53話 重唱:君だけの花③
机を教室の後ろに下げて作ったスペースに、三十五人の生徒がひしめき合っている。隣のB組から「時の旅人」の間奏が微かに流れてくるのを聴きながら、小田巻智春はこめかみをぐりぐりと押さえていた。昼休みに遼と軽い口論になったことが影響しているのかはわからないが、少し前からずっと頭が痛い。今日はいつもの放課後練習と部活の後に塾の模擬テストも控えているのだ。一体どうしたものか。
家に帰り着くのは十一時過ぎになる。さすがに今日の伴奏練習はやめておこう。頭痛自体は薬を飲めば治まるかもしれないが、何より親が夜遅くまでキーボードを使用することを許してくれないだろう。ヘッドホンを繋いで音が漏れないようにしているのに、そういう問題ではないと智春の母は目くじらを立てる。いい加減放っておいてほしい。
何かをしていないと、余計なことを考えてしまうから。
「智春、流していい?」
「……あっ、うん。どうぞどうぞ」
ソプラノのパートリーダーを務めている渕上菜々海は、ワンテンポ遅れて返事をした智春を怪訝な目で見てきたが、特に何も言わずに課題曲のCDを流し始めた。前奏を聴いた遼が露骨に面倒くさそうな顔をしながらも黙って前に出たのを見て、智春は気まずさからそっぽを向いた。昼休み以降遼とは一言も話していなかった。
遼の指揮に合わせて、C組の生徒全員が一斉に歌い出す。
放課後の教室練習が始まって、今日で一週間が経つ。せっかくやるからには全力を尽くし、良い成績を残すべきだというのが智春の信条である。C組の合唱が一年生全四クラスの中で相対的にどれほど上手いのかはまだわからない。さすがに一年で学校全体の最優秀賞を狙えるとは思っていないが、せめて学年別の優秀賞は獲りたいものだ。
不可能ではない、と智春は思う。C組は他のクラスと比べても格段に真面目な人が多く、嫌がられがちの放課後練習に対しても概ね積極的だ。音楽系の部活に所属している生徒の割合も高い。合唱練習を横で聴いていても、大幅にピッチがずれているような違和感は今のところなかった。特にソプラノパートの透き通るような高音は、自由曲の特色にもよく合っている。
だが、何かが足りない。このまま漫然と練習しているだけでは一位に選ばれないだろう。練習を頑張っているのは他のクラスだって同じだ。審査員の教師陣にC組なりの良さを示さなければならない。文化祭までにどういった練習をするべきか、毎日考え続けている。
課題曲を一周して真っ先に、智春は笑顔で全員に向かって声をかけた。
「みんな、お疲れ! うん、縦は揃っていたと思うよ!」
一気に気の抜けた生徒たちが談笑し始めると同時に、各パートのパートリーダーが集まってくる。合唱練習の際は一回歌う度に気づいた点を報告する、というのは智春が最初に習慣づけたことだった。結局智春が合唱練習まで仕切っていることを男子に冷やかされることもあったが、こうした方が早いのだから仕方がない。
「サビのハモり、やっぱりまだ釣られてない?」
「それを言うなら、たーびーだちのーゆうきーをーのところも」
「ううん、パート練のときは合ってたんだけどなあ」
「もう一回分かれて練習して、後でここだけ繰り返し合わせてみる?」
ソプラノ、アルトのパートリーダーと智春の三人でああでもないこうでもないと意見交換していると、何も言わず隣で突っ立っているだけの笹村奏斗が人目も憚らずに大きく伸びをした。智春はつい苛々して口を出してしまう。
「奏斗くん! 仮にもパートリーダーなんだから、こんなときくらい真面目にしてくれないと困るよ!」
どうしてよりにもよって文化祭へのやる気がまるでない奏斗がテノールのパートリーダーに選ばれたのか。大方一部の男子の悪乗りだろうが、リーダーとして決まったからには務めを果たしてもらわなければならない。奏斗は智春の叱責に全く耳を貸さず、口を押さえて欠伸すらしている。
「ええー? はいはい、委員長の言う通りでいいですよぉ」
「男子として意見はないの? 声変わりのこととか、あたしたちにはわからないんだよ」
「はあ? ンなこと知らねえし、勝手にすりゃいいじゃん」
こちらが真摯に対話を試みているにも拘わらず、明らかに早く話を切り上げようとしている奏斗の態度にカチンときた智春は、「ちょっと、落ち着いて」と肩を掴んでくる菜々海の制止も聞かず、眉を上げて食ってかかった。
「あのねえ、それなら言わせてもらうけど、男子はぜんっぜん声出てないから。混声合唱はまず男子がちゃんと声出してくれないと話にならないのよ。一年生は声が大きいだけで元気が良くていいねって評価されるらしいのに、どうして真面目に歌わないの?」
自分でも想定していなかったほど声を荒げてしまい、賑やかだった教室が途端に静まりかえる。時が止まったかのようだ。ハッと口を押さえた智春とは反対に、奏斗は声量を全く落とさないまま「はああ?」と言い返してきた。
「男子が男子がって、男子一人一人に言えよ! オレだけに向かって指図すんな!」
集団に向かって堂々と指を差す奏斗に、男子側が「無責任だ!」「この裏切り者!」とブーイングを浴びせる。とてもリーダーとは思えない、全く以て他人任せな発言に、自分の中でぷつんと糸が切れたような気がした。
「わかった! わかりました! じゃあ男子は前に出て一人ずつ歌ってもらうから!」
再び騒がしくなり始めた教室がまた静かになる。奏斗へ向かったブーイングは、智春の方には飛んでこなかった。男子は困ったように顔を見合わせて、智春には聞こえない声でひそひそと話し合っている。口論なら受けて立つと息巻いていた智春は肩透かしを食らった。嫌な空気だ。――もしかしてあたし、呆れられてる?
代わりに聞こえてきたのは、アイドルのようなハイトーンの声だった。
「えー、男子がかわいそう!」
これまで事の経過を静観していた柳井千紗が、ソプラノパートの前列から一歩踏み出す。いかにもこうなるのを待っていたかのようなタイミングだ。
「みんなだって頑張って練習してるのに、そういう吊し上げみたいなことするのはどうかと思うんだけど。少しは男子の都合も考えようよ」
語気は柔らかいものの、もったいぶった言葉の中には毒がたっぷりと含まれている。
実は智春も、千紗に何かと目の敵にされていることには薄々気づいていた。とは言え原因はわからない。直接話したことはほとんどないのだが、何か誤解を与えているのだろうか。千紗と仲の良い女子二人は顔を寄せ合って、「実行委員でもないのに何で仕切ってんの」「委員長ってそこまでする感じ?」とこちらに聞こえるように話している。
喉の奥がきゅっと詰まって、胃の底から何かがせり上がってくるような心地がした。
「あのー、柳井さんたち、そういう言い方は……」
「小田巻さんさあ、一人で熱くなりすぎだよ」
控えめに止めようとする菜々海の発言を遮って、千紗は智春の顔を下から覗き込んできた。面白がるような目が三日月型に歪む。
「C組のこと、自分のものだと思ってない?」
違う、そんなことない――そう否定したいのに、なぜか呂律が回らない。瞼が鉛のように重たくて、視界の端が水に浸したみたいにぼやける。背後にいた人が智春の肩を強く押しのけて前に出て行ったが、誰なのかは認識できなかった。
「吊し上げてるのはどっちだか。……ないの」
「なあに? ……さん。……つもり?」
「……」
ゲシュタルト崩壊とは、人の声にも起こるのだろうか。頭の回転が普段より遥かに鈍いようで、智春は一瞬、自分がどこにいるのかすらわからなくなった。
額に脂汗が滲む。耳馴染みのある温かな声が、隣のクラスから聞こえてくる歌声に混ざって溶けていく。何かがおかしいと気づいたときにはとっくに平衡感覚を失っていて、智春は天井を仰いで転倒していた。
*
躊躇いがちに頭上に伸ばされた手が、触れそうで触れないまま離れていった。待って。どこに行くの。その手を取って確かめたいのに、体は思うように動かない。隣に立って智春を見下ろしていたはずの誰かの気配が薄れていく。
――空気に混じる消毒液の匂いと、ベッドの周りを囲う生成り色のカーテン。かちゃかちゃと金属が擦れ合う音を、横たわりながらぼうっと聞いていた。少し前から目は覚めていたのに身を起こす気になれなかったのは、このままこうしていたら何も考えずに済むという甘えかもしれない。本当に、自分が嫌になる。
しばらくして、黒い人影が音もなくカーテンに映り込んだ。智春は勢いよく起き上がって目を見開いた。転倒したときに打ちつけたのか、後頭部がずきんと痛む。
「はるっ……」
「栄養不足と睡眠不足による疲労、それから精神的ストレス、だってさ」
穏やかで優しげな声が耳に滑り込んできて、智春はベッドから転げ落ちそうになった。背筋に一気に冷たい緊張感が走り、掛け布団を引っ掴んで壁際まで後退する。
「玲矢くん⁉」
「相変わらずわかりやすい反応をするね」
不気味な忍び笑いを聞きながら、カーテンの外側に意識を向ける。ここは北校舎の一階にある保健室だ。どうやら智春は合唱練習中に教室で倒れた後、気を失っている内に運び込まれてきたらしい。養護教諭は席を外しているのか、智春と玲矢以外は室内にいないようだった。数秒遅れて玲矢の最初の発言を理解する。
「不眠症。食欲不振。大方そんなところかな? あんたって意外と軟弱だね」
言い訳のしようがなく、智春は黙って掛け布団を握り込んだ。「わからないなあ」と、玲矢はカーテンの向こう側で不思議そうな声を出す。
「友達が死ぬのって、実生活にそこまで影響を及ぼすほどの出来事なの? 所詮四月からの付き合いなんだろ」
今日の給食のメニューを訊くかのようなさらりとした口ぶりで、玲矢は智春の神経を逆撫でする。言い返そうと口を開いたが、夜になっても眠れない辛さや何を食べても味がしない苦しみを吐露したところで、どうせこの人には一グラムも伝わらないのだろうと考えたら、虚しくなってやめてしまった。ベッドの上でずるずると膝を抱えて顔を伏せる。
「わからないなら、訊かないで」
玲矢はクスリと笑った。肩をすくめているようだ。
「俺は別の用事で通りがかっただけだから。じゃあね」
黒い人影が消えていく。智春は反射的に前のめりになって、静かに揺れるカーテンを掴んでいた。
「待って!」
既にカーテンの周りに人の気配はなく、もう行ってしまったかと思われた。だが、丸椅子を引きずる音と共に再び影が映り込み、玲矢は「どうしたの?」と尋ねてくる。立ち話では済まないことを察したらしい。智春はぺたんと座り込んだ。まさか本当に引き留められるとは思わなくて、うまく言いたいことが出てこない。
「えっと、あの……玲矢くんが思ってるのとは、少し違う。眠れない理由は」
「あはは、俺に弱音を吐いてどうするの? 慰めないよ?」
本人の言う通りだった。玲矢に悩みを打ち明けたところで、共感も解決も生まれない。こんなことを考えつく時点でどうかしているのだろう。でも、自分の思考を巣食う病魔を消し去るには、玲矢に尋ねる以外の方法がないのだ。
「玲矢くんに、訊きたかった。玲矢くんにしか訊けないこと」
「うん?」
「……どうして、自分が正しいって思えるの」
さしもの玲矢も虚を衝かれたのか、返答はすぐにはなかった。二人だけの保健室に沈黙が流れる。「ふうん?」と怪訝そうな声の後、脚を組み替えるような気配があった。続けて、という意味だろうか。
「玲矢くんはどうしていつも、そんな風にいられるの。あたしは……何が正しいのかも、自分が何だったのかもわからない」
最初から自分はすべて間違っていたのかもしれない、という強迫観念に駆られるようになったのは、つい最近のことだ。明佳と出会ってから現在までの出来事について、一人で考え続けた末の結論だった。
明佳が何も伝えないまま学校で自殺して、初めは、自分が何かをしたのだろうと思った。明佳が言ったこと、自分が明佳に言ったことを一つ一つ思い出しては、あのときの言葉があの子を傷つけたのかもしれないと堂々巡りを繰り返し、ベッドの中で泣きじゃくる日々が続いた。自分は今も無意識に他人を踏み躙っているのだろうか、誰とも関わるべきではないのだろうかと思うと、しばらくの間は食事もろくに喉を通らなかった。
あたしの発言や行動がきっかけで明佳が死んだのなら、あたしが明佳を殺したも同然だ。ついにはそんなことまで考えていた。
智春の様子を見かねた母の勧めで、明佳の自殺の原因は自分なのかもしれないと、スクールカウンセラーに相談した。遼にも、担任の日野先生にも、警察の人にも同じことを伝えた。皆、あなたは悪くないと言う。明佳には明佳の地獄があって、そこに智春は関わっていないのだと、気に病む必要はないのだと。何度も強く説得されるうちに、皆の言うことを信じるようになっていった。何よりも、自分を責め続けることに疲れていた。
だけど――直接の原因ではないのだとしても、自分がもっと頼れる人間だったら、明佳が死ぬこともなかったはずだ。そう考えることだけはどうしてもやめられなかった。
明佳が首を吊る直前に小田巻家に立ち寄ったのは、きっと何かを伝えたかったからだろう。でも、彼女は何も遺さなかった。明佳は結局、智春でも遼でもなく、今までほとんど話したこともなかったはずの男子生徒を連れていったのだ。
どうして。どうしてあたしには何も言ってくれなかったの。死にたいぐらい悲しいことがあったのに、どうして話してくれなかったの。どうして、どうして――
自分の無力さを思い知りたくなんかなかった。こんなこと、もう二度とごめんだ。何もできないのは嫌だ。全部終わってから結果だけ知らされるのは嫌だ。蚊帳の外で一人踊り続けるピエロのままなのは嫌だ!
信頼に足る人間になりたい、と智春は願うようになった。身を預けてもらえる人になりたい。誰かの救いになりたい。今の智春はきっと、誰にも本当のことを打ち明けてもらえていない。
最も信頼している、幼馴染みの遼にすら。
「何をしたらいいのか、わからないの」
白いシーツの上に、ぽたりと涙が落ちて小さなしみを作る。
「今までの自分は全部間違っていたのかもしれないのに、何が『善く』て、『正しい』かなんて、あたしにはわからない。ねえ、玲矢くん、どうしたらいいんだろうね」
答えをもらうことは初めから期待していなかった。玲矢に話すことが正しかったのかどうかも自信がない。自分の判断能力も、今や信じることができないから。ただ、絶対に「あなたは悪くない」なんて言わない玲矢の言葉は、最も嘘がなく真実に近いような気がしたのだ。
「あんた、何か勘違いしてない?」
呆れたような声に、智春は伏せていた顔を上げた。
「俺は自分が正しいなんて思ってないよ。むしろ間違っているだろう。特に、あんたの基準ではね」
鼻で笑って適当にあしらわれるとばかり思っていた智春は、へたり込んだまま思わず口をぽかんと開けていた。慌てて居住まいを正して、カーテンの外側に耳を傾ける。玲矢が薄く笑ったのがわかった。冷ややかだった声色がぐっと温かくなる。
「だけど、兄さんが好きってことだけは正しいんだ」
この人が智春の前で豊かな感情を露わにするのは、双子の兄の話をしているときだけだ。
「兄さんをずーっと好きでいるためなら、どんな間違った行いにも意義がある。僕はそう考えている」
智春は今でも、玲矢のことが理解できない。酷薄な笑みを湛えながら表向きは優等生を演じ、心良のことが好きだと言いながら陰で虐げる者の気持ちなんて、一生わからないだろう。わかりたくもない。その点において、智春は玲矢のことを明確に軽蔑している。
――ああ、でも。玲矢の狂おしいまでの一途さと、犠牲を厭わない情念の輝きは、時折とても羨ましく、美しいと思ってしまうのだ。
「小田巻、あんたの一番大切なものは何なんだ?」
カーテンの向こうの黒い影が、手招きしているように見えた。