46話 湖底で踊れ③
好きなものよりも嫌いなものを共有したほうが居心地がよかった。不健全と言われるだろうけど、案外そのほうが友達関係は長続きするものだ。好きなものへの興味が急に冷めることはよくある。小さい頃は好きだった女の子向けのアニメも今となってはどうでもよくて、七歳の誕生日にねだって買ってもらった玩具が燃えないゴミの日に勝手に捨てられていたことも口論の原因にはならなかった。でも、嫌いなものは視界から外れない限りいつまでも嫌いなままだろう。
幼稚園に入った頃から小学校を卒業するまでの九年間、毎週水曜日と金曜日は母親の言いつけで書道教室に通っていた。書道の先生は七十代のおばあさんで生徒が字を手本通りに書けないとすぐに文鎮の角で頭を殴る人だったから、早く死ねばいいのにと心の中で呪詛を吐きながらぐっと堪える日々を繰り返した。
努力がようやく実を結んだのは小学校四年生のときだった。それまで掠りもしなかった県の審査で佳作に選ばれたのだ。生まれて初めて全校生徒の前で表彰状を貰った。喜びよりも安心のほうが強かった。母は娘が全く書道で賞を取ってこないことを常日頃から嘆いていたから。さすがの母も県知事の名前が入った表彰状を見たら自分を認めるだろうと思っていた。
「智春ちゃん、特選だったんですってね」
帰宅した詩央が口を開くよりも早く母は同級生の名前を出した。
「さっきそこでお母さんから聞いたの。うちは下の子の世話にかかりきりで智春にはろくに習い事もさせてこなかったから驚いた、って言ってたわ。すごいわねえ、智春ちゃん。習ってもいないのに特選だなんて」
へ、へえ、と上ずった声で背中に隠していた表彰状の端を握り潰すと「まあ、あんたも頑張ったんじゃない」と追撃された。母が詩央の受賞のことを知らないのなら素知らぬ顔で隠し通すこともできたのにそれはできなかった。きっと誰かが口を滑らせたのだろう。
あんたも頑張ったんじゃない。そんな言葉で努力を軽んじられるくらいなら罵倒されたほうがましというものだ。自分は努力の程度がそれ相応だったから佳作で、あの子はもっと頑張ったから特選だったとでも言いたいのか。これで不十分ならあとは何をどう頑張ればいい? そもそも頑張りの度合いという話ならあたしのほうが頑張ってた!
努力は無意味だ。人には生まれつき要領が良い人と悪い人がいて、何でもできる人と何をやってもだめな人がいて、前者は後者の積み重ねてきた時間の上を軽々と飛び越えていってしまう。詩央が七年かけてやってきたことをあの子はより輝かしい成績とともに一年と経たず追い抜いていく。
だから詩央は小田巻智春のことが嫌いになった。ううん、たぶんこの件の前から事あるごとにちくちくと比較されることがじくじくと痛くて、いつでも明るい日向の道を歩いている彼女をちょっとずつ嫌いになっていったのだと思う。みんなに好かれるあの子のことを自分だけは嫌いだった。みじめな劣等感を胸の奥底に抱えて息をしていた。
中学に入学して、書道部にだけは絶対に入ってやるまいとソフトテニス部の体験入部に行った。運動は元々好きじゃなかったし母は良い顔をしなかったけれど、それが詩央にできる最初で精一杯の反抗だったのだ。小学校からの友達はみんな文化部の見学に行ってしまったから、真新しい体操服に着替えた詩央は一人で体育座りをして先輩の試合を眺めていた。隣に誰かが座ったのは試合が盛り上がり始めた頃だ。
「ねえ、C組の人だよね。隣、いい?」
きゃるんとしたハイトーン。なのに妙に強制力のある声。モデルみたいに小さくて整った顔立ちの中の気の強そうな目が詩央を見ていた。彼女は制服のままだった。膝上丈のスカートの裾からは白くて綺麗な内腿がちらりと見えていて、丁寧に切られた爪はつやつやと光っている。縮毛矯正をかけているように真っ直ぐな短い髪からは甘い香りがした。
詩央の隣に座った意味は特にないのだろうと当然のように思って、どうぞ、と横にずれてスペースを空けると「ねえ、」と彼女はさらに距離を詰めてきた。
「錦辺さんって、小田巻智春のこと嫌いでしょ」
開けっ放しだった窓から風が強く吹いて、詩央の髪をぐちゃぐちゃに乱した。揺らがない彼女は挑戦的に微笑んでいる。
「は……?」
初対面の人にピンポイントに自分の心の中を暴かれた衝撃で絶句していると、「あんたわかりやすいって言われない? カオに全部出てるよ」と目の前の女子は快活に笑った。そうは言っても出会って二言目にそれを言うだろうか。
彼女は丸く光る膝の上に肘をつき、三日月型の目で詩央を見上げた。小さな口元から完璧な歯列を覗かせて。
「わかるよ。だってあいつウザいし」
それは思ってもみなかった言葉で、それまでの詩央の人生にはなかったもので。
錦辺詩央と柳井千紗は、つまりそういう関係だった。
*
日曜日の午後、LINEのグループトークに通知があったとき、詩央は自室のベッドに寝っ転がって動画を見ていた。読み込みが遅く続きが表示されない画面にいらいらしていると、彩芽の発言が上に流れてきたのだ。
『やばいやばいやばいって』
『速報速報!』
二つ続いた通知をタップしないでゆっくりと身を起こし、詩央は冷静にアプリを起動した。電気をつけていない薄暗い部屋の中では真っ白なトーク一覧が眩しい。
『なんかあったの?』
間を置かず未読アイコンの数がポコンと音を立てて増えた。詩央はトーク一覧を軽く上下にスライドしながら彩芽と璃子の会話をじっと眺めている。既読はまだつけない。
グループで会話が始まったとき、最初の五分は通知に気づいていないふりをしてトーク一覧から内容を確認する。会話の流れを読んで、自分がどういう立場からコメントするべきかを頭の中で整理してからトークを開くのだ。必ず最初の五分だけ。それ以上は翌日学校で冷たく当たられる。
四人の写真が設定されたアイコンをぼうっと見ていると次の通知があった。メッセージの奇妙な内容に、思わず眉をひそめてスマホを持ち直す。
『うちのクラスの女子が死んだらしいよ』
「死……んだ……?」
誰もいないのをいいことに手元に映し出された言葉をそのままつぶやく。
灰色の日常ではあまり馴染みのない単語が画面上で躍っている。その意味はもちろんわかるけれど、意味に見合うだけの驚きや悲しみは咄嗟にもたらされなかった。詩央がベッドの上に座り直している間に未読メッセージは次々と増えていく。
『えっマジ? 誰?』
『野河明佳って人』
『小田巻のグループの小さいほう』
『やば』
璃子の反応を最後に流れは一旦止まった。やはりトークは開かずに、詩央は固唾を呑んで静寂を過ごした。二人とも千紗の返答を待っているのだ。詩央ではない。千紗のだ。
一分、二分とデジタル時計の時刻が進んで、新しい通知があった。
『えーっ、テスト中止になんないかな(笑)』
三人が目の前にいるわけではないのに、急速に空気が緩むのがわかった。詩央もほっと胸を撫で下ろしてようやくトークを開いた。履歴をのんびり読むふりをして時間を空けている間にも会話は進んでいる。
『不謹慎じゃん(笑)』
『冗談に決まってるでしょーが』
『クラスライン動いてないけど』
『いや、知っててもあそこでは言わなくない?』
詩央は滑らかに画面をフリックして『彩は誰から聞いたの?』と言った。
『ママが隣の人と話してた』
『まだニュースにはなってないけど、近所ではけっこう話題になってるっぽい』
ニュースという文字列にどきりとして『そうなんだ。やばいね』と返す。何がやばいのかは自分でもよくわからない。後に続いた彩芽の発言にさらに心臓が跳ね上がる。
『あとね、自殺なんだってさ』
「……じっ」
自殺。詩央はスマホを握りしめて唾を飲んだ。自殺、自殺。現実味のない言葉が頭の中でぐるぐる巡る。そっか、そういうこともあるのか。
『まさか学校で死んだの?』
『そうそう、向こうの教室棟に使ってない教室あるじゃん? あそこの天井にくっついてる電灯で、首吊ったんだって』
『うわ、リアルすぎ』
『夢に出そう』
『今日寝れないかも』
『自殺ってさー、なんでするんだろうね』
千紗の無邪気な発言で一瞬会話が途切れた。
『死にたいからするんじゃないの?』
『それもあたしにはわかんない。なんで死にたいとか思うんだろ。死んだら何にもなんないし、楽しいこともなくなるし、虚無だよ』
『死にたいくらい悲しいことってそんなにある?』
これにはさすがの彩芽も璃子も困った様子で、『さあ』『うちもわかんね』と適当に躱している。自分も何か言わなければならない。
『いじめとか?』
特に深い意味も込めず打ち込んだメッセージに既読が三つ、暫しの沈黙。
あ、なんかまずいこと言ったな。お腹の底からとくとくとせり上がる冷たい緊張に詩央は息を止め、手汗で滑る樹脂のケースをいっそう強く握った。自分の発言で会話の流れが止まるこの瞬間がどうしても恐ろしくて、入学祝いにスマホを買ってもらってから半年が経った今でもLINEが苦手だ。
『うちのクラスにいじめってなくない?』
沈黙を破ったのは千紗の発言だった。数時間にも感じられる時間が流れたような気がしたが、実際には二分も経っていなかった。
『別に女子も仲悪くないし、あの子がいじめられてるところって見たことないな』
『確かに、そうだよね』
息継ぎを許された詩央はふうと溜息をつく。幸い、千紗の機嫌を損ねることはなかったようだ。尚もクラスメイトの自殺の話題が続いているトークに時折コメントを入れつつ、四人の中で一際目立つ千紗のきらびやかなアイコンを見つめる。
千紗は蜂だ、と詩央は思う。集団を統率する強靭な女王蜂。
柳井千紗、松木璃子、梶倉彩芽。この三人と同じグループに詩央は所属している。全員同じ一年C組で、全員同じソフトテニス部。移動するのも下校するのも一緒。
だけど、千紗だけは他の三人とは違う。明確に違う。
強いのだ、圧倒的に。このグループは千紗を中心に出来上がっている。璃子は千紗と同じ小学校出身で、彩芽は千紗と同じ塾に通っていて、詩央は千紗が声をかけた。千紗がいなければ成り立たなかった繋がりだ。四人の中で特別発言が多いほうではないのに、いつも千紗が何を言うか窺っている。千紗の決めたことに従っている。璃子や彩芽と千紗の振るう強権について話したことはないが、二人も同じことを考えていると思う。
示し合わせたわけでもないのにいつの間にか完成していた蜂の巣だった。詩央は一匹の働き蜂だ。女王蜂には絶対に逆らえない。
*
野河明佳の告別式の翌日に学年全体の保護者会があった、というのはその日のさらに二日後になって学校で璃子から聞いた。どうやら詩央の母親も参加していたらしい。夕食時の話題にすら出なかったので知らなかった。黙って陰で色々と把握して詩央には何も教えようとしないのはお母さんらしいやと思った。
昼休みに入る前に机を後ろに下げるのは一年C組の規則だが、詩央の机の周りは千紗たちが集まれるように微妙に空間を確保してある。周囲のクラスメイトとの関係上詩央の机を使うのが一番都合が良いのだ。
机の上に顎を乗せて自慢のサイドテールの枝毛を探しながら、璃子は訝しむように詩央を正面から見つめてきた。千紗はどこからか動かしてきた椅子に足を組んで座り、廊下側から見えないようにスマホを弄っている。
「詩央ってさ、なんかその辺冷めてるよね」
「え……そう、かな?」
「うちだったら親が隠し事してたらすぐ喧嘩になるけどなー。詩央は親に反抗とかしなさそう。部屋に勝手に入られても怒らないでしょ」
詩央は首を傾げた。璃子の言う「うち」は璃子自身を指すのか璃子の家のことを指すのかちょっとわかりづらい。
「反抗しないんじゃないよ。反抗できないだけだよ。あたしは牙を抜かれてるから」
「は? 何それ。頭大丈夫?」
璃子と詩央の中身のない会話を遮るように「あーっもう、うざったい!」と隣の列の彩芽が怠そうに声を上げた。実際にはそれほど大きな声ではなかったが、近くにいた男子はぎょっとした顔をしている。
「こいついつまで休んでんだよ、最悪ぅ。机下げてから休めばいいのに」
ガン! と脚の部分を蹴っ飛ばされたのは彩芽の席の後ろにある机だ。蹴っ飛ばされた拍子に中に入っていたプリントが数枚溢れて、彩芽は舌打ちをして面倒くさそうにそれを拾った。裏面にも表面にも足跡がいくつかついている辺り、前科ありかもしれない。
千紗はスマホの画面を見たまま他人事っぽい口調で訊いた。
「そこ誰座ってたっけ」
「千葉山だよ、千葉山凛。こないだの葬式のときからずっと休んでんの。マジ迷惑」
「ちばやま……って、誰」
二人分の机をようやく後ろに下げた彩芽は、早速椅子を千紗の横に持ってきて座った。
「誰って言われてもなぁ。ほら、あの背高くて暗いやつ。いつもおどおどしてる」
「ああ……あの女顔。って、彩と同じ小学校?」
「そうだけど、やめてよ。面識があるみたいに言うの」
後ろに倒れそうなほど椅子をゆらゆらと揺らしながら、彩芽は顔をしかめている。
「あいつねぇ、小六のとき同じクラスだったんだけど、不登校? で、卒業式も来なかったの。中学入ったら教室にいたからびっくりしたんだけどさ。だから今回もしばらく来ないんじゃないかと思うんだけど、登校してくるまで机退けといてよくない?」
なんとしても二人分の机を下げるのを避けたいらしい。確かに詩央も自分が同じ立場だったら少し嫌だ。彩芽とは反対に、千紗はスマホを鞄に放り込んで目をきらきらさせた。
「でもさでもさ、野河さんの葬式の日から休んでるって、意味ありげじゃない? あの二人ってなんかあったの?」
野河さん、の部分から声のトーンを落として内緒話モードに入った。昼休みで教室に人が少ないとは言え、「あの話」をしないことは今でもC組の不文律だ。距離を詰めて四人で顔を寄せ合うと、体温が上がったような感じがした。手始めに進言したのは璃子だ。
「うち、千葉山と野河さんが放課後に二人で渡り廊下歩いてるの見たことある」
「へえぇ、実は付き合ってたのかな」
「千葉山が? あり得ない」
「教室では話してたことないよね」
「彩、家まで行って訊いてきてよ。小学校同じなら近いでしょ」
「冗談きついよ」
「北校舎の教室棟って、よく先輩が出入りしてたよね」
「あんな人のいないところで何すんの?」
「何って……」
「もう、璃子ってばそういうことばっかり言う」
「詩央はピュアだから聞いちゃダメー」
「ないわぁ、千葉山に限ってないわ」
「ねえ、詩央は何か知ってる?」
不意打ちで千紗に話を振られた詩央は肩を震わせて言葉を濁した。
「あー、うん、知ってると言うか……」
おそらくこの場の誰も知らない情報を詩央は持っているものの、個人的な事情がいくつか重なっており公開したくはなかった。だが、隠すならちゃんと何も知らないと否定しなければならなかったのだ。現に千紗はほとんど命令するみたいな目で詩央を見ている。
「えっと、ね」
詩央は人差し指の腹を合わせて一呼吸ついてから語り始めた。
まさにその、葬式の日のことである。告別式が終わった後、参列した一年生はバスが来るまでエントランスに整列して待つように言われた。お手洗いに行きたい人は待ち時間の間に済ませるように、とも。終了直後は女子トイレが混んでいるように見えたので、詩央は少し時間をずらして向かった。
入り口から中に入ろうとしたところで、声を抑えた話し声がした。
「だから、あんたのせいじゃないんだってば」
極力声量を絞ってはいるようだが内容はしっかり聞こえてくる。ハスキーな声に滲んだ苛立ちにただならぬものを感じて、詩央は咄嗟に身を隠した。こちらの足音は向こうに聞かれていないようだ。
声の主は同じクラスの椎本遼だった。話したことはないが、小学校の頃から常に智春の後ろにボディガードのように付いて回っている女子だったので知っている。
「智春、あんたやっぱりなんかおかしい。精神が参ってるんだよ。明佳のことは一旦忘れたほうがいい」
「何で……遼までカウンセラーの人みたいなこと言うの。あたしは平気だよ」
ひどく憔悴した声だった。人前で気丈な笑顔を欠かさない智春の、根っこまで疲れ切った声。詩央は無意識に口を押さえ、音を立てずにその場にしゃがみ込んだ。押さえていないと喉の奥から飛び出そうなほど心臓が高鳴っている。
「私、本で読んだよ。智春みたいな責任感の強い人は、ショックなことが起こると何でも自分のせいにしてしまうんだ。だからそれは全部あんたの勘違いなんだよ」
普段は寡黙な遼がこんなに長々と喋っているところも初めて見た。詩央は息を潜めて耳を澄まして紛れもなく盗み聞きをしている。不思議と罪悪感は微塵もなかった。むしろ、興奮さえしていた。
「違うっ、責任感なんかない! あたしがもっとしっかりしてたら、明佳は」
「あーっもう、だからそうじゃないって……」
鈍い詩央でも話が掴めてきた。つまり智春は明佳の自殺を自分の責任だと思っていて、そのことで気を病んでいるのだ。何とも言えず智春らしい。なんだいつものやつかと思いつつ取り巻きの遼がここまで心配しているのならやはりただ事ではないのだろう。
周りに聞こえないように気を遣っていたことも忘れたのか、遼は声を張り上げた。
「あんたはもっと他人のせいにしていいんだ、もしあんたに責任があるんだとしたら一緒にいた私も同罪だ!」
「ちがう、やめて、遼は悪くない……」
「だいたい何で千葉山のせいにしないんだよ、智春が教室に入ったときに明佳の隣にいたんだろ?」
詩央はさらに耳をそばだてた。千葉山。千葉山凛か。詩央と同じ班の男子だ。どうして彼の名前がここで出てくるのだろう。
トイレの床に何かを叩きつける音がして、詩央は危うく悲鳴をあげるところだった。
「その話はもうしないでぇっ!」
智春の悲痛な涙声が部屋中に響き渡り、遼が意気消沈した低い声でごめん、と返した。程なくして二人が出てくる気配がしたので詩央は慌ててその場をあとにした。
という話を、詩央の私情抜きでかいつまんで話したところ、千紗は詩央は話し始める前よりもさらに目を爛々と輝かせていた。盗み聞きのうえ内容が内容だったので若干ばつが悪い。なるほどね、とつぶやいた千紗は玩具を見つけた小さな子どもの顔をしている。
「要するに、小田巻は野河さんの自殺現場の発見者で、そのとき野河さんの隣には千葉山がいた、ってことだよね?」
「そこまで正確なところはわからないけど」
今の話を整理すると確かにそういうことになる。
「隣にいたってどういう意味よ。千葉山が吊らせたってこと?」
「あいつにそんなことできるかな」
「でも、マジならやばくない? 殺人じゃん」
「違う違う、自殺教唆っていうんだよ」
勝手に話し始めた璃子と彩芽を片手で制し、千紗は思案顔になった。場の空気が途端に張り詰める。こういう顔をしているときの千紗は大抵ろくでもないことを考えていて、大抵誰にも止められない。
「……ねえねえ、みんな」
璃子の肩に手を置いていっそう輪の中心に顔を近づけると、千紗はおとぎ話に出てくる女王様のように艶やかに笑った。
「かわいそうな中学一年生の女の子、同級生の地味な男子に殺されたのと、友達の明るい委員長に殺されたの、どっちが面白いかな?」
ははは、と詩央は乾いた笑みを浮かべた。
やっぱり、女王蜂はろくなことを考えない。
*
千紗が予見した通り、帰りの会では校内のいじめについてのアンケートが配布された。何でも先日の保護者会で「野河明佳さんはいじめを苦に自殺したのではないか」「学校はいじめが起こるような環境をそのままにしているのではないか」などといった発言があったそうで、この学校の体質なら今週中にはアンケートでも配るだろうと千紗は見当をつけていたのだ。
まずは野河明佳の自殺の原因は小田巻智春であると書いてやろう、と千紗は高らかに言った。嘘でも何でも構わない、それっぽくストーリーを作り上げれば大人は喜ぶ。今こそ優等生のメッキを剥ぐときだ。
「でも、うちらが一斉に同じこと書いたらさすがにバレない? 仲良いの知ってるし」
「別に良いよ、痛くも痒くもないもん。どっちにしたってりょうちゃんは慌てふためくだろうし、どんなこと言い出すか見ものだわ。先生たちが何もしようとしなかったら、今度は学級会で吊し上げだよ。千葉山でも小田巻でも」
千紗は楽しそうに笑っている。結局のところ彼女は退屈を紛らわせる刺激が欲しいだけで、事の真偽はどうでもいいのだろう。詩央もそれについていくだけだ。
誰かの決断にただ身を任せるのは楽だった。何も考えなくていい。何も責任を負わなくていい。それに──実は少しだけ、楽しい。
詩央だけでは小田巻智春に爪痕を残せなかった。詩央一人の力では歯向かうことも考えられなかった。それが今は一方的に傷つけることができるようになっている。詩央のような取り柄のない人間でも、友達がいれば智春に勝てるのだ。
四人で考えた告発をアンケートに書いている途中、葬儀場のトイレで泣いていた智春の細い声を思い出したが、かぶりを振って最後まで書き通した。全員が書き終えたのを確認すると、日野先生は前の席に回してください、と言った。プライバシーはどうなってるんだと渋い顔をしつつ裏返しにして前の席の人に渡す。
凡その列で一番前の席までアンケートが回り、先生が回収し始めたそのときだった。
「ちょっとアンタ、じろじろ見ないでよ!」
璃子の声に釣られて窓際の列を見ると、最前列の席の生徒が立ち上がるところだった。
何度見ても見慣れない。何度見ても同じ空間にいることを認識できない。
腰まで届くしなやかな烏の濡羽色の髪。ぴんと天に向かって伸びた背筋と繊細な造形の横顔。紙を捲る指先は職人が一生をかけて造った陶芸品のように白く、細い。
「ひとごろし」と、ヴィオラを奏でるように彼女はつぶやく。
璃子の抗議の声は聞こえていないのか、無視しているのか、彼女は何かに取り憑かれたような狂気の目で宙を見つめていた。その双眸が突然こちらを向く。詩央はまるで生きた心地がしなかった。何? 何であの子はあたしのほうを見ているの?
いいや、違う。彼女の目は詩央ではない何かを見ていた。愛でるように。憎むように。尊ぶように。蔑むように。守るように。壊すように。
ぎりぎりぎりと教室中に激情が軋む音が響き渡りそうなほどに。一点目掛けて漆黒の弓を限界まで引き絞ったような視線のまま、彼女は──鬼城真夜は、これまでに一度もクラスの前で見せたことのない透きとおった笑顔でこう言った。
「どこにも書く必要なんかない。人殺しはきみだよ、心良くん」