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閉塞学級  作者: 成春リラ
8章 拝啓 騎士になれない少女へ
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56話 独唱:哀しみも涙も淋しさも①

 北校舎教室棟二階の端、二年D組の隣に紅黄中の図書室はある。昼休みは本を借りに来る生徒で溢れているものの、放課後になると昼間の賑わいも鳴りを潜める。とりわけ部活が行われている時間帯に誰かが入ってくることはほとんどない。本日貸し出しカウンターの当番に任じられている生徒も、数十分前に席を外したきり戻っていなかった。


 網瀬心良は壁際の本棚にもたれかかるようにして床に座り込んでいた。窓から差し込む橙色の夕日が、前に投げ出した二本の脚を煌々と照らしている。普段なら椅子に座りなさいと怒られているところだが、今日は司書教諭の姿も見えなかった。心良は自室にいるときと何ら変わりない体勢で空っぽの図書室を実質独り占めしていた。


 もちろん、玲矢にここで待つように言われたからだ。「わるいこと」が見つかった日以来、一人で家に帰らないよう玲矢に命令されることが増えている。心良がまた「わるいこと」をしないように見張っているのだろう。窓の外の校庭からかすかに聞こえてくる掛け声の中に玲矢の気配を探しながら、心良はぼんやりと虚空を見つめていた。


 ぶかぶかのズボンのポケットから零れ落ちたものが、カランと乾いた音を立てて床に転がる。心良はゆっくり視線を落とすと、慌ててそれを拾い上げた。まだ使われた形跡のない、新品の四色ボールペン。コンビニで盗ったものは全て自分から玲矢に差し出したはずだったが、スクールバッグの奥に一つだけ紛れ込んでしまっていたのだ。今になって追加で渡したらまた怒られるだろうかと思うと、なかなか言い出せなかった。


 心良は窓際に設置された背の低い本棚に眩しげに目をやった。同じ背表紙の本がずらりと並んでいた棚は、誰かが借りていったのかところどころ歯抜けになっている。学校の図書室には来ることが多いが、いつもこうしてぼうっと座っているだけで本を読んだことは一度もない。読んではならないと玲矢に言われているし、小学校で習うような漢字の読み書きも怪しい心良では、開いたとしてもろくに理解できないだろう。


 最後に本を読んだのはいつだったか。何年も前のような気もするし、つい最近のような気もする。そんなはずはないのだが、遠い過去のことが今起こっているように感じられたり、昨日のことが昔のことのように思い出されたりするのだ。真夜に渡り廊下へ連れ出されてから、心良の記憶の連続性はひどく曖昧になっていた。


 茜色に染まる本棚の前に、小さな女の子が立っている。読みたい本のタイトルを探すように人差し指を宙で彷徨わせる少女の後ろ姿を、心良は真っ白な心で眺めた。目当ての本を見つけたらしい彼女は、数冊の本を胸に抱きかかえて弾むように歩いてくると、静かに椅子を引いて座った。カチ、と時計の秒針が鳴った。


 同時に響き始めた下校を知らせるチャイムが、ハンドベルの澄み切った音が、夕焼け小焼けのサイレンが、幾重にも重なった不協和音となって心良の耳の奥でこだまする。どれがあの日の音だろう。どれが昨日の音だろう。


 おれが忘れてしまったのは、どの音なんだろう?


「……ときのながれ、に、うまれた、ものなら」


 気づくと心良は、かさついた唇を開いて喉を震わせていた。教室で毎日のように流れている、自由曲の一節。心良の頭の隅に引っかかって離れないフレーズ。玲矢はいつも駄目だと言うけれど、きっとチャイムが鳴っている今なら誰にも聞こえないだろうと思って。


「ひとりのこらず、しあわせに……」


 拙い歌は中途半端なところで途切れた。心良は口をぽかんと開けたまま硬直する。


 音もなく歩み寄ってくる赤い上靴に、長い長い影。夕焼けに照らされたプリーツスカートの裾が静かに揺れる。すいっと上へ視線を動かすと、こちらを真っ直ぐに見つめる切れ長の瞳と目が合った。一瞬、夢か現実かわからなくなる。


 つい先ほどまで誰もいなかったはずの空間に、鬼城真夜は忽然と現れていた。涼やかなハンドベルの音に耳を澄ませる女の子と、目の前に佇む冷ややかな空気をまとった少女の姿が重なり合っては離れていく。夕日を浴びて昼と夜の境目に立つ彼女は、まるで向こう側の世界からやってきたかのようだ。作り物じみた真夜の薄い唇がほんの少し開かれた。


「その歌、好き?」


 ぴく、と自分の指先が震えた。幻に話しかけられたことに驚いて。


 好きじゃないと答えたら、嫌いってことになるのかな。どっちでもないと言おうとして、玲矢に「真夜ちゃんと話しては駄目だ」と言われていたことを思い出す。だったら何も答えない方がいいのかもしれない。そもそも「真夜ちゃん」なんていないんだっけ――?


「『光の声が(そら)高く聞こえる』って聞いたら、心良くんはどんな空を思い浮かべるんだろう」


 真夜は心良の横に立つと、ふわりとしゃがんで顔を近づけてきた。腰まで届く長い髪が図書室の床に広がる。真夜からは苦くて甘い花のような香りがした。他の人からも、「母さんと父さん」からも、玲矢からもしない不思議な匂い。


「私にとって、きみは月なんだ」

「つ、き……?」


 反射的に漏らしてしまった声に、真夜はぱあっと顔を輝かせると「そう、そうだよ。心良くんは私のお月さま」とますます距離を縮めてきた。


 この冷たい顔をした少女は、どうしてこんなに嬉しそうに、華やかに笑うのだろう。どうして小さな女の子みたいに声を弾ませるのだろう。玲矢が嫌がることを、やめてほしいと言うことを、真夜は自分のことのように喜ぶのだ。


「心良くんは、なぜ歌わないの?」


 無邪気な質問をする真夜を、心良は無言で見つめ返した。


「合唱練習のとき、歌っていないでしょう。心良くんは歌うのが好きなのに、どうして?」


 真夜はすっと立ち上がると、棚に立ててある本の背表紙を指でなぞりながら歩き回り始めた。遠き日の思い出の欠片を、一つ一つ拾い集めるみたいに。優しく本を読み聞かせるような真夜の声音は、心良の末端神経に染み渡っていく。


「本を読むことも、好きだよね。広い図書館を駆け回って、大人に怒られていた」


 脳の奥がちくちくと刺激されて、意識がぼんやりとしてくる。自分の体の中を無遠慮に侵食されていくような感覚に、心良は思わず両の耳を押さえていた。


「燃えるような夕焼けも、きらめく星の瞬きも、窓を伝う一筋の雨も、心良くんはきらきらした目で見ていたよ。世界の全部を全身で受け止めて、心良くんは笑ってた」


 この子はもしかして本当に、おれの話をしているのか?


 ありもしないことを、身に覚えがないはずのことを、真夜は本当のことのように話している。知らない誰かの話を、心良が体験したことであるかのように突きつけてくる。真夜の声には嘘も謀りもないように聞こえるのだ。そんな事実はなかったのに。あの玲矢が自分に嘘をついているはずはないのに。


「世界は美しく色づいているんだって、私に教えてくれたのは心良くんだ」


 見知らぬ世界へ誘うように、指先まで美しい手が心良へと差し伸べられる。


「だけど、心良くんがそんなじゃ、きれいなものも見えないままだよ」


 日が陰り始めた放課後の図書室に、少女の幽霊は妖しく漂う。魔の時間は瞬く間に終わる。黄昏時はやがて夜になり、少女の輪郭を覆い隠していく。だが、真夜の冷ややかな声は心良の耳に心にくっきりと残っていた。


 もう一度私の夜を照らして、心良くん。





 はるかちゃん、お父さんとお母さんに殴られてるんだって。ねえお母さん、はるかちゃん、うちで一緒に住んじゃだめかなあ。


 ――なんて余計な告げ口をされたのが小学校一年生のときで、智春はもうそのときのことをほとんど覚えてはいないらしい。まだ「虐待」という言葉の意味も知らなかった幼い智春にとってより重要だったのは告げ口の後半の方だったようだが、報告を受けた智春の母親は当然そうは思わなかった。親子揃ってお節介焼きで責任感が強いのだ、傍迷惑なことに。


 智春の母親は入学したての小学校に大慌てで電話をかけた。うちの智春と同じクラスの椎本遼ちゃんのことなんですけど、どうやらご両親から虐待を受けているみたいなんです。学校側はこのことを認識していらっしゃるのでしょうか。多分、そんな感じの言い方で。智春の母親によると、電話口では「我々が児童相談所と警察に連絡します」と返されたそうだ。彼女は学校側の言葉を信じ、自分から公的機関への通告はしなかった。


 結論から言うと、それ以降遼が両親に殴られることは格段に少なくなった。


 と言っても、児相やら警察やらが動いたからだとは考えにくい。家に制服を着た大人が偶に訪れていた記憶はあるが、彼らにどこかへ連れて行かれたり、何かを訊かれたりしたことはなかった。殴られなくなったのはもっと直接的なことが発端だ。


 小一の夏、両親が離婚したのだ。原因は仕事を辞めたことによる父の酒癖の悪化だった。まあ、具体的な理由がなかったとしても、かねてより仲が良いとは言い難かった両親が決別するのは時間の問題だったような気がする。そもそも遼は、両親が共に生活していたのは自分が生まれたからだと思っていたので、椎本家が曲がりなりにも家族として市役所に登録されていたことに驚いた。目の前で離婚届に判子が捺されるのを、遼は何の感慨もなく眺めていた。


 日本では夫婦が離婚した場合、九割は母親が子の親権を得るそうだが、椎本家も例に漏れずそうなった。しかも、元々住んでいたアパートを追い出されたのは父親の方だった。母親が連れ込んだ男たちが金と暴力に物を言わせたのだ。恋人というわけでもない女のためによくやるものだと思う。母はそこまで魅力的だったのか、あるいは都合が良かったのか。


 遼を積極的に殴っていたのは父ばかりで、母からの暴力は連鎖的に発生するものだったので、両親の離婚によって殴られることはほぼなくなった。無数に作られていた打撲痕は次第に薄れ、半年もしないうちに跡形もなく消えた。智春が当初の目的も忘れて「やだ! はるかちゃんと一緒に住む!」と駄々を捏ねていた期間の方が長かったほどだ。


 智春はあの頃から変わっていないな、と思う。変わっていないと、言い聞かせている。


 ひどい眠気で朦朧とする意識の中、椎本遼は背中を丸めてげほげほと咳をした。隣に座っていた女性が嫌そうな目で見てくる。マスクをしてこなかったのは失敗だったが、手でしっかりと口を押さえているのだから睨み付けるのはご勘弁願いたい。


 紅黄市立病院の待合室では、順番待ちの患者が天井から吊り下げられたテレビを一様に見上げている。遼もその一人だった。別に面白い番組が流れているわけではないのだが、カウンターのそばに申し訳程度に置いてある雑誌は遼にとって興味のない女性誌ばかりだ。テレビを見るぐらいしかすることがない。あまり大きな音を出さないように控えめに咳をしていると、今日学校で智春に言われたことが頭をよぎった。


「文化祭まであと三日しかないのよ。喉は大切にしないと!」


 うるさいわね、あんたは私の母親なの。うっかり言い返してしまったが、実の母親は決して娘を心配するようなことは言わない。つい自嘲的に苦笑して、笑っている場合ではないと表情を引き締める。遼は口の中にイチゴ味の喉飴を放り込んだ。ともかく、合唱コンまでにはどうにかして治さないと――


「あれ、遼じゃない。久しぶり」


 智春の声と共に後ろから肩を叩かれて、心臓が縮み上がった。取り落とした財布のファスナーが、リノリウムの床で金属質な音を立てる。


「……なっ、んだ、あんた、か」

「なんだとは何よ、友達の親に向かって失礼ね。最近顔出さないから心配してたのよ」


 声が似てるから紛らわしいんだよと悪態をつきながら振り返って、遼は声の主を見上げた。智春の母親だ。秋物のコートに身を包んで、手提げ袋を大事そうに抱えている。出会ったばかりの頃と比べれば確かに老けたが、智春によく似た屈託のない笑顔は健在だった。小田巻家にはしばらく行っていないから、彼女に会うのは明佳の告別式以来だろうか。


 背中を嫌な汗が伝う。非常にまずいことになった。遼は椅子から立ち上がると、後ずさりでゆっくりと智春の母親から距離を取った。当然、本人は怪訝な顔をしている。


「ちょっとちょっと、いきなりどうしたの? 冷たくされると、おばさん泣いちゃうわよ」

「あんたは……どうして、ここに」

「どうしてって……ああ、えっとね。友達のお見舞いにきたのよ。ほら、これお土産」


 抱えていた袋をにこにこ笑って持ち上げる智春の母に、へえ、そうなの、となんとか言葉を返す。無理矢理に釣り上げた口の端が震えていた。冷や汗が止まらない。


「遼はどうしたの?」


 伸ばされた手を振り払って、遼は身を翻した。カウンターから顔を出した看護師が「椎本さん⁉」と取り乱しているのが見えたが、立ち止まるわけにはいかない。そのまま黙って立ち去ればよかったものを、不安から付け足すように叫んでしまう。


「私がここに来てたこと、智春には絶対に言わないで!」


 だめだ、こんなことを言ったら逆に怪しまれる! どう言い訳したらよかったのかわからないまま、遼はろくにさよならも言わずに走って病院を後にした。


 ここにはもう、来られない。





 合唱コンクールまで、残すところあと二日となった。今日は放課後の練習場所として音楽準備室を使わせてもらえる日だ。やはりCD音源に合わせた練習で本番と同じ状況を再現することには限界があるので、これは智春にとっても待ちに待った機会だった。長らく順番待ちをしていたが、ようやくC組の番が回ってきたのだ。


 智春の奏でるピアノの音に合わせて、軽やかな歌声が紡がれていく。隙を見て特訓を重ねたこともあり、演奏に詰まることも凡ミスをすることもかなり減ってきた。グランドピアノの厳かな音と、鍵盤の重たさが気持ち良い。最初に比べると随分上手くなったと、奥村先生からも褒められた。あとは本番に備えて最終調整をするだけだ。


 肝心の合唱の方も良い調子だった。練習中に倒れてしまった日以来、智春はクラスの合唱練習への口出しを控えるようになったが、最近になってようやく男子も声を出すようになってきたのだ。直前になってやる気が出てきたのか、焦り始めたのか。特に負けず嫌いの奏斗が余所のクラスの合唱を聴いて「オレたちも真面目にやんねえとなあ」と言い始めたのは大きかった。何事も遅いということはないだろう。


 ピアノを弾きながら、智春は指揮者の方にちらりと目をやった。背筋を伸ばした遼が淡々と指揮棒を振っている。何の変哲もない淡泊な指揮だが、テンポは正確。いかにも遼らしくて笑ってしまう。だけど、背の高い遼の指揮は後ろの列の生徒にもよく見えるだろう。勢いで指名してしまったが、意外と適任だったのではないかと智春は思っている。


 ふと遼の顔を見て、智春は違和感を覚えた。いつもより顔色が悪いような気がする。遼は基本的に仏頂面なのでわかりづらいが、なんだか顔が青白い、ような。ぱっと見渡す限りでは、智春の他に気づいている人はいなそうだった。


 戸惑いつつ最後の一小節を弾き終えて、課題曲の伴奏が終わる。普段と違う場所での放課後練習ということもあって張り詰めていたクラスメイトの空気が途端に緩んだ。あんなに練習を億劫がっていた男子も、互いに顔を見合わせて照れくさそうに「今、ちょっと一体感あったんじゃね?」なんて調子の良いことを言っている。


「やっぱ、もうちょっと真面目にやっときゃよかった……」


 アルトパートの女子のネガティブな呟きが、「確かに」「これやばいんじゃないの」「今からでも練習増やせないかな」と集団に伝播していく。一気に落ち込み始めたクラスメイトを、菜々海が「こら、そこ弱音吐かない!」と叱咤した。


「やれるだけはやったんだから、あとは本番を楽しむだけ。そうでしょ?」

「うん、渕上の言う通りだよ」


 女子のグループに顔を出し、横からしれっと口を挟んできたのは玲矢だ。


「一年C組で合唱コンに出られるのは最初で最後なんだからさ。楽しんでいこう」


 玲矢の一言で、暗くなりかけていたクラスの雰囲気が持ち直した。智春が言うと白けそうなことも、玲矢が言うと皆に受け入れられるのは今ひとつ釈然としない。さすがにこの場で野暮なことは言わないが。智春にだってそのくらいの自制心はある。


 和気藹々とした空気を破ったのは、焦ったような遼の声だった。


「終わり? 課題曲はこれで終わりだよね?」

「……遼?」


 最前列にいた真夜に指揮棒を手渡すと、遼は集団を押しのけて音楽準備室から出て行った。心なしか足取りが覚束ない。智春は気になってあとを追いかけた。背後から千紗の「自分の役割はおしまいってわけ?」という嫌みな声が聞こえてくる。


 そうだ、遼は週明けからずっと具合が良くなさそうだった。いつにも増して眠たげだったし、咳も酷かったのだ。まさかこのタイミングで風邪? もっと強めに、早く病院に行くように言うべきだったのだろうか。いいや、今更後悔しても仕方ない。


 逸る心の赴くままに、智春は遼を追いかけた。





 音楽準備室からなるべく離れたところを使おうという理性だけは残っていて、遼は結局二階の女子トイレに駆け込んだ。適当に選んだ個室の便器はあまり丁寧に掃除されていないのか、それなりのアンモニア臭がした。かえって好都合かもしれないと思いながら便座に顔を近づけると、すぐに苦いようで酸っぱい胃液がせり上がってくる感覚があった。便器の奥にぶちまけた吐瀉物の中に給食で食べた野菜炒めが混ざっているのがわかってさらに気持ち悪くなる。


 ここ数日、酷い吐き気と咳を抑えられなかった。今日だけで三回は吐いている。昼の牛乳が飲めなかったし、かろうじて口にした食事はたった今戻してしまった。智春に気づかれないように細心の注意を払ってトイレに行くタイミングを見計らっていたが、さすがにもう隠しきれない。智春はきっと自分を追いかけてここまで来るだろう。


 日中睡魔に襲われやすいのは以前からだったが、最近はいっそう眠気が強くなっていた。いくらなんでも、授業中に突然意識を失いかけるほど眠くなるのはおかしい。これはおそらく睡眠不足だけが原因ではないと思う。


 顔を上げると、遼は個室の隅に置いてある汚物入れを視界に捉えた。


 心臓がドクドクと激しく脈打つ。自分が息を吸う音さえも耳鳴りがするほどうるさい。体からがくんと力が抜ける。汚れるのも構わず膝をつくと、案の定スカートの裾が濡れていった。額から滲んだ汗がぽたぽたとトイレの汚れた床に落ちていく。


 夏休みの終わり頃――二ヶ月以上前を最後に、()()()()()()()()


「っあ、そんなはず、は……」


 そんなはずはない。そんなことはあり得ないのだ。


 だってちゃんと、()()()()()()()()()()()! 遼の覚えている限りでは一日たりとも欠かしたことなんてなかったし、きちんと病院で処方されたものを使っていた。薬さえ飲んでいればほとんど確実に防げるって、ネットには書いてあったはずだ。


 わからない。飲み忘れた日があったのかもしれないし、百パーセントは存在しないのかもしれない。頭の中がぐちゃぐちゃで、何が悪かったかなんて今は考えられなかった。


 膝をついた拍子に、スカートのポケットから智春に貰ったイルカのストラップが落ちる。恐々と手を伸ばして拾い上げようとしたそのとき、控えめなノックの音が聞こえてきた。


「遼、遼よね? どうしたの、大丈夫?」


 智春の声だ。遼はストラップに触れかけた手を握り込むと、下腹部を押さえ込むように縮こまった。返事をしないままでいると、ノックの間隔は次第に短く、音は大きくなっていく。個室の扉がぐらぐらと振動する音に不安と恐怖を煽られて、思わず耳を片手で塞いでしまう。


「ねえ、どうしたの? 動けないなら返事をして! 遼ってば!」


 智春に言えるわけがない。父親に孕まされたかもしれないなんて。


 遼の目にはトイレの個室が小さな監獄のように見えた。ドアを激しく揺さぶられるたびに、自分の中の凶暴な衝動に体を突き破られそうになる。扉ごと個室の外にいる智春まで力ずくで壊してしまいそうになるのだ。


 うるさい。うるさい! 今考えてるんだから、お願いだから黙ってよ!


 零れ落ちそうになる涙を必死で堪えて、遼は目の前の壁を睨み付けた。こんなことで泣いてたまるか。智春に泣かされたあの日、もう二度と自分のことで泣かないと決めたのだ。


 絶対に、智春に知られてはならない。この世界の醜悪なものは、哀しくて淋しい現実は、決して智春の視界に入ってはならない。あの子だけは一生、無知で無垢で盲目なまま、きれいなお花畑の中で暮らしていなければならない。


 私は智春の、騎士(ナイト)なんだから――


 扉の向こうにいるはずの智春の声が、スピーカーの音量を下げるみたいに段々と遠ざかっていく。個室の壁に顔を押しつけて、深く深く海の底に落ちていくような心地になりながら、ふと、これは罰なのかもしれないと遼は思った。汚く醜い自分が、智春だけではなく、自分のことさえも騙して高潔な騎士のふりをしたから天罰が下ったのだ。まったく世界は平等にできている。もう十分に思い知ったはずだったのに。


 ――それでも。それでも私は、智春の騎士であらねばならない。

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