54話 重唱:君だけの花④
木曜日の朝、智春は教室の床に膝をつき、奥村先生の許可を取って録音したC組の合唱の音源を聞いていた。隣では「自分の声は録音機器を通すと違う聞こえ方をするらしいよ」とアルトのパートリーダーを務める若槻那由が力説している。初めは半ば周りに流されてリーダーの仕事をしていた那由も、今ではすっかり乗り気だ。火曜日に智春が倒れたことが理由であるのなら、申し訳ないような。
一方で、智春は無性に焦っていた。あれほどオーバーワークはやめなさいって言ったのに、と母親にこっぴどく叱られた智春は、帰宅後の自主練習を禁じられてしまったのだ。これからは昼休みだけで伴奏練習をしなければならない。文化祭まで残り一週間となり、最近は音楽室のピアノを使いたがる人も増えてきた。――争奪戦だな。
頭上に影が落ちてくる。ふと背後を見上げて、智春はぎくりとした。登校してきたばかりなのか、スクールバッグを行儀悪く肩にかけた遼が立っていた。色々とトラブルがあったせいですっかり謝るタイミングを逃してしまい、遼とは火曜日からほとんど話していない。今日もどうやって話しかけたものかと悩んでいたところだった。
「あんた、次の日曜は部活ないって言ってたよね」
智春がおはようと言う暇もなく、遼は不機嫌そうな顔でいきなりそう切り出した。いや、遼が不機嫌そうなのはいつものことではあるのだが。「ない、」けど、ピアノの練習をしなくちゃ、と言いかけた智春の目の前にぺらりとした紙が真っ直ぐ差し出される。有無を言わさぬ態度に気圧されて、思わず素直に受け取ってしまった。
遼が渡してきたのは、紅黄市の外れにある比較的小さな水族館の入場券だった。プールで飛沫を上げて跳ねるバンドウイルカの写真が躍動感たっぷりに印刷されている。白い裏面までしっかりと眺めてから、智春はようやく顔を上げた。
「あの、これ」
「行くから」
堂々とした断定口調で一方的に言い捨てて、遼はスタスタと自分の席に戻っていった。先日の騒動などまるでなかったかのような素振りだ。その後ろ姿は満足げですらある。
今ひとつ釈然としないまま、智春は手渡されたチケットを見つめた。二人で喧嘩した後はいつもこうだ。智春がまだ怒っていても遼は平然と接してくるので、そのうち自分だけが腹を立てているのが馬鹿らしくなってなあなあになってしまう。
「もう……」
せめて声だけで憤慨してみせると、詳しい事情を知らないはずの那由と菜々海も顔を見合わせて苦笑いをした。
*
久しぶりに二人で出かけるというのに、遼は一見いつもと変わらない服装で現れた。男物の黒いニットにブラックデニム。無地の黒いキャップまで深々と被っているのだから、本当に全身真っ黒だ。でも、横に並んだときにちらっと覗き込むと、帽子で隠れるぎりぎりの位置に智春とお揃いのヘアピンを付けてきていた。指摘したらきっと外してしまうので、気づかないふりをしておく。
小田巻家の最寄りのバス停から三十分。市内の数少ないレジャー施設である「紅黄アクアランド」は、日曜日の昼時ということもあって家族連れで賑わっていた。入場ゲートの前で楽しそうに走り回る子どもたちを見ていると、来てしまってよかったのだろうかという気持ちが頭をもたげる。文化祭は今週の金曜日なのに。だけど、ここまで来ておいてそれを口にするのは野暮だろう。誘ってくれた遼が隣にいるのだ。
というのも、遼が自分から「ここに行く」と言うのはかなり珍しいことだった。いつもは智春が遼を連れ出す側なので、もしかすると遊びに誘われたことも初めてかもしれない。毎日の練習で疲れている智春を見かねて、気を遣ってくれたのだろうか。そうだとしたら、やっぱりとても珍しいことだ。
無料券を持っていたので、混んでいる中でも入り口はスムーズに通過できた。遼によると、スーパーのくじ引きで当たったペアチケットであるらしい。周りの様子をちらちらと気にしつつ、智春はつい不安を零した。
「お母さんと一緒じゃなくて、よかったかなあ」
「たかが水族館に……私たちだけで出かけるなんて、いつもやってることでしょうが」
遼は欠伸交じりにそう言うが、近所のショッピングモールに行くのと水族館に行くのは違う。バスに乗って出かけなければならない分、小旅行という趣がある。ちょっとした冒険と言ってもいい。建物の出入り口の前で逡巡していると、遼は迷いもせず一人で入っていく。智春も慌てて追いかけた。
入り口でもらった館内地図を広げて、順路を確認する。紅黄アクアランドはそこまで大きな水族館ではなく、展示をゆっくり見て回ったとしても二時間程度で見終えられる。十四時からイルカとアシカのショーがあるので、それまでは館内を歩いていこう。左手首の腕時計を確認してから、智春は遼とメインエリアに足を踏み入れた。
暗い空間に整然と並んだアクリル板の水槽は、青く幻想的に照らし出されている。芋の子を洗うよう、とまではいかずともそれなりに混み合っていて、空いているところを探すのも難しそうだった。仕方がないので、ひとまず一番手前の水槽に近寄る。丁度水槽の前から若い夫婦が離れていったので、入れ替わりで場所を譲ってもらった。
「わあ……!」
ライトアップされた水槽の中は珊瑚礁が再現されており、種々様々の色鮮やかな魚が泳ぎ回っている。魚たちは規則的に動いているようにも自由に回遊しているようにも思われて、智春はかじりつくように見入った。せっかくだからと、持ってきたショルダーバッグからスマホを出し、加工アプリを起動する。一緒に写真撮ろうよと言いかけて、隣に遼がいないことに気づいた。振り返ると、遼は微妙に離れた位置からこちらを眺めている。
「どうしてそんなところにいるの?」
智春が少し声を張って言うと、遼は顔を隠すみたいにキャップのつばを下ろし、何かをぼそぼそと答えた。
「もう、聞こえない!」
場所を取られないように牽制しつつ水槽を離れ、智春は遼の右手を取って引き寄せた。
「ほら、綺麗だから、ね? 一緒に近くで見ようよ」
遼が昔から人混みを嫌っていることはわかっている。色とりどりの魚にだって興味はないだろう。それでも今日は、遼の方から遊びに誘ってくれたのだ。出不精でちょっとのお出かけにも不平を言うあの遼が、だ。ならば最後までこちらに付き合ってもらうしかあるまい。離れていたわりに、遼は特に抵抗もなく智春に手を引かれてついてきた。
「あんたさ、こういうの楽しい?」
唐突な問いかけに、智春は深く考えることなくにっこりと笑って返す。
「うん? 楽しいよ!」
「そう」
ならいいよ、と遼は続けた。その発言の真意はよくわからなかった。
メインエリアを移動する途中にはチューブ型のトンネル水槽があって、足元から頭上までぐるりと百八十度をサメやエイが泳いでいた。マリンブルーの光が水に溶けるようにゆらゆらと揺らめき、神秘的な世界を演出している。まるで海の中を歩いているみたいだ。ブーツの踵を鳴らしてトンネルの中を駆けながら、「ねえ遼、覚えてる?」と後ろで手を組む。
「この水族館、一緒に来るの二回目だよね。あのときはお母さんと冬斗もいたけど」
「さあ、覚えてない」
遼は手すりにもたれかかり、体を反らして頭の上の水槽を見つめながら言う。すげない態度の遼に少しだけ意地悪をしたい気持ちになって、智春は鎌をかけてみた。
「ほんとに忘れちゃったの? 冬斗とか、ここを走り回ってはしゃいでたじゃない」
「はあ? バカ、冬斗はその頃ベビーカーに……」
引っかけられたことに気づいたのか、遼は途中で言葉を切った。
「今のなし」
まだ来たばかりだというのに、遼は早足で智春の隣をすり抜けてトンネルから出て行こうとする。ぱたぱたと追いかけて背伸びをすると、遼の耳がほんのりと赤くなっているのがわかった。ついにやにやしてしまう。
「ほらあ、やっぱり覚えてる! あたしの勝ち!」
「うるさい。智春のくせに生意気だ。ノーカンよノーカン」
まとわりつく小バエを払うかのようにしっしっと手で払われて、智春は負けじと遼の背中に抱きついた。ぴたりと足を止めて硬直し、鬱陶しそうに振り向いた遼が何かを口にする前に「あのさ、」と追撃する。
「この前あたしが倒れたとき、柳井さんに言い返したり、あたしを保健室まで運んでいったりしてくれたのは、たぶん遼、だよね……?」
「……さあ」
答えるまでに、いつもより少し間があった。
「覚えてない」
*
ショーの会場に辿り着いたのは開始時間を少し過ぎた頃だった。遼の手を引いて会場に滑り込むと、「あんた、一ヶ所に長々留まりすぎ」と文句を言われた。ぐうの音も出ない。水族館でも博物館でも、展示物の説明文を隅々まで読んでしまうのは智春の性分だ。
一日に二回しか行われないイベントということもあってか、会場の座席は八割ほど埋まっていた。ステージには既に水族館のスタッフと二匹のアシカが登壇しており、赤いボールを鼻先で操る芸を繰り広げている。空いている席に適当に座ろうとして、「あ!」と智春はもう一度立ち上がった。
「遼、水がかかる位置に行かない?」
イルカのショーでは水が跳ねることがあると、パンフレットに注意書きがあった。座席がオレンジ色に塗られている前から三番目までの列が危険ゾーンとのことだ。既に席に腰を下ろしていた遼はいっそう面倒くさそうな顔になった。だが、智春が一人で階段を下りていくとぶつぶつ不満を漏らしながらもついてくる。
「あんた、小学生なの? 周り見なよ。ガキしかいないよ」
「うっ……い、いいでしょ、偶には」
確かに好き好んで水がかかるエリアに座っているのは、小学生以下の幼い子どもとその親だけであるように見えた。ちくちくと刺さる無邪気な視線を気にしないようにしつつ思い切って最前列に座ると、遼も溜息をついて智春の隣に座った。
舞台の上でアシカにてきぱきと指示を出し、時折餌を与えてギャラリーに拍手を求める水族館のスタッフを見て、そういえば小学校低学年の頃はイルカの調教師になりたかったなあと思い出す。愛らしくも聡明な生き物を従える様をかっこよく感じたのかもしれない。
演目を終えたアシカが退場すると、スタッフはイルカのプールへと移動した。同時に二匹のバンドウイルカが水面の上で小さく跳ね始めて、観客席から黄色い声が聞こえてくる。智春もパンフレットを握りしめて姿勢を正した。
「本日のショーで得意技を披露してくれるのは、バンドウイルカのユメちゃんとマモルくんです! 皆様、応援の拍手をお願いします!」
スタッフの掛け声に合わせてイルカが大きく飛び上がる。水飛沫がきらきらと細かい光を散らし、一際大きな歓声が上がった。智春が笑顔で拍手をすると、隣で片肘をついている遼も一応空気を読んだように数回手を叩いた。
二匹のイルカが交互にジャンプをしたり空中の輪を潜ったりするたびに、智春は小さな子どもの頃に戻ったみたいにはしゃいで目を輝かせた。こんなに笑ったのは久しぶりのことだ。最近はずっと、塞ぎ込んでばかりだったから。
明佳が自殺した直後は、こうやって笑うことさえも、もう許されないのかもしれないと思っていた。正直なところ、今もまだわからない。
一年C組の教室から明佳の痕跡が消えていくのだ。明佳が使っていた机はまだ残されていて、お花を生けた瓶がぽつんと飾ってあるけれど、次の席替えのときには撤去されるだろう。そうでなかったとしても、人の記憶から、思い出から、野河明佳は少しずついなくなる。誰も思い返さなくなって、初めから明佳なんていなかったことになる。
夜が明けて、朝日が昇って、あの子はいないのにあたしは生きていて。目覚める毎に明佳の声が端から風化していく。そんなのっておかしいよ。明佳が生きたことにも死んだことにも何の意味もなかったみたいじゃない。
いつか、全部忘れないままあの子を穏やかに思い出すことのできる日は来るのだろうか。
「それでは、いよいよハイジャンプです!」
スタッフの大声で、智春はハッと現実に引き戻された。
「前の方の席に座っている人は、ちょーっと水がかかるかもしれません! カメラをお持ちの方は鞄の中にしまってくださいね。さあ、いきますよお!」
智春が拳にぐっと力を込めると、ワン、ツー、スリーの合図と共に二匹のイルカが今日一番の飛び上がりを見せた。着水する瞬間、白い水飛沫が盛大に立つ。覚悟していたとは言え、正面からもろに水を被った智春は思わず「ひゃっ」と小さく悲鳴を上げた。足元まで水浸しだ。さすがにここまで濡れるのは想定外だった。
「あははは、どうしよう、すごく濡れちゃったね……」
同じようにびしょ濡れのはずの遼を笑いながら見て、智春はつと目を見張った。
表情が読み取りづらいのはいつものことだが、なんだか少しだけ――顔が白い?
「遼?」
「……、はい?」
智春の呼びかけにも一瞬反応が遅れて、声にもわずかな違和感があった。
「なんか、大丈夫?」
「大丈夫――って、あんた」
それは束の間の出来事で、気づくと遼の表情は元に戻っていた。短い髪の先から滴がぽたりと落ちる。
「あんた、自分の心配しなさいよ。膝まで濡れてるし」
「う、うわあ、本当だ」
遼は濡れた顔でくすっと笑った。不意打ちの貴重な笑顔にドキッとする。ズボンのポケットをごそごそと漁っているのは、顔を拭くものでも探しているのだろうか。智春がタオルハンカチを鞄から出して顔を拭ってやると、遼は「ちがっ、違うってば」と身を捩った。先刻の奇妙な違和感は掻き消えていた。
今のは、何だったのだろう。
*
十月末の肌寒さは水に濡れた体に堪える。イルカショーが終わって早々に幼馴染みと館内に駆け込んだ椎本遼は、今度は土産物コーナーで買い物に付き合わされていた。狭い店内は帰り際の客でごった返している。ストレスフルな集団に放り込まれていい加減うんざりしていたが、至極真剣な表情で商品をためつすがめつしている智春を見ているうちに、やっぱり今日は来てよかったな、と素直に思えた。
ここまで効果があるとは遼も予想していなかった。バスに乗っている間はどことなく浮かない顔をしていた智春が、今日一日は満面の笑みで展示を楽しんでいたのだ。機嫌の良し悪しがすぐ顔に出る単純な奴でよかった。無料券が当たりでもしていなかったら、こんなことは思い浮かばなかっただろう。偶然に感謝だ。
「見て見てっ、これすっごくかわいい!」
智春の弾んだ声が聞こえる。遼の顔面にぽんと押しつけるように差し出されたのは、ふわふわしたタオル生地のイルカのぬいぐるみだった。否応なしに黒いつぶらな瞳と目が合う。ぱっかりと開かれた口とパステルカラーの胴体が愛らしさを助長している。
「……なんか、」
あんたに似てるね、と言いかけたとき、イルカの陰から顔を出した智春が「むう、でも、ぬいぐるみは高いかな」と眉根を寄せた。智春はぬいぐるみの頭を一撫でして棚にそっと戻している。自分が口にしかけた言葉を頭の中で繰り返して、遼は密かに顔を赤くした。
やっぱり言わなくてよかった。
ぬいぐるみを諦めてからも、智春はイルカのキーホルダーやらマスコットやらを手に取ってはタグを見て残念そうに棚に返していた。ショーがよほど印象的だったのだろう。この子は昔から刺激の強いものに影響されやすいのだ。しばらくは学校でもイルカの話ばかり聞かせられるかもしれない。
智春が一時間以上悩み抜いた末に手に取ったのは、銀色のイルカのストラップだった。表面には小粒の誕生石が埋め込まれている。智春、というか遼の周りの女子全般はどうもこういうのが好きらしい。星座占いとか、血液型相性診断とか。神妙な面持ちでレジに向かった智春が帰ってくるまでの間、遼は出入り口の付近で暇を潰していた。
戻ってきた智春は妙にニコニコしている。
「はい、これあげる!」
両手で差し出されたのは、ついさっき智春が購入を決めていたストラップだ。だが、智春が持っていたものとは埋め込まれている石の色が違う。智春は白、こちらはピンク。自分の誕生石の色なんて覚えてもいないが、おそらく十月はこれなのだろう。
「誕生日プレゼントなら、この前もらったけど」
「違う違う、これは今日の記念。遼が遊びに誘ってくれた記念!」
「記念、て」
自分はいつもそこまで智春に任せきりにしていたのか、と遼はやや反省した。ありがとうと言って受け取ると、智春はいそいそと自分の分を袋から取り出した。ストラップを握った手と手をこつんと合わせて、目の前の顔がへにゃりと笑う。
「えへへ。お揃い、明日から筆箱につけるね!」
釣られて微笑み返しそうになって、遼は仏頂面でそっぽを向いた。
智春はショップを出た後もご機嫌だったが、やはりぬいぐるみを買えなかったことが名残惜しいのか、最後までショーウィンドウに並ぶイルカを振り返っていた。いつかお金を貯めて渡そう、と遼は内心で誓った。それこそ、智春の誕生日とかに。
いつになるだろうか。その頃にはもう、ぬいぐるみなんて興味もなくなっているかもしれないのに。
気弱なことを考えてしまった心の隙間に、冷たい声が滑り込んだ。
「今がずっと続けばいい、って思った?」
ぞわりと背筋を撫で上げられるような、甘美で悍ましい囁き。
隣の智春が笑顔で何かを話しているが、急に声が聞こえなくなる。現実と空想の境目が次第にぼやけていく。遼は無意識に下唇を強く噛んでいた。
来館者の笑い声が遠のき、周りから光が消え、足元から真っ黒な塊に飲み込まれていった。生温かいゲル状の物体が首筋に絡みつき、前から口を塞いでくる。遼は瞬く間に息ができなくなった。くすくす。くすくす。まただ。また、あいつの声が聞こえる。
幸せでしょう? 幸せでしょう? 時間が止まってしまえばいいのに、一番幸せな時間が永遠に続けばいいのにって思うでしょう。
これ以上不幸になる前に、このまま死んじゃえば?
「ちがう……」
違う。生前の明佳は遼の前で一度だってそんなことを口にしていない。明佳は、遼を露骨に煽るようなことはほとんど言わなかった。明佳が何を考えて死んだのか、自分にわかるはずがない。二度と推測できやしない。明佳の幻覚も幽霊もここには存在しない。
つまり、これは――
「自分の声は録音機器を通すと違う聞こえ方をするらしいよ」
智春に声をかける直前に聞いたクラスメイトの言葉が、頭の中で反響している。
*
バスの中でも智春はスマホで撮った写真を眺めることに夢中で、何かに勘付いている様子はなかったから、遼はきっと上手く取り繕えていたのだろう。停留所に着いてから家までの帰り道では、同じように休日を終えようとしている人々が行き来している。バス停の近くの横断歩道で信号待ちをしている間、智春は遼の手を大事そうに握っていた。
「今日は誘ってくれてありがとうね。確かに最近はちょっと、自分の内側に籠もりすぎていたみたい。何だかすっきりした気がする」
「そう」
それならよかった。今日はそのために連れ出したのだから。智春に必要なのは練習に没頭することでも慰めの言葉をかけられることでもなく、気分転換の現実逃避だった。もっと早くこうすればよかった、と遼は密かに歯噛みした。とは言え、先週までの智春だったら素直に付いては来なかっただろうから、タイミングが良かったのかもしれない。
「よおし、リフレッシュできたことだし、帰ったらまた練習しよっと」
「バカ、今日は早く寝なよ」
遼は智春の頭を小突いた。信号が青になる。点字ブロックの手前で待っていた人々が一斉に歩き出し、二人も流れに乗った。半歩先を歩いていた智春が前方から来たスーツ姿の男性と衝突しそうになったので、遼はさらに一歩進み出てガードした。相手と肩がぶつかり合う。
前を向いて歩け、馬鹿。罵りたい気持ちを抑えてすれ違うと、相手の男性が歩道の真ん中で立ち止まる気配がした。
「人違いだったら申し訳ないんだけど、もしかして、遼ちゃん?」
どこか聞き覚えのある声だった。遼より早く、智春が「え?」と振り向く。
同じく振り返った遼は相手の顔を見た。遼と目線の位置が変わらない、やや小柄な成人男性。確実に三十代後半以上であるということ以外に目立った特徴はない。二時間後には忘れていそうな平凡な顔立ちだ。男性はスーツの胸元に名札を付けたままだった。小さく印字された役職名と名前を見て目を見開く。
紅黄児童相談所児童福祉司。
「智春、先に行ってて。心配いらないから」
何かを思考するより先に口から滑り出た言葉に、智春は怪訝そうに「え? どうして?」と言った。智春の視界を遮るように男性との間に割って入ると、背中越しに困惑が伝わってくる。申し訳程度に心配いらないからと付け加えたのがかえって逆効果だったのか、智春の声は不安げだった。
「この人、知ってる人なの?」
「知ってる。と、思う。いいから、早く渡って」
強い口調で智春の肩を叩いたとき、信号の点滅が始まった。しばらく足踏みしていた智春は赤信号に変わる直前で走り出し、反対側に辿り着いた。「あんたはこっち」と遼は男性の背中を押して来た道を戻る。智春は歩道の向こうからこちらをじっと見ていたが、あの位置からではこちらの会話は聞こえないだろう。遼は低い声で相手を威圧した。
「友達といるときに話しかけてこないでよ」
「ああ、本当にそうだね。配慮がなくて申し訳なかった。あんまり大きくなっていたものだから、驚いてしまって……」
そう答える男性は随分と老けた――の、だろうか。知り合いであることは思い出したが、顔や名前に関する記憶は不鮮明だった。何しろ小学校入学前のことである。むしろ相手はよくこちらを覚えていたものだ。紅黄市の児相は暇なのかと皮肉を言いかけたが、今日は日曜日だ。本来は公務員が出勤する日ではないはず。
男性は遠慮がちに「その後、お家はどう……?」と尋ねてきた。
「どう、って」
遼は鼻で笑った。真面目に答えるまでもない。
「どうともないよ。ねえ、あれからだいぶん経つけど、あんたまだ児相にいたの?」
「部署替えがあって、最近また戻ってきたんだ」
「ふうん」
二言三言交わしたら話題が尽きてしまって、沈黙は信号が青に変わるまで続いた。男性も、呼び止めたはいいものの何を話したらよいかわからないという顔をしている。じゃあ、と再び歩道を渡ろうとした遼は、点字ブロックを踏み越えた辺りで一旦立ち止まった。
「あんたさ、紅黄中の一年C組に子どもがいる?」
振り返らずに訊く。一呼吸分、驚いたような間の後に返答があった。
「そうか、遼ちゃんは同い年か。クラスメイトかな」
「別のクラスだし、特に面識もないよ。だから、私の名前を出したりしないで」
「ははは、大丈夫だよ。お恥ずかしいことに、息子とは長いこと会話もしていなくてね」
危うくもう一度鼻であしらうところだった。恥ずかしいなんて台詞、その口でよく吐けたものだと思う。あんた本当に恥じらいを覚えた方がいいよ。そこまで親切にしてやる義理は、ないわけではないがこの場では言わなかった。
遼はひらりと手を振った。
じゃあね、網瀬さん。