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閉塞学級  作者: 成春リラ
7章 湖底で踊れ
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45話 湖底で踊れ②

 一触即発の空気は誰も触れなかったので割れなかった。


 定刻通りに始まった試験がつつがなく終了し、一人も取り乱したり泣き出したりしない平穏な教室は、難易度の高い間違い探しのようだ。思うに、ひまりはまた一人取り残されたのだろう。連休中のひまりが食べたり眠ったり無為に時を過ごしたりしている間に、ひまりのあずかり知らないところで一つ目の段階が終わってしまったのだ。


 副担任の朝の発言はほとんど何の波紋も起こさなかった。ひまり以外に驚いている人はいなかった、ようだ。だからひまりも最初から知っていたみたいに振る舞うのが「正解」だと思って、黙って表情を動かさないようにしていた。もしもクラスメイトが泣いていたら、自分も泣いていたのかもしれない。そういうものだ。


 特に関わりのなかった同級生の訃報を聞いたときの反応として何が正しいのか、ひまりは知らない。


 前田先生はひまりの前の席に試験用紙を置かなかった。遅刻欠席者にも配るように校則で決まっているのに。試験が終わっても、彼女の席は空席のままだ。


 聞き耳を立てるつもりはなかったが、やはりどうしても他人の会話が聞こえてくる。気にしてはいけないと思えば思うほど聴覚に意識を集中させてしまう。ひまりが気づいていなかっただけでみんな朝から彼女の話をしていたのだろう。変わったのは、一応表向きは「内緒」だったことが公的に共有されたことで「堂々と話題に出してもいいこと」になったことぐらいだ。


 野河明佳の首吊り死体が北校舎の空き教室で見つかったのは、土曜日の十九時過ぎのことだ。教室の施錠を確認しながら校内の見回りをしていた事務員の男性が、教室内の異変に気づき発見した。遺体は死後一時間が経過しており、慌てた事務員が救急車を呼んだときにはとっくに手遅れだった。問題の空き教室は、というか北校舎の教室棟自体が現在立ち入り禁止になっている。周囲には警察が数人うろついていて、生徒が下の階から回り込もうとしても止められるそうだ。――試験後の数分間で図らずもひまりが得た情報である。


 教室の中に遺書のようなものは残されておらず、机が除けられている以外に変わったことはなかったらしい。首吊りに使われたのは、倉庫に放置されていた縄だとか文化祭用に準備してあったビニールテープだとか言われている。ひまりが少し聞いただけでも憶測が入り混じっており真偽は怪しいところだ。


 別にこのまま授業が始まっても問題なさそうな空気だったが、三時間目の予鈴が鳴る直前に校内放送で今日の授業は急遽中止になったことが告げられた。ひまりは少しだけ安堵した。周りの生徒が軽々しく人が死んだ話をするものだから、ひまりの感覚も狂い始めていたのだ。同級生が死ぬなんて日常茶飯事で授業を止めるほどの事件ではないのかもしれない、と。


 だけど、午後から一年生総出で彼女の告別式に参列すると聞いたときはさすがに耳を疑った。





 五月の宿泊研修に行くときに乗ったな。駐車場にずらりと並んだ大型バスを見て真っ先に抱いた感想だ。疲弊した顔の日野先生が「前から番号順に詰めて座ってください」と言ったのを聞いて、ますます遠足みたいだなと思った直後、自分の不謹慎なものの捉え方に嫌気が差した。空はいかにも葬式日和という塩梅に曇っている。


 隣のB組は丁度バスに乗り込むところで、先生の指示を聞かずに好きな席に座ろうとした男子が頭を小突かれて怒られていた。遠方で固まって移動している他クラスの集団はとてもじゃないがこれから告別式に向かう人たちには見えない。楽しそうですらあった。笑っている奴もいる。


 やっぱり遠足じゃないか。


 ひまりがある日突然事故に巻き込まれて死んだとしても、こんな風にバスに乗って大勢で葬儀場に来られるのだろうか。それはかなり、嫌だ。


 紅黄中の一年生なんて九割九分ひまりの名前も知らないような人たちなのに遠足感覚で自分の葬式に来られるなど、想像しただけで寒気がする。でもまあ、それは野河明佳も同じだ。彼女はどうなのだろう。死んでいるのならわからない、のか。そんな簡単なことさえも意識に上らせるまでにタイムラグがある。


 C組のバスに乗って通路を歩いていたひまりは、窓側に座っていた生徒を見て思わず顔をしかめた。柳井千紗が普段連れ歩いている取り巻きのうちの一人だ。錦辺にしきべ詩央うたお、とかいう名前だっけ。千紗のグループの中では一番地味でぱっとしない、特徴のない二つ結びの女子生徒。向こうもこっちを見て気まずそうな顔をすると曖昧に笑った。特に反応を返さずに隣に座り、肘掛に肘をついて通路側を向く。


 ああそうか、とひまりはふと気がついた。野河明佳がいなくなったから、前に一つずれたんだ。


 心にぷつんと空いた針の穴ほどの隙間から、すかすかと空気が零れている。


 正直なところ、喪失というほどの喪失はない。どちらかと言えば、時計の長針が遅れているみたいだった。一分ぐらいの遅れなら、たぶんそのうち、気にならなくなる。


 通路を挟んで反対側にある外の景色がゆっくりと横に滑り出した。先ほどからぽつぽつと降り始めていた雨粒が窓を伝って細い筋を作っている。葬儀場がどれだけ遠くにあるのかは知らないが自転車で行けと言われなくてよかったと思う。


 がたんがたんと揺れるバスは静けさに包まれている。この状況でゲームをしようとか歌を歌おうとか言い始めるトンチキは少なくともこのクラスにはいない。ひそひそとした話し声も固い座席に吸収されて内容がわかるほどには聞こえてこなかった。


 強くも弱くもならない小雨が降る様子を眺めながら前回バスに乗ったときもこんな雨が降っていたなあと思い出す。それこそ宿泊研修のときだ。一年C組三十四人と引率の先生二人、全員揃って県外の青少年自然の家に向かった五月の中旬。まだクラスに遠慮とぎこちなさが多少なりとも残っていた頃。


 紐づけられたエピソードが立て続けに蘇る。舌の奥の方に苦い味を感じて、ひまりはつい下唇を噛んだ。


 今、錦辺詩央が座っている席。ひまりの隣の席にあのとき座っていたのが野河明佳だった。


 瞼の裏に映る記憶の中の明佳はサイズの合っていない橙色のジャージの袖から白い指先をちょこんと出して行儀よく膝の上に重ねている。ピンク色の小さな爪が磨いたようにつやつやと光っていた。明佳はとろんとした上目遣いで柔らかい髪を人差し指にくるくる巻き付けて何かを口にしたが、発言までは再現されない。きっと二人で何かを話したのだろうが、会話の内容は驚くほど覚えていなかった。


 ただ、明佳と話しているときの自分は常にしどろもどろでろくに上手い返答ができなかったことは確かだ。普段ほとんどクラスメイトと話すことがないせいで余計なことを言って気まずい空気にしてしまわないかどきどきしながら言葉を選んでいた。明佳はひまりが何を言ってもうんうんと頷いて愛らしく微笑んでいたような気がする。


「ひまりちゃん、ありがとっ」と明佳は目を細めて笑った。


 どうしてそこだけ思い出されたのだろうと考えて、バスを降りるときの台詞だと気づく。明佳が苦しそうに背伸びをして上の荷棚に置いた鞄を取ろうとしていたのでひまりが取ってやったのだ。至近距離で見た明佳の華やいだ笑顔に不覚にもどきんとして「あう、う」と後ずさりして口ごもると、明佳はもう一度顔を近づけてにっこりと笑った。なんだか鼻孔にまとわりつく甘い匂いさえしていた。


「あ、あの、野河、さん」


 自分が何を言おうとしたのかは忘れたが強張った声でそう呼びかけたとき、


「ちはるちゃーん、会いたかったよーう」


 くるりと背を向けてぴょんぴょんと飛び出していった明佳は、バスの外で友達に抱きついていた。


 言いかけた何かを咄嗟に飲み込む。今度は羞恥で顔が赤くなるのがわかって、伸ばした指は手の中にぎゅうっと握り込まれた。ひまりは誤魔化すように乱暴に鞄を掴んで早足でバスの階段を下り、明佳からなるべく離れたところに移動した。


 ああ、今ならわかる。勘違い、なんて自分で認めるのも悔しくて、ひまりはバスの中で起きたことすべてを必死で忘れようとしたのだ。冷却水をぶっかけられた心はしばらく経っても冷めることはなく、明佳とは合宿で同じ班だったにも拘わらず少しも目を合わせることができなかった。


 苦々しい思い出は合宿の記憶とともに中途半端に封じ込められていた。今さら呼び起こしてもしょうがないのだけど。


 合宿から五ヶ月、あの子は死んでしまった。湿った古傷だけを残して。


 こんなこと、彼女が死んでから思い出そうとすること自体が虫の良い話だ。





 やはり葬式に学年全員で押しかけるというのはたとえ向こうから呼ばれたのだとしても間違っているのではないか、と思わせるほど葬儀場はこぢんまりとしていた。外観も街中にあるお洒落なカフェみたいだ。煌びやかな照明が吊るされた明るいロビーにはなんとか全員収まっているものの、教師も生徒も窮屈そうにしている。よくよく考えてみるとひまりが父方の祖父の葬式に参列したときは親族しか集まっていなかったし、もっと陰鬱な雰囲気だった。だが、他人の葬式に来るのはこれで二回目なのでどちらが標準なのかは知る由もない。


 まさか人生で二回目の葬式が同級生の葬式になるとは思わなかった。


 バスに乗る前はへらへらしていた連中も建物に入ってからはおとなしくしているようだ。A組から順番に整列させられた生徒たちは所在無げに辺りを見渡している。ひまりもこれからどうなるのだろうという不安を少しずつ抱き始めていた。


 学年主任の先生が「式場内に入りきらないのでC組の生徒以外はロビーで起立したまま待機していてください」と言った。他のクラスの生徒は「起立したまま」の部分に反応して不満の声を上げたが、C組の生徒の間では別の緊張感が流れた。


 C組だけ特別扱いなのだ。故人と同じクラスだったから。


 誰かが洟をすする音と「やだよぉ」という震えた声が聞こえた。波及するように女子がすすり泣きを始めて、にわかにロビーが騒がしくなる。ひまりはどうしても涙を流せなくて、周りに表情が見えないように俯いていた。雰囲気に流されて泣くのはなんとなく嫌だった。


 式場の中は真っ白で、ひまりが想像していたよりも遥かに温かみに満ちていた。中央に花に囲まれた仏壇さえなければ結婚式の会場と言われても信じられるくらいだ。並べられていた椅子はクッション部分がふかふかとしていて座り心地が良く、そのことがかえってひまりの不安を煽った。女子生徒がすすり泣く声は心なしかさっきよりも大きくなっている。


 隣の席の詩央も目を潤ませていて、ひまりは無性に苛立った。あんたたち、いつも他の女子の悪口ばかり言ってるじゃないか。明佳に対してだって例外ではなかったはずだ。それなのに何が悲しくて泣いているんだ?


 焼香台の横に立っているのは遺族だろう。おそらく明佳の両親だ。席が遠くて顔はよく見えなかった。他に遺族がいるようには見えないから、あの子も一人っ子だったのだ。


 ぽーっと夢うつつに白い式場を見ている間に読経が始まっていた。何を言っているのかはさっぱりわからないしひたすらに退屈で仕方がなかったが、校長先生の話を聞くのと大差はない。周りの生徒も泣くのをやめて押し黙っている。このまま何事もなく読経を聞いているだけで式が終わればいいのにとひまりは心底思った。


 焼香の仕方は先ほどバスの中で教わっており、最初に日野先生が手本を見せるのでそれに続くようにと言われたが、遺族への礼を忘れたり抹香をこぼしてしまったりと上手くできていない生徒が多い。そんな中、前の生徒に続いて焼香台の前にぴんと背筋を伸ばして立ったのは小田巻智春だった。


 こちら側からは智春の背中しか見えないが、随分と堂々とした大きな背中に見える。智春は明佳と仲が良かったはずだが、彼女は教室でもロビーで待っている間も一滴も涙を流していなかった。内心どんな思いをしているのかひまりには知りようがない。虚勢を張っている様子は感じられないけれど。


 ひまりは智春が顔を向けている方向にちらりと目をやった。正直関わりのないひまりですらなるべく直視したくはない遺影の中の明佳は暖かそうな冬物の服を着て笑っている。家の中で撮られた写真のようだ。智春は数秒間、遺影と見つめ合ったまま動かなかった。


 最前列に座っていた網瀬玲矢が「小田巻」と小声で名前を呼ぶと、智春は無言で礼をして一つの手順も間違えることなく焼香をおこなった。もしかして急に糸が切れたように泣き始めたり床にへたり込んだりするのではないかと心配していたので、少し肩透かしを食らう。逆に最初の間がどうにも違和感を残した。


 智春が踵を返したとき、一瞬だけ彼女の顔がひまりのいる方を向いた。


 寒くもないのに、ぞくりと悪寒が走った。


 咄嗟に床へ目を落として膝の上で手を握りしめる。一度速くなった脈はゆっくりと正常に戻っていく。どうして目を逸らしてしまったのかは自分でもわからないのに、見てはいけないものを見てしまったという実感だけは鮮やかだった。


 あの顔。何だろう。虚しさも怒りも、一切を力でねじ伏せて封じ込めているような作られた表情。悲哀とも絶望ともつかない暗い輝きを宿した瞳。教室での委員長はあんな名状しがたい顔をしない。


 自分の焼香の番がやってくるまで、ひまりはずっと床を見つめていた。万が一智春がひまりを見ていたらと思うと怖くて顔を上げられなかったのだ。


 クラスの人たちがどんなことを考えてこの場にいるのか知り得ないことが、ひまりは急に怖くなった。なんとなくみんな同じ気持ちだろうと根拠もなく信じていた。つまり、いきなり同級生の告別式に参加させられたことへの困惑だとか、よく知りもしなかった故人への懐古だとか。だけど本当は画一化された感情なんてなくそれぞれの生徒に種々様々の思いがあって、みんな葬儀の空気に合うように己を押し込めている。


 目眩がする。こんな場所、早く離れたい。


 学年全員の焼香が終わるまで気の遠くなるような時間がかかり、お別れの時間になる頃には誰もがほとほと疲れたという様子だったが、それでも棺の中で一人眠っている明佳を見ると声をあげてぐすぐす泣き始める生徒が次々に現れた。このときになるまでひまりは明佳が死んだということを心のどこかでわずかに疑っていたので、本当に死んでいるのか、そうかという深い納得があった。納得って何への納得だ。「こんな状況」になっていることへの納得だ。


 ひまりも手渡された花を適当なところに置いた。明佳の顔はよく見ていない。間近で見たらいよいよ自分も泣いてしまう気がしたから。


 ずっと必要最低限の言葉しか発していなかった喪主は、出棺のときになってようやく口を開いた。ひまりの父親よりも随分若そうに見えるその男性は野河優と名乗り、まず今日紅黄中の生徒と教師が集まったことに対して礼を言った。あの子も喜んでいることと思います。


「明佳は私の宝であり、何を犠牲にしてでも守りたい最愛の娘でした。まだ幼い頃に実母を亡くし、毎日のように寂しい思いをさせていましたが、しかし――父親として愛していることがあの子に伝わればと、尽力してきたつもりでした」


 少なからず会葬者は驚いていた。明佳には母親がいなかったのだ。ならば、父親の隣でハンカチを頬にあてている女性は再婚相手だろうか。


「やはり男親では娘の気持ちを十分に理解してやることができなかったのか、明佳に悩みを打ち明けてもらえるほど信頼を得られなかったことが、今はただ悲しいばかりです。私も明佳の死が現実であることを信じかねており、今日も家に帰ればあの子が笑って待っているのではないかと、期待しているところがあります。空っぽになった明佳の部屋を見るたびに、二度とその部屋の主が戻らないことを思い出して胸が詰まります」


 言葉通り、胸を詰まらせたように明佳の父親は語った。苦しそうな喪主の声に感化されたのか、式場の外で話を聞いている他のクラスの生徒の方からもすすり泣きが聞こえてきた。


「明佳は表情豊かで素直な子でした。仕事で疲れている私のことをいつも気にかけてくれるよくできた娘でした。同時に、ちょっとしたことで落ち込みやすい不安定なところがありました。私たちの知らないところで何かに傷つけられて深く思い詰めてしまったのではないかと思うと、悔やんでも悔やみきれません」


 父親の悲しみに同調するように、泣き声が大きくなっていく。日野先生も真っ暗な表情で手の中の数珠を握りしめていた。


「あの子は、旧一年E組の教室で首を吊りました」


 ぴくり、と泣いていた女子生徒の一人が肩を震わせた。


「あの場所が明佳にとって特別な場所だったのか、なぜあの教室で死ななければならなかったのか、私にはわかりません。もしかすると、学校で何かつらい思い出があったのかもしれません」


 泣き声が少し収まって、別のざわめきが広まり始めた。ひまりも眉をひそめた。


 どうして明佳の父親が紅黄中の一年生全員を告別式に呼び、しかもC組の生徒を優先して式場に入れたのか、理屈こそわかれど意図を測りかねていたのだが、まさか。


「明佳が誰かに苛められていたのではないか、と申し上げてはおりません。皆さんに責任を感じさせたいということもありません。ただ、私の知らないあの子が苦しんでいた理由をご存知の方がいらっしゃれば、是非教えていただきたいのです」


 喪主のオブラートに包んだ言葉の裏に真逆の真意があることを、会葬者は敏感に感じ取っている。特に教師陣は顔面蒼白だ。今にも倒れそうな日野先生は前田先生に支えられて何とかその場に立っていた。


 ひまりは胸の奥の柔らかいところに冷たい手で直に触られたような気持ちになった。ご存知の方がいらっしゃれば教えていただきたい、なんて嘘に決まっている。そんなことを言い出したって誰も進み出るわけがない。


 すなわちこれは、娘を「殺された」父親から生徒へのささやかな復讐なのだ。


「特に、明佳と同じクラスだった一年C組の方々に」


 明佳の父親は座っているC組の生徒にぐるりと一周視線を投げかけた。ひまりも一瞬目が合って鼓動が跳ねる。何かを探るみたいに生徒を見ていた明佳の父親はやがて諦めたように俯いた。一体誰を探していたのだろう。


「知ったところであの子が蘇るということはなく、これは親の身勝手な我儘です。どうしようもないエゴです。それでも、どうか。どうか、お願いいたします。あの子が紅黄中学校に生きていたということを、忘れないでください」


 ざわめきの止まないまま喪主挨拶は終わり、野河明佳の告別式は締めくくられた。





 葬儀場の外に出ると雨はすっかり止んでおり、眩しい陽光がひまりの目を突きさした。告別式の直前まで曇っていたのが嘘のように青空が広がっている。水溜りの上を跳ねながら甲高い声をあげて走っていく他のクラスの女子を横目に、ひまりは帰りの送迎バスの待機列に並んでいた。


 式場の中では空調が効いていたが、こうして外に出てみるとあの場所には妙な空気がこもっていたように思う。深呼吸をするのはまだ憚られた。


「げえ、まだ全然時間あんじゃん。雨も降ってたし今日は休みだと思ったのに」

「ぜってえグラウンド整備しろって言われるだろ」


 奏斗含む体育会系の部活に所属している男子生徒がそんな話をしている。不謹慎だと指摘する人はおらず、むしろ奏斗の普段通りの発言に安心している様相の生徒が大半だった。ひまりも内心救われていた。救われることが奏斗にも明佳にも申し訳ないと思った。


 みんな、明佳の死について違うことを考えている。その内情はひまりにはわからない。


 でも、「明佳がなぜ死んだのか」については、たぶん告別式の前から、初めて彼女の訃報を聞いたときから誰もが興味津々だったのだろう。


 無神経な関心は明佳の父親の一言によって打ち消された。きっと野河明佳という名前はこれで禁句になったのだ。


 全員が与えられた役割を演じることで、保たれた均衡。平穏無事な一年C組。


 平和なクラスの中に、もしも「人を死ぬまで追い込んだ人間」がいるのなら、排斥しなければならない。


 賢いC組の生徒はそれが誰も幸せにはしないことを肌で感じている。だから触れないようにしている。誰だって自分が火種になるのは嫌だ。このままなかったことにすれば今まで通りに過ごせるのなら、その方が良い。


 ひまりも、そうするのが正しいのだろうと思う。


「あ、見て! 虹が出てる!」


 隣のバスの横に並んでいる女子の声につられて空を見上げると、葬儀場の向こうに七色の橋があった。その近くを一機の飛行機が通り過ぎようとしている。


 そういえば、今日の夜には母が旅行から帰ってくるのだった。


 しばらくはキムチでも食べさせられるのかな、と物思いに耽りながらひまりは同級生に押されるように大型バスへ乗り込んだ。




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