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閉塞学級  作者: 成春リラ
7章 湖底で踊れ
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47話 水面に浮かべ

 三つ数えて目を開けると、炭酸水の海の中で薄桃色のクジラが泳いでいた。ばたつかせた尾びれの向こう側では血塗られた観覧車がきゅるきゅると甲高く鳴きながら回転していて、空気の抜けた気球があべこべな方向に飛んでいる。群青色の空の上に浮かぶちぎった綿あめみたいな雲がぼとりぼとりと青緑の液体を零した。腕を切られた桜色のくらげがずりゅ、ずりゅ、と気持ち悪い音を立てて足元を這いずり回っている。


 おれの頭にはべちゃべちゃしたくらげの腕が乗っていて、腕から生えた口が尖った牙をむいておれの目や鼻を食いちぎろうとしていた。払いのけて下に落とそうとすると指の先にぎゅるんと巻きついて取れなくなる。


 やめてほしい。それは玲矢のものだ。おれの頭も、目も鼻も、両手の指の爪の先まで全部玲矢のものだ。だから奪わないでほしい。玲矢のものは何も盗らないでほしい。


 ああ嫌だ。世界は危険だ。危ないものばかりだ。おれは弱いから、玲矢のそばにいないと頭のてっぺんからむしゃむしゃ食べられてしまう。


「──兄さんっ、戻ってきて!」


 玲矢の声が聞こえる。玲矢がおれのことを呼んで、戻ってきてほしいと言っている。


 戻るって、どこへ? おれは今どこにいるんだろう。足元の床は見たことのある緑色。教室からみんなで動くときに見る色だ。玲矢は確か渡り廊下って言ってた。どうしておれは渡り廊下に? おれはさっきまで教室にいたはずだ。帰りの会で担任の先生のお話を聞いていた。そこから後が思い出せない。


 頭上で流れる学校のチャイムの音と、救急車のサイレンの音、セミがうるさく鳴く声、校舎の床を誰かが駆け抜けていく足音、遠くで雷が鳴っている音、同級生の話し声、玲矢の笑い声、古びたバスがかたかたと揺れる音がマーブル模様になって脳みその浅いところを攻撃してくる。頭蓋骨が端からぱきぱきひび割れて地面に落ちていきそうだ。


「戻ってはだめ」


 音の合間にすっと滑り込んでくる雪降る寒空のような声。おれはたぶん、あの子の声を知っている。ずっと昔、何年も前に聞いたことがある。忘れてしまった誰かの声だ。音と音の歯車の間に入り込んで抜けてくれない振動だ。


「戻らないで。私の声に耳を傾けて。心良くん」


 おれは片足ずつ後ずさりをした。あの子は戻らないでと言っている。玲矢は戻ってきてと言っている。どうすればいいのかな。


 わかっている。決まっている。玲矢のほうが正しい。おれには玲矢しかいないのだから玲矢の言う通りにするのが一番正しい。ううん、玲矢の言う通りにするしかない。


「誰も来ないで!」と、女の子は鋭く叫ぶ。


「それ以上近づいたら、きみたちの責任になる!」


 玲矢のもとに戻らないといけない。でも──でも。


 わからない。どうしてあの子の声から逃げられないんだろう。いつもは玲矢以外の声なんて気にならないのに。今日のおれは何か変だ。おれは人形でなければいけないのに、考えてはいけないのに、今日のおれは何か変だと考えている。玲矢は困るだろうな。


「真夜ちゃんっ、やめて! お願い、こっちに戻ってきて!」


 別の女の子の泣きそうな声が遠くで響いた。真夜ちゃん。また「まよちゃん」だ。夏休みが終わってからずっと同じ名前が頭の中でぐるぐるしている。あの子の名前もまよちゃんというのだ。じゃあ、おれの頭にこびりついているこれは何なんだろう。


 おれはあの子のことを知らない。玲矢が知らないと言ったのだからおれも知らない。玲矢の知らない人をおれが知っているわけがない。おれの知らない人を玲矢が知っているわけがない。当たり前のことだ。


 切り落とされたくらげの腕が舌を出してちろちろとおれの目玉を舐めている。


「人は誰かを忘れるとき、最初に声を忘れるんだ。私もそうだった」


 細い柵の向こう側。思い出せないあの子は柵の向こう側に立っていた。足跡ひとつぶんしかない狭い踏み場に小さな足を乗せて、まっすぐおれだけを見ている。群青からレモン色に変わった空の下で藍色の長い髪がひらりと風になびく。


「きみは私の声に応えた。だから本当は私のことを覚えているんだよ」


 あの子の声を聞いてからおれはおかしくなってしまった。


「でも、きみが声を忘れても、匂いを忘れても、きみが早乙女真夜を殺したという事実は消えない」


 そうだ。あの子はおれのことをひとごろしだと言ったんだ。それからぜんぶがおかしくなった。宙に浮かんだアナウンサーが知らない外国語をぺらぺら話しているし耳元で電話のベルが鳴り止まなくてテレビの電源は切っても切っても切れず黄色いカッターナイフはぎちぎちぎちぎち悲鳴をあげて玲矢が投げたリモコンは部屋のどこにもないのにゴミ箱から溢れ出した音量は下げられなくて灰色の地面が熱で揺らめくのはぎちぎちぎちぎち。


 鈍い銀色の光を放つナイフがあの子の手の中にある。


「きみは私のことを覚えている。それを今から証明する」


 女の子の真っさらな顔が玲矢の笑顔と重なった。長いスカートが朱色の空に舞い、白い太ももがむき出しになる。手首がくるりと回って銀の光が下を向く。


 あの子はナイフの刃先を自分の太ももの上でためらいなく横に滑らせた。


 溢れ出した空色の、


 違う、


 鮮やかな赤い血がつうっとつたって女の子の脚を濡らした。


 あのときみたいに。


 夏が終わった日。脚をあり得ない角度に曲げたまよちゃんの頭の下で地面が赤黒く染まっていった。ぼくの見ている景色にはゆっくりと逆さに落ちていく女の子の姿が、両手にはまよちゃんの肩を正面から押したときの生温かさが残っている。


「うららくんは大丈夫だよ。ぼくだけが、ずーっとずーっと、そばにいるよ」


 耳の奥でほわほわとこだましている優しい声はまぎれもなくれいやくんのものなのに、スクリーンの中の映画を見ているように遠い。おれではない別の誰かがやったことを押し付けられているみたいだ。


 おれがまよちゃんをあの日殺したのだとしたら、今目の前にいるこの子は誰だろう。


「私の名前は鬼城真夜。いつかきみが殺し損ねた夏の残り香」


 柵を越えて差し伸べられた手がおれの頬に触れて、吐く息を頬っぺたで感じられるほど近くにあの子は顔を寄せた。ぞっとするほど冷たい手と瞳。玲矢はおれの前でこんなに冷たい目をしない。玲矢はいつだって太陽みたいに熱い。


 玲矢。玲矢はどこにいる? ひとごろしなんて「悪いこと」、玲矢だってやったことがない。だから意味がない。玲矢のしないことをすることに意味はない。玲矢はこんなおれでも助けてくれるだろうか。許してくれるだろうか。おかしくなってしまったおれをなんとかしてくれるだろうか。前みたいに。──前? 前って、いつのこと?


 だめだ、考えたらだめだ、どうして、どうしてこんなに考えてしまうの!


 ごめんなさい、ほんとうにごめんなさい、玲矢。二度と考えてはいけないと言われたのに、また「まよちゃん」のことを考えてしまった。玲矢の願うおれになるのに、きっとうまくいっていたのに、あの子が来てからおれはちょっとずつおかしくなっていった。


 どうしておれはただ玲矢の願うままに壊れる人形にすらなれないんだろう。


 おれのおでこと「真夜ちゃん」のおでこが、熱を確かめるみたいにこつんとくっつく。夜の闇色の瞳の中で虹色のうろこを持つ魚が集まって泳いでいる。おれはひとりで魚の群れの中に取り残されていた。


「私を、いなかったことにしたいでしょう」と、真夜ちゃんは静かに言う。


 搦めるように手首を掴まれていた。おれの両手がそっと真夜ちゃんの肩に乗せられる。


「ここから突き落として御覧」


 とくん、と心臓が大きく脈打った。あべこべな色の不思議な海の生き物は煙のごとくかき消えて、柵の向こう側にあるのは雲ひとつない紺碧の空だけだ。おれはあんなにきれいな蒼を絵本の世界のほかで見たことがあるのだろうか。


「もう一度、心良くんが私の肩を押せば、私は心良くんの人生からいなくなる。きみが覚えていてもいなくても、全部なかったことになる」


 忘れられるよ、と彼女は真剣な眼差しでおれにささやいた。


 手のひらにかすかな体温がある。真夜ちゃんの体の中を血が巡る音が聞こえる。


「玲矢もきっと、心良くんにそうしてほしいと言う」


 おれはどきりとしてついうっかり指を動かした。玲矢。真夜ちゃんはやっぱり玲矢のことを知っているんだ。本当にそうだろうか。玲矢がそんなことを言うだろうか。


 言うかもしれない。玲矢の考えることはおれにはもうわからない。おれは玲矢の兄さんで、玲矢に壊される人形で、最後まで玲矢と一緒にいる双子の片割れだ。それ以上のことをおれは知らない。知りたいと思うことも玲矢は許さないだろう。


「ぼくにできてうららくんにできないことはないよね?」

「まよちゃんを階段から突き落としてほしいの」

「ぼくならできるよ。うららくんには、できない?」


 これは覚えている。玲矢の言葉だ。玲矢は何もかも忘れてほしいと言うけれど、玲矢の言ったことをおれはぜんぶ覚えている。そうか、玲矢はおれに真夜ちゃんを突き落としてほしいと言ったのか。


 玲矢なら、真夜ちゃんを殺すことができる。


 一瞬だけ足元を見ると、柵から向こうの真下の遥か遠くに地面があった。真夜ちゃんの赤い血でべったりと汚れた足場は狭くて、おれが肩を強く押せば後ろに傾くはずだ。


 玲矢が、言ったから。おれは玲矢のことが好きだから、玲矢の願うことなら何だって叶えてあげたい。玲矢がおれを壊したいのなら壊れるし、玲矢が真夜ちゃんに消えてほしいと思うのなら突き落とす。おれならできる。嘘じゃない。ほんとうにほんとうだ。


 少しだけ手に力を込めても真夜ちゃんの目は変わらなかった。指先がしびれて汗がにじむ。唇を噛んでもう一回ぐぐぐ、と力を込める。真夜ちゃんは後ろに倒れない。


 おれは焦った。早くしないと玲矢に怒られる。なんで、なんで落ちてくれないんだ。


「落とさないの?」


 責めるような、あの子の声。


「心良くんがしないのなら、私が飛び降りるから」


 刹那、おれの手が真夜ちゃんの肩から離れた。


 横殴りの突風が吹いて長い黒髪がぱちぱちとコマ送りで舞い上がった。画面が切り替わるたびに空の色が七色に変わる。最後に澄んだ青が見えた。


「私、心良くんにずっと笑っててほしい。心良くんの笑った顔を、ずっと見ていたい」


 遠い日の眠れない雨の夜。


 がしゃん、とラムネの瓶が砕けた。


 水面から口を出して息が吸えるようになって、耳の感覚が透明になった。さっきまで気づかなかった周りの人たちの金切り声が聞こえてくる。彼方に見えるのは霞みがかった山と薄汚れた曇り空。灰色の町と小さな鉄塔。血塗れの柵とかたく結んだあの子の唇。


 考え、選んで、動いてしまった。


 ────ああ、どうして、


 おれは身を乗り出して、真夜ちゃんの体を柵に縛りつけるように抱きしめていた。


 もう一度とくん、と心臓が波打って血が全身に回っていく。


 数秒止めていた息を一気に吐き出すと、鼓動がばくばくと速くなった。すぐに柵から離れようとすると、真夜ちゃんは正面からおれの首に手を回してくる。赤ちゃんをあやすみたいに頭の後ろをそっと二回撫でられた。鼻をすうっと通り抜ける花の匂いがした。


 くすくす。言って聞かせるような妖しい笑い声が耳をくすぐる。


「ほら、ね」


 真夜ちゃんの声音が変わった。さっきよりもずっと、大人びたふうに。心ごと柔らかい毛布で包み込むような甘い響きで、心臓を鷲掴みにしているような恐ろしい色だ。


「これでわかったでしょう。きみは私のことを二度と殺すことはできない」


 ぎゅっと抱きしめられているのに、みるみるうちに体の芯から冷えていく。真夜ちゃんが言おうとしていることにおれは気づいてしまった。


 やめて、やめて、お願い、それだけは言わないで。


「心良くんは、玲矢と同じにはなれない」


 体じゅうの細胞が止まって、まったく動かなくなった。


「今でもきみは、心優しい心良くんのままだ。きみに『悪いこと』はできない」


 感覚だけは残っていて、真夜ちゃんの脚から流れ落ちるしずくがぽた、ぽた、と足元に血溜まりを作る音がする。生ぬるく湿った吐息が耳たぶにかかった。


「きみは自分の痛みに慣れすぎて、他人の痛みにも鈍感になってしまったのかもしれないけれど、私は六年前きみに刻み込まれた痛みをすべて覚えているよ。心良くん、私の痛みを思い出したら、どうかきみの痛みを思い出して」


 世界から色が消えて、光が消えて、音が消えて、おれの中にはあの子の体温と声だけが残っている。誰もいない暗闇でひとりぼっちになったみたいな気分だった。


 玲矢、怖いよ。おれは喉を枯らして声にならない声で叫ぶ。この子が誰なのかわからなくて怖い。おれが何なのかわからなくて怖い。玲矢はどうしてここにいないの。助けて。おれを助けて玲矢。いつだっておれを助けてくれるのは玲矢だけだった。玲矢のことしか信じていない。玲矢以外のぜんぶはおれの敵だ。


 もう誰も、おれたちの邪魔をしないでほしい。

 

 

 

 

「網瀬心良はここにいるけれど、早乙女真夜はもういない。私はきみの笑顔を取り戻すためなら命だって投げ出せる。私の命も、きみの命も」

「私は変わった。きみは変わらないで」



 

 

 ほんとうは、嫌だった。


 夏の緑の真ん中に一人で座っていた白いワンピースのあの子を、笑った顔が好きだと微笑んだあの子を、双子の片方ではなく網瀬心良を見つけてくれたあの子を、自分の手で階段から突き落とすなんてしたくなかった。生まれて初めて玲矢のお願いを聞きたくないと思った。そんなことを思ってしまった自分がいちばん嫌だった。


 きっとあのときほんとうの気持ちを言わなかったから、バチが当たったんだ。


 おれが玲矢を裏切ったことを知ったら、玲矢はおれを嫌うだろうか。


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