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閉塞学級  作者: 成春リラ
8章 拝啓 騎士になれない少女へ
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50話 重唱:茜空に歌う時②

 聞いてないんだけど、と遼が不満を訴えると、幼馴染みは音楽の教科書を小脇に抱えて申し訳なさそうに手を合わせた。同時に何かを口にしたようだが、弁当給食を載せて通り過ぎていくワゴンの音が被さってよく聞こえなかった。大方「咄嗟だったから相談する暇がなくて、つい」とかそんなところだろう。昔から智春が相談もなしに突っ走った後の言い訳はパターンが限られている。


 昼食の時間に浮かれているらしい男子生徒が複数名、耳障りな笑い声を上げて廊下の向こうから走ってくるのが見えた。こちらを見ながら隣を歩いている智春は前方の彼らに気づいていない。先頭を突っ走る男子生徒と接触する直前に、遼は智春の肩を無言で強引に抱き寄せた。


「……ご、ごめん」


 虚を衝かれたのか、智春は感情のこもっていない小さな声でぽつんと言った。楽しげに走り去っていく男子生徒を見送ってすぐ、遼は突き飛ばすようにして智春の体から離れた。手のひらに残る智春の体温がすうっと消えていく。


「私は別にいいけどさ」


 これは、最初の発言に対する回答だった。


「文化祭まで二週間しかないのに、ピアノの練習なんていつするつもりなの。あんたは部活も塾もあるでしょ」

「それは! ……きっと、休み時間にするから」


 つまり、何も考えていなかったということだ。遼は無言で目を背けると、C組の教室に向かって再び歩き始めた。智春は焦ったように小走りで追いかけてくる。


「理由、訊かないの? 勝手に巻き込んだのに」

「別に。私には関係ないことでしょ」


 ちらりと後ろに目をやって、試すように訊く。智春が無言で頷く気配がした。内心では否定してほしくて投げつけた言葉が跳ね返って胸に小さな穴を空ける。私には関係ないことって何だよ。


 話題を変えたいのか、そんなことより、と智春は急に明るい声を出した。


「一年生で『旅立ちの時』って、なんか変だよね」

「何の話?」

「もう、先生の話聞いてた? 課題曲のタイトルだよ。あたしは好きだけど、ちょっと切ない曲調だし、一年生の課題曲っぽくはないかなって」


 どんな曲だったか記憶を探ってみたものの、例によって音楽の授業中も教師にバレない程度に居眠りしていたので、ワンフレーズたりとも頭に浮かばなかった。代わりにタイトルから連想したことを反射的に口にしそうになって、すんでの所で思い留まる。どうしよう、これは言わない方がいいだろうか。


 だが、横に並んだ幼馴染みの憂いのない笑顔を見て、遼は思わず口を滑らせていた。


()()()()からじゃないの、この前」


 教室を目前にして軽やかな足音が止まる。微笑みが剥がれ落ちる。最初はきょとんとしていた智春の顔が見る間に険しくなり、半端に開かれた唇がわなわなと震えた。心のどこかが疼いたが、後悔よりもすっと胸のすくような思いの方が強かった。衝撃から失望へ、失望から落胆へ転じた智春の表情が怒りに染まっていく。


「そういうこと、冗談でも言わないで!」


 廊下に響く鋭い声。駄弁りながらC組の教室に入ろうとしたクラスメイトの女子たちも、ただならぬ雰囲気に驚いたように立ち止まった。智春は静かになった女子に「ごめんね。気にしないで」と優しく謝り、再び遼に厳しい視線を向けてくる。


 遼は幼馴染みを無言で見つめ返した。糾弾するような瞳は二秒で不安げに揺れ始め、智春はすぐに赤くなって顔を背けた。知っている。この子は睨み合いができる性格ではないのだ。他人に攻撃性を向けられない。負の感情を長続きさせられない。自分の感情を偽ることができない。


 そんな智春が、癒えない傷を隠して平然と笑っている。


「智春、あんたさ、」

「明佳のために弾くのよ」


 躊躇いがちに言いかけた言葉を遮られて、遼は口をつぐんだ。


「遼が指揮者なら練習も頑張れるから。明佳の分も、あたしが頑張らなきゃ」


 あたしが、の部分で言い聞かせるような声音になる。それが自分の責務であると、頑なに信じ込んでいるみたいだ。太腿の横で握られた小さな拳がぷるぷると震えていた。白い手の甲に薄く血管が浮き出ている。力を入れすぎているのだろう。


 智春。あんたはあんたの分だけ頑張ればいいし、自分の分だけ生きればいいよ。


 そう伝えるのは無責任だろうか。薄情だと返されるだろうか。


「明佳……何言ってたかなあ」


 遼が黙っているのをいいことに、智春は薄く微笑んでぼんやりとつぶやいた。


「あんなに毎日一緒にいたのに、明佳がどんなことを話していたか思い出せないの。……ううん、覚えてはいるんだけど。好きなキャラクターの話とか、最近買ってもらったお洋服の話とか。八月のお誕生日にミントグリーンのブレスレットをあげたときなんて、すぐに手首に付けてみせて、『ちはるちゃんありがとう、ぜったい大切にするね』ってにこにこ笑ってたなあ、とか」


 智春が詳細に語るものだから、現在の出来事のように目の前に描き出されてしまう。袋に貼られたテープをぺりぺりと器用に剥がす仕草から、嬉しそうにとろんととろけた目元まで。そこまで凝視していたつもりはないのに、我ながらよく覚えている。


「でも、それはすごく普通のことで。特別なことは、何も言ってなかったはず」

「……智春?」


 焦点を失ったような虚ろな目に危機感を覚えて声をかけたが、智春は心ここにあらずという有様で呼びかけに反応しない。明朗な声は次第に澱んで、小さくなっていった。


「もしかしたら、あたしにとっては普通のことが、明佳にとっては特別だったのかもしれない。些細な変化を、あたしはずっと見逃していて――」

「智春!」


 正面から智春の肩を鷲掴みにして強く揺さぶる。智春はたった今夢から覚めたかのような熱を帯びた目でゆらゆらと視線を泳がせた。少しずつ意識がはっきりしてきたのか、気まずそうに唇を噛む。


 他のクラスの生徒までこちらをぎょっとした顔で見ていたので、遼は智春の手首を掴んで目立たない位置まで引っ張っていった。智春はおぼつかない足取りで何も言わずにおとなしく付いてくる。周りの人が少なくなったことを確認してから、遼は低い声で尋ねた。


「あんたさ、やっぱり自分のせいだと思ってるよね?」


 智春は弱々しく首を振って、裏返った声で「そんなことない」と即答した。制服のリボンが揺れる。遼はこめかみを押さえて溜息をつき、智春の胸元を指さした。


「じゃあ、何でまだそれ着てるのよ」

「え?」

「制服。あいつが首吊ったときに着ていたやつでしょう、それ。小母さんは新しいの買ってあげるって言ってたじゃん」


 智春は強張った顔つきで自分の身体を抱くようにして黙り込んでいる。そうなのだ。彼女は明佳の遺品といってもいい曰く付きの制服を現在も着続けていた。明佳が自殺した日からもう十日が経とうとしているというのに。十字架でも背負っているつもりなのか。


「馬鹿なんじゃないの。そんなことして何の意味があるのよ」

「あ、あたしの勝手でしょ。別に、汚れていないし、捨てるのももったいないかなって、思ってるだけ」


 震える口元をじっと見つめていると、智春はいっそう強く身体を抱いて「本当だよ」と言い訳をするみたいな口調になった。


「責任を感じてなんかいないよ。あたしが悪いとも思っていない。きっと明佳にはあたしと関係のないところで悩みがあったんだって、今はそう思ってる」


 でも、でもね。表情が見えないほどに俯いて、萎んだ声で智春は続けた。


「あたしのせいじゃないなら、いったい誰のせいだったのかな」

「そんなの、あいつにしかわからないよ。考えても無駄」


 明佳は一人で死んでしまった。「友達」と呼んでいたはずの同級生にすら何も遺さずに。蠱惑的な甘い笑顔は空き教室のカーテンの向こうへと消えてしまって、もう二度と戻ってくることはない。そんな簡単なこと、智春だって理解しているはずだ。


「そうだけど……でも、あたしは考えて無駄なことがあるとは思えない」


 あたしは知りたいの、と消え入りそうな声で智春は言う。


 俯いたままの智春はこちらを見ていない。ほんの少しの逡巡の後、遼は声に出さずに唇の動きだけで「あんたは知らなくていいよ」と返した。狙い通り、智春には伝わらなかったようだ。


 一分にも満たない沈黙があって、智春は意を決したように顔を上げた。


「ねえ、あたし前から訊きたかったんだけど」


 不安と疑念と戸惑いが綯い交ぜになったような声で、遼は後に続く言葉を察した。今度は遼の方が顔を上げられなかった。


「遼は、明佳が死ん……いなくなって、悲しくないの?」


 ああ、智春なら疑問に思うに決まっている。いつかは訊かれると思っていた。


 曲がりなりにも四月から共に過ごしてきた同級生の死について、全く何も感じないと言えば嘘になる。彼女が教室からいなくなったことに、一週間も経たないうちに慣れてしまったクラスメイトと自分はきっと明確に違う。かと言って悲しいというのも不適切だ。おそらく自分は悲しいという感情をほとんど持ち合わせていない。


 野河明佳は、謂わば侵略者だった。智春と遼の二人の日常に束の間抉り込んできた異物。智春を挟んで反対側の、彼女が消失した場所には寒々しさが残されている。だけど、この感情をどう説明すればいい?


「前に戻っただけだよ」


 自嘲的に笑って、遼は結局そう答えていた。少し、いやかなり、意地悪な嘘をついた。友人の死を悼むことのできる優しい幼馴染みが何と言って怒るか気になって。


 けれど、智春は怒らなかったのだ。そうだね、と疲れたように笑ってみせて、それ以上先に続くことはなかった。





 同じ運動部でも、男子の部室にはあまり近づきたくない。特に部活終了後の男共の不潔さは最悪だ。半径五メートル以内には入らないでほしいと祈ってしまう。ここ数日の放課後は遼の方から出向いているが、早く済ませたいことに変わりはなかった。


 おつかれっしたあ、と調子の軽い挨拶が聞こえ始める頃、遼は男子卓球部の部室の入り口付近で仁王立ちをしていた。いつもより十五分ほど遅れて周りの様子を覗いながら出てきたそいつと、ばっちり目が合う。


「うわ」

「遅い」


 遼の顔を見るや否や忌々しげに舌打ちをした(つつみ)大樹(ひろき)は、「またお前かよ」と心底うんざりしたような顔を作った。舌打ちをしたいのもうんざりしているのもこちらの方だ。遼が話し始める前から既に逃げ腰になっている大樹につかつかと歩み寄り、校門への通り道を塞ぐように立つ。自分より低い位置にある野犬のような目を見下ろして、遼は腕を組んだ。大樹はわざとらしく息を吐き出して面倒そうに見上げてきた。


「もういい加減にしてくれ、部活で変な噂が立つだろ。また先輩に目えつけられたらどうしてくれるんだよ」


 無意識かどうかは知らないが、大樹は先日までガーゼの貼られていた位置を気遣わしげに触っている。まるで自分が迷惑を被っているかのような態度に、ただでさえ蓄積していた不快感が増す。今度は右目に眼帯でもつけてやろうかと思った。


「私だって好きで待ち伏せしているわけじゃない。あんたがさっさと千葉山(ちばやま)の家に連れて行かないのが悪いのよ」

「無理だって何回も言ってんだろ! 昨日は勝手についてきて押し入ろうとしたよな」


 強気に歯向かってくる大樹を真正面から睨みつけると、最初の威勢はやや弱まった。


 明佳が首を吊ったときに同じ教室の中にいたとされる千葉山(りん)は、告別式の日以来学校を休み続けている。凛の唯一の友達である大樹は、放課後になると足繁く家まで通って配布物を届けているらしい。――というのを聞きつけて、部活終了後に大樹のもとを訪れてはみるものの、この様子ではうまくいくはずもない。連日の非誠実な対応に遼はひどく苛立っていた。


「私が一人で行くとインターホンにすら出ないでしょ、あいつ」

「当たり前だろ。そんなんオレだって開けねえし。っていうか、お前何するつもりだよ」


 この期に及んで腑抜けたことを抜かす大樹の胸元を、遼は両手でゆっくりと掴み上げ、一音一音を強調して威圧した。


「いつまで逃げているんだこの腰抜けって、あいつに直接言ってやるのよ」

「頼むから勘弁してくれって!」


 がっちりと押さえ込まれて抵抗できないのか、大樹は情けなく身を捩っている。歯を食いしばってギリギリと首を締め上げると、苦しそうな息が鼻先にかかった。思わず顔をしかめて手の力を緩めてしまう。大樹はすかさず遼の手の甲に爪を立てた。


「くっ……あのなあ、凛はそれどころじゃないんだ。関係ないならしばらく放っておけよ。別に、お前今困ってないだろ」

「それどころじゃない? 関係ないって? 何様のつもり? あいつがずっとだんまりだから智春は、智春はねえ!」

「は、はあ? 何で委員長が出てくる?」


 何も知らない呑気な発言で頭に血が昇り、遼は大樹を前触れなく地面へ投げ捨てた。ギャッと悲鳴を上げた大樹は背中を強かに打ち付けたらしく、すぐには起き上がれないようだった。


「千葉山が今どうしてるかなんて知ったこっちゃない。私はあいつが何を知っているのか聞き出したいだけ。あいつが学校に来ないからこっちから行ってやるって言ってんの」


 放り出された拍子に唇の端を切った大樹は、手の甲で血を拭って咳をした。


「げほ……あいつが、何で休んでるかって、人前に出られるような状態じゃないからに、決まってんだろ……そんなやつに、お前みたいなのを会わせられる、かよっ……!」

「っ、そんなの、」


 思わず言葉を詰まらせる。もう一度掴みかかろうかと足を踏み込んだが、大樹の弱った顔と血の跡を見ているうちに、こんな奴にいつまでも時間を使っていることが虚しくなってやめてしまった。


「そんなの、あいつがただ弱いからよ」


 大樹はまだ強情な目で遼を見ていたが、もう戦う気力は残っていないのか、立ち上がって言い返してくることはなかった。こちらとしてもこれ以上役立たずに期待するつもりはない。地面を蹴って砂埃を立てると、遼は大樹に背を向けてその場を後にした。


 振り返らないまま歩く速度を上げ、校門に辿り着く頃には周りの目も気にせずに走り出していた。信号待ちの車を、杖をついて歩く老人を、のろのろと並走する自転車を追い抜いてどこまでもどこまでも走っていく。無理して笑う智春の顔がいくつも頭に浮かんでは消えていった。屋上から大声で叫びでもすれば、この鬱屈も晴れるのかもしれない。


 私は何を必死になっているのだろう、とふと思った。寂れた地方都市の空は先日の豪雨が嘘のように澄んでいて、道行く人は皆緩みきった表情をしているのに、遼の心には正体の掴めない違和感と焦燥感がいつまでもこびりついていた。


 このままではきっと()()()()()()()()()()()()()()


 痛みを隠して笑える人が傷つき続けるなんて、そんな世界を自分は許さない。

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