44話 湖底で踊れ①
あの子をいなかったことにして、時計の針は進む。
海を、見たことがない。空と海の境目に行ったことがない。岬に打ち寄せる波のとどろきを知らない。バンドウイルカのきょうだいの甲高い鳴き声を聞いたことがない。どこまでも遠く星の果てまで広がる青い水がどれほど塩辛いのかもわからない。五感で思い描くことさえも、きっともう難しい。
ほんものを見たことがないのならば、それが海ではないとどうして言い切れるだろう。
細いような太いような不思議なかたちのガラスの瓶の中は、コバルトブルーの水で満たされている。からん、ころん、と命のない透明な音が頭上で響く。あれは何の音だ。二度と戻ってこられないものが奏でる音だ。
ガラスの瓶を割れた爪でコンコンと叩くと、小指の先ほどの大きさの泡がたくさん弾けて消えていった。思えば、瓶に閉じ込められた水の中で、泡がどこから生まれてくるのかも知らないのだ。冷たいガラスの表面を指でなぞって泡の出所を探す。見つからない。
泡と液体に紛れて、数本の黒い糸が目の前を過る。ゆらり揺らめく糸の先には、容れ物であるガラスの瓶よりも遥かに小さな女の子がいた。青い水に包まれて、守られて、膝を抱え込んでいる女の子は何も身に纏っていない。不思議の国のアリスという言葉が頭に浮かんだが、女の子との接点を掴もうとすると、手縫い糸がぷつんと切れたみたいに何も思い出せなくなる。永遠に始まりに辿り着けなくなる。
可憐な唇からぷくぷくと零れる息は、青い水の中で回る泡と区別がつかない。息と泡は混ざりに混ざって水の流れに溶ける。女の子の白い体もいつか泡になって溶けてなくなるのだろうと思った。それは別のお話だったかもしれない。
一際大きな泡が吐き出されて、女の子の睫毛が震えた。瞼の奥の瞳が真夜中の蛍光灯のように光る。驚いた。だって、女の子はもう――動かないのだと思い込んでいたから。ラムネの瓶の中に落ちたら最後、二度と帰ってはこられないはずだから。
割れないガラスの壁越しに女の子は見ている。
誰のことを。
おれのことを?
*
嵐とともに中間試験の途中で挟み込まれた連休を、柏葉ひまりは部屋に引きこもって自堕落な日々を送っているうちに消費してしまった。火曜日に延期になったテストの勉強をしなければ、という焦燥と罪悪感がスパイスとして加えられたこと以外は特に変わったところのない、いつも通りの休日だった。
大雨でまったく外に出られなかったのかというとそういうこともなく、土曜日の朝になると黒々とした雨雲はすっかり見えなくなっていた。隣町やさらに向こうの都市ではそれこそ数十年に一度のレベルの災害に見舞われたらしく、テレビをつけるとどの局でも被害状況の中継をやっているほどだったが、幸い紅黄市では学校が一日休校になる程度で済んだらしい。
ひまりの母に至っては、雨が止んだのをこれ幸いと以前から予定していた韓国旅行に迷わず向かったのだから呆れたものである。さすがに飛行機は飛ばないんじゃないの、と引き留めたひまりに対して「飛ばなかったら帰ってくるね」と返してみせた母は、火曜日の朝になっても帰ってこない。ということは、今も旧友と旅行を満喫しているのだろう。試験期間中の一人娘を放置して楽しくグルメツアー中なのかと思うと若干腹立たしかった。母は「友達の家に泊まったら?」と軽い調子で提案してきたが、悪気がないというのはつくづく一番たちが悪い。結局のところ、旅行券を持っていないし友達もいないひまりは家で寂しく留守番するしかないのである。ちなみにひまりの父は去年から京都に単身赴任中だ。
だが、ひとりぼっちもそう悪くはなかった。母が家にいないときでもないと、リビングのソファで脚を伸ばしてポテトチップスをつまむなんてことはできない。だらしない昼夜逆転生活を堪能していたせいで、連休明けの朝は少し寝坊気味だった。
体育の日の翌日、十月十一日火曜日。ひまりは鏡の前で胸元のリボンの角度をチェックすると、多少の肌寒さを感じつつ早足で家を出た。天気予報では午後から小雨が降るとのことだったので、鞄に学校指定のカッパを入れてある。自転車通学が可能な半径二キロ圏外にぎりぎり引っかかっていることに感謝しながら、ひまりは自転車の鍵を差し込んだ。
丸三日経ったとは言え、大雨の爪痕は通学路の随所に残っていた。嵐の夜に地響きのような轟音が聞こえたような気はしていたが、どうやら木が倒れた音だったようだ。木自体はとっくに片付けられていたものの、無残な姿の幹が取り残されている。ひまりの登校時間に掃除をしている近所の中年男性も、今日はいつもより多く落ち葉を集めていた。
水溜りの上を通ってスカートに泥が跳ねないように気をつけて、でもスピードは気持ち速めに自転車を漕ぐ。秋の冷たい空気が心地いい。柏葉家から紅黄中までは急いで行けば五分で着くのだが、信号待ちの運が悪く、かかった時間は普段と大差なかった。職員室前の通用門の横を通ったのは朝の会が始まる十分前。ひとまず本鈴には間に合いそうだ。
学校の駐車場を視界に捉えたとき、ひまりはふと見慣れないものを発見した。白と黒に塗り分けられた車が二台、校舎のそばに停まっている。学校を囲む壁に隠れて見えづらいが、あれはどう見ても、パトカーだ。
なんか嫌だな、ぐらいの胸騒ぎがした。つい数年前まで安心安全とは言い難かった紅黄中では、暴力沙汰を起こした生徒がパトカーを呼び寄せることも珍しくはなかったそうで、ひまりも小学生の頃は紅黄中の方角へ向かうサイレンの音をよく耳にしていた。自分が入学してから校内で見かけるのは初めてだ。最近は全校集会でも高校受験の話題が出るようになっている。もし中三だとしたらこんな時期に馬鹿だなあ、とひまりは内心溜息をついた。しかも、中間試験の日にだ。このときにひまりの考えが及んだのはそこまでだった。
正門の前に立っている先生に小声で挨拶を返して、駐輪場に走り込む。C組の生徒はもう大半が登校しているのか、ひまりが停められるスペースは僅かしかなかった。隣の自転車を少し奥に詰めてなんとか自分の自転車を入れてから、昇降口へ向かう。
教室に駆け足で入った途端、予鈴が鳴った。本鈴までに着席していれば怒られることはないものの、このクラスでは予鈴以降に教室のドアを開けるといやに注目を浴びる。ひまりは少々肝を冷やした。
定期考査の日の朝のC組はいつにも増してしんと静かだ。予鈴が鳴る頃にはほとんど全員が出席番号順に着席し、試験範囲の復習をしている。C組のクラス平均は常に他のクラスより高いので、口には出さずとも真ん中から下に落ちないように必死な人が多い。ひまりの母はそこまで教育熱心な方ではないが、平均点を下回る科目があるとやはり小言が増える。どこの家庭も同じようなものだと思う。
だが、今日は教室全体に落ち着きがないように感じた。後ろを向いたり立ち上がったりしてひそひそと喋っている人が多い。特に聞き耳を立てることはせず、ひまりも番号順の席についた。窓際から二番目の列の前から二番目。一学期にひまりが座っていた席でもある。
左斜め後ろに柳井千紗がいるこの席のことが、ひまりはずっと嫌いだった。日野先生のピントのずれた方針のせいで、このクラスだけ一学期に一度しか席替えを行わないのだ。そのせいでひまりはC組の女子の中でもとりわけ苦手な千紗と四ヶ月もの間同じ班で過ごす羽目になった。今思い返しても悪夢のような毎日だった。二学期になってようやく離れられたのに、千紗の取り巻きの一人がひまりの机の近くにいるからか、今でも休み時間になるとしつこい羽虫のごとく目に入ってくる。
そんな千紗は、今日もひまりの左前にいる松木璃子の机に寄りかかっていた。二人の会話の内容は聞こえてこないが、意地の悪そうな表情からしてろくでもないことを話しているに違いない。不愉快だから早く席に戻ればいいのに。とは言わず、ひまりは無言で鞄の中から理科の教科書と赤い下敷きを出し、本鈴が鳴るまでの五分間を復習に充てようとした。
ガタッ、と音がして、ひまりの前の席の机の位置がずれる。
「あ、」
微妙に気まずそうな声を出した男子は空っぽの机を丁寧に元の場所に戻し、そそくさと自分の席に戻っていく。ひまりはなんとなくその様子が気にかかった。
前の席の子、あとちょっとで本鈴が鳴るのにまだ来てないんだ。ていうか、前の席って誰だったっけ。あまり思い出したくはない一学期の記憶を少しだけ引っ張り出すと、ぼやぼやと小動物みたいな輪郭が見えてきた。
ひまりの前の席の女子生徒は、本鈴が鳴っても教室に現れなかった。試験の日に遅刻する生徒がいるとは珍しい。さっきまでの落ち着きのなさが鳴りを潜めて、教室にはピリピリとした緊張感すら漂い始めた。こちらは、試験の日にはよくある光景だ。ひまりにも他人を気にしている余裕はないので、忙しなく下敷きを動かして重要単語の確認をしていると、ヒールが床を叩く音と、教壇に先生が立った気配がした。静まり返っていた教室がにわかに騒々しさを取り戻す。
「おはよう、ございます」
弱々しい声につられて顔を上げる。担任の顔を間近で見たひまりは思わずドキッとした。
普段はコンタクトなのに、今日の日野先生は黒い縁の武骨な眼鏡をかけていた。それに、憔悴しきった生気のない青い顔。瞼は腫れぼったく、いつもより化粧が濃く見える。教室の入り口の近くに立っている副担任の前田先生は一見変わりないが、よく見ると厳しい表情だ。出席簿をきつく胸に抱えて、日野先生は唇を噛んでいる。
教室の喧騒が解像度を増して、他の生徒の声がクリアに耳に入ってきた。
「……ね、先生が一番大変よね」
「今日のテスト中止にならない?」
何だそれ。さしものひまりもむず痒い違和感を覚えた。
どよめく生徒を諫めることもなく、日野先生は教室を見渡し、淡々と目視で欠席者を確認している。ひまりの前の席にも一瞬だけ射るような視線が向けられて、すぐに離れていった。出席簿を開いて無言で記入している日野先生に対し、教卓の真ん前に座っている笹村奏斗が机の裏側を爪先でドンと蹴り上げ、囃したてるように大声を上げる。
「りょうちゃん、今日は出欠採らないんですかあ」
やめろよ、と近くの男子が小声で言う。教室の形容しづらい空気を読まない奏斗が――敢えて空気を読まない発言をしているのだとひまりは知っているけれど――なんだか癪に障る。違和感に居心地の悪さが追加されて、ひまりは知らない人ばかりの集団に紛れ込んだような気分になった。みんな、わたしを差し置いて一体何の話をしているんだ?
奏斗の茶々を無視して出席簿を閉じると、日野先生は徐に口を開いた。先生の発言に興味津々なのか、クラス全員の視線が教卓に集まる。ひまりも同様だ。
「えー、皆さん。連休中は、しっかり真面目にテスト勉強に励んだでしょうか。大雨で苦労された地域の人もいるかと思いますが、今日の試験には集中し、」
先生は言葉を詰まらせ、少し俯いて続けた。
「……集中して、取り組んでください。中間考査が終わったら、文化祭の準備が始まります。晴れやかな気持ちで迎えられるように、残り二科目、全力で頑張りましょう。毎度のことですが、カンニングなどは絶対にしないように。今日の朝読書はありませんので、試験開始までどうぞ自習をしていてください」
以上です、と先生の話は締めくくられた。テスト前とは言えど、格段に短い。教壇を下りようとした日野先生の背中を追いかけるように、ひまりの左斜め後ろから「せんせえ」と甘ったるいハイトーンの声がした。
「もうみんな知ってるのに、なんで言わないんですか。隠した方がおかしいですよぉ」
ついさっきまで友達と楽しげに話していたくせに、千紗の声は泣きそうに潤んでいる。
「それとも、生徒より試験の方が大事なんですか」
千紗の感情的な声に追従するように、教室の前の方から別の女子生徒が「先生、どうなんですか」と責めるように声を飛ばす。日野先生は不祥事を起こして記者会見を開いている政治家のような顔で黙り込んでいる。ひまりは苛立ちを募らせた。千紗の言う「みんな」に自分が含まれていないことよりも、先生が何も答えないことに対する煩わしさが勝っていた。
「日野先生」と廊下側から宥めるように口を挟んだのは、網瀬玲矢だ。心なしか沈痛な面持ちである。
「変に隠されると、かえってテストに集中できません。どうせ伝えなければならないのなら、今言った方がいいと思います」
冷静に諭されたのが効いたのか、日野先生は雷に打たれたように目を見開くと、「はい。……はい、そうですね」とますます身を縮こまらせた。千紗が泣きそうな理由も玲矢の表情の意味も日野先生が何を言わなければならないのかも、ひまりにはさっぱりわからないのに、周りの生徒は皆訳知り顔で目配せをしているか、無言で目を伏せるばかりだ。
まさか本当に、わたしだけが何も知らないのか?
長らく静観していた副担任の前田先生は、教卓の上に置いた手をぎゅっと握ったまま動かなくなってしまった日野先生の肩に手を置いて、「私が言いますから」と優しく声をかけた。はい、と囁くように答えて日野先生は教壇を下りていく。代わって教卓の前に立った前田先生は、日野先生よりも芯のあるはきはきとした声音で、しかし険しい表情は崩さないまま言った。
「ニュースでも流れたので、皆さんご存知かもしれませんが――」
ひまりはそのとき初めて、前の席の女子生徒はもう二度と登校しないのだということを知った。