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閉塞学級  作者: 成春リラ
8章 拝啓 騎士になれない少女へ
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57話 独唱:哀しみも涙も淋しさも②

 あれは今年の七月のことだったろうか。丁度吹奏楽コンクールの練習が佳境に差し掛かっていた時期だ。自室の机でその日配られたばかりだった夏休みの課題を進めていると、リビングの固定電話が鳴った。時計は二十二時を回っている。智春以外の家族は全員寝てしまっていて、自分もそろそろベッドに入るかという頃だったので、たちの悪いイタズラに違いないと智春は憤慨した。着信音に続いて「シイモトサン」という合成音が聞こえてくるまで。


「もしもし、遼?」


 慌てて受話器を取ったが、向こう側からは何も聞こえてこない。さっきの音は聞き間違いで、やっぱりイタズラ電話だったのかと思ったが、画面に表示されている番号は確かに椎本家のものだ。「遼、どうかしたの?」ともう一度問いかけると、耳元でかすかな吐息が聞こえた。


「ねえ、今から泊まりにいってもいいかな」


 いつもの乾いた声とは違う、無性に切羽詰まった響き。


「えっ……い、今?」


 思いもよらぬ申し出に一瞬戸惑ったが、「今日は、さすがに、ちょっと。明日も学校だし」と智春は躊躇いがちに答えた。遼の方は短く「だよね」と即答した。初めから期待していなかったのか、意外にも声音に落胆の色はない。再び電話の向こうが静かになる。


 智春が遼を家に誘うことはあっても、遼が自分から行きたいと言い出すことは稀だ。しかも、平日のこんな夜更けになんて。何かあったのかな、と智春は不安になった。急な相談事があるのなら話を聞くよと言いかけたとき、「智春」と名前を呼ばれた。


「智春、なんかしゃべって」

「……え?」

「声聞いてると、落ち着く」


 小さな女の子のような舌足らずな口調と、遼らしくもない弱気な発言に驚いて二の句が継げなくなる。もしかしたら、智春の想像以上にまずいことになっているのかもしれない。一旦受話器を持ち直し、深く息をついてから口を開こうとすると、


「あっ」


 悲鳴を喉の奥で飲み込んだみたいな声と共に電話が切れた。


 その後は何度かけ直してもツー、ツーという電子音が無情に流れるばかりで、智春はしばらくの間リビングで途方に暮れていた。遼は何を伝えようとしていたのだろう。まさか、危ない目に遭っている? でも、それなら智春の家ではなく警察に通報するはずだ。大したことでもないのに騒ぎにしたら、逆に怒られるかもしれない。家族の判断を仰げず迷っているうちに、智春はソファの背もたれに寄りかかって眠ってしまっていた。


 翌朝、幸いにも遼はいつも通りの時間に登校してきた。体調は今ひとつ優れないようだったが、それ以外におかしなところは見受けられない。遼に詰め寄って事情を聞き出そうとすると、目を逸らして適当にはぐらかされた。


 本当はあの夜に何があったのか、どうして智春の家に電話をかけてきたのか、智春は未だ訊けないままでいる。





 ねえ、あの人があんたのこと、鬱陶しいんだって。まったく懐かないし、可愛げないから。家にあんたがいるならあたしと結婚してあげないって言われちゃった。愛想良くしておけばいいのに、あんたほんとに生きるのが下手ね。父と暮らしていた頃と比べていっそう厚化粧になった顔を歪めて遼の母は笑った。


 好き勝手に恋人を取っ替え引っ替えしていた母も、離婚後しばらくすると一人の男だけを連れてくるようになった。この期に及んで母にまだ再婚願望があったことに心底呆れかえったのを覚えている。


 母の再婚相手は、暴力を振るってこないだけ父よりはマシだったものの、似たような品のない男だった。母は誰かに縋らずには生きていけないのだろう。もはや軽蔑を通り越して憐れですらある。だから、「親権をあいつに取られるのが癪だっただけで、あんたを愛しているわけじゃない」とはっきり告げられても、何の悲しみも感じなかった。


 邪魔なのよ、と母は言った。あんたを産んだことは誤算だった。失敗だった。あたしはあたしの人生を楽しむから、あんたはあんたで勝手にやりなさい。一人で生きていけるのならね。


 ああそうかよ。おまえみたいに媚び売って男に取り入るぐらいなら、捨てられたって構わない。捨ててもらえた方がむしろ好都合だ。私の知らないところでさっさとくたばりやがれ。カッとなって言い返したが、母は相変わらずへらへらと笑っていた。


 小四の一月のことだ。防寒具もなく粉雪がしんしんと降り積もる夜の中へ追い出されて、遼は唯一持たされた鞄を手に裸足で町を彷徨った。真っ先に歯の根が合わなくなり、手足から感覚がなくなっていく。昼間の給食から何も食べておらず、お腹がきゅるきゅると鳴っていた。早速母の言う通りになったのは腹立たしかったが、否が応でも宿を探さなければならない。いつかは一人で生きていくつもりだが、とりあえず今はまだ無理だった。


 そうすると、どうだろう。やはり父の家へ向かうしかないのだ。教えてやるから感謝しなさい、と母に伝えられた父の新居は少し離れた場所に存在した。元の自宅と何ら変わりない古びた安アパートの三○五号室。父は相変わらず定職に就いていなかったが、二年前に身内が死亡した際の保険金で生活しているらしい。


 悴む指先でインターホンを鳴らすと、無精ひげを生やした父が部屋の中から出てきた。三年ぶりに再会した父はほとんど出で立ちが変わっていなかったが、こちらの方は背が急激に伸びていたこともあり、父は遼が誰なのかすぐにはわからなかったようだ。やがて目の前の少女が娘だと認識すると、父は「お前、何しに来た」と訝しげに眉をひそめた。


「あいつに追い出されたから家に入れて。寒い」


 遼が冷たい唇で淡々と要求だけを口にすると、父は無言で遼を睨め付けた。頭から爪先まで、まるで値踏みするかのように。遼は胡乱げに父を見返した。父の視線の意味が変わったことに、このときはまだ気づいていなかった。


 父は下品な笑みを浮かべて、「それが人にものを頼む態度か」としゃがれた声で言った。


「子どもが親にお願いするっつうなら、筋を通さなきゃいけないんじゃねえのか?」


 どういうことなのかと尋ねる間もなく、遼は髪を鷲掴みにされていた。仰向けに倒れて床に後頭部を打ち付けると、視界に白い星が散った。投げ飛ばされたのだ、と気づいたのは覆い被さってきた父に腕を押さえ込まれたときだった。訳がわからず目を白黒させていると、ずっしりとした体重が遼の薄い腹に乗ってくる。身動きがとれない。


「お前、いくつだっけ?」


 咄嗟に答えられないでいると、父は遼に顔を近づけて大声で恫喝した。


「歳はいくつだって訊いてんだよ、ああ⁉」

「じ、じゅう。十歳」

「十ねえ。まあいいか」


 節くれ立った指が遼の腰に伸びるのを見て、全身の産毛が逆立つ。遼は反射的に叫び声を上げて脚をばたつかせたが、ますます胴を押さえ込まれるだけだった。ようやくこの異常事態に頭が追いついてきて、遼は必死で上体を起こそうとしながら父に食ってかかった。


「おまえ正気か⁉ やめろ、離せ! おい!」


 さすがのクソ親父も娘に手を出すとは思っていなかった。解放された片方の腕で父の肩を掴み、脂ぎった額に全力で頭突きすると、一瞬ひるんだ父の拘束が緩んだ。遼はすかさず汚れた床に這いつくばって父の下から逃れ、立ち上がって外を目指そうとした。だが、玄関のドアノブに手が届く前に今度は背中にのしかかられる。床板が小さく軋んだ。


「逃げてんじゃねえよ!」


 突然ゴッ、と鈍い音がして右耳の上辺りに衝撃が走った。意識が飛びそうなほどの激痛が脳天に突き刺さる。それはリアルな「死」の予感だった。父に殴られたことは幾度となくあったが、自分に迫り来る死を明確に意識したのはこのときが初めてだったのだ。


 死ぬ、殺される――そう思った途端、両手の指先から爪先に至るまで一気に力が抜けて、遼は再び押さえ込まれていた。ズボンを下着ごと脱がされてからの記憶は混乱していて、激痛の中一切抵抗できずに明け方まで犯されたことと、父の唾液が酒臭かったことしか覚えていない。


 死にたくない。ただそれだけだった。


 あの日に父娘(おやこ)の格付けが決まったのだ。いいや、本当はずっと前から定まっていたのだろう。


 初めて犯された次の日も、遼は父の家のシャワーを浴びて這うように小学校へ行った。幸いにも鞄の中には着替えが入っていた。体調は最悪だったが、一日中家にいたらそれこそ父に何をされるかわかったものではない。何よりその日は放課後に智春と遊ぶ約束をしていた。


 教室で自分の席に座って頭痛と下腹部の鈍痛に苦しんでいると、少し後に登校してきた智春が心配そうに声をかけてきた。異変に気づかれるかと思ったが、智春は「はるかちゃんはお腹が痛くて体調が悪いみたい」としか思わなかったようだ。


 抵抗したら駄目だ、と遼はそのとき考えた。抵抗すれば殴られる。怪我をしたら智春に怪しまれる。今度こそ、親に虐待されていることがバレてしまう。他の何を差し置いても、それだけは避けなければならない。もう昔のようにはいかないのだ。


 智春にだけはこんなにも痛くて汚い世界を絶対に見せないと、遼は固く決心した。


 父の家に留まっている限り陵辱を受け続けるのは明白だったが、母のもとへ逃げ帰るわけにはいかず、かと言って寒々しい夜の町を一人うろつくこともできない。ましてや智春の家に行くなど論外だ。下手に父から逃げたら報復される可能性だってある。結局のところ、他に居場所はなかった。父に逆らわなければ暴力を振るわれることも少ないし、生活費を渡してもらえる。遼がこの町で生きていく唯一の手段だった。


 平日も休日も昼夜も関係なく、父は遼を辱めた。飽きることなく何度でも、念入りに遼の心を打ち砕くかのように。父の家に越してきてから今まで、何も起こらなかった日の方が少ないほどだ。無理やり多量の酒を飲まされて前後不覚の中犯されたことも、父が家に呼んだ複数名の男に夜明けまで輪姦されたこともあった。小五のときに初潮が来てからは産婦人科で処方された避妊薬を飲んでやり過ごしていた。


 あんなに忌み嫌っていた母と自分は同じことをやっているのではないか、このまま一生父の慰み者であり続けなければならないのではないかと気づくまでにそう時間はかからなかった。気づいたって遼にはどうしようもないのに。


 学校ではいつだって生きた心地がしなかった。誰がどこで目を光らせているかわからないからだ。遼は仕草や体臭に痕跡が残らないように常に細心の注意を払った。中学校に進学すると制服を汚されることも増え、行為のたびに自分で洗濯していた。


 誰にもバレませんように。否、他の誰に気づかれようが誤解されようが一向に構わないけれど、智春には、あの子にだけは絶対にバレませんように。


 今ここで自分から死んでやろうかと思ったことは何度もある。これ以上「私」をグチャグチャに壊されるぐらいならいっそのこと死んだ方が幾分マシだろう。けれど、父に犯されながら舌を噛み切ろうとすると、智春の朗らかな笑顔が頭に浮かぶのだ。


 死んだらきっと全てが明るみに出る。智春にも知られてしまうかもしれない。


 嫌だ、私は生きていたい! いつまでも智春のそばにいたい。自分が弱くて惨めで矮小な存在だと知られたくない。智春の騎士のままでいたい――――


 智春を守るために生きているのだから、生きるために智春を守らなければならない。





 美術部と書道部の合作である文化祭の看板が、校門の前に立てられていた。看板は二学期に入ってすぐに作り始めたと聞いているので、明佳が担当した箇所もあるのかもしれないなんて考えつつ、小田巻智春は一人で朝の校門をくぐった。


 文化祭前日であった。午前中の授業はすべてカットされて、準備や掃除の時間に充てられる。三年生は学年の演し物の準備、二年生は体育館のセッティング。そして一年生に任されたのは校内の清掃だった。昼休み後は一年A組から順番に合唱のリハーサルがある。


「歌ってればいいだけかと思ってたけどさー、意外とめんどくさいね」


 洗面所で雑巾を絞りながら、同じ清掃班の(さえ)(ぐさ)(こと)()が退屈そうに言った。智春の所属する二班はC組の教室が担当であるのだが、普段の掃除より遥かに長い時間が割り当てられていることもあり、念入りに綺麗にしなければならなかった。


 廊下の様子を眺めていると、既に掃除が終わってしまって談笑に興じている生徒も多かった。教師は見つけるたびに注意しているものの、手が回っていないようだ。智春も他のクラスの生徒を注意するわけにはいかないので、黙って見ているしかない。


 C組の窓は開け放されており、廊下からも中を覗くことができた。智春は教室の黒板にちらりと目をやった。遅刻者の欄に「椎本」のネームプレートが貼ってある。


 昨日の放課後練習中、音楽準備室を飛び出した遼が戻ってくることはなかった。智春がトイレの個室から目を離している隙に、鞄も持たないまま家に帰ってしまったらしい。遼は小学生の頃からほとんど遅刻したことがなかったのに、午前の授業が終わる時間になっても彼女が登校してくる気配はなかった。


 智春は昼休みに最後の伴奏練習をする予定だった。校内がバタバタしている今ならピアノを使いたがる人も少ないだろうと踏んだのだ。実際、昼食の時間が終わっても北校舎に向かおうとする生徒はほぼいなかった。楽譜の入ったクリアファイルを小脇に抱えて、颯爽と渡り廊下を歩いていく。


 全校清掃が終わったばかりということもあってか、音楽室前の廊下はぴかぴかと輝いていた。窓から冷たい風が吹き込んでいたので、手を伸ばしてそっと閉める。人気のない廊下は穏やかで静謐な空気に包まれており、智春は思わず深呼吸をした。


 ――振り返ると、音楽準備室のピアノのそばに遼が立っていた。


「は、はるかっ?」


 深呼吸を見られたことにどきどきしながら、慌てて音楽準備室の中に駆け込む。遼は感情の読めない顔で智春の方をじっと見ていた。よかった、いつも通りの遼だ。だが、智春が近づくと遼は距離を取ろうとする。


「はる、か……」

「あんた、バカでしょ。こんな直前まで練習するつもり?」


 遼は右足に重心を乗せて口元だけで笑っていた。


「そ、そんなことより。遼、昨日は大丈夫だったの? 今日もこんなに遅刻してきて……ねえ、本当にもう平気?」


 いつもと同じように、「平気だよ」と返してくれると思っていた。ちょっと体調を崩しちゃったけど、もう大丈夫だって。そう言って智春を安心させようとしてくるはずだって。だけど、遼の返答は期待していたものと全く違った。


「うるさい。あんたは黙ってて」


 まるで智春を拒絶するかのように、遼は低い声で吐き捨てたのだ。


「黙ってて、って……」

「あんたは気にしなくていい。昨日のことは忘れて」


 智春がショックを受けたことに気づいたのか、遼の語気が若干優しくなる。でも、言わんとすることは変わっていない。智春はつかつかと遼に詰め寄った。遼が距離を取るよりも早く。


「ねえ、どうしてそんなこと言うの。友達なんだから心配するのは当たり前でしょ。せめてどこが悪いのかぐらい教えてよ」

「友達だからって、何もかも知ってなきゃいけないわけ?」

「何よ……遼だって、あたしが明佳のことで気が塞いでたとき、根掘り葉掘り聞き出そうとしてきたじゃない」


 予想だにしないところを突かれたらしく、遼は数秒怯んだような顔になったが、すぐに「あんたと私は違う」と言い返してきた。


「あんたは知る必要のないことなの。もうこの話終わりね」

「待って、勝手に終わらせようとしないで!」


 音楽準備室から出て行こうとする遼の肩を掴んで、強引にこちらを向かせた。いつも誰かに掴まれてばかりで、智春の方から人に掴みかかったのはこれが初めてのような気がする。智春は顔を背けようとする遼の双眸を真正面から見つめた。


「前から訊こうと思ってたけど、遼はあたしのこと、何だと思ってるのよ」

「うるさいって言ってんでしょ! 真面目ぶっちゃって馬鹿みたい。あー恥ずかしい」

「真面目で悪かったわね! 遼はそんなこと、とっくに知ってるくせに!」

「あんたは知らなくていいんだよ!」


 智春の肩を掴み返そうとして、遼はすんでの所で手を止めた。逆に、智春は自分の手にいっそう力を込めていく。遼を絶対にここから逃がさないように。


「さっきから知らなくていい知らなくていいって言うけど、遼のことなんて知り尽くしてるに決まってるでしょ! 今更何言ってるの?」

「ハッ、あんたが私の何を知ってるって言うのよ」


 鼻で笑われて、智春の心に針で刺したような穴が空く。


「ひどい……あたし以上に遼のことを知ってる人なんていないのに」

「ああそう。誤解が解けて良かったね」


 遼は冷ややかな目で背の低い智春を見下ろしてくる。何だか軽蔑されているようにも感じられて、さしもの智春も堪忍袋の緒が切れた。


「誤解なんかじゃない! あたしが! 今まで遼と一緒に過ごしてきた時間を! 嘘だったみたいに言わないでよ!」


 遼は虚を衝かれたように黙り込んだ。言い過ぎたと思ったのかもしれない。じわじわと目に浮かんでくる涙をぐっと堪えて、智春はもう一度遼を見据える。


「本当にどうしちゃったの。何か深刻な悩みがあるなら打ち明けて。あたしは絶対に誰にもしゃべらないから。あたしだって遼の力になりたい。遼の支えになりたい。そう考えることは、友達としておかしい?」


 下から覗き込むと、遼は真っ白な顔をしていた。今日は少し肌寒いぐらいなのに、額に汗の粒が滲んでいる。大きく息を吸って吐いた後、遼は消え入りそうな声でつぶやいた。


「あんたは、何も、知らないでいてよ」

「っ、また、そればっかり……!」

「智春は、痛いことも苦しいことも、知らなくていい」


 遼の声のトーンが変わった。突き放すような冷たさから、懇願するような切実さへ。智春もつい手を緩めて、遼の言葉に耳を傾けた。


「私は耐えられるけど、智春はきっとぼろぼろになってしまう」


 守らせて、と崩れそうな脆い声が聞こえた。


「お願いだから守らせて、守らせてよ。私に智春を守らせて。智春は、ただそこで笑って見ていればいいから……」

「まも、る?」


 遼の言葉の意味が、智春には理解できない。


「突然何てこと言い出すの? あたしは、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()


 あたしはそんなに弱くないよ。


 智春から逃れるように身を捩っていた遼が、智春の手の中でぴたりと動きを止めた。


 一切の音と熱量が、遼の中から途端に失われてしまったかのようだ。ベランダ側の窓から吹き込んでいた風も止んで、カーテンが静かに動かなくなる。少し遅れて、遼は肩を震わせ始めた。ただ笑っているのかと思っていた智春は驚愕に目を見開く。


「遼、泣いている、の……?」


 熱い水滴が、つうっと遼の頬を伝って智春の手の甲に落ちる。下を向いてくつくつと肩を揺らしていた遼は、顔を上げると「ははっ」と声を上げて快活に笑った。智春の知っている遼には似合わない、零れ落ちそうな満面の笑みだった。


「ほら、やっぱり何も知らないじゃない」





 お腹を抱えてひとしきり笑った。こんなに笑ったことはないというほどに。


 遼が一番聞きたくなかった言葉を平然と口にするなんて、やはり智春は何も知らないのだ。おかしくて嬉しくて、無性に涙が溢れて止まらなかった。ああくそ、誰かに泣かされるのはこれで二回目だ。あんたが一回目で、あんたが二回目だよ、智春。


「私に存在意義を与えて」


 遼は智春にしがみつくと、深く考えないままそんなことを口にしていた。涙が止めどなく床に落ちていく。足元に透明な水溜まりが生まれる。きれいに磨かれた智春の上靴を汚してしまわないように、遼は少しだけ顔を傾けた。


「あんたを守らなくていいのなら、私は何をすればいい。あんたが教えてよ、智春」


 即答しなければ取り返しのつかないことになるとでも思ったのだろうか。智春は一瞬今までに見たことのないような思案顔になって、至極真剣な声で答えた。


「明日の合唱コンクールで、指揮をしてよ。あたしのピアノと、みんなの歌を導いて」


 遼はますます笑った。馬鹿にされたと思ったのか、智春の顔が耳まで赤くなる。


「何よそれ、そんな話じゃない。あんたやっぱりクソ真面目でキモいよ」


 さんざっぱら罵った後、遼は小さな声でわかった、と言った。

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