眸に向けた。
「それはな、お前がただ弱いからだよ! お前は弱い。一生弱いまんまだ。俺が親でお前が子である限り、お前はずっと俺には勝てないんだよ!」
目の前で遼を殴りつけようとしている父を通過して、遼はその後ろを凝視していた。
玄関のドアが開いたところから、世界がスローモーションのように見え始める。父の拳がゆっくりと動く。部屋に飛び込んできた人影が、床に転がっている空のビール瓶を両手でしっかりと掴み、遼に夢中になっている父の脳天めがけて振り下ろす――
ゴッ、と何かが凹んだような鈍い音がした。
低く呻いた父が後頭部を押さえて振り返るより早く、次の殴打が来る。数秒の間に繰り広げられていく、遠慮も躊躇いも一切ない全力の攻撃。父はとうとう一言も意味のある単語を発さないまま遼に覆い被さるようにして倒れた。それでも攻撃の雨は止まない。
「遼に乱暴しないでっ‼」
倒れた父の向こう側に、遼の幼馴染みの――智春の姿があった。
「許さない! 許さない! 許さないんだから! 遼を傷つける人はっ、みんな許さない! なんでっ、そんなことするの、なんでそんなことができるの!」
人が変わったように父を殴る智春の目には、光がなかった。
真っ黒な眼差し。真っ黒な叫び。無垢な笑顔を遼に向けていた少女が、遼と同じ殺意を込めた目で、遼と同じ表情のない顔で、父を闇雲に殴っている。流れ出した鮮血が古い床板に広がって、父の体が完全に動かなくなっても、智春は狂ったように強打し続けた。
遼には何もできない。
「どうして、あたしから全部奪っていくのよ!」
智春はふらりとよろめきながら一旦腕を下ろすと、獣が敵を威嚇するかのように息を吐いた。手を開いてビール瓶を握り直し、再び父の頭に向かって振りかぶる。遼はそのときになってようやく上体を起こし、「ちはる、やめて」とか細い声を出すことに成功した。
「ちはる、おねがい、もうやめて、智春……私は、大丈夫だから」
「っ、遼⁉」
智春の虚ろな瞳が焦点を結んだ。くしゃりと歪んだ顔には返り血が跳ねている。ビール瓶を放り出すと、智春は膝を折って遼にしがみつき、悲痛な声を上げて泣き始めた。
「はるかぁ、無事でよかった、よかったよぅ……」
信じがたいが、遼の腕の中で小さな体を震わせているこの少女は本物の智春であるらしい。ぐちゃぐちゃに泣きながら取り乱しているものの、遼の身を案じる智春の声はいつもの調子に戻っていた。足元に転がる父の死体など目に入っていないかのようだ。
この子は、自分が何をしでかしたのかわかっているのだろうか。
忘れかけていた明佳の言葉が頭を過る。「取り返しがつかなくなっても、知らないよ」
ああ、考え得る限り最悪の事態が起こってしまった。
智春の涙を見て、遼の体の中で切れていたスイッチが押されるのを感じた。手足の隅々まで急速に活力が行き渡っていく。遼は智春の肩に手を置いて立ち上がった。今、私がすべきことは何だ。智春を守るために、智春の騎士であるために、私にできることを考えろ。
遼は死体を軽く蹴り飛ばした。智春の捨てたビール瓶を拾い上げて、父の頭に二、三回振り下ろす。手のひらに伝わる衝撃と、硬い手応えがあった。智春は床にへたり込んだまま泣き腫らした顔で目を白黒させている。
「あんたも見たよね。こいつ今動いてた。とどめを刺したのは私。だから、殺したのも私だ」
しゃがみこんで智春の肩を掴み、強く言い聞かせるように揺さぶる。
「あんたは何もしていない。何も関係ない」
いいね?
智春は遼に言われて初めて足元の塊が死体であることを認識したのか、「えっ」「なにこれ」「誰……?」と不安げに視線を泳がせた。遼の「嘘」に気づく余裕はないようだ。智春を強く抱き寄せて背中をさすりながら、遼は冷静になった頭で次にすべきことを考えていた。
そのとき玄関のドアがゆっくりと開いて、遼は緊張で息を呑んだ。そうだった。智春が部屋に入ってきたということは、鍵は開いたままだったのだ。もはや遼に死体をどうにかする術はなく、苦し紛れに智春を背中に隠して前に出るしかなかった。
「なかなか戻ってこないから、様子を見に来たけど――」
聞き覚えのある声だった。震える智春の手を握り、遼は新たな来訪者を見上げる。
何で、おまえがここにいる?
「おやおや、もしかしてお取り込み中だったかな?」
一年C組のもう一人のクラス委員。網瀬玲矢は床に転がる死体を見下ろすと、普段と変わらない穏やかな笑みを浮かべた。