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閉塞学級  作者: 成春リラ
6章 飛び込みシミュレーション
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42話 求愛ディストーション⑦

 昨夜の雨が嘘のように清々しく晴れた土曜日の朝、帰宅した凛を待っていたのは母の平手打ちだった。


 凛は避けなかった。昔は叩かれるのにも慣れていたし、今回に限って言えば母にも子を叩くだけの正当な理由があるだろうと、少しだけ思ったからだ。言葉にはしてやるまいと思っていたが。


 玄関に立っていた母は昨晩も暴れていたのか、顔のあちこちをガラスのようなもので切っていた。目は真っ赤に泣き腫らしている。乱れた髪と痛々しいミミズ腫れから目を逸らし、「ごめんなさい」と冷めた声で謝った。


「どこをほっつき歩いていたのよ」

「公園に、いた」


 嘘をついても仕方がないので、凛は正直に白状した。凛の返事には反応せず、母は「心配したのよ」と目元を拭う。


 昨日の怒りが鮮やかに蘇ってくる。今更になって母親面するな。それは自分が捨てられて独りになることへの心配だろう。この期に及んでこの親は、凛を気遣うふりをしながら自分のことしか考えていないらしい。凛のことなんて、体の良い使用人か家畜としか思っていないくせに。


 ふう、と息をついて怒りを抑え込む。明佳と遊具の中で眠って以来、頭がすっきりしていた。どうしてこんなに簡単なことを忘れていたのだろう。死ねば母も父も関係なく、凛が悩む必要はなくなる。母だけじゃない。学校に染みついた悪しき記憶も、自分のいまわしい出生も、きれいさっぱり消えてなくなるのだ。


 これまでに受けた数々の仕打ちや母に拘束され続けた日々を思い返しながら、母のことはもう考えない、と凛は自分に言い聞かせた。僕は解放されて自由になるんだ。あんたのことなんか知ったことか。


 まだ何か説教じみたことを言っている母の横を通りぬけたとき、「大樹くん」という声が耳を掠めて、凛は思わず振り返ってしまった。


「今、大樹って」

「電話したら、沙樹ちゃんと一緒に一晩中探し回ってくれたのよ。大雨の中、カッパ着て」


 全身の血が沸騰したかと思った。母が言い終わる前に「何で電話したんだよ!」と骨みたいな体に掴みかかる。母は苦しそうに一息で言い切った。


「あんたの方から電話しなさい。迷惑かけたんだから」


 凛の手を無理矢理引き剥がして、ゲホゲホとわざとらしく咳をしながら母は家の奥に引っ込んでいった。濡れた衣服のまま自室に飛び込んで、学校の鞄の中からスマホを取り出す。躊躇いがちに電源を入れると、大樹からのメッセージと着信履歴が鬼のように溜まっていた。


「大樹……」


 スマホを握りしめて数分の間迷った。絶交を自分から持ちかけた手前、もう大樹の声を聞くべきではない。しかし、大樹が家に戻っているという保障はなかった。まだ凛のことを探しているのだとしたら、せめて凛が家に戻ったことだけでも言った方がいいんじゃないだろうか。


 葛藤の末、凛は大樹に電話をかけた。ワンコールで繋がる。凛が話し始める前に大樹の声が聞こえてきた。


『もしもし凛か? 凛なんだなっ?』


 スマホにもう片方の手を添えて、唾を飲み込む。数日話していなかっただけで、その声をひどく懐かしく感じた。大樹には関わらないと決めたはずなのに、早くも心がぐらぐらと揺さぶられる。


「大樹、あの、」


 凛の発言を待たず大樹は脱力したように良かったぁと言い、『姉貴! 凛から電話かかってきた』と少し離れたところにいるらしい沙樹に向かって叫んだ。くしゅん、という控えめなくしゃみに続いて聞こえてきた声には憤りも含まれていた。


『お前さあ、どこいたんだよ、どこまで探させんだよバカ』

「えっと、公園……」

『はあ? んなのわかるかバカ! もっとよく行く本屋とかわかりやすいところに行けよアホ、バーカ』


 大樹の罵倒を受け止めつつ「あの、一晩中探してくれたって聞いたんだけど」と小声で機嫌を伺ってみたが、案の定かなりキレている声が返ってきた。


『ああそうだよ! まあ、日付が変わりそうになったぐらいで姉貴に止められたから一旦帰ったけど……どっかの誰かのせいで風邪引きそうなんだが』


 そう言われると凛もごめん、としか言えない。


『あのさ、オレもあんま友達に説教みたいなことは言いたくないわけなんだけど、突然連絡絶って失踪とかこっちの心臓に悪いからやめてくれ。家出するならせめて晴れた日の昼間とかにしろよ。っていうかオレんちに来いよ』

「……ごめん」

『それとも、本当に死のうとしてたのか』


 凛は言葉を失った。どうして大樹がそのことを――


『なあ、なんとか言えよ……』


 言い訳のしようがなくて、凛は口を噤むしかなかった。凛は大樹に何も相談していないのだから、すぐに白を切ればこの場は誤魔化せただろうが、もう遅い。やはり帰ったことを伝えたら早く電話を切るべきだったのだ。


 長い沈黙の後、大樹の方からつっかえつっかえに話し始めた。


『お前の、苦しいことや悲しいことを、オレが全部、理解することはできないし……オレには、何でお前が苦しいのか、わかんねえから。だから、オレよりも理解してくれる人がいて、お前がそれで救われるなら、それでもいいと思ってた』


 でも、実際はそうじゃなかったんだな。大樹の低い声が耳に入っていく。


『オレが、もっと深入りしていればよかったのか? 離れた方が……よかったのか。何でお前は、そこまで追い詰められて……っ』

「大樹、こそ」


 堪えきれず凛も口を開いた。


「大樹だって、馬鹿だよ。何でいつも、心配して、助けてくれて……僕は大樹に何も返していないどころか、迷惑ばかりかけるのに。僕みたいなやつのために、いつも……」


 ハア、とやり場のない怒りを乗せて強引に息を吐き出したような溜息が聞こえる。凛はつい身をすくませた。大樹は元々凛に比べて感情豊かな方であるが、ここまで怒っているのは見たことがない。凛が大樹のゲーム機に飲み物を零してしまったときの方がマシだった。


『お前に馬鹿とか言われる筋合いはねえよっ! お前の方が馬鹿だ! 世界でいっちばん馬鹿だ!』


 大樹の怒声にひるみ、でも、と言い返そうとしたが『だってもでももねえ!』と遮られる。


『そんなことも言わないとわかんねえのか? 何でお前を心配するかって、そんなもん、お前が一番大事な親友だからに決まってんだろ!』


 今度こそ凛は本当に何も言えなくなって、ここにはいない、一方的に声を荒げている大樹に向かってただ俯くしかなかった。


『一番の親友じゃないのに毎朝一緒に学校行ったりするかよ! 何度も家に呼んだりするかよ! オレがお前を心配するのはお前が苦しそうにしてるからだよ、友達の役に立ちたいと思うのは当然だろ。勝手に抱え込んで暴走するなよ……お前にはっ、オレがいる、のに。なあ、本当にオレ、迷惑だった? オレの勘違いだった……?』


 次第に萎んでいく声に洟をすする音が混ざり始める。「大樹、まさか泣いてる?」と尋ねると『泣いてねえよバーカ! お前のせいで風邪引いたんだよ!』とまた声が大きくなった。すん、ともう一度鼻を鳴らし、大樹は何かに誓うような真面目な声を出した。


『決めた。お前がどう思っててもお前に無視されても、オレはお前に話しかけるからな』

「な、何の宣言?」

『なんだっていいだろ。あのさ、オレ一日目のテスト全然できなかったんだ。お前に教えてもらわないと困るんだよ。だから今からうちに来い。約束だぞ』


 ええっ、と凛は徐に時計を見上げる。もうすぐ正午だ。


「ご、ごめん、家の中ぐちゃぐちゃだから、先に片付けないと……って、勉強ぐらい沙樹さんに教えてもらえば」

『お前じゃないとだめなんだよ! 片付け終わってからでいいから絶対来いよ』

「大樹、本当に今日どうしちゃったの?」


 普段の大樹なら絶対に言わないような台詞が次から次へと飛び出すので、凛は電話をかけた目的をすっかり失念してしまっていた。


『おい凛。お前の使命はうちに来てオレに中間のヤマを教えることだからな。その後は……ええと、期末のヤマを教えろ。ついでにこの前勧めた漫画を読め。それと、姉貴が作ったクソ不味いパウンドケーキの処理を手伝え。あとお前の友人関係について少々口出ししたいことがある』


 要求の一つ一つにこくこくと頷いて「わかった」と言うと、大樹は軽く舌打ちをした。


『だから、二度と死ぬなんて言うんじゃねえぞ。ばーか』


 大樹には言ってないのに、と抗議する前に電話は切れた。


 体を拭かず着替えもせず部屋に入ったせいで、足元に軽い水溜りができている。振り向くと、入り口からここまでべったりと足跡がついていた。


 部屋を出た凛はまずシャワーを浴びて、それから大樹に言った通りにリビングの片付けを始めた。二時間程度では到底母の暴れた跡を片付けきれなかった。最も危ない皿の破片は踏んで怪我をしそうだったので掃除機で吸い取って、テーブルや椅子は元の位置に戻したが、凛だけでテレビを運び出すのはさすがに無理がある。カーテンも破れたままだった。凛一人でできるのはここまでだ。


 母の部屋を覗き込むと、斜めに敷かれた布団の上で眠っていた。少し迷ってから、乱れた服装を戻して毛布をかける。


「母さん、いってくるね」


 母は答えない。制服を身にまとった凛は母の部屋の戸をそっと閉じた。


 学校の鞄を下げて、大樹、ごめん、と胸中でつぶやく。自分は大樹にそんな風に言ってもらえるような人間ではない。大樹の一番の友人としてふさわしい人が他にいるはずだ。


 最後にこんな形で裏切ることになるとは思っていなかったけれど。


 でも、先にした約束を守らなきゃ。





「今日の十五時、一年E組の教室に来て」

「りんくんは何もしなくていいよ。来てくれるだけでいいから」

「絶対に、約束だからね」





 小田巻智春の家に野河家の固定電話から連絡があったのは、中間試験が中止になった金曜日の夜のことだった。明佳が大雨の中家を飛び出していって、この時間になっても帰ってこない。智春ちゃんのところに来ていないか、と明佳の母は泣きそうな声で言ったそうだ。電話を取った智春の母は、うちに来たらご連絡差し上げますねとだけ伝えた。


 その翌日の昼前、明佳は本当に智春の家の玄関に現れた。どこも見ていないような虚ろな瞳で、全身から水を滴らせながら。


「もう、突然何おかしなことしてるの。明佳のお母さん心配してたよ?」

「えっへへ、ご心配おかけしましたぁ」


 小田巻家の風呂から上がってきた明佳は、智春の服を着て余った袖をぶらぶらさせると、普段と変わらないふにゃっとした笑顔を見せた。随分長々と湯船に浸かっていたらしく、全身がほかほかしている。智春は丁度明佳の家に電話をかけたところだった。


「わたしのママ、なんて言ってた?」

「なんてって……無事だったならよかった、としか」


 ふうん、そっかぁと自分から訊いたわりに興味のなさそうな声でぼやいて、明佳は遠慮なくリビングのソファに腰を下ろす。智春はコンセントにプラグを挿し、明佳の髪を後ろから勝手に乾かし始めた。電源の入っていないテレビに映り込む明佳は気持ちよさそうに目を瞑っている。


「あ、今日は泊まっていくといいよ。明佳のお母さんもいいって言ってたし」

「うん、ありがと」


 不在である智春の両親の了承を取ってから、だが。今まで断られたことはないのでおそらく大丈夫だ。


 隣の部屋から顔を覗かせて、二人の子どもがとてとてと明佳の正面まで走ってくる。智春の弟である冬斗とうとと、妹の露花つゆかだ。露花は春に幼稚園に入ったばかりで、冬斗は年長。三つ編みにしてもらった髪をぴょこぴょこ跳ねさせて、露花は明佳の膝に手を乗せた。この妹、毎日世話をしている智春よりも偶に家に来る明佳の方に懐いている節があるのだ。


「めーかちゃん、今日お泊りするの? 一緒に晩ご飯食べる?」


 舌っ足らずに尋ねてくる露花の頬を摘まんで、「するよぉ」と明佳は笑う。


「つゆかちゃん、頬っぺたもちもちだね。ちっちゃくて可愛いねぇ」

「えへ、いいでしょ。ねー、めーかちゃん、あっちでお絵描きしようよ」


 まだ乾かし終えていないのに、ぐいぐいと手を引かれて明佳はソファから立ち上がった。智春は苦笑してドライヤーを片付けると、自分の部屋に入って服を着替えた。


 明佳の事情は不明だ。でも、たとえば母と喧嘩をした程度では雨の中裸足で家を飛び出すということはないと思う。今は何事もなかったかのようにへらへらと笑っているが、何かのっぴきならないことがあったのだろう。話したくないのならそれでも構わないが、一応冬斗と露花が寝た後に訊いてみるか。


 智春は冬斗と露花の部屋を覗いて、「あたしちょっと出かけてくるね」と声をかけた。露花と明佳が絵を描いている横でつまらなそうに本を読んでいた冬斗だけが顔を上げる。


「ちぃちゃん、どこ行くの?」

「あんたたちが食べ尽したせいでお菓子が全然ないから、買ってくる」


 絵を描くのに夢中であるらしい明佳は、智春に背を向けたまま「いってらっしゃーい」と左手を振った。露花がわくわくした様子で明佳の手元を見ているので、好きなアニメのキャラクターでも描いてあげているのかもしれない。相変わらず絵が好きなんだなあ。智春はにっこりと笑って部屋のドアを閉じた。


 三十分後、コンビニから袋を抱えて帰宅した智春は明佳が家の中にいないことを知った。弟と妹それぞれに明佳の行方を尋ねても、しらなーいと返ってくる。


「めーかちゃん、ちょっと前に色々貸してって言ってきて、気づいたらどっかいってた」

「色々って、何を」


 冬斗が指折り数えて教えてきた内容を聞き、智春はますます首を傾げた。あの子、一体何をするつもりなの?


 三時のおやつの時間を過ぎても明佳は戻らなかった。スマホに電話をかけても繋がらない。ということは、家にも帰っていないのだ。椅子に膝をついて競うようにお菓子の包装を開けている二人を諫めながら、智春は玄関の方に目を向けた。


「明佳の好きなお菓子、いっぱい買ってきたのになあ」


 自分の部屋のクローゼットから制服一式が消えていることに気づいたのは、それからさらに二時間後のことだった。





 金曜日には中間試験が終わっている予定だったので、今日も部活動に励む生徒で校舎が賑わっているはずだった。今回は異例中の異例ということで、火曜日に試験が終わるまで部活停止期間は続く。図書室は普段通りに開いているからか、数名の外靴が下駄箱にあった。凛も自分の下駄箱から上靴を取り出す。女子の方を見ると、明佳の靴箱には既に外靴が入っていた。


 人気のない校舎に来ることなんて初めてだ。大樹と登校するときはいつも人が一番多い時間帯を選んでいるから。うっかり「あいつら」と遭遇したときに人混みに紛れるためだが、そんなところでも気を遣ってもらっていたんだなあと今更ながら痛感する。


 渡り廊下から見える十五時の空は澄んでいて、小さな綿雲がふわふわと浮かんでいる。しばらくその場に佇んで晴れた空を見上げていた凛は、誰もいない廊下をまた歩き出した。


 北校舎の教室棟に来るのはこれで五回目だ。入り口は少し開いていた。軋むドアから中に入ってしっかりと閉じ、言われた通りに内側から鍵をかけた。密閉された教室棟の廊下に凛の上靴の音が響く。曇った窓越しに見える空はさっきよりも汚れていた。


 一年E組の空き教室。ふたりだけの、薄荷色の空間。


 優しい陽光の中、明佳は教室の最後列の机に腰掛けていた。気のせいか、制服のサイズがいつもより大きい。長袖のシャツの袖からあのマシュマロみたいな手が見えない。机の横には大きめの紙袋が立てかけられていて、そこそこ膨らんでいる。


 伏せていた目をこちらに向けて、明佳はふんわりと微笑んだ。


「りんくん。来てくれたんだね」


 もちろん、と凛は頷いた。約束は違えないよ。


 凛は深呼吸をして、座っている明佳のもとへゆっくりと歩み寄る。明佳は動かなかった。凛が自分のところに来るのをただ黙って眺めていた。目の前に立った凛に、明佳は笑って白い右手を差し伸べる。


 地上に舞い降りた天使のような笑みだ。


「わたしと一緒に、死んでくれる?」


 凛はまた頷いた。何度だって頷こうと思った。


「うん。明佳ちゃんと一緒なら死ねるよ」


 悪戯っぽくくすりと微笑んで、明佳は凛の瞳をじっと見つめた。机から身を乗り出し、凛の両肩に手を乗せて、静かに顔を近づける。あと少しで鼻先が触れそうな距離まで近づいたとき、明佳は凛からすっと離れた。


 ほっと胸を撫で下ろして凛は瞬きをした。明佳から決して目を逸らしてはならないと思ったから、ずっと目を開いたままだったのだ。どうやら自分は最後の関門を通過したらしい。安堵で一瞬、平衡感覚を失った。


 明佳が凛の肩を再び掴んだのは、凛を支えるためだと思った。だが、明佳は凛の目で追えない速さで凛の耳元に唇を寄せると、かすかに息を吹きかけた。


「うそつき」


 信じられないほどに低い囁き。


 何を言われたのか理解できず、凛は固まった。自分の耳が拾った言葉を正しく認識できなくて、思考がフリーズする。


 明佳は――微塵も笑っていなかった。あどけない顔から表情を完全に消し、口をしっかりと閉じて、真っ黒な二つの目でただ真っ直ぐに凛のことを見つめている。突き放すように。胸から貫くように。


「りんくん、嘘はだめだよ。わたしは嘘を吐く人が一番嫌い」


 明佳の声でハッと我に返る。と同時にどっと汗が噴き出し、凛は深く考えずに叫んだ。


「そんなことないっ! 本当だよ!」


 凛の方から縋りつくように明佳の肩を掴む。


「明佳ちゃんが死ぬというのなら僕も死ぬ、僕はどこまでもついていく! 本当だ、嘘なんてついてない、信じてっ!」


 困惑で頭がいっぱいだった。凛は何も嘘を言っていない。ここには全て捨てて来た。思い残すことなんて一つもないのに、明佳は凛の何を嘘だと言っているのだ?


 座ったままの明佳はきゅっと唇を結ぶと、目に涙を浮かべて「だって!」と吠えた。


「だってりんくん、もうわたしのこと見てないじゃないっ!」


 凛は明佳の肩から手を離し、よろよろと半歩後退した。


「どういう、こと……?」


 理不尽に嘘つきと断じられた今も、凛は明佳のことを見続けているのに。明佳のこと以外視界に入っていないのに。明佳にとっての「見る」が何を意味しているのか、凛には想像もつかなかった。


 帰って、と明佳は俯いて言う。


「もう帰って。全部お終い」


 全部お終い。


 明佳の酷薄な声が炭酸のようにしゅうしゅうと音を立てて凛の心に染み込んでいった。


「そん、な……」


 裏切られた、のだろうか。いや、凛が明佳を裏切ったのか。


 果たして、裏切り者はどちらなのだろう?


 目の前が真っ暗になったような気分だった。よろけながら、考えのまとまらない頭を手で押さえて凛は後ろを向く。これからどうすればいいかなんて何もわからない。明佳の方から衣擦れの音、紙袋を漁る音がしていることにもしばらくの間気づけなかった。


 ごめんね、と明佳の悲しげな声が、()()()()()()()


「わたしも嘘を吐いたね」


 反射的に振り向こうとした凛の頭に、ガン、と重い衝撃。鈍痛とともに視界が暗転し、声も出せずに意識が薄れていく。床に倒れたときに腕を机の脚に打ち付けたようだが、自分ではどうにもならなかった。


 惜しくなったの。遠くで彼女の声がした。

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