55話 独唱:星明りに照らされ
人間は生まれながらにして快と不快の二つの感情を持っていると言う。ならばきっと私は人間ではなかった。なぜなら私にとって、目に映る全てが不快そのものだったからだ。
下品な罵声が、腐臭を放つ排水口が、ひび割れた壁を這う百足が嫌いだった。曇った窓から覗く虹が、暗い部屋の外から聞こえてくる笑い声が、液晶画面の中の華やかな物語が嫌いだった。明日にでもこの町に巨大な隕石が降ってきて、大嫌いな世界ごと吹き飛んでしまったらどんなに良いだろう。そう願わない日はなかった。
この掃き溜めのような醜い世界には、初めから「嫌い」しかない。
最初に嫌いになったものは同じ家に住む両親だった。戸籍上家族にあたる存在であるというだけで、彼らをお父さんお母さんと呼んだことは一度もない。子どもは本能的に親を愛しているのだとか、暴力を振るわれても人格を否定されても親の愛を求めずにはいられないのだとか、馬鹿馬鹿しい言説をしたり顔で流布するのはやめてほしいと思う。少なくとも私は親に愛されたいなどと思ったことは一度もないし、いつかはみっともなく親に縋らずとも生きていけるようになると信じていた。
父はおよそ社会的生物として最低の部類だった。短気で気性が荒く、自堕落で酒癖が悪く、自己中心的で支配欲が強い。昔は地元で日雇いの土木作業員をしていたが、仕事が上手くいかないと家で酔って暴れた。巨漢の父が苛立って地団駄を踏むと、安アパート全体が地震と錯覚するほど激しく揺れたものだ。
母は水商売崩れの阿婆擦れだ。常に臭い香水と煙草の匂いを漂わせていて、彼女も父に負けず劣らず最悪だった。貞操観念も倫理観もない母は父に何度殴られて死にかけても懲りずに男を連れ込み、真っ昼間から甲高い嬌声を上げていた。母のせいで家の中は常に体液の饐えた匂いが充満し、部屋にいるだけでも鼻がばかになりそうだった。
父も母も、母が連れてくる柄の悪い男たちも、私が逆らったり気に食わない行動を取ったりすると容赦なく二の腕に煙草の火を押しつけて、頭や下腹部を拳で殴りつけてきた。抵抗して暴れると生意気だと言われてさらに殴られるので、大人たちが機嫌を損ねたときは黙って嵐が過ぎるのを待つしかなかった。
それでも私は、心では彼らに屈していなかった。
私はただひたすらに彼らが「嫌い」だった。嫌悪という唯一にして純粋な感情は、敵に屈しないための有効な攻撃手段であり、地べたを這って泥水を啜ってでも生き抜いてやるという意志だ。だから私は彼らに抗うことができたのだ。
ああそうだ。世界に絶望して現実から逃避し、自ら命を絶とうとする連中のことが、私は、心の底から大嫌いだった。私は愚鈍な死にたがりのあいつらとは違う。自分が生きるためなら何だってやったし、他者を踏みにじることを躊躇わなかった。
物心ついた頃から深夜のスーパーやコンビニで万引きを繰り返し、腹の膨れそうな惣菜パンや袋菓子を大量に持ち帰っていた。空腹に堪えかねてファミレスに忍び込み、堂々と食い逃げをしたことも幾度となくある。逃げ足の速さはその頃に培われたものだろう。
両親は人間が社会生活を送る上で必要な知識を何一つ私に与えなかったので、当然のように体はひどく不清潔だった。ろくに洗っていない頭はいつもシラミが湧いていて痛痒く、自分でも顔をしかめるような悪臭がしていた。服は二着しか持っておらず、身長が伸びても同じものをずっと着続けていた。常にそんな調子で暮らしているものだから、ちょっとした擦り傷にもすぐに雑菌が入って傷口が化膿していた記憶がある。
初めて警察に捕まったのは五歳のときだ。路上に座り込んで盗ってきた弁当にがっついていると、通りがかった若い女に「野良犬みたい」と嘲笑された。箸やスプーンの使い方も知らなかった私は容器に口をつけて食べていたので、今思うとその比喩は非常に適切だったが、当時の私は馬鹿にされたとしか思わず、瞬く間に逆上した。女性に掴みかかって殴ろうとしたところを現場にいた男に取り押さえられ、問答無用で通報されたのだ。
そのときに知り合ったのが紅黄児童相談所の児童福祉司である網瀬瑛介だった。一時保護された私の担当者となった網瀬は柔らかな物腰と落ち着いた笑顔を崩さなかったが、他の子どもの腕に噛みついたり首を絞めたりする私に手を焼いていたのだろう。小さく舌打ちをしたり溜息をついている様子が度々見受けられた。私は例に漏れずこいつのことも嫌いだった。児相で暮らしていたときの思い出は特になく、網瀬の疲れた笑顔だけが印象に残っている。
椎本家の環境がそこまで悪質ではないと判断されたのか、逆に私の態度が悪質だったのか、その両方なのかは知らないが、一時保護はわりと早く終わった。何事もなかったかのように家に帰されてから現在に至るまで、児相には一度も足を運んでいない。「どこにも行く場所がないのなら」と、網瀬は最後にある施設を紹介してきた。
紅黄南児童館。私の家から徒歩二十分程度の位置にあった公共の児童厚生施設。
ほとんど網瀬に強制される形で嫌々ながら児童館に入った私は、遊戯室のカラフルなタイルカーペットに土足で上がろうとした。隣にいた網瀬が注意するより早く、部屋の隅からビュンとすっ飛んできた人影に腕を掴まれる。私は驚いて腕を凝視した。
「靴履いたまま上がっちゃだめだよ!」
小柄な少女だった。年の頃は私と同じくらい。でも、それ以外は何もかも私と違う。
彼女は石鹸の香りのする綺麗な黒髪を頭の横で二つに結わえて、可愛らしいさくらんぼの髪飾りを付けていた。シミ一つないピンク色のワンピースは見るからに一級品で、よく知らないブランド名が記されている。肌はプリンの表面みたいにすべすべしていた。
「ねえ、あなた」
少女の視線もこちらに向いていた。物珍しそうに頭のてっぺんから爪先までをまじまじと観察した後、少女は最後に私の顔を真っ直ぐ見てこう言った。
「どうしてそんなに、汚れているの?」
「…………は、」
数秒、反応が遅れた。言葉の表面だけを拾うと明らかに馬鹿にされているのに、少女の双眸はあまりにも無垢だったのだ。まるで嘲る意図はなく正直に本音を言ったかのような態度に、じわじわと怒りがこみ上げてきた。感情の温度が上がるのは少しずつでも、沸騰するのは一瞬だ。あ、殴ろう。
無言で拳を振り上げた私を、隣に立っていた網瀬は当然制止した。少女の頭上でぴたりと拳が止まる。だが、頭を殴らなかったのは網瀬に肩を掴まれたからではなく、私自身の意思だった。かすかな違和感が拭えない。――なんだ、こいつ?
少女は、微塵も目を瞑っていなかったのだ。頭を咄嗟に庇う素振りも見せなかった。何を言うでもなくきょとんとしている少女の眼差しは、私の理解の範疇を超えていた。まさかこいつ、人に殴られたことがないのか?
私は結局、その場では少女を殴れなかった。
例外なく少女のことも嫌いになったが、いつもと違う性質の嫌悪だった。喩えるならば、異界の生物に対する途方もない断絶感。理解のできないものを拒む心。
それが私と、小田巻智春の出逢いだった。
*
不思議なことに、拒絶心の中に不純物のように紛れ込んだ一パーセントの智春への興味は、幼い私を無性に突き動かしていた。私は毎日のように児童館へと通い、遊戯室で智春を待った。智春は偶にしか児童館に来なくて、それが尚更私を苛立たせた。今にして思えば当時の智春は保育園に通っていた。おそらく児童館に来るのは土日だけだったのだろう。幼稚園とも保育園とも縁のなかったあの頃の私にまともな曜日感覚などなかった。
智春は見るたびに違う格好をしていたが、身なりは常にきちんとしていた。児童館の開館時間になると母親らしき人に手を引かれてやって来て、夕方の五時を過ぎると同じように連れられて帰って行く。その母親も智春と同じ「きちんとした」人間だった。
昔から仕切りたがりだった智春は遊戯室にいる他の友達と遊んでも最終的に突き放されてしまい、一人で絵を描いたり本を読んだりしていることが多かった。最初は物陰から黙って智春を見つめているだけだったが、そのうち智春の方が私の視線に気づいて話しかけてくるようになった。智春は私のことを無邪気に「はるかちゃん」と呼んだ。当時の私を名前で呼んでいたのは、智春以外だと児相の網瀬ぐらいだ。
濁りのない軽やかな声で名前を呼ばれるたびに、私は全身を冷たい風に曝されたような気持ちになって、ひどく居心地が悪かった。智春と過ごす一分一秒がストレスになり、彼女に対する「嫌い」は加速度的に増幅していく。
ある秋の日の夕方、智春はにっこりと笑って「今日は、はるかちゃんも一緒に帰ろう!」と言ってきた。差し伸べられた手の指先が白くてぷにぷにしていたのを覚えている。
私はとうとう、智春を殴った。どうしてあのとき突然衝動に駆られたのかは定かではないが、溜め込んでいたストレスが限界を迎えたのだろう。あるいは、母親に連れ帰ってもらえる智春に対する腹立ちのようなものがあったのかもしれない。今考えると理不尽な話だと思う。相手に会うために児童館に来ていたのは私の方だというのに。
頭をぶたれた智春はしばらく呆けた顔をしていたが、やがて「いたい……」としくしく泣き始めた。自分で殴っておきながら、どうして智春が殴り返してこないのか心底不思議だった。私は泣いている智春を放置して一人で家まで帰った。智春には殴られなかったが、虫の居所が悪かった父親には殴られた。
あの子はもう、児童館には来ないかもしれない。だったら私が行く意味もないだろう。智春に対する若干の負い目もあって、それからしばらくは児童館に足を運ばなかった。家にいても暇だし、久々に行ってやるかという気になったのは二週間ぐらい経った後のことだ。
果たして、智春はいた。彼女は遊戯室の片隅で相変わらず絵本を読んでいた。智春は入り口で硬直している私を目ざとく見つけ、本を閉じて駆け寄ってくる。私は密かに拳を固めた。きっと報復されるのだろうと思ったから。
案の定、智春は握り込んだ手を突き出してきた。
「これ、あげる!」
予想だにしなかった言葉に私は混乱して、思わず智春を見つめ返した。智春のにこやかな表情に戦意や敵意は欠片もない。「手、出して!」と続けた智春に、私は恐る恐る手のひらを上にして差し出す。手の上にそっと置かれたのはイチゴ味の飴だった。目を細めた智春は「仲直り!」とだけ言い、それ以降この話題は口にしなかった。
智春の一連の行動や言葉の意味は、最後まで私には理解できなかった。
飴を渡して仲直り? そんな文化、私は知らない。そもそも私の方から一方的に殴っただけなのに、仲直りも何もないだろう。本当に馬鹿なんじゃないのか。
痛いときに痛いと言える智春の泣き顔が、私の心にちくりと棘を残した。
その日から私は事あるごとに故意に悪意を込めた言葉で智春を傷つけた。どこまで攻撃すれば智春が本気で怒るのか気になったのだ。感受性の強い智春は傷つける度に泣いたり落ち込んだりしたが、翌週になるとケロッとしてまた私に話しかけてくる。言われたことを忘れたのか、立ち直りが早いのか。どちらにせよ、やっぱり馬鹿だと思った。
一言も謝っていない私を笑顔で許し続ける智春に、私はますます苛立ちを募らせた。こいつは頭の中がお花畑なのか、それとも脳みそがふわふわのチーズスフレか何かでできているのか。どちらにせよこんなやつ、私が放っておいたら身ぐるみ剥がされて泣きを見るに違いない。
またある日のことだ。私は智春がいないときに、遊戯室のおもちゃ箱の中から古びた人形を見つけた。肌や服は私のようにぼろぼろなのに、瞳だけはぎらぎらと輝いている。普段は私たちを遠巻きにしている児童館の職員が、そのときだけは笑って話しかけてきた。
「それ、遼ちゃんが児童館に来るまで、智春ちゃんのお気に入りだったのよ。何でか今は遊ばなくなっちゃったんだけどね」
やっぱり人間の友達の方が欲しかったのかしら、と職員は言っていた。彼女のぼやきは今ひとつピンとこなくて、私を馬鹿にする意図も別段感じられなかったので、そのときは何とも思わなかった。言葉の意味を理解したのは数時間後のことだ。
「はるかちゃん、それどうしたの? 痛い?」
智春は読んでいた絵本を閉じると、赤く腫れた私の頬を指さして心配そうに尋ねてきた。智春が朝からこちらの顔にちらちらと視線を送っていた理由はこれか。言い出すタイミングを伺っていたのだろう。嘘をついても仕方ないので、私は正直に答える。
「親に殴られた」
「おや? お母さんとかお父さんのこと?」
私は頷かなかったが、智春は「そっかぁ」と一人で勝手に納得した。妙に感慨の込められた声に、ぞくぞくと不快感が背筋を駆け上る。それまで私の身を守ってきた第六感が警鐘を鳴らしていた。こいつ、何か余計なことを言おうとしているんじゃないだろうな?
私は、智春の清らかな目にはっきりと憐れみが滲んでいることに気づいた。
「やっぱり、はるかちゃんは『かわいそう』なんだね」
ひゅん、と空気がおかしなところを通って喉が鳴る。
「……おまえ、」
「保育園の先生が言ってたよ。かわいそうな子には優しくしなさいって」
ああ、なんだ。そういうことか。
腹の底に、すとんと垂直に落ちていくものがあった。どうしてこいつが私に興味を抱いたのか、何度傷つけられても話しかけてくるのか、私はようやく理解した。
智春は初めから、私のことを憐れんでいた。可哀想な子だと見下していたのだ。
私と智春は対等ではなかった。智春は私のことを、動く人形――いいや、言葉を解する犬として扱っていたのだろう。捨て犬だと思って接しているから、喜んで餌を与えた。噛みつかれても怒らなかった。わかってしまえば簡単なことだ。
「おまえ、最悪だな」
自嘲的に笑うと、智春はぽかんと口を空けた。本当に最悪だよ。これまでにも私を可哀想な子扱いする奴らはたくさんいたけれど、おまえがとびきり最悪だ。よりによっておまえのような奴に「かわいそう」だなんて言われたくなかった。人から殴られたことがなくて、ちゃんとした親がいて、いつも小綺麗にしていて、きっと安心して眠ることのできる家があるおまえに、憐れだ、不憫だと思われたくなかった。
精一杯睨み付けて、私は、私の行使できる最大の暴力を智春に振るった。
「おまえなんか、死んでしまえばいい!」
遊戯室に響き渡るほどの大声が出た。周りで遊んでいた別の子どもたちが、怯えた顔で一斉にこちらを向く。私はハアハアと激しく肩で息をしていた。声を上げただけなのに、どうして全力で走り終えた後のように呼吸が苦しいのだろう。
「はるか、ちゃん」
拍子抜けしたような智春の声。私はぎゅっと目を瞑った。どうだ、さすがのおまえも傷ついただろう。早く怒れ。早く憎め。その手で私を殴り返せよ。
早く早く、私と同じ場所まで下りてこい!
ふわり、と私の頭に何かが触れる。それは殴られたというにはあまりに穏やかな手つきで、全く痛くはなかった。私は閉じていた瞼をゆっくりと開けた。
「よしよし」
床に膝をついて少しだけ背伸びをした智春に、私は頭を撫でられていた。「いたいのいたいのー、とんでいけー」と、智春は間延びした声で唱えている。憐れまれることは多々あっても、慰められたのは初めてだ。私はもうわけがわからなくて、ほんの少しの間だけ智春に身を任せてしまったが、すぐにハッとして手を振り払った。
「なんだよ……おまえ、何がしたいんだよ! 何で怒らないんだよ!」
「だ、だって、はるかちゃん、いたいいたいって顔してるから」
突拍子もないことを言い出す智春に食ってかかろうとしたとき、つう、と頬を熱いものが伝った。すかさず小さな指が伸びてきて私の頬を拭う。智春はカーペットの上で座り直すと、私に向かって柔らかく微笑んだ。
「ほら、泣いてる」
自分の顔が耳まで熱くなるのがわかった。体いっぱいに膨らんで溢れ出した羞恥と嫌悪が、涙になってカーペットの上に水溜まりを作る。智春が目を丸くして見ているにも拘わらず、私は床に手をついてわんわん泣いていた。ああ、今日は最低なことばっかりだ。まさかこいつに泣いているところを見られるなんて思ってもみなかった。しかも、私を泣かせたのはこいつだ。
見るんじゃねえ、あっちへ行けと言いたいのに舌が回らず、何を勘違いしたのか智春は私が疲れて泣き止むまで懸命に私の頭を撫で続けていた。どうせ私に首輪をつけて手懐けるためにやっているに違いないのに、怒りはしゅわしゅわと音を立てて消えていく。
私はおまえに死ねって言ったのに、何でそんなに優しくするんだよ――。
*
お前なんか生まれてこなければよかったのに。そう最初に言ったのは母親だったか父親だったかは定かではないが、どちらにせよ両方から幾度となく言われたことがあるのは確かだ。どうして私が生まれたかって、愚かなおまえらが後先考えず猿みたいにサカったからに決まってるだろ。私に責任を押しつけるな。曲がりなりにも親であるおまえらにそう言われてしまったら、今ここに生きている私はどうすればいいんだよ。
たとえ生まれたことがすべて失敗だったのだとしても、私は生きていたい。自分にも他人にも生を否定されたくない。拳を振るわれる方がよっぽどましだ。
だから私は、すべてを嫌った。能動的に誰かを嫌悪している間は、腐った世界に絶望せずに済む。私が一人でも生きていくために「嫌い」は必要不可欠だった。
男が嫌い。女が嫌い。大人も子どもも赤ん坊も老人もみんなみんな大嫌い。
だけど、智春のことが世界でいちばん嫌いだ!
くりくりとした丸い瞳が、スカートの裾から覗く綺麗な脚が、肩の位置で短く切り揃えられたさらさらの髪が嫌いだった。笑うと頬にできるえくぼが、本を読むときに文字を指で追う癖が、他人が脱ぎ捨てた靴を静かに並べる仕草が嫌いだった。
智春は今までの嫌いな奴らとは違う。知れば知るほど嫌いになるのに、知れば知るほど智春を嫌う私は間違っているのではないかと思えてくる。神聖なものをこの手で穢しているような、罪深い気持ちを抱いてしまう。こんな感情は初めてだ。
人を嫌わなくても生きていける人がいるなんて、私は知りたくなかった。
おそらく智春は、本当に私の言葉の意味がわからなかったのだろう。一度も死ねと言われたことがないから、その言葉がどんなに悪意に満ち満ちているのかを知らなかった。恨みも嫉みも、殺したいほどの憎悪も知らずに生きてきたに違いない。正真正銘の幸せ者だ。
たとえ私が何もしなくとも、こんなぽやぽやした奴がこの世界に無防備のまま放り出されたらどうなるかは目に見えている。無菌室で育てられた生物を下水道に流すようなものだ。大嫌いなこいつが心臓までどろどろに爛れて壊れるところを見るのは、さぞや気持ちの良いことだろうと思った。もしもそうなったら、やっと私と同じところまで堕ちてきたなと指さして笑ってやるのだ。ははは、ざまあ見やがれ。
――でも、たった一つ誤算があった。智春に泣き顔を見られてしまったことだ。
私は幾度父親や母親に殴られても決して泣かないと決めていた。泣くのは弱者のすることであり、言いふらされでもしたら一巻の終わり。相手に付け入る隙を与えないためにも絶対に避けるべき行為だ。だから、智春に弱みを握られてしまった時点で私の負けだった。
あの日から私は智春の犬に成り下がった。きっと本人は知りもしないだろうけど、私が初めて服従した人間が智春だったのだ。こんなに屈辱的なことがあるだろうか。
智春の破滅を誰よりも願っているのに、私は智春を守らなければならなくなった。
*
社会に所属しているという自覚なく生きていた私にも、六歳の誕生日を迎えてしばらくすると小学校の入学通知書が届いた。同じ校区内に住んでいた私と智春は紅黄小学校に入学し、紛れもない同級生となった。児童館に通っていた頃とは違う。学校を休まない限り智春と毎日顔を合わせることになると思うと、胸がムカムカして気持ち悪かった。
さすがに家にいるよりはマシだったが、学校は学校で抑圧的な場所だった。表面上は皆おとなしくしているが、陰ではいじめや教師による児童へのセクハラ、教育的指導と称した体罰が横行していた。やはりこの世は腐っている。人の悪意や害意から自分の身を守るためには、手出しのできない人間だと相手に理解させる必要があった。
入学するまで知らなかったが、智春には同じ保育園出身の知り合いがたくさんいたらしい。明るく朗らかな性格故か、新しい友達を作るのも早かった。だが、それでも智春は休み時間になると真っ直ぐ私の方まで歩いてきて話しかけてくるのだ。それは何故か? 私のことを言いつけをよく聞く飼い犬だと思っているからに決まっている。
智春に笑顔で話しかけられるたびに、私は首に繋がれたリードを引かれているような心地がした。たった一回泣いただけで、私は智春に四六時中監視され、支配されるようになってしまった。なんて息苦しいのだろう。いつか私が力をつけて智春を支配し返せるようになったら、握った手を解いてこっぴどく裏切ってやろうと思った。
私がどんな気持ちで横にいるのか知りもしない智春は、ふつふつと煮えたぎる憎悪に気づく素振りも見せなかった。緩みきった笑顔で楽しそうに話す智春を見るたびに、こいつの脳天に突然鈍器を振りかざしたらどんな反応をするだろうと想像して、似たようなことは以前やったなと思い直した。やっぱりこいつ、放っておいたらすぐに死ぬんじゃないか。当時の智春には絶壁に向かってふらふらと歩いて行きそうな、そんな不安定さがあった。
危機感のない智春は無自覚にクラスの面倒な輩に喧嘩を売るので、私はその度に一つ一つ争いの芽を摘んでいった。荒廃した生活で鍛え上げられた体と当時から高かった身長が幸いしたのか、大抵の同級生は力で脅すと怯んで刃向かってこなくなった。見た目で舐められないようにと、毎日風呂に入って最低限の身だしなみも整えた。言葉遣いを矯正したのもその頃だ。別に智春のためじゃない。犬のくせにどうして助けなかったのかと詰られないためだ。
そういえば、あれは小学校三年生の冬だったろうか。凍えそうなほど寒い廊下の窓の外ではちらちらと雪が降っていて、私たちは年の瀬の大掃除をしていた。その最中、同じ班だった智春はほうきを持ったままくるりと振り向いてこんなことを言った。
「はるかちゃんは、絵本の中の騎士様みたいだよね」
「……騎士?」
耳馴染みのない言葉だった。騎士って、智春の好きなお伽噺に出てくる剣や盾を持ったアレのことか。漠然としたイメージしか頭になかった私は貶されているのか褒められているのかわからず、黙って眉をひそめた。智春は機嫌良くにっこりと笑って指折り数えている。
「かっこいいし、力持ちだし、背え高いし」
みんなはるかちゃんのこと、しゅうやくんよりかっこいいって言ってるよ、と智春はほんの少し誇らしげに微笑んだ。修哉とは当時クラスで女子の人気を最も集めていた男子のことだ。薄っぺらいことしか言わないそいつのことも私は例によって嫌いだったので、ますます不愉快な気持ちになる。どうでもいい他人と比べないでほしい。
智春の中の私は一体どんなお綺麗な姿をしているのだろう。清廉潔白で正々堂々とした王道を征く騎士と、姑息で粗暴な私はあまりにもかけ離れていて、そのときは思わず笑い転げてしまいそうだった。笑い事ではないと気づいたのはその日の放課後のことだ。
はるかちゃんのお家に行ってみたい、と智春が言い出したのだ。確かに私は既に智春の家に二、三度行ったことがあって、じゃあ逆もとなるのは時間の問題だったのだが、想定外の事態に私はパニックになった。智春が「あの」家に来たがるなんて考えられるはずもない。
絶対に嫌だった。床も壁も天井も住民も汚いゴミ屋敷を智春に見られたら、馬鹿にされるに決まっている。しかも、智春は私のことを騎士か何かだと思い込んでいるのだ。きっと失望するだろう――いや、そんなことはどうでもいい。ともかく、智春に自宅の場所を知られるのは非常にまずかった。
下校途中にあるいつもの分かれ道の手前で、じゃれつくようについてこようとする智春を私は眉を吊り上げて押しとどめた。智春におとなしく帰ってもらうことに必死で、なりふり構わず色々と乱暴なことを口走った覚えがある。
「いい? 私の家の場所を探したり、勝手に家までついてきたりしたら殺すから!」
だめだ、こんなのじゃ何の脅しにもならない。弱点を自ら曝け出しているようなものだ。もっと具体的に約束させなければ。あれやこれやと頭を絞る私に「ころす……?」と首を傾げた智春は、私の手を取ってにこにこと笑った。寒さで冷え切った剥き出しの手が、温かそうな手袋に覆われた手に包まれる。
「はるかちゃんの嫌なことはしないよ」
二の句が継げなかった。その場で固まっている私から軽快なステップと共に離れると、智春は大きく手を振って帰っていく。自分の意思が尊重されたのは初めてのことで、私はしばらくの間動けなかった。以来、智春が私の家に来たいと言い出したことは一度もない。
詮索しないことを条件に私に無理な要求をすることだってできたはずなのに、智春はその権利をあっさり投げ出した。自分にその権利があることにすら気づかなかったのかもしれない。私にはさっぱり理解できなかった。他人を出し抜くことをまるで考えていないだなんて。
思えば出会ってからこれまで、智春が私を脅したり自分の優位を示したりしたことはなかった。もしかしてこいつは最初から私の弱みを握っているつもりなどなくて、何の下心もなく私に笑いかけているだけなのではないか。本当にそんな人間がこの世に存在するのか。
だとしたら、私が必死で智春を守っている意味はどこにある?
*
奇しくも智春とは小学校卒業までずっと同じクラスだった。どうせこいつは付き合いの長いクラスメイトだから私に構っているだけであって、別のクラスになったら会いに来ることもないだろうと思っていたのに、ついぞ真実が明らかになることはなかった。
小四のときに智春は週三で通っていたピアノ教室を辞めた。中学受験のために塾に通い始めたことが理由だ。だが、智春は結局受験をしなかった。彼女は最初から中学受験に対して乗り気ではなく、教育熱心な母親と長いこと熾烈な争いを繰り広げていたのだが、ついには母親の方が折れて決着がついた。小五の秋のことだった。
校庭の端にある涼しい木陰で、母親を言い負かしてやったことを得意げに話しながら落ち葉をさくさくと踏み鳴らしている智春を、私はブランコに座って眺めていた。智春は突如私のところまでぴょんぴょんと駆け寄ってくると、大事なことを打ち明けるみたいに耳元で囁いた。耳朶をくすぐる温かい吐息に、体の芯が震える。
「あのね、お母さんには紅黄中の吹奏楽部に入りたいからだって言ったんだけど」
本当は、遼と同じ中学に通いたいからよ。
そのときにびりびりと背中に走った電流のようなものが仄暗い優越感だと自覚したのは、少し後になってからのことだ。
ああ、もしかしてこいつは私のことを「ともだち」だと思っているんじゃないだろうな。だとしたら本当に馬鹿だと思う。わざわざこの私に向かってそんなことを言ってくるのは智春ぐらいしかいない。
いつからかなんてもう思い出せない。気がついたら私は智春の操る友愛の鎖に雁字搦めになっていて、智春に与えられた居場所に座り込むようになっていた。悔しかった。居場所も安らぎも友達も、私には何一つ必要のないものだったのに。そんなものは無い方がきっと強くいられたのに。智春が考えなしに与えたせいで、私はそれらを手放せなくなってしまった。
智春が嫌いだ。今だって初めから一分の狂いもなく大嫌いなままだ。智春の隣にいると、矛盾で体をずたずたに引き裂かれるような心地がする。智春は目映い一等星の輝きで私の割れた爪の先まで照らし出しながら、私が必要だと、真っ直ぐ手を掴んで引っ張り上げてくるのだ。そんなのはもはや拷問だ。善性の暴力だ。
それならばもう、あの日の暴力的な無知さと善良さのままで、私の身体ごと焼き尽くしてよ。
今さら正気にならないで。この腐りきった世界の真ん中に立ちながら無垢な顔で私に微笑みかけるのなら、勝手に汚れたり濁ったりしないで。自分がどんな場所にいてどんなに愚かな振る舞いをしているのかなんて何にも気づかないでいて。知ってしまったら最後、あんたは無知なお姫様のままではいられなくなるでしょう。そんなのは私が許さないよ。
智春はただ、どぶの中で何も知らずに笑っていればいい。世界に蔓延る醜悪を、悲哀を、理不尽を、絶望を、私のことを、智春は決して理解してはならない。
騎士。騎士か。いいだろう、やってやろうじゃないの。智春が無邪気にそう望むのなら、私は智春だけの騎士になろう。智春を脅かすものは、智春を穢す存在は、すべて私が破壊しよう。私が盾となり目隠しとなって、智春が気づいてしまう前に全部壊そう。壊すことは得意だった。どうせ私にはそれしかできない。
嫌悪だけが他人と向き合う術だった私が、智春の善意に応えるにはこうするしかなかった。
*
大嫌いだ、あんたのことなんか。
だけど――だから、醜い私が嫌いなあんたは、きっと世界で一番尊い存在なんだろうな。
あんたの名前は小田巻だけど、私はあんたのこと、蓮の花みたいだと思っているよ。