4話 真っ赤な未来図①
夢はいつだって自分のそばにある。
こんな何にも無い町の公立中学の体育大会に、何が一騎当千だ。
――と膨れているのは、どうやらひまりだけであるらしい。
校舎にでかでかと掲げられた各団のスローガンは、揃いも揃って大仰な四字熟語。きっと発案者は後で黒歴史になるに違いない、コピーを取って成人式の日に送りつけたい。意地の悪い考えがむくむくと頭をもたげる。
残暑厳しい九月の初旬に外で長時間動き回れというのだから、教師陣は正気の沙汰ではない。こんな日はエアコンの効いた教室で先生の声を聞き流している方がよほど健康に良いというのに、わざわざ直射日光の下で生徒を整列させるなんて、中学生の熱中症患者を積極的に増やそうとしているのだろう。
うんざりするような体育大会の練習も明日から無いのだと思うと、少しだけ気分が良かった。ひまりは運動が苦手なわけではないが、体育大会特有の「団一丸となって優勝を目指す」というノリが好きではない。暑苦しい、鬱陶しい、たかが行事に何をそこまで。理由は色々あるが、普段そこまで仲が良いわけでもないのに、こういうときだけ団結力やらチームワークやらの大切さを主張する先生やクラスメイトが気色悪い、というのが一番だ。
そんな本心をクラスメイトの女子の前で言ってしまえば、孤立するどころでは済まない。ひまりは胸中でぶつぶつ文句を言いながらも黙って応援席の隅っこに一人で座っている。生徒が座る席はそれぞれ決まっていたのだが、午前の部が終わる頃には誰も守っていなかった。昼食から戻ると、ひまりの席は柳井千紗のグループに占領されていた。何か言って角が立つのも面倒なので、ひまりは空いている椅子に仕方なく腰掛けているのだ。千紗はC組の中でもとりわけ関わり合いになりたくない女子だった。
自分の席の横から水筒を取り上げようとして、うっかり千紗と目が合ってしまう。ひまりは即座に目を逸らし挙動不審ぎみに席へ戻ったが、背中に千紗の視線が張り付いているのはわかっていた。いかにも気にしてませんという風にコップに麦茶を注いでごくごくと飲んでいると、反吐が出るような甘ったるい声が耳を掠めた。全然内緒にするつもりがない内緒話の声だ。
「……存在感薄いっていうか。友達もいないっぽいし」
「バカ、聞こえるってえ」
コップの縁をがりりと噛んでいた。何とでも言いやがれ。
実際、柏葉ひまりに友達がいないのは事実だ。入学式当日、運悪く季節外れの風邪を引いたひまりは、新学期最初の一週間という何を差し置いても大事にしなければならない時期を家で寝込んで過ごす羽目になった。C組の生徒で小学校が同じだったのはほとんど面識のない子ばかりで、ひまりは完全に、女子のグループに入り損ねてしまったのだ。
今日こそ誰かに話しかけようと意気込んでは失敗する日々をしばらく繰り返した結果、これは無理かもしれないと半ば諦めた。九月現在、ひまりの友達はゼロである。おそらく、このままではこれからもゼロのままだ。
最近は、友達がいないならいないで別にいいかなと開き直り始めていた。困るのはせいぜいペア活動のときぐらいだ。惨めな気持ちにはなるが、慣れてしまえば案外なんてことない。好きでもない人と友達ごっこをするのもそれはそれで疲れそうだと思う。
別のクラスにいる小学校の頃の友達が軒並み遊んでくれなくなったことも、ひまりの人間不信に拍車をかけていた。卒業アルバムに書き込まれた「中学でも一緒だね、これからも仲良くしてね」というピンク色の無責任なメッセージが思い出される。仲良くするつもりがないなら何であんなこと書いたんだろう。もう何も信じられなかった。
学校なんて滅んでしまえばいい。独り善がりな呪詛は、体育大会の熱気で掻き消された。
「行けーっ! ファイト!」
「奏斗くんがんばってえ!」
応援席から歓声が沸き起こっている。ひまりは俯いたまま視線だけトラックの方に向けた。
バトンを持って走っているのは全員一年生だ。プログラムを確認すると、どうやらもう最終種目の団対抗リレーをやっているらしかった。C組から誰が選ばれていたか、ひまりはさっぱり覚えていない。
でも、今名前を呼ばれている男子が誰かは知っている。笹村奏斗。
良く言えばおとなしい、悪く言えば事なかれ主義者が多い一年C組の中で、明るくお調子者の奏斗は目立つ。授業中は茶々を入れ、休み時間は他の男子と大声ではしゃぎ、放課後は校庭に飛び出してサッカーの練習している。男子にも女子にも友達が多い。ひまりとは何から何まで正反対の人で、要するに、苦手なタイプだ。当然だが、話したことは一度もない。
奏斗は他のクラスの男子と競り合いながら走っている。C組の応援席の前を通り過ぎる瞬間、こちらに向かってピースサインを送ってきた。どっと笑い声が起こる。
「真面目に走れー!」
奏斗はバトンを渡し終えると、膝に手をついて息を切らした。顔を上げてきょろきょろと見渡しC組の席を見つけると、満面の笑みで大きく手を振った。ひまりの席の周りにいる女子たちから、きゃあと黄色い声が上がる。ひまりは思わず眉根を寄せた。
「奏斗くんってさ、サッカー部なのに陸上部の人より足が速いの、すごいよね」
「お父さんが元サッカー選手だったっけ」
「運動神経めちゃくちゃ良いもんね」
楽しそうに話す女子を見た奏斗は、「オレのこと?」と言わんばっかりに自分を指差して小学生みたいにはにかんだ。女子がまた声を揃えてかなとくーん、なんて可愛い子ぶる。
アイドル気分か、アホ。応援席の後ろから聞こえてくる保護者の忍び笑いが癪に障る。あー、青春っていいわねとか話してるんだろうな。本当にうざったいよそういうの。
「あっ、逃げ切った!」
「白団が一位だ!」
手を取り合って喜ぶ同級生とは反対に、ひまりは爆発しそうな苛立ちを噛み殺していた。
浮かれた校庭も同級生も親も、みんな大嫌いだ。
*
悪夢のような体育大会が終わって一週間。すっかり油断していたひまりを出迎えたのは、別の意味でダメージの大きいイベントだった。
授業参観だ。日曜日の四時間目、教室棟の廊下には保護者がずらりと並んでいた。
中学の授業参観と言えば、もう一部教師の自己満足のためにやっているとしか思えないやる気の無さで、保護者の大多数からすると廊下でお喋りするのがメインだろう。子どものことなんて気が向いたときにしか見ていない。紅黄中の一般的な授業参観風景だ。
だというのに、ひまりの母はわざわざ教室の中に入ってきただけでなく、後ろに飾られた生徒の作文を真面目な顔つきで捲っていた。体育大会も授業参観も来なくていいとひまりは言い張ったが、来なくていいと言うと来たがるのが母だ。
名前も覚えていない女子がひまりの母をちらちら見ていることに気づいて、ますます居たたまれない気持ちになる。母に話しかけられないように、ひまりは机に顔を伏せた。
「え、今日発表すんの? ほんとか? お前が選ばれたの?」
右斜め前の席から男子のやかましい声する。ひまりは顔の向きを窓の方に変えた。
「へへっ、どうよ! オレだってやればできる子なんだぜ」
「お前ぜったい、夏休み最後の日に書き始めて間に合わないタイプだと思ってた」
「残念でしたあ、オレはめんどくさいことをさっさと片付けて心置きなく遊ぶタイプですう」
「嘘つけー、数学のドリルは俺の写したくせに」
男子の会話に興味はなかったが、なんとなく腕の隙間から外を覗いた。笹村奏斗は机の横に立って得意げに話している。最初に驚いたように言ったのは確か、蓮田将人。奏斗と同じサッカー部の男子だったはずだ。
「ほんとに自分で書いたの? 俺同級生が下級生になるのは気まずいんだけど」
「ばっか、何でオレがコピペして留年するの確定してんだよ。中学に留年はありませーん」
会話を盗み聞きしている居心地の悪さを感じながらも、ひまりは将人に心の中で同意した。
今日の授業参観は、夏休みの宿題であった「将来の夢」がテーマの作文をクラス全員の前で発表するというものだ。全員が発表している時間はないので、事前に代表者が複数名選ばれている。その内の一人が奏斗である、ということらしい。
にわかには信じがたかった。授業中はいつも居眠りしているお調子者の奏斗でも選ばれるのなら、わたしも真面目に書けばよかったなあと失礼なことを考える。それとも友達が多くて人との会話に困ったことがないような奴なら作文もお手の物なんだろうか。それはそれで腹立たしい。天は二物も三物も平気で与えてしまうのだ。
授業開始の本玲が鳴る。不審そうな将人の肩をぽんと叩くと、奏斗は手を振って自分の席に戻っていった。後ろ姿でも調子に乗っているのがわかる。いつ見てもお気楽そうな人だ。
「起立。……礼!」
クラス委員の小田巻智春の合図で礼をする。よろしくおねがいしまーす、と覇気のない挨拶が教室に薄く広がって、ばらばらと着席。
教壇に立つ日野先生はどこか緊張した様子だ。教室の後方に保護者がほとんどいないとは言え、授業参観はまだ二回目だからかもしれない。黒板に「作文発表会」と書くと、先生は自分を鼓舞するように軽く手を叩いた。
「では、学活の授業を始めますね。今日は以前予告していたように、作文の発表会を行います」
前の席から回ってきたプリントを受け取る。表になっていて、発表者の名前と作文のタイトル、発表の感想を書き込む欄があった。これ面倒なやつだ、とひまりは瞬時に理解した。
「発表を聞き終わったら、良かったと思う発表者の名前の横に丸をつけてください。一番丸が多かった人の作文を、県のコンクールに出品します」
ひまりは内心溜息をついた。それで本当に優秀な作文が選べると思っているのならお笑い草だ。ただの人気投票になるに決まっている。仮にひまりが発表者だったとしても、ひまりに投票する生徒は一人もいないだろう。
ちらりと後ろを見ると、母は神妙な面持ちで日野先生の話を聞いていた。まさかひまりも発表すると思っているんじゃないだろうか。あなたの娘は選ばれていないということを念押ししておくべきだったと、ひまりは深く後悔した。
「じゃあ、一番目の渡谷くん、発表を始めてください」
「は、はい」
名前を呼ばれた男子生徒は、ぽてぽてと歩いて教壇に立ち、教卓の上で原稿用紙を広げた。
「『憧れの人』一年C組、渡谷柊」
しんと静まり返った教室に、柊のうわずった声が響いた。
*
医者になりたい、警察官になりたい、学校の先生になりたい。そんな当たり障りのない発表が続いて、ひまりはいい加減飽き飽きしていた。先生に気に入られそうな、聞こえのいい言葉の羅列。形式にはまった模範的な中学生の作文。テンプレ通りの作文をいくつも発表させることに、何の意味もありはしない。
ただ、当然ひまりもテンプレに沿った作文を出したので、皆の発表に文句を言える立場ではなかった。適当に感想を書いていると、褒め言葉のレパートリーが少なくなってくる。「夢に向かってがんばってほしいと思いました」――これはまだ書いていない。
奏斗が席を立ったのは、六人目の発表が終わったときだった。感想を書く枠はあと一つしか残っていなかったので、どうやらこれで最後らしい。
生徒がどよめいて、何人かの男子が奏斗を茶化すように騒ぐ。
「奏斗が最後かよ」
「何で笹村?」
「ちゃんと読めよお」
奏斗は男子たちを大袈裟に片手で制し、原稿用紙を丸めて突き付けると、挑戦的に笑った。
「お前ら、甘く見てっと後悔するぞ」
その言葉にまた男子たちが野次を飛ばす。行きがけに他の男子の頭を小突いていく奏斗を見ながら、何でもいいから早く読んでよ、とひまりは苛ついた。
軽い足取りで黒板の前に立った奏斗はやたらに自信ありげな顔つきだ。もったいぶったように丸めた原稿用紙を広げて、廊下の方をちらりと見遣ると、目一杯空気を吸い込むみたいに大きく口を開く。
「『二人の夢』一年C組、笹村奏斗」
奏斗がいつになく真面目腐った声でタイトルを読み上げて、教室のどこかからくすりと笑い声が零れる。ひまりも奏斗の過剰なパフォーマンスに内心呆れていた。
しかし、笑い声は奏斗の次の一言でぴたりと止まった。
「僕の最も尊敬するサッカー選手だった父は、去年の六月に死んだ」
緩んだ教室に一瞬で緊張が走る。ひまりも息を止めて奏斗の顔を見た。
「父は最期までこう言っていた。『お父さんには出来なかったことを、奏斗、お前がやるんだ』と。葬式の後、母は『笹村かい海と斗の名に恥じない、立派なサッカー選手になるのよ』と言った」
一呼吸おいて、奏斗は続ける。
「僕も、父のようなサッカー選手になりたいと思う。そのために、毎日暇さえあればサッカーの練習をしている。でも、僕の夢はその程度ではない」
その程度、と奏斗は力強く言い切った。
「僕の夢は、日本代表としてワールドカップに出場することだ」
奏斗は真っすぐ前を向いて、堂々と発表した。作文の内容は概ね覚えてきたみたいだ。
ひまりはシャーペンを握ったまま、固唾を呑んで奏斗の声に耳を傾けた。唖然としているのは、皆同じみたいだ。さっきまで奏斗をからかっていた男子たちはぴくりとも動かず、体育大会のときにはしゃいでいた女子たちも黙り込んでいる。
三歳のとき初めてサッカーボールに触れたこと、辛く苦しい練習から逃れようとする度に父に励ましてもらったこと、大会で優勝したときに家族でお祝いをしたことといったエピソードを、奏斗は巧みに語った。時折声を潜めたり、張ったり。
普段の奏斗からは全く想像できないその姿に、C組全員が引き込まれていた。元より奏斗は思ったことを大声で恥じることなく言う人であったが、このように発表という場で最大限に特技を活用しているところは、なかなか見る機会がなかったのだ。家族の死と夢という深刻な内容を、陸に根を張る大木のように揺らがない声で奏斗は話す。
「父は、一昨年の十一月に肺癌を発症した。そのときには既に末期で、余命半年と宣告された。けれど、結局父はそれから七ヶ月生きることができた。隣町にある総合病院、七○六号室に僕は毎日通い詰め、父の言葉を聞き続けた。おかげで僕は、幸いにも父の最期を見届けることができた。父は僕の手を取って、最後の力を振り絞るように言った」
お前がやるんだ。奏斗、お前がやるんだ。
「僕の夢は、父の夢を引き継いで、それを叶えることだ。そのためなら、どんなに辛い練習にも耐えてみせる。絶対に、父の想いを世界に連れていく」
奏斗は「天国のお父さん、見ていてね」という言葉で発表を締めくくった。
しばらく経って、教室全体から拍手が聞こえてくる。割れるような拍手の中で、ひまりは唇を噛んでいた。閃光を正面から浴びたような気分で、なぜだか疚しさで死にそうだった。
*
開票はすぐに行われたが、奏斗の作文が選ばれることは結果を聞く前からわかっていた。
「本当に、お前が自分で書いたのか?」
真っ先に机へ駆け寄った将人が言うと、奏斗は先ほどの凛とした様子から一転、ふにゃっとした笑顔になった。普段通りの様子に、周りに漂っていたしんみりした空気が和らぐ。奏斗は天井まで届きそうなほど鼻高々だ。
「あったりめえだろ。オレだって本気出せばあれぐらい書けんだ。それよりどうよ、オレの発表。立派も立派だったろ。こりゃ一発表彰ものだな」
「自分で言うなバーカ。俺が書いたコメント返せよ。何でもできやがってずりいぞお前」
「おーおー、負け犬の遠吠えは心地良いな。もっと妬んでくれていいんだぜ?」
「でも、本当にすごいよ、奏斗は」
続いて発言したのはクラス委員の網瀬玲矢だった。彼も発表者の一人だが、悔しそうな様子は全くない。玲矢は親しげに肩を組んで、皆を見ながら奏斗を指差した。
「奏斗、締め切りぎりぎりまで作文書いてたんだよ。何回も書き直してさ。俺夏休みに奏斗の家行ったけど、書きかけの原稿用紙が何枚も捨ててあった」
おおっ、と周囲から感嘆の声が上がる。奏斗は苦笑して頬を掻いた。
「おいおい、それはあんま言うなって。書き直しとかださいじゃんか」
「照れるなよ。奏斗って、実は結構努力家だよな。部活が終わった後も遅くまで練習してるし」
「へ……へへん、どうだ、皆見直したか?」
開き直って鼻の下をこする奏斗を、玲矢はにやにやしながら肘で突く。
「教室でははちゃらちゃらしてるのにな」
「お前、一言余計」
「ほら、作文見せろよ」
「うわあ、改めて見ると奏斗、ほんと字ぃ汚いな」
盛り上がる男子から離れたところで、千紗を中心とする複数の女子がひそひそと話している。聞き耳を立てるつもりはなかったが、こうして机に顔を伏せていると女子の噂話がよく聞こえてしまうのだ。心臓を直接くすぐるような声で誰かが言った。
「奏斗くんのお父さんって亡くなってたんだね。私全然知らなかった」
次の言葉を予測して、さらに気分が悪くなった。
「かわいそう……」
ひまりは千紗たちに聞こえない程度の小さな声で「馬鹿か」と呟いた。奏斗のことを「可哀想」という、上から目線な中身のない言葉で片付けようとするクラスメイトの安直さに嫌気がさす。奏斗があの作文を書いたのは憐れんでもらうためではないことぐらい、ひまりにだってわかるのに。
「でもさ、ちょっとずるくない? 作文っていうかあ、そういうエピソードのおかげだよね」
「それは言っちゃだめでしょ」
クスクス、クスクス。中身がなくてすかすかだけど、はっきりと毒のある笑み。
虫を生で飲み込んだような気色悪さと異物感に、ひまりは吐き気を覚えた。
顔を上げて、机の上で重ねた両腕に顎を乗せる。奏斗からも、千紗からも顔を背けて窓の外を向いた。わたしには関係ないことだと言い聞かせて。
そう、ひまりには関係のないことだ。どちらもひまりの友達ではないのだから、ひまりが奏斗に劣等感と羨望を抱く必要も、千紗に嫌悪を感じる必要もない。そんなの気にかけるだけ時間の無駄。だから、この無秩序な気持ちに決着をつけるつもりもないし、自分は今まで通り、教室の隅っこで息をするクラスメイトAのままでいい。