43話 トワイライト・フラクション
前後左右に上半身を揺さぶられてどろどろになった脳が頭の割れ目から噴き出す夢を見た。これ以上ないほどに最悪の目覚めだ。後頭部はずきん、ずきんと頭蓋にこだまするような痛みを盛んに訴えている。意識して瞬きをすると起きた瞬間からぐるぐる回っていた視界が正常に戻ったものの、ちかちかして眩しいことに変わりはない。だが、凛の思考は意外にもクリアだった。
開いた窓から教室に差し込む光は橙色に変わっていた。目の前には、テープを剥がした跡の目立つ机の脚。床との接地面にはテニスボールが嵌めてある。凛の身体は床に転がされているのだ。咄嗟に身を起こそうとして初めて、手足が動かないことに気づいた。腕は背中の方に回されて、上半身にガチガチに固定されている。
叫び声を上げたつもりが、くぐもった声しか出せない。口の中の強い異物感には目覚めたときから気づいていたが、混乱する頭ではそれが何なのかすぐにはわからなかった。ごわついたタオルのようなものを隙間なく口にぎゅうぎゅうに詰め込まれて、ガムテープで口を塞がれているようだ。体を拘束しているのも同じテープなのだろう。凛の力ではびくともしなかった。辛うじて自由である鼻から息を吸うと、凛の肺が大きく膨らんだ。
「……あ、気がついた?」
声は天井の方から降ってくる。どうにか首を反らして上を向くと、机の上にしゃがみ込んだ明佳が満面の笑みで凛を見下ろしていた。足元には辞書と、ハサミと、ガムテープと――縄跳びのロープ。小学生でも使うような、蛍光ブルーにラメ入りのビニール製だ。
どういうことなの、と尋ねたくても凛の口は開かない。解放してほしいという意味を込めて脚を床に叩きつけたが、明佳は反応しなかった。可愛らしく膝の上で肘をつき、可笑しそうに笑っている。
「目が覚めてよかったぁ。このままりんくんが死んじゃったらどうしようかと思ったもの。まさか辞書で一発殴っただけで三時間も寝ていてくれるとは思わなかった」
凛はもう一度瞬きをした。明佳は平然としている。
「あのねりんくん。こんなこと、昨日まで考えてなかったの。これは本当だよ」
こんなことというのは、どこまでを指しているのだろう。自分が鼻から息を吸う音、心臓がばくばくと拍動する音がひどく鮮明に感じられる。全身が内臓になったみたいだ。
手首の拘束だけでもどうにか外せないかと、凛は指を動かした。だが、どの方向に伸ばしても指先はガムテープの端に届かない。この期に及んでも凛は明佳が何をしようとしているのか全く掴めなかった。
「わたしの話、聞いてくれる?」
凛を殴って昏倒させ縛り上げたうえで床に放置しているこの少女は、一人で歌い始めそうなほど晴れやかな顔をしていて、薔薇色の未来を夢想するように声を弾ませている。明佳は凛にニコッと笑いかけると、可憐な唇を開いて語り始めた。
「わたし、ずっといちばんが欲しかったの。いちばんに、なりたかったの」
ぴゅうと吹いた秋風が明佳の髪を持ち上げて、体に合わない長いスカートを揺らす。風はすぐに吹き止んだ。
「誰かにとっての最愛で、最優先で、特別で、心の中をほとんど占めているような、いつだって相手のことだけを見続けているような――そんな、『いちばん』になりたかった。ううん、わたしこそがそうだと信じていた」
明佳はスカートの裾を整えるように座り直した。熱に浮かされたような表情に、言いようのない不安をおぼえる。語り口だけは穏やかなのがかえってアンバランスだ。凛は背中にじっとりと汗をかいていた。
夕日が熱い。
「いいえ、いいえ、わたしはあのとき確かにいちばんだったの。わたしがそうだと思っていたから。そしてそのいちばんはこれから先も変わらないと疑ってなかった。だってそれが『いちばん』だから!」
明佳の声が壊れたスピーカーのように裏返り始める。瞳孔はほとんんど開きっ放しで、底知れぬ恐怖は加速していく。
「だけど、気づいちゃった。永遠のいちばんを与えてくれる人なんてどこにもいないんだって。みんな一生かける覚悟もないのに『いちばん』を嘯くんだって」
誰も知らない残酷な真実を自分だけが知っている。そう唱えるかのように、明佳は机の上に立ち上がって高らかに告げる。
「みんな、みんな嘘つきだった。いちばんなんてどこにもなかった! どこにもないものをさもあるみたいに振る舞って、空っぽの愛で互いを慰め合って、いつ終わるとも知れない関係に興じているの。……わたしには、どうしてみんなが正気でいられるのかわからない」
明佳の甘い夢を、極彩色の絶望を、果てなき悲哀を、出来の悪いパッチワークのように繋ぎ合わせた言葉が凛の目の前を光の速さで通り過ぎていく。凛の知っている言語に聞こえなかった。
手首のガムテープは何重にも巻き付けてあるのか、必死で隙間を作ろうとしても微動だにしない。それでも凛は諦めなかった。額から汗が一筋落ちてきて瞼にかかる。拭うことはできない。
「いつか変わってしまうものをどうしてそんなに信じられるの? 自分を愛してくれる人がいつかいなくなってしまうことに怯えることはないの? この人は絶対に離れていかないって確信できないままどうやって生きていくの」
わからない、わたしにはわからない、全然わからない! 吹き荒ぶ嵐のように激情を帯びた明佳の声は、最高点に達した後唐突に凪いだ。明佳の苦しげな呼吸音が聞こえる。
「……だから、だからね。一生が無理なら、一瞬だけでもいちばんになろうと思った。一瞬なら、わたしにも作れるんじゃないかと思ったの。最後の一瞬は、誰かにわたしのことだけを見てもらいたかった。ねえ、りんくん、」
両脚を揃えて机からぴょんと飛び降りた明佳は、手に縄跳びのロープを持っていた。凛の前に膝をつくと、鼻先にロープを近づけてくる。ビニールの人工的な匂いがした。
「一瞬が終わる前に死ねたら一生と同じだと思わない?」
「――――っ」
凛はがくがくと頷く。暑いにも拘わらず全身が小刻みに震え始めていた。
全部明佳ちゃんの言う通りだよ。だから僕は明佳ちゃんのことだけを見ているんだ。それなのにどうしてこんなことをしているの。凛の声は依然として明佳に届かないが、言わんとすることは察したようだ。明佳はロープを凛の鼻にぐりぐりと押し付けると、やがて飽きたように放り出した。
「欲が、出たんだ」
内容に反して、その声は冷え冷えとしている。
明佳は凛が倒れる直前にも言っていた。「惜しくなったの」と。
「わたしのパパはね。『いちばん』と言っていたママが死んでも、すぐにまた別の『いちばん』を見つけてきた。いちばんは全く続かなかったの。ひどいよね」
彼女の本当の目的を、凛はようやく理解した。
「りんくんは、どうかな?」
そのとき凛は、天井の蛍光灯に括りつけられているもう一本のロープを認識した。凛の顔の前に置いてあるものとは色違いの、ラメ入り蛍光グリーン。それが沈む太陽の光を通してきらきらと光っている。床の方に向いているロープの端は輪っかになるように結ばれていた。
凛は喉が枯れるほど絶叫した。声はタオルに吸収されてほとんど発せられることはなかった。いっそう脚を床に叩きつけても足首のガムテープは外れない。
「ね、りんくん、白馬の王子様みたいだった。もしかしたら、わたしは一瞬だけじゃなくて、一生りんくんのいちばんになれるかもしれないって思ったんだ」
両目からだらだらと涙を流し、声にならない声で闇雲に叫ぶ凛に構わず、明佳はここにはいない誰かを恋い慕うように語り続ける。凛の濡れた頬に手を添えて少女は微笑んだ。
「だってりんくんは、一人じゃ死ねないもんね?」
明佳は凛を一人残して死のうとしているのだ。凛がすぐに後を追えないように縛り付けて。
再び立ち上がった明佳は、教室の後ろでくるくると回り始めた。笑い声を上げながら愛らしくステップを踏んでスカートを翻す様は、凛にとって悪夢以外の何物でもなかった。夕暮れの悪夢は凛を置き去りにして踊り続ける。止める術はない。
「二人で一緒に考えたもんね! 教室の蛍光灯は頑丈に固定されているからわたし一人ぐらいなら大丈夫。どの長さで結び付ければ首に一番体重がかかるかも調べたし、成功した後見苦しくないようにお手洗いにも行った。ほらほら、完璧でしょ? ねえ褒めてよ。りんくんしか褒めてくれる人いないんだよ」
明佳は泣いていた。夢見る少女の浮かれた笑顔を、大粒の涙で濡らしていた。子どもが親に甘えて抱っこをせがむみたいに、明佳は凛に向かって腕を広げる。
「りんくん、わたしを見て! ずっとずっと、わたしのことだけ見ていてよ!」
凛はまだ拘束を解くことを諦めていなかった。ずっと手首を引き離そうと力を込めていたおかげで少しずつ開いてきたのだ。だがテープを剥がして抜けるにはまだ足りない。間に合え、間に合ってくれ!
身体を捩って明佳の足元に転がると、凛は明佳の顔を見上げた。なりふり構わず懇願するように視線で訴える。声を出せない凛の願いが、明佳に少しでも伝わると信じて。
明佳ちゃんの苦しみをどうかもっと教えてほしい。さっきの告白を聞いても、僕には明佳ちゃんが何にそんなに絶望しているのか全くわからないんだ。説明してもらいたいことが山ほどある。「見る」とはどういう意味なのか。「いちばん」とは何なのか。もしかしたら、僕にならわかることができるかもしれない。僕と明佳ちゃんは同じ痛みを抱えているのだと、あの夜僕も思ったから。僕も明佳ちゃんに本当のことを全部話すから。
もし、理解できなかったとしても。言葉を尽くしても、それでもわからなかったとしても、僕は明佳ちゃんの言う通りにする。明佳ちゃんの望むようにする。明佳ちゃんの欲しいものを全部あげる。
だから置いていかないで。お願いだから一緒に連れて行ってくれ。
僕を一人にしないでよ!
凛の心の中の叫びを、明佳はどこまで感じ取ったのだろう。明佳の表情は変わらなかった。彼女はただ笑って凛のことを見ていた。
「りんくんはわたしのお願い、聞いてくれるよね」
静かに答えて、明佳はきゅっと口角を上げる。
床に転がされている凛に背を向けると、明佳は小さく呻きながら一人で最後列の机を退かし、後ろから二番目の席の周りの机を外側に寄せて空間を作った。上靴を履いたままその机にのそのそとよじ登ると、ぶら下げられた縄跳びのロープに手を掛ける。
明佳の不可解な行動の理由。どうしてわざわざ最後列ではなく一つ前の机の真上にロープを垂らしたのか、凛は気づいてしまった。
窓際から三番目の列の、後ろから二番目の席。
凛が一年C組で座っている席だ。
「さあ、これが本番だね」
震える手で明佳はしっかりとロープの輪っかを握り、歯を鳴らしながら首を通す。水面から顔を出して息継ぎをするように明佳は息を吸った。
「……あ、やっぱりちょっと、怖いや」
シミュレーションでは簡単だったのにね。あはは、と自嘲ぎみに笑う。
「わたしも……わたしもね。一人では死ねなかったの。だからりんくんと同じだよ」
明佳は涙を流しながら明るく笑った。凛は何もできない。こんなガムテープ一つさえ取り除くことはできず、振り絞った最後の叫びはタオルに吸い込まれて消えていく。強張った全身からみるみる力が抜けて、教室の床にずぶずぶと沈んでいくような心地がした。
凛はとうとう、明佳から片時も目を逸らすことができなかった。
「こんなこと、りんくんにはぜったいできっこないね」
深く息を吸った明佳が凛の机を蹴り飛ばし、細く白い首に蛍光グリーンのロープが食い込んだのと、目も眩む日光が教室の半分を覆ったのはほとんど同時で。
「あ、真っ赤、」
明佳の横顔がきらりと茜色に輝いて、潤んだ瞳は凛の方を向いていなかった。
*
赤い上靴を履いた少女の足が、振り子のように揺れている。
瞼の裏で今も尚揺れ続けている、ひとかけらの穢れた記憶。