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閉塞学級  作者: 成春リラ
8章 拝啓 騎士になれない少女へ
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49話 重唱:茜空に歌う時①

 酒をレジに持っていっても年齢確認されたことがない。通学路から少し離れた場所に位置するあのコンビニの店員は、実際のところ七歳も鯖を読んでいる目の前の女が普段はブレザーとスカートを着て中学校に通っているとは思いもよらないのだろう。こんなことをしている自分もいつまでも詐称に気づかない怠惰な店員もクソみたいだと思う。


 缶の詰まったビニール袋を両手に安アパートの階段をのろのろと上っている時間はいつだって憂鬱だった。ステップをひとつ軋ませる度に拭えない汚泥が体の底に蓄積していくようだ。住人の名前は誰一人として覚えていない。早朝になると時折階段の途中で座り込んでいる寡黙な老人が本当にこのアパートに住んでいるのかも知らない。どうせろくな人間ではないのだから、覚えるだけ無駄に決まっている。


 今日もまた、三○五号室に辿り着いてしまった。片方の袋を無造作に廊下に置き、錆びたドアノブを握って五秒後。呼吸を止めて勢いよく扉を開ける。途端に饐えたような匂いと澱んだ温い空気が溢れ出していった。


 六畳半の室内に人の気配はない。ゆっくり、ゆっくりと深い息を吐き出して、スニーカーを履いたまま部屋に上がる。小型冷蔵庫の近くに袋を投げ出すと、ゴウンゴウンと騒がしく回っていた洗濯機がちょうど止まる音がした。カーテンを開けて洗面所に向かう。今、部屋の隅で黒い物体が過ったような気がするが見なかったことにしておこう。


 洗濯カゴなどという高尚なものはこの部屋にはないので、鷲掴みにした洗濯物を小脇に抱えてバルコニーの物干し竿に干していく。普段から雨晒しの洗濯ばさみはカビ臭い。


 脇から落ちた下着を拾おうと腰を屈めたとき、何かが首筋をそっと撫で上げた。全身の産毛が瞬時に逆立つ。振り向きながら距離を取ろうとして足がもつれ、バランスを崩して無様に尻餅をついてしまう。抱えていた洗濯物がばらばらと散らばった。


 背後から離れた羽虫が目の前を悠々と横切っていった。安堵より先に舌打ちが出る。


「っは、さい、あく……」


 連日の雨による水溜まりに浸された洗濯物に深々と溜息をつき、意味もなく辺りを見渡した。心臓の音が静まるまでしばらく動けなかったが、やがてバルコニーの塀を頼りに立ち上がった。


 今、何時だろうか。昨日から文字盤にヒビが入っている時計は止まったままだ。水浸しになった洗濯物をどうにかするのは諦めて部屋の中に放り込み、いそいそと朝の支度を始める。後のことは帰ってから考えるしかない。


 手櫛で髪を梳かすのもそこそこに家を出ようとして、


「あ、ヤバ」


 卓袱台の上のシートから錠剤を一つ摘まみ出し、隣に置いてあったガラスコップに入ったままの水道水と共に飲み干す。錠剤が喉を通って体内に取り込まれていくのがわかる。早く出かけなければならないと、眠たい頭に言い聞かせた。


 椎本(しいもと)(はるか)は、幼馴染みを一度も自宅に呼んだことがない。





「ああ、そう。へえ、やっとか。別に、どうでもいいよ。好きにしたらいいんじゃない。……それでいいのかって?」

「私がやめてって言ったら、あんたはやめてくれるの?」





 怠い朝練が終わって欠伸交じりに北校舎から出ると、南校舎に続く渡り廊下で幼馴染みが待ち構えていた。遼のことを見つけるや否や、にっこりと笑って駆け寄ってくる。鞄は持っていなかった。既に教室に置いてきたようだ。


「はーるかっ。おはよう! 朝練お疲れ様」

「おはよ」


 特に立ち止まりはせずに通り過ぎると、智春(ちはる)は遼の後ろをとてとてと付いてくる。周りの目を多少は気にしているのか、遠慮がちな小声が背中にかかった。


「あたし昨日、遼の家に電話したんだけど、通話中だったね。誰と話してたの?」


 後半は朝の喧噪に紛れていたが、遼の耳には届いていた。聞こえなかったふりをして無言で歩き続ける。智春は脚の長い遼に合わせるように懸命に追いかけてきた。本当に聞こえていないと思ったらしく、「昨日ね、遼の家に」と同じことを繰り返し言われそうになったので、


「ハハオヤ」


 観念したように大声で答えた。「そう、そうなの」と返す智春の声は妙に弾んでいた。


「ふふ、またお母さんと喧嘩したの? 愚痴ならいつでも聞くからね」

「そりゃどうも」

「遼はすぐ言葉が足りなくなるんだから、言わなきゃいけないことはちゃんと言わないとだめだよ。家族なら余計にね。そうだ、またうちでお泊まり会する? 最近お母さんが遼は次いつ来るのかってうるさくて――」


 饒舌に説教する智春を通りすがりの男子生徒が小馬鹿にするような目で見ていたので、智春に気づかれない角度から睨みつけておいた。男子生徒は慌てて逃げていく。ご機嫌な声を適当に聞き流しながら階段を上っていると、三階に着いた辺りで話題が変わった。


「あ、遼知ってる? 今日の音楽で合唱コンの曲決めするんだって!」


 知っているも何も、智春は先週からその話ばかりしている。


 合唱コン。合唱コンクール。こんな寂れた地方都市の公立中学校にも文化祭ぐらいは存在する。存在するのだが、如何せん寂れているので合唱コンクールが文化祭の演し物の大部分を占めるというか、文化祭イコール合唱コンクールになっているのが実情だ。中学校の文化祭ではクラス毎に屋台を出したりキャンプファイヤーをしたりするのだと信じ切っていた智春は、入学当初たいそう落胆していた。遼にしてみれば合唱コンすら面倒なイベントに入るのだが。これからしばらくの間は部活の時間を遅らせて教室で放課後練習をさせられるらしく、既に億劫極まりない。


「奥村先生に聞いちゃったんだけど、曲選びはC組が二番目らしいの。コンクールは選曲が大事だからね、良い歌が残っているに越したことはないよ。あたし好きな合唱曲いっぱいあるんだあ。『君とみた海』とか、『心の瞳』とか」

「どうせ多数決で決めるんでしょ」

「そうだけど、気持ちの問題よ、気持ちの」


 智春は晴れやかに笑っている。その表情には一点の曇りもない。特に今週に入ってからはずっとこういう調子だった。遼の前でさえ、まるで何の悩みもないかのように振る舞っているのだ。


 そんなはずはない。何の悩みもないなんてこと、あるわけがないのに。


菜々海(ななみ)ちゃん、おっはよー!」


 クラスメイトを見つけると、智春は遼と教室の間をすり抜けて颯爽と飛び出していった。生徒が行き交う雑然とした朝の廊下に膝丈のスカートがひらりと翻る。軽やかで透明な上靴の音と、清潔感のある石鹸の香りと、あの子の、誰かの、あいつの笑い声。


 白い光を浴びた後ろ姿が、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()


「ち、」


 名状しがたい焦燥感から智春、と反射的に呼びかけそうになったそのとき、自分の声に覆い被さるようにチャイムが鳴り始めた。


 ただの予鈴なのに、耳の中で反響する轟音に縛り付けられたように動けなくなる。中途半端に伸ばした手が空を掴んだまま固まっていた。二回も鳴るチャイムが異様に長く感じられ、全身が音に飲み込まれていく。今自分が何を叫んでも、智春には決して届かないような気がした。


「取り返しがつかなくなっても、知らないよ」


 面白がっているような、憐れんでいるような、反吐が出るほど甘ったるくて不愉快な誰かの声。もうここにはいないあいつの声が、体温と質量を伴って耳朶にまとわりつく。生々しい感触に思わず肌を掻き毟りそうになる。


 気持ちが悪い、やめろ――、


 後ろから誰かがぶつかってきて我に返った。


 さっき遼が睨みつけた男子生徒だった。遼よりも小柄な彼はこの世の終わりのような顔で慌てふためくと、日本語になっていない何事かを喚き散らして逃げていく。自分はそんなに酷い顔をしているのだろうか。


「ふざけんな、馬鹿」


 遼は本日二度目の舌打ちをしていた。


 日常が、目には見えないところで(ひず)んでいく。





 ここまで毒々しい赤をあたしは見たことがない。そう言い切ってしまえるほどに真っ赤な日だった。静かな校舎を焼き尽くすような夕陽の赤は、夢の中で思い返す度に彩度を増す。最近は、目覚めたときに世界の端がちらちらと赤錆びて見える。まるで空想が現実を侵食するみたいに。


 だけど、あれは空想ではない。真っ赤な夢を見るきっかけになった最初の出来事だけは、現実で本当にあったことなのだ。


 いくらなんでもおかしいと思った。C組の教室にも美術室にも彼女の姿がない。あの子が他に行くところなんてないはずなのに。そもそもどうしてこんな日に智春の制服を勝手に借りてまで学校に来る必要があったのだろう。


 土砂降りの雨に濡れて玄関に現れたあの子。元々小動物のように小柄なのに、あのときはいっそう小さく見えた。ふわふわと笑ってはいたけれど、どこか心細そうだった。いつもと違うことは最初からわかっていたのだ。やっぱりすぐに事情を聞き出すべきだったのかもしれない。


 不安で不安で仕方がなくて、校舎の中の時計を頻繁に見ていたので覚えている。十八時四十分。校内の見回りをしていた用務員の男性に出会って、早口で事情を説明した。学校に友達が来ているはずなのだが、どこにも見当たらない。最後に会ったときの様子がおかしかったので何かあったのではないかと心配している、と。途中からぼろぼろと泣き始めた自分にも用務員は親身になって話を聞いてくれた。


小田巻(おだまき)さん、今聞いた話だと、まだ北校舎の教室棟は見ていないんじゃないか?」


 目から鱗だった。北校舎といえば実技棟の方しか使わない、という先入観が邪魔をしていた。智春は用務員から止められるほど速く廊下を駆け回り、大声であの子の名前を呼び続けた。呼んでも呼んでも返ってこない。不安は増幅するばかりだった。


 十九時八分。


 北校舎教室棟三階に入るためのドアに内鍵がかかっていた。手持ちの鍵で解錠した用務員が智春に先んじて入っていった。薄汚れた廊下は狭く、用務員の大きな背中に隠れて前はほとんど見えない。苛立ちと焦りはさらに増していく。


 一番手前の教室のドアを開けた用務員が、はっと息を呑んだのがわかった。


「ねえ、どうしたんですか、何があったんですか? 用務員さん!」

「あんた、見ない方がいい……」


 低い声でそう言うだけ言ってドアの前から退こうとしない用務員に痺れを切らして、「ちょっと通してください!」と智春は制止も聞かずに用務員を押しのけて空き教室に転がり込んだ。


 膝をついた高さからの視界に、赤い上靴が映り込んでいる。


 それでほとんど理解したのに、智春は顔を上げてしまった。ああ、だからきっと自分はもう一人のクラス委員に「愚かだ」と嗤われるのだろう。頭のどこかで嘘であってほしいと願っていたから、悪い妄想を現実に否定してほしかった。大丈夫だよ、心配ないよって、そうあの子に笑ってほしかった。


 彼女の名前を呼ぼうとして、声が出ないことに気づいた。


 あたしがもう少し早く何か気づいていたら、あたしがもう少し頭が良かったら、あたしにもう少し力があったら、あの子は――明佳は、死なずに済んだのだろうか。





 お昼前の薄暗い音楽室に、レコーダーから流れる歌声が響いている。


 音楽教師で吹奏楽部の顧問でもある奥村先生は、小柄ながら迫力のある独特のオーラを纏い、常に皺一つないスーツをかっこよく着こなす女性教諭だ。先生はビシッと背筋を伸ばして黒板の前に立ち、美しい歌声に無言で耳を傾けていた。


 智春は膝の上で両手を組み、気もそぞろで自由曲を聞き流している。多数決で決めるのだからどの歌に手を挙げるのかを考えなければならないのに、鮮やかな旋律は右耳から左へと溢れ出ていく。実を言うと候補のタイトルもあまりよく把握していなかった。


 ちらりと左斜め前の席に視線をやる。居眠りをしては先生にまんまと見つかって怒られている生徒もいる中で、鬼城(きじょう)真夜(まよ)は姿勢良く椅子に座って真っ直ぐに黒板の方を見ていた。この位置からはほっそりとしたしなやかな右手と端正な横顔がはっきりと見える。シャーペンは左側に置いてあった。もしかしたら、左利きなのかな。


 彼女に気づかれないように視線を送ることに、もはや罪悪感を覚えてしまう。理由が理由だから尚更だ。


 頼みがあるんだけど、と網瀬玲矢に声をかけられたのは一時間目が終わった後のことだった。二時間目の美術の授業に向かう準備をしていた智春は、遼に先に行くように言って教室に残った。同じように一人で残った玲矢は相変わらず人好きのする笑みを浮かべている。緊張でつい肩が強張った。


 美術の資料集をぎゅっと胸に抱え込み、黙って玲矢を見ることで発言を促す。玲矢は智春に向かってにこりと笑いかけた。今更そんな顔をしたって無駄なのに、玲矢は智春の前でも決して笑顔を崩さない。それしか表情を知らないかのようだ。


 玲矢は前置きもなく本題を切り出してきた。


「真夜ちゃんのことを気にかけてやってほしいんだ。小田巻なら簡単にできるよね?」

「それって、監視をしろってことでしょう」


 察しがいいね、と思ってもいないであろうことを玲矢は平然と言う。


「平たく言えば、そうなるかな。別に難しいことはしなくていいよ。この前みたいに変なことをしようとしていたら止めてほしいだけ」


 この前、というのはやはり「あれ」のことだろう。


 先週の金曜日、帰りの会で校内のいじめに関するアンケートを回収している途中、突然立ち上がった真夜が玲矢の双子の兄――網瀬心良を抱え上げて教室の外に連れ出したのだ。それだけでC組は騒然となったのに、さらに真夜は心良を三階の渡り廊下まで運んでいくと、柵を一人で越えるなり「近づいたらここから飛び降りる」と言い出した。C組どころか学年、いや学校中が大騒ぎになったのも無理はない。よりによって明佳の件があったばかりだ。次の一日はどこに行っても真夜の話題で持ちきりだった。


 幸い真夜は怪我もなく戻ってきたが、今後似たようなことをしないとも限らない。


「玲矢くんが自分で監視すればいいのに、どうしてあたしに命令するのよ」

「やだなあ、人聞きの悪い。同じ女子の方が不自然じゃないだろ」

「あたしは玲矢くんに協力するなんて言ってない」


 すぐに、言い返したことを後悔した。無理に反抗するのはまずかったかもしれない。相手はあの網瀬玲矢なのに。だけど智春は、危険に関わることを極力避けたかった。


 玲矢は机に腰掛けて困ったように苦笑している。


「小田巻にとっても悪い話じゃないと思うんだけどな。不穏分子はなるべく目の届くところに置いておきたくない?」

「どの口が言ってるのよ」


 智春は一歩退いた。脅しをかけてくるのかと思えば、意外にも歯切れが悪いクラスメイトの様子に戸惑う。玲矢は目の前の智春を通り抜けてどこか遠くを見ていた。まさか疲れている、とか? とは言え、気が変わって前触れなくこちらに危害を加えてくる可能性も否定できなかった。


「まあ、俺もいろいろと忙しいからさ。頼んだよ」


 人気者はつらいねえ、なんて言って爽やかに笑う玲矢がどこまで本当のことを言っているのかわかるほど、智春は網瀬玲矢という危ない同級生のことを知らない。


 意識を四時間目の音楽室に戻すと、奥村先生は板書を進めていた。課題曲と自由曲のタイトルを並べているようだ。生徒に向き直って「さて、自由曲は決まりましたが――」などと言い始めたので智春は目を丸くした。嘘、あたし投票が始まってることにすら気づかないぐらいぼうっとしていたの?


 黒板には、「課題曲 旅立ちの時~Asian Dream Song~」「自由曲 COSMOS」と書かれている。課題曲は最初から決まっていたので事前に知っていた。サビに向かう盛り上がりと旋律の美しさが際立つ名曲だ。吹奏楽部で演奏したこともあった。自由曲の方も以前聴いたことはある。言われてみれば先程流れていたような気がしなくもない。


 奥村先生も一声かけてくれればいいのにと一瞬腹を立てそうになったが、悪いのは自分だ。そう認めたら、なんだか無性に虚しくなった。あんなに楽しみにしていたのに。


 ううん、自分は本当に合唱コンクールのことを楽しみにしているんだろうか。嫌なこと、思い出したくないことから目を逸らして、考えないようにしているだけなのではないだろうか。それは果たして善いことなのか、正しいことなのか、智春にはわからなかった。


 智春が一人で落ち込んでいる間にも授業は進行していく。自由曲の次は指揮者とピアノ伴奏者を決めるらしく、奥村先生は教室を見渡している。


「立候補者がいれば一番いいんだけど……誰か指揮をやりたい人はいる?」


 リーダーや代表者を募ったとき、C組で我先にと誰かの手が挙がることはまずない。だからクラス委員を決めたときは智春が立候補したし、男子の方は他薦で玲矢に決まったのだ。そういえば、文化祭の実行委員を決めるときにも結構時間がかかった覚えがある。全部自分がやっていいのならそうするのだが、残念なことに委員の兼任はできなかった。


 今回もそうだろうと思っていたら、先生の発言に食い込み気味で挙がった手があった。


 しかも、智春の左斜め前の席で、だ。


 教室がどよめいた。


「あら、鬼城さん早いわね。やる気満々じゃない」


 奥村先生の嬉しそうな声に、手を挙げたままの真夜は黙ってこくりと頷く。彼女の顔は見えないが、きっと至極真剣な眼差しをしているのだろう。そう思わせるほどに、一本一本の指先すべてに気を抜いていないような清々しい挙手だった。奥村先生はそういう挙手が大好きなのだ。


 ――そうじゃない、何だって?


 真夜が率先して何らかの役割に立候補したことは今まで一度もなかった。躊躇いがちに玲矢の方を見ると、向こうもこちらに目を向けていた。柔和な表情はいつもと変わらないのに、明確な圧力を感じる。やはりこれは「変なこと」らしい。これは無視をすると後で痛い目を見そうだ。


 どうやって止める? 自分も立候補すればいいのだろうか。でも、指揮者の枠は最大で二つある。他にやりたがっている人もいなそうだし、片方の曲は鬼城さんでもう片方は小田巻さん、となったらどうしようもない。


「他に希望者がいなければ自由曲も課題曲も鬼城さんにやってもらいましょうか。あとはピアノ伴奏ね。このクラスにピアノを弾ける人はいたかしら」


 あ、と閃いた次の瞬間にはもう手を挙げていた。若干机に身を乗り出しながら、いかにもやる気は十分という風に腕を伸ばして。


「あたし、ピアノやります!」


 皆が咄嗟に自分の方を見たのがわかる。肘をついて眠そうにしていた遼も眉をひそめて視線を投げかけてきた。途端にこれでいいのか猛烈な不安に襲われたが、一度言ってしまったからには引き返せない。奥村先生は優しい目で頷いている。


「小田巻さん、ピアノ弾けたのね。貴女がいいのなら、お願いしようかしら」

「今はやめてしまったんですけど、小学校まで習っていたので。ピアノは家にあります」


 正確に言うとお稽古事として習っていたのは小四までで、家に置いてあるのは電子キーボードなのだが、昼休みに音楽準備室のピアノを借りて練習すればなんとかなるだろう。


 さらに智春は、挙げた右手を水平に横へ伸ばした。


 ちょうど三列先に座っている幼馴染みに向かうように。


「椎本さんも指揮をやりたいって言ってました! 一緒にさせてください!」


 もっと露骨に眉をひそめて、聞いてないんだけど、という顔をされた。

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