51話 重唱:君だけの花①
智春が何かと危なっかしいのは今も昔も変わらない。という話をすると、あたしだって少しは成長したよ、と当の本人は答える。まあ、小学生だった頃の方が輪をかけて酷かったことには同意するが、そもそも智春は自分が何を心配されているのかわかっていない節があるのだ。
今からちょうど三年前。紅黄市立紅黄小学校に小田巻智春と椎本遼は通っていた。これから振り返るのは四年の二学期に起きたちょっとした事件のことである。当時の遼は智春と別のクラスに所属していたので、智春や他の児童の目を通した情報しか得ていないものの、概ね正しい認識を共有していると思う。
どんな学校にも校風というのはあるものだ。紅黄中校区内にある三つの小学校の中で、大人の言うことをよく聞く「真面目な良い子」が多いのが紅黄小学校だった。音に聞く他の二校の様子と比べるとかなりマシな部類であることは違いない。――尤も、それが遼にとっては無性に息苦しく感じる要因でもあったが。
智春が学級委員を務めていた四年三組に、金築という女子児童がいた。智春は終始「金築さん」としか呼ばなかったので、下の名前は知らないし、今更知る気もない。
金築は、有り体に言っていじめの標的になりやすい児童だった。成績も運動神経も悪く、常に梳かしていない不潔な髪のまま生乾きの野暮ったいトレーナーを着用し、ズボンの裾をずるずると引きずりながら廊下を歩いていた。そのくせ声は大きく妙に堂々としていて、いつも頓珍漢な発言を繰り返しては教室の真ん中でへらへらと笑っていたらしい。加えて卑屈で被害妄想が激しく、何もしていない女子に頻繁に言いがかりをつけては衝突していた。彼女の良し悪しはどうあれ、避けられるのも無理はない。
とりわけクラスの顰蹙を買っていたのは金築の授業態度だった。と言っても、彼女が露骨に授業の妨害をしていたわけではない。むしろ逆だ。金築は何度も積極的に手を挙げて発言や質問をしていた。だが、何しろ頭が悪いので的外れなものが多く、かつ本人がいつまでも納得しないので度々授業の進行を止めていたそうだ。智春は「やる気があるのはいいことだよ」と擁護していたし、授業進度なんぞどうでもいい遼にとっても好きにやらせておけばいいとしか思えない。まあ、真面目で一生懸命な生徒ほど金築には苛々させられていたのだろう。
ともあれ、傍迷惑なはみ出し者は排斥されるのが世の常だ。四年三組の児童は自然と金築を攻撃するようになった。最初は無視や仲間外れだけだったが、とある男子が彼女を「金築菌」呼ばわりし始めてから本格的にいじめがエスカレートしていった。給食の配膳のときにわざと料理を溢したり、机に罵詈雑言を書き連ねたり、引き出しの中に牛乳に浸した雑巾を詰め込んだりと、小学生の思いつくような類いのものは一通り。
そんな状況に瞬く間にブチ切れたのが我らが委員長様である。
搦め手などという言葉を知らない智春は馬鹿正直に真っ向からいじめに立ち向かった。引き出しや棚の中のゴミを片付けて、机の上を必死で拭いて、揶揄う男子を叱りつけて。幸い、智春の人望もあってか味方をする女子が何人かいたので、この方法はそこそこの効果を発揮した。一人が先頭に立てば付いてくる人もいるということだ。中心となって金築をいじめていたグループは段々とおとなしくなっていった。何度もクラスメイトの前で怒鳴りつけられて白けたのかもしれない。
ある時、三組の児童全員で昼休みにドッジボールをしようという話になった。智春は教室で本を読んでいる金築に真っ直ぐ歩み寄ると、すっと手を差し伸べた。
「金築さんも一緒に遊ぼうよ!」
にっこりと笑った智春とは反対に、周りの女子の顔は引きつった。できれば関わりたくないというのがその場の総意だったろうが、ここで積極的に金築を仲間外れにでもしようとすれば智春に何を言われるかわかったものではない。少なくとも当時の智春には逆らうことを躊躇わせるだけの権力があった。
金築は小声で「うん」と頷き、智春の手を取った。クラスメイトは苦笑いしつつも「金築さん逃げるの得意そう」「私たちのチームに入る?」と話しかけ始めた。昼休みのドッジボールは何事もなく盛り上がったらしい。
美しい友情の完成だ。智春は大層満足していた。
*
もちろん小学生のいじめがその程度で終わるはずはなく、この話にはちゃんと続きがある。件のドッジボールから三日ほど経った後のことだ。朝の登校中、藤色のランドセルを背負った智春は不安げな顔をしていた。
「誰かに見られている?」
「うん、最近ね。なんか……背中がむずむずして振り向くんだけど、誰もいなくて」
遼がふうん、と生返事をすると、智春は「ちょっと、本気で怖いのに」と可愛らしく頬を膨らませた。過剰に心配させたくないので、親にはまだ話していないそうだ。智春にぽかぽかと鞄を殴られながら、遼はぼんやりと考え事をしていた。
その日の放課後、遼は一人で埃っぽい体育倉庫にいた。校庭からはキインとボールを打つ甲高い音と明るい大声が聞こえている。鼻で笑って踵を返し、誰にも見られない内に体育倉庫を出た。自分でも驚くほどに思考は冴え渡っていた。
ギイイイ、ギイイイ、と鈍い音を鳴らして日当たりの悪い校舎裏へと向かう。曲がり角に差し掛かったとき、女子の嫌味な笑い声が聞こえてきた。
「わあ、気持ち悪い! そんなのよく触れるね」
「私だって触りたくないよぉ、わっ」
「きゃっ、近づけないでってば!」
遼はフーッと長めに息を吐き出した。女子は三人。話し声は依然続いていた。
「ねえ、亜子はほんとにちゃんと靴箱に入れたの?」
「い、入れたもん! 疑うなら今度は二人も一緒に見ててよ。何で私ばっかり……」
あはは、やだぁと楽しげな会話の後、三人の中の一人が内緒話をするみたいにぐっと声量を落とした。生憎とこちらは地獄耳なので全部聞こえている。
「あたし、前から智春のこと好きじゃなかったんだ」
「わかる! なんかさ、言い方悪いけど、先生に媚び売ってばっかりだよね」
「本当はみんな迷惑がってるって気づいてなさそう」
足元でざり、とアスファルトの上の砂を踏む音がした。頭上の太陽が校舎に隠れる。
視界に入った女子三人の内、亜子と呼ばれた一人は見覚えがあった。苗字は覚えていないが、確か去年は同じクラスだったはずだ。智春とはそれなりに仲が良かった覚えがある。残りの二人は見覚えがない。
三人は地面に座り込んでいた。傍に置いてあるペットボトルを半分に切った容器の中では、気色の悪い節足動物の死骸がうじゃうじゃとひしめいている。爪にみっしりと泥が詰まった亜子の指先と彼女の隣に転がる木の棒を、遼は無感動に見つめた。
「何、あなた」
女子の一人が険のある声を出し、下から見上げるように睨みつけてくる。胸元の名札には名前が書いてあったはずだが、二秒で忘れた。亜子はこちらをぎょっとしたような目で見ると、睨みつけてきた方をつついて「ほら、ほら、椎本さんだよ。智春の友達の」と囁いている。亜子以外の二人はクスクスと軽い声で笑っていた。
「うちのクラスに来てるの見たことあるかも」
「何しに来たの? あたしたちがここにいるって何で知ってるの?」
何何って喧しいな、と思いながら遼は無言でただ顎を引いた。
「あーっわかった、智春の靴箱に入れた虫捨てたのあなたでしょ!」
「三組のことに口出ししないでくれない? 椎本さんは関係ないから」
遼が黙っているのをいいことに、二人は立ち上がって服についた砂を払い、つかつかと歩み寄ってきた。「二人とも、それぐらいにしておいた方が」と止めようとする亜子のことは無視だ。なぜか哀れみの目を向けられている気がする。
「椎本さんも友達なら一言言ってあげたらいいのに。みんな仲良しなんて無理だって」
「正直ね、智春にはうんざりしてるの。わたしたちだけじゃないよ、三組の子みんな言ってるんだから」
「金築さんのことだって、本性を知らないから仲間に入れよう、なん、て――」
ぺらぺらと喋り散らしていた片方の女子が、遼の手を見て言いよどむ。
遼はゆっくりと指を広げて左手の中にある金属バットのグリップを握り直し、初めて三人の前で発言した。
「続けたら?」
威勢の良かった女子二人は途端に顔色を変えた。馬鹿でも物を考える頭はあるらしく、遼がお友達と野球をするために金属バットを持ち出しているわけではないことにすぐに気づいたようだ。それでも尚歯向かってくるのは、勇ましいというかなんというか。
「……な、何なの。こっちは悪くないんだからね。智春が……智春がみんなの気持ちも考えずに好き勝手なことするのが悪いのに……」
「あ、あたしたちにひどいことしたら、先生とかママに言いつけてやる!」
二人と違って亜子は完全に口を閉ざしてしまい、血の気の引いた顔で肩を震わせている。遼は何度か指を広げたり閉じたりした後、右手で頭を掻いてたった一言、
「顔」
と、口にした。女子共は困惑の表情で互いに目配せをしている。
「か、顔……?」
「あー、全部言わないとわからないかな。そうか」
次の瞬間、遼はだらりと下ろしていた左腕に力を込めると、持ち上げた金属バットを真横に振った。ブン、と風を切る音とほとんど同時に聞こえる打撃音。左手への重たい衝撃。校舎の白い壁の一部が剥離してぱらぱらと落ちていく。
「顔の骨がぐしゃぐしゃになっても、ママとお話できたらいいね、って言ったの」
空気が凍り付く。三人は口をぽかんと開けて絶句してしまった。
背中側から草を踏むような音がかすかに聞こえた。遼は続けざまに振り返って「そこにいるんでしょう? あんたも同じよ」と話しかけた。反応はない。金属バットをギイギイ引きずって出向こうとすると、校舎の陰から別の女子児童が慌てた様子で姿を現す。地味な服装とボサボサの髪。あっという間に盗み聞きがバレたことを信じられないとでも言いたげな驚愕の表情。
つい先日までいじめられていた少女、金築だった。
「智春を付け回してるのはあんただよね。何のつもり?」
遼の追及に、金築は涙目で後ずさりながら「だ、だって」と言い訳する。
「智春ちゃん、お友達になってくれるって言ったのに、他の子と話してばっかりで……」
「ああ、はいはい。そういうのもう聞き飽きたからいいわ」
金築から興味を失った遼は早々に追及を打ち切り、「あんたたち、いい?」と一人一人に視線を送った。女子たちは目が合う度にびくりと身を震わせて、ついには全員が目を伏せてしまった。
「耳の穴かっぽじってようく聞きなよ。親とか、学校とか、友達とか、同級生とか、他人を使って自分を守ることに必死なあんたたちと、私は違う」
淡々と、ただ事実を伝えるために宣言する。
「私はどうなったって構わないから、何も怖いことなんてないのよ」
――遼の記憶に残っているのはそこまでで、その後どうなったのかは定かではない。定かではないということは、特に大事に至ることなく問題はすべて解決したのだろう。
こうして、紅黄小学校四年三組に巣食う煩わしいいじめは完全に消えてなくなり、智春は卒業まで人の悪意に気づくことなく平穏無事に小学校生活を送ることができた。
めでたしめでたし。
*
紅黄中から数百メートル離れた位置にあるコンビニの店内で、網瀬心良は手のひらに収まる大きさのラムネ菓子を見つめていた。昔はどこにでも置いてあったのに、いつの間にか見かけなくなってしまったものだ。同じクラスの人が小学校に持ってきては先生に怒られているのを見たことはあるが、自分で食べたことはなかった。今日はこれにしよう、とあまり深く考えずに決める。
束の間の懐古から目覚めた心良は、手の甲まで隠している学ランの袖口をそっと開いた。そのまま棚の一番手前にあった菓子を掴み、さりげなく袖口の中へ滑り込ませようとする。とくん、と心臓の音が一回だけ聞こえた。
「ちょっと、そこの君」
背後から声をかけられて硬直する。大人の男の人の声。この店の店員かもしれない。たぶん、まだ顔は見られていない。心良は振り返らずにラムネ菓子を素早く棚に戻した。男の人はひどく怒っているようだ。
「最近うちの店から色々盗んでるのはあんただね? その制服、紅黄中の学ランだろう。さっきもあっちの子があんたが万引きしてるって教えてくれたんだよ。まったく、最近の子どもは……」
見つかったときは何も感じなかったのに、どくん、と心臓が大きく波打った。
今、このおじさんは何て言った? あっちの子が教えてくれたって。
どくん、どくん。鼓動は加速度的に速まっていく。
玲矢。玲矢だ。玲矢がおれを叱りにきたんだ――――
「あ、コラッ、待ちなさい!」
心良はくるりと身を翻し、間一髪で店員が伸ばした手から逃れた。菓子コーナーから出入り口までの最短ルートを無意識に頭の中で割り出すと、顔と名札を見られないように気をつけながら一直線に駆け抜けていく。自動ドアが開く寸前、バレないとでも思ったのか、と怒声がした。
「次に来たら警察に突き出すからね!」
コンビニからつんのめるように飛び出して、颯爽と紅黄市の町中へ紛れる。ほんの少し歩道を走っただけですぐに息切れがした。たまらずその場に座り込む。近くにいた数羽の雀が一斉に羽音を立てて飛び去っていった。
いっぱい、いっぱい「わるいこと」をしてしまった。全部玲矢に見られた。
学校が終わった後まっすぐ家に帰らなかった。コンビニに制服を着たまま勝手に入った。またお菓子を盗もうとした。お店の人の言うことを聞かずに走って逃げた。
心良は胸を押さえて何度も激しくはあはあと荒い息をついた。耳が詰まって目眩がする。心臓が痛いのは走って疲れたからだろうと最初は思っていた。だけど、ずっと座っていても鼓動は鳴り止まない。
「れいやぁ」
自分の吐く息が妙に熱い。どうしよう。どうしてだろう。おれはわるいこだ。きっと玲矢に怒られてしまう。そんなこと望んでなんかいないのに。
れいや、れいや、と譫言のように呻いてのそりと立ち上がる。
玲矢のいる家に、おれは帰らなければならない。
*
夜の七時過ぎにごみごみした家に帰り着いたとき、玲矢はまだ帰ってきていなかった。それからもう三時間が経過している。家の中には相変わらず誰もいない。
心良は兄弟の部屋の電気を消し、ポータブルCDプレイヤーから流した音楽を聴いていた。ヘッドホンの耳当てを手で覆うみたいに押さえていると、優しくて穏やかな世界に自分一人しかいなくなったかのような気持ちになる。淋しいのに暖かいのだ。
プチ、と音を立てて音楽が途切れる。部屋の中に一つだけ灯っていた光が消える。心良はぱちぱちと瞬きをしてプレイヤーの画面を見た。いつもは再生時間が表示されている画面が真っ黒だ。しばらく待ってもみても、縦や横に振ってみても変化はない。電池が切れたんだ、ということに気づくまでに十五分を要した。
心良はプレイヤーとヘッドホンを床に放り出し、ぼんやりと部屋の時計を見上げた。十時三十七分。玲矢が帰ってくるまで眠っていよう。どうせ何もできることなんてないから。いつもそうしているから。玲矢の机に寄りかかってとろんと微睡んでいると、今朝家を出る前の会話がふいに思い出された。
「今日は水曜日だよ、兄さん。明日は塾で忙しいから、今日は早く帰ってくるね」
そうだ、玲矢は早く帰ると言っていた。――じゃあ、どうして十時半を過ぎても帰ってくる気配がないのだろう。玲矢は他に何か言っていたっけ。心良は目を閉じ、玲矢の数日前の発言まで遡ろうと試みた。
「兄さんは、自分が『誰』だったか、思い出しちゃった?」
「大丈夫だよ。そんなのは全部まやかしだ。兄さんは何も考えなくていい」
「僕以外の全員は兄さんにとって害になる人ばかりだ。そんな人たちの言うことなんて真に受けちゃいけない。嘘に決まっているだろう?」
「僕たちの世界は真っ暗だけど、ここにだけは光があるよ」
「兄さんは人形だ。意思を持たない木偶の坊だ。だからね、兄さん、」
僕と同じになろうなんて、思ってはいけないよ。
ぱちんと、しゃぼん玉が弾けるみたいに目が覚めて、それから津波のような不安が一挙に押し寄せてくる。心良は脊髄反射で立ち上がると、居ても立っても居られず部屋の中を歩き回った。爪をがじがじと噛んでは頭を掻き毟り、二十秒毎に時計を見上げる。
もし――もしも玲矢が本当に、おれを嫌いになってしまったら?
玲矢はいつまでも言うことを聞かず、勝手なことばかりする自分に愛想を尽かして、一人で家を出て行ってしまったのかもしれない。一旦考え始めたら、段々とそうかもしれない、きっとそうなんだろう、そうに決まっていると思い込みを深めてしまって、心良はぽろぽろと泣き出していた。滴がカーペットに黒いしみを増やしていく。
ぐすぐす泣きながらせわしなく歩いている内に部屋の入り口付近のコードに足首を引っかけてしまい、心良は顔面から勢いよく転倒した。額を角で切ったのか、視界がじんわりと赤く染まる。起き上がる体力も気力も最初からなく、心良は床にうつ伏せになったまま動かなくなった。
次に起きたとき、玲矢は兄弟の部屋の前に立っていた。心良がのろのろと身を起こした途端に目が合って、赤い縁の眼鏡の奥でふわりと笑う。
「おはよう兄さん。そんなところで寝ていたら風邪引くよ」
「れい、や……」
流しきったはずの涙がまた溢れだしてきて、心良はずるずると床を這って玲矢の足元まで移動した。「ご、ごめん、なさい……おれ、また、わるいこと、を……」と白い靴下を履いた足に手を伸ばそうとするや否や、喉元を爪先で蹴り上げられる。心良は激しく嘔吐きながら床に転がった。黄色い吐瀉物がカーペットにぽたぽたと散っていく。
「ねえ、兄さん」
玲矢はゆっくりと心良の前にしゃがんで、片手で濡れた顎を持ち上げた。
「どうして泣いてるの?」
「……、え」
きょとんとした心良の頬を、玲矢は右側から殴りつけてきた。視界でちかちかと星が瞬く。畳みかけるようにもう一発、二発。横向きに倒れた心良に向かって、玲矢は「あは」と乾いた声で笑った。おもちゃに飽きた子どものような声に背筋がぞっとする。
「あーあ、もっと赤くなっちゃった。コードに足引っかけて顔から転びました、って言わないとね、兄さん?」
周りには誰もいないのに、玲矢は顔を近づけて耳元で囁く。
「どうして泣いてるのって言ったよね。泣いた理由を訊いてるんじゃなくて、どうして勝手に泣いてるのって言ってるんだ。僕がそんなことを許した?」
「……ぅ、あ」
「それだけじゃない。僕に謝るとき、兄さんは嬉しそうな声を出したね」
玲矢の声音はどこまでも優しい。親切かつ温厚な教師が不出来な生徒を注意するように、心良の目線に合わせて語りかけてくる。実際、心良が声を聞くことができるように、玲矢は耳に当たらないように殴ってくれている。
「兄さん、本当は『悪い子』になれて、嬉しいんだろう?」
赤い視界の中で、玲矢の笑顔がいっそう輝いた。
「だめだよ、それじゃあ。兄さんは人形なんだから。嬉しいと思ったり、悲しいと感じたり、泣いたり笑ったり、何かになりたいと願ったりするのはおかしいよ。今まで何回も言ってきたよね?」
喉を蹴り上げられたせいか声帯がうまく機能せず、潰れた歪な声しか出なかったので、心良は無言で何度も頷いた。ゲボゲボと血で濁った息を吐いて手を一本ずつ床につき、土下座のような姿勢で「も、もう」と声を出す。
「もう、ぜったいに、なきません、なにも、ねがいません」
「最近の兄さんは口ばっかりだからなあ。この前も真夜ちゃんに簡単に連れて行かれちゃうし。まったく、情けない兄さんだよ」
呆れたような口調とは裏腹に、玲矢は楽しそうに笑っていた。
「でもね、兄さん。僕は嬉しいんだよ。だって兄さんには、まだまだ壊すところがたくさんあるってことだからね!」
振り返った玲矢はスクールバッグの中から筆箱を引き抜くと、中からカッターナイフを取り出した。心良の背後に回ってしゃがみ込み、背中に指を這わせてくる。心良はもう、肩を震わせることもできなかった。
「今日はここからが本番だから。兄さんがちゃんと人形になれたか確かめようか」
一言でも声を上げたら一時間延長だよと微笑んで、玲矢は心良のシャツを捲り上げた。