48話 前奏:光の声は地に深く
この世界の醜悪さを、どうかあんただけは知らないでいてほしい。
どうにも厄介なことになった、と網瀬玲矢は困ったように眉をひそめて嘆息した。
少し足を動かしただけで床板が軋む、古びた安アパートの三○五号室。何の変哲もないワンルーム。部屋の片隅で蠢くゴキブリに目もくれず、玲矢は真っ直ぐ足元に転がるモノを見つめている。冴え冴えとした双眸には何の感慨も込められておらず、かすかに残った緊張感は途切れていた。
暗く狭い部屋の中にはゴミの詰まった袋が五つ、口が縛られていない状態で鎮座している。日当たりが悪いにも拘わらず電球はついていない。袋から溢れたペットボトルやカップ麺の空き容器には虫が湧いていた。部屋の中央寄りに敷いてある薄汚い小さな布団は一際強い異臭を放っている。決して衛生的とは言えない。
そんな状況にも、玲矢は特段の興味を示していないようだった。
薄く埃が積もる床には髪の毛が無数に散乱しており、玲矢はその上に外靴を履いたまま立っていた。脱ぎ捨てられた学ランがやや離れた場所に落ちている。
「なんだか少し、疲れたな」
玲矢は左足で雑に床を払い、ゆっくりと腰を下ろした。ギイイィ、と床が鳴る。
曇った窓ガラスから外の様子は見えないものの、入り込む隙間風は冷たい。ぶるりと身震いをした玲矢は反射的に腕を伸ばして学ランを掴もうとしたが、自分の右手を見て諦めた。また一つ、大きな溜息。
「好奇心は猫を殺す、か。確かにそうだったね。ほんと、人助けなんて性に合わないこと、するもんじゃないよなあ」
ねえ、兄さん。
部屋の中に人の気配はない。玲矢は虚空に向かって疲れた顔で話しかけていた。
「兄さんだってそうだよ。課された役割に沿わないことはするべきじゃないんだ。だって、人には向き不向きがあるからね。そう考えると普段の俺って、随分頑張っているほうだと思わない?」
答える相手はいない。玲矢は構うことなく一方的に喋り続けている。
「きっと普段から良い子のふりばかりしているから、もしかすると自分は本当に良い人なのかもしれないと錯覚してしまったんだ。やだなあ、自己暗示って怖いね」
手持無沙汰なのか、玲矢は優しい手つきで床を撫でていた。一息に言い終えて数秒黙り込んでいたが、また思い出したように口を開く。
「ああでも、どうなんだろう。人間には良い側面もあれば悪い側面もある。百パーセントの善人も百パーセントの悪人も存在しない。清廉潔白な人がうっかり法を犯すこともあれば、極悪人が気まぐれに誰かを救うこともある。そんな考え方もあるか。それならば、俺が偶に人を助けることもあっていいと思わない?」
まあ、兄さんに意見は求めてないけどね。
玲矢は床を撫でるのを止めない。
愛撫するように動かされた右手が――びちゃびちゃと不気味な水音を立てて赤黒い液体に触れた。
「やっぱり、兄さんも連れて来ればよかった」
毒々しい赤に染まる視界には血塗れの肉塊が映っている。床を撫でる手も、長袖の白いシャツも、ほんのりと紅潮した頬も返り血でどろどろに穢して、玲矢は薄っすらと微笑んでいた。こみ上げた笑いを押さえ込むようにくつくつと肩を揺らす。
「でも、兄さんはこれを見たら卒倒しちゃうだろうな」
声には、呆れと慈愛が滲んでいた。
すっと躊躇いなく物体に突っ込まれた細い指が、ぐちゃぐちゃと中を掻き回す。周囲にいっそう濃厚な血の香りが充満していく。玲矢の表情は依然として変わらない。
紛れもなく、人間の死体だった。目の前に投げ出された脚を軽く蹴り飛ばすと、ずん、と爪先が沈み込む。柔らかな肉が潰れる鈍い音がする。
足元には手頃なサイズの鋸が置いてあった。学校の木工室からこっそりと持ち出したものだ。少し錆びているけれど、使えないことはないだろう。
「本当に、俺はこんなことしなくていいんだけどね」
憂鬱を振り切るように顔を上げた玲矢は、にこにこと晴れやかに笑っていた。鋸を手に再び立ち上がると、顔の前で悠然と構えて死体と向き合う。
「気が進まないけど、仕方ない。解体を始めようか」