52話 重唱:君だけの花②
紅黄中学一年C組出席番号十九番の東郷峯仁は、クラスメイトである網瀬心良の秘密を知っている。しかし、峯仁は彼の秘密を未だ誰にも話したことがない。事が起こってから既に数年が経過しているにも拘わらず、だ。今となっては誰も信じてくれないだろうし、当時の峯仁がそれを親や友達に打ち明けるのは、大変に勇気の要ることだった。
現在の心良といえば、誰もが生ける屍と見紛うほど一言も喋らない男子生徒という認識だが、昔の彼はそうではなかったのだ。今や覚えている人はほとんどいないかもしれない。ましてやC組の生徒の大半は知る由もないだろう。
あれは小学校三年生に上がったばかりの頃だったろうか。峯仁と心良は金盞小学校に通っていて、同じ二組の児童だった。四月半ばの昼休み、峯仁は仲の良い男子複数名を引き連れて、廊下側の席でぼんやりと遠くを見つめている心良の前に立っていた。
「今日も、みんなと遊ばないのか?」
机に手をついた峯仁に、友人たちは横から「そいつ暗いじゃん」「楽しくないよ」「他の奴誘おうぜ」と好き勝手に口を出してくる。そう、小三の頃の心良はまだ「暗くて楽しくないヤツ」程度にしか思われていなかった。完全に口を閉ざしてしまったのはもっと後になってからのことだ。いいから黙ってろ、と友達を適当にあしらって、再び心良と向かい合う。
「お前、本当は外で遊んだりするの好きだろう。ずっと何を落ち込んでいるのかは知らないけど、元気出せよ。偶には俺たちとも遊ぼう。今日はケイドロなんだ」
心良は女の子みたいに長い睫毛をぱちぱちと上下させて、不安そうに視線を泳がせた。自信なげに目を伏せると、「え、えっと」と人差し指同士を合わせている。ただでさえ小柄で頼りないのに、縮こまっているせいでますますか弱く見えた。右の胸元の「あみせうらら」と書かれた名札が震えている。
「えと。ぼくも遊んでいい、かな……?」
「もちろん。遠慮することないさ」
すっと手を差し伸べると、心良は周りを見渡した後にぎこちなく笑った。
「う、うん。ぼくもケイドロ、混ざりたいな……」
後ろで様子を覗っていた友人たちは意外そうに目を合わせている。だが、心良は何らかの理由で消極的になっているだけで、元々暗い性格ではないのだということを峯仁は初めからわかっていた。少なくとも峯仁の知る限りにおいて、小学校に入学したときの心良は笑顔の絶えない天真爛漫な明るい子だったから。
三年生に上がって、一年ぶりに同じクラスになった心良のことを峯仁はずっと心配していたのだ。一組にいる双子の弟の方は明るいままなのに、心良はすっかりおとなしくなってしまっていた。どうしてだろう、何があったのだろうと不思議に思っていた。
少し硬い笑顔で男子の輪に混ざる心良を見ながら、峯仁はこう考えていた。もしかしたら、峯仁の心配するようなことは特になくて、単に心良は友達との遊び方がわからなくなってしまっただけなのかもしれない。それなら声をかけてよかった。
きっと自分は良いことをしたのだろうと、峯仁は誇らしく思っていた。
あの日まで。
*
仄暗い体育倉庫の黴びた天井には切れかかった白熱電球の明かりが一つだけ灯っている。
どういうことなんだ、これ。説明してくれよ。そう言いたいのにくぐもった声でははっきりとした言葉にならず、熱い息は湿ったタオルに吸い取られていく。背中の後ろに回された両腕は中身の詰まった古いバスケットボール入れに縛り付けられているようで、峯仁の力ではびくりともしない。直に座らされている床は埃っぽくて薄汚かった。
峯仁の肌よりも白くてふにふにしている小さな手が、縛られた手首に触れた。血が通っていないかのような冷たさにぞくりとする。左胸に付けられた赤い名札が峯仁の目の前で揺れていた。あみせうらら。確かにそう書いてあるのだ。
床に膝をついた心良は峯仁に覆い被さるように身を乗り出していて、ほとんど押しつけられている体からはお日様の匂いがした。「これでよし」と満足げな声が聞こえて、心良の体がゆっくりと離れる。橙色の光に照らされた顔がようやく見えた。
「えっと……みねひとくん、今日は来てくれて、ありがとうね」
欠片も邪気のない、嬉しそうな声。遠慮がちなたどたどしさはいつもと変わらない。信じられないことに、この状況で心良は照れくさそうにはにかんでいるのだ。
放課後、一人で古い体育倉庫に来てほしい、と深刻そうに頼まれたのは昼休みのことだった。古い体育倉庫というのは、今はもうあまり使われなくなった体育用品を放り込んでいる校舎裏の物置のことだ。あそこは立ち入り禁止になっているじゃないかと指摘すると、心良は泣きそうになってそれでも来てほしいの、と答えた。あの自己主張の弱い心良がそこまで言うのならよほど大切な用事なのだろう、とのこのこ来てみたらこれである。
峯仁の困惑に気づいたのか気づいていないのか、心良はますますにこっと笑った。それはもう、蜂蜜がとろけるみたいな愛らしい笑顔だった。
「えへ。えへへへ。えーっと、それじゃあね、まずはこういうの、どうかな」
心良はいきなり峯仁のTシャツをたくし上げると、上半身を胸まで露出させた。普段人前に出されることのない肌が温い外気に晒されて、峯仁は羞恥で真っ赤になった。必死になって抵抗しようとするも、縛られた腕は当然のように動かない。
声を弾ませながら「大好きなものには、お名前を書こうって言うよね」なんて台詞と共に心良が取り出したのは――カッターナイフ? 発言と行動が一致していない。まさかそんなはずはなどと考える暇もないまま、心良は短めに出した刃の切っ先を峯仁の体に容赦なく突き立てた。
「――――ッ‼」
へそより少し上、胃がある辺りに激痛が走る。痛い痛い痛い痛い――熱い、何だこれ!
思わずばたつかせようとした脚は心良の体重で押さえつけられていた。無意識にぴんと伸ばしていた爪先は全く痛みを逃がしてはくれない。峯仁は涙で潤む目を片方だけどうにか開いて、説明もなく凶行に及んだクラスメイトを見た。
心良は細身のカッターを鉛筆のように握り、峯仁の腹に嬉々として何かを書いている。峯仁の苦悶の表情が見えていないはずはないのに、心良は依然として笑っていた。崩れることのない笑顔から滲み出る狂気を真正面から浴びて、脳みそが沸騰しそうになる。体が熱い。呼吸が苦しい。腹を伝う冷たい液体が汗なのか、血なのか、もう何もわからない。床には水溜まりができていて、背中には濡れたTシャツがぴったりと張りついていた。
体中を血だらけにされ、ハサミで耳たぶに切り込みを入れられて。醒めることのない悪夢は何時間も続いた。生爪を指で少しずつ剥がされている頃には声を出す気力も残っていなくて、峯仁は完全に心良にされるがままになっていた。まるで玩具のように。
夕焼け小焼けが聞こえ出した途端、「あ、もう帰らなくちゃ」と心良はようやく峯仁の体から離れた。今までの喜色に溢れた声が嘘のように冷え切っている。ゆーうやーけこやけでひがくれてー、と音楽に合わせて外れた調子で歌いながら、心良は機械のように手早く使った道具を片付けた。一見ちぐはぐな心良の様子を、峯仁はただ横で眺めていた。そうすることしかできなかったのだ。
「じゃあね、みねひとくん。ぼくと仲良くしてくれたら、またお礼してあげるね」
心良が最後にそう言っていたのは、現実なのか、幻聴だったのか。それとも最初から全てが幻だったのか、数年経った現在も尚判断がつかない。だけど、体育倉庫の中の蒸し暑さと体に刻まれた痛み、目の前いっぱいに広がる満面の笑みは、今でも峯仁の記憶に色鮮やかに残されている。
*
左胸から外した名札の安全ピンを摘まんで、「めでたしめでたし」と笑った。
*
合唱コンクールの練習が開始してから一週間。指揮者や伴奏者を決めた初回から数えて三回目の音楽の授業も終わりかけている頃、椎本遼は欠伸を噛み殺しつつ音楽準備室の壁にもたれかかっていた。場の空気に流されて課題曲の指揮者に決まってしまった遼は、授業最後のパート練習をクラスの輪の外で見学しているのだ。最初は指揮なんて、と非常に渋っていたが、自分が指揮を務める課題曲のパート練習に参加しなくてもよいのは確かに楽だった。合唱練習にしたって、全員の前で淡々と指揮棒を振っていればいいのだから、案外都合の良いポジションを手に入れたのかもしれない。なんてことを智春の前で言ったら、指揮者を馬鹿にするなと怒られそうだが。
遼から少し離れたところで練習しているアルトパートの女子の伸びやかな歌声が、音楽準備室中に響き渡っている。この授業が終わっても放課後にはまた練習があるのに、ぎりぎりまでよく頑張るものだ。間奏でアーとかオーとか言っているのも単体で聴いていると滑稽に見えて、うっかり嘲笑がこみ上げてしまう。スキャットだかフェイクだか。こういうのも智春の入れ知恵だった。
当の智春は何をしているのかと言うと、同じ教室で練習をしているテノールパートの集団に混ざっていた。要するに、男子の練習に口出ししているのである。課題曲と自由曲両方の伴奏を担当する智春は、文化祭後に行われる歌のテストに通れば許されるようで、三つのパートすべての練習に顔を出しているらしい。女子の歌声に紛れて詳しい会話の内容は聞こえてこないが、まあ概ね説教だろう。
以前にも遼の前で「中学校の合唱コンは男子が決め手なの。C組の人たちにも頑張ってもらわないと」と力説していた智春が、男子に何を言っているのかぐらい容易に想像がつく。現に遼の立っている場所から見ても、男子は総じてうんざりとした顔をしている。奏斗なんかは露骨に聞き流しているようにしか見えない。
男子の態度に気づいていないはずはないのに、智春は笑顔で根気強く語りかけ続けている。笑顔でいるように努めている、のだと遼は思う。
「……あの、バカ」
真面目すぎるのも考え物だが、智春はそうなのだから仕方がない。
*
取り立てて言うほどのことでもないが、昔から五感と運動神経だけは異様に優れていた。そうでなくとも自分と身内の悪口は大体聞こえてしまうものだろう。
「委員長さあ、いい加減張り切りすぎじゃない? 男子のパート練まできっちり監視するのはやりすぎというか……」
「ねー、さすがにちょっとついていけないわ」
堂馬環と瀧芹加。大体の時間を二人組で行動しているC組の女子だ。環の方は智春と同じ吹奏楽部員で、真面目に練習へ参加している生徒だと聞いている。環と芹加は遼が見ていることに気づくと、同時に気まずそうな顔になった。
「あっ……椎本さん」
「えーっと、あはは、まあ、うちらは嫌ではないからね! い、委員長には言うなよ?」
苦笑いしながらそそくさと逃げていく二人のことを、遼は無言で見送った。智春に対して比較的好意的なグループまでがあんなことを言っている。クラス全体に不満が広まるのも時間の問題かもしれない。大事にならないといいが。
「遼? どうしたの?」
先に音楽室に向かっていたはずの智春が戻ってきて、きょとんとした顔で首を傾げた。「何でもない。すぐ行く」
昼休みで賑わう廊下の人混みをかき分け、遼は数歩遅れて智春の後を追った。智春は自由曲が決まってから毎日、昼休みは音楽室で伴奏練習をしている。遼はそれに付き合わされていた。付き合うと言っても、グランドピアノに寄りかかって隣で練習を見守る程度だが、どうやら智春にとっては安心するらしい。
音楽室に入った智春はピアノに駆け寄って開口一番、「よかった!」と叫んだ。
「間に合った! 昼休みに練習する人が増えてるから、取られちゃうかと思った」
グランドピアノは音楽室と音楽準備室にそれぞれ一台ずつしかないため、練習が本格化してくると取り合いになるらしい。小田巻家には電子キーボードもあるのだが、それではちゃんとした練習にならないのだと言う。智春はにこにこと嬉しそうにピアノの蓋を開けると、早速椅子に座って弾き始めた。自由曲のイントロだ。
ワーカホリックというか、ちょっとハイになっているのではないだろうか。だって、そうでもなければ練習なんてこんなに楽しそうにしないだろう。遼も陸上部に所属しているが、練習が楽しいとかもっと頑張りたいとか思ったことは一度もない。ましてや、貴重な休み時間を削った自主練なんて。
真剣な表情で鍵盤を叩いている智春の横顔をちらりと見て、遼はすぐに視線を戻した。
自由曲を頭から二回弾いた後、智春は苦手な箇所を部分的に練習し始めた。何を間違えているのか、どう違うのかは遼にはわからないが、同じメロディが繰り返し流れてくる。ぽかぽかと温かい日向に座って、穏やかな旋律を何度も聴いている内に、遼はとろとろと微睡み始めていた。遼の堂々とした大欠伸に、智春はピアノを弾きながら苦笑する。
「また寝不足? 最近多いね」
遼は答えなかった。今度は控えめに、欠伸をもう一つ。
「ねえ、遼ってさ、ここのところ家で何してるの?」
「……ゲーム」
うとうとと半分居眠りをしつつ、質問の内容をよく確認しないままに返事をした。そのせいで、後ろでずっと流れていたピアノの音が止まっていることに、遼はしばらくの間気がつかなかった。しんと静かな音楽室に違和感を覚え、座った状態で恐る恐る後ろを向く。しっかりと遼の方を見ている智春は明らかに目を吊り上げていた。
「どうしてそんな嘘をつくの?」
遼は弾かれたように立ち上がった。そこを突っ込まれるとは思っていなかったので、思わず返答に窮してしまう。寛容な智春が遼に対して本気で怒ることは滅多にないが、一度ブチ切れたら口を利いてもらえなくなるまであっという間だ。おまけに一度そうなるとなかなか面倒くさい。しかし、今の流れのどこに沸点があった?
「何、急にキレてんのよ」
努めて冷静な声でそう言い返したが、智春は「急にじゃない!」と食ってかかってきた。既に涙声になっていて、さしもの遼も困惑する。
「遼っていっつも真面目に答えないで適当に誤魔化そうとするよね」
「は――はあ? 今更何なの?」
智春の質問なんて、いちいちまともに答えていたら酸素が足りなくなる。今のやり取りにも別段変わったところはない。何年も前からこの調子だ。
「いつもいつも嘘ばっかりついて……どうして? 何か隠していることでもあるの? 親友のあたしにも言えないことって何?」
椅子から立ち上がって激昂する智春が二重にぶれる。苦々しい記憶の断片が、忘れられない声が、片頭痛のように遼の頭を刺激した。砂糖をしこたま注ぎ込んだミルクティーみたいに甘い声。もうここにはいないのに、いつまでも心の片隅から離れない悪魔の声だ。
「でも、ちはるちゃんの方が、はるかちゃんの知らないところで変わってしまうかもしれないよね」
「あ、あんたの方、こそ、」
私に隠し事してるんじゃないの。反射的に言いかけて、遼は慌てて思い留まった。だめだだめだ――「あいつ」の思う壺になってはならない。見たくないものを直接見る勇気もないのに、安易に踏み込んではいけない。
智春と向かい合うのが怖くて視線を逸らした先で、白いレースカーテンが揺れていた。
開け放された窓から吹き込む風に乗って、カーテンがふわりと舞い上がる。不揃いなテンポで不安定に揺らめくそれは、「あいつ」の――明佳のスカートのようで。明佳の甘い香り、明佳の柔らかな髪、明佳の妖しげな声が続けざまに思い出されて、目の前で克明に浮かび上がってくる。
校内中の生徒がとっくに冬服を着ているのに、明佳はカーディガンのままだった。嘲るようにくすくすと笑う明佳は、遼に向かって両腕を広げてくる。誘っているつもりなのか。
「はるかちゃんも、素直になればいいのに」
一回曝け出してみようよ。本当の自分を隠しているのってつらくない? ちはるちゃんは聖母様みたいに優しいから、もしかしたら全部受け止めて許してくれるかもしれないし。いっそのこと何もかも全部ぶちまけて気持ちよくなろう――
「うる、さい」
智春に聞こえないぐらいの小声でたちの悪い幻を殴りつける。遼が何度拳を振るっても、明佳はきゃらきゃらと笑ってすり抜けていった。素直じゃないなあ、と愉しげにステップを踏む悪魔に太刀打ちできず、遼はぎりぎりと歯噛みした。どうしてこいつは死んでも思い通りにならないのか。うるさい、うるさい、黙れ黙れ黙れ!
死人が私に意見するな!
「遼、あのね。悩みがあるなら、ちゃんと話してね」
現実の智春が何かを言おうとしている。何を言おうとしている?
「そういうのやめて。迷惑だから」
どいつもこいつも理解者ぶって知ったような口ばかり利きやがって。あんたが、あんたたちが、一体私の何を知っている? 何をわかっている? あんたに私のことがわかってたまるか。私の内面を知られてたまるか!
「迷惑なんて……そんな。あたしは、遼のことが好きで、心配なだけで――」
ああそう。私はあんたのことなんか、世界で一番大嫌いだよ。最初からずっと。