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閉塞学級  作者: 成春リラ
6章 飛び込みシミュレーション
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41話 求愛ディストーション⑥

「あ、おい。少しいいか」


 わたしが声を掛けようとする前に、向こうの方から話しかけてきた。最近可哀想な意味で注目を浴びがちな男の子。ガーゼと顔の隙間に擦り傷だらけの人差し指をちょこっと入れて、痛そうな顔で掻いている同級生。彼がわたしの隣を気にして気まずそうに拙く笑うと、顔のかさぶたが引っ張られて割れそうになる。ついさっき、調子に乗った別の男子が背後から勝手に絆創膏を剥がそうとして爪で顔を引っ掻いてしまい、治りかけの傷口からさらに血を流しているところを見た。みんな物珍しいのだろう。おとなしい人が多いC組には、そんな姿で登校してくる人なんてあまりいなかったから。


 丁度掃除の担当場所に向かおうとしているところだったので、わたしは同じ班の子に「先に行ってて」とお願いした。同学年の生徒が行き交い、掃除開始のチャイムが響き渡る中、廊下の端っこで向かい合う。


「えっと、オレ、堤っていうんだけど。わかる?」

「知ってるよぉ。りんくんのお友達だよね」


 ひろきくんは顔から指を離し、ほっとした表情でそうそう、凛の友達と答えた。わたしは後ろで手を組んでとってつけたように言う。


「その顔、先週からだよね。だいじょうぶ? 喧嘩でもしたのかな」

「あー……そのことは、今はどうでもいいんだ」


 言いづらそうにもごもごと口を動かし、ひろきくんは逡巡する様子を見せている。あのさ、と言いかけてからなかなか話に入らないので、わたしは「掃除に行かないといけないんだけど」と少し苛立ったふりをした。ひろきくんは背中を叩かれたように顔を上げた。


「おま……野河さん、は、最近凛と仲良いよな」


 予想通りの質問に「それが何か?」と首を傾げる。ひろきくんは廊下を歩く他の生徒の方を横目で見ると、小声になった。


「あいつ、先週からなんかおかしくないか」

「おかしいって?」

「暗いし、一言も喋らねえし、オレが話しかけても無視するし」

「そうかなぁ。わたしにはいつもと変わらないように見えるよ」


 平然としているわたしに、ひろきくんは「いや、それはねえだろ」と反抗的に言い返してくる。わたしは内心口を尖らせた。かわいくないや。これがりんくんだったらすぐに気圧されて従順な犬みたいにこくこく頷いているのになぁと思う。わたしはいっそう突き放した。


「ひろきくん、りんくんに嫌われたんじゃない?」

「……き、嫌われる心当たりが、ないんだが」

「鈍感なんだよ」


 言葉に毒を込めてそっと押し付ける。ひろきくんが坂木先輩たちに殴られたことを、りんくんが負い目に感じているのは明らかだ。ひろきくんはりんくんが関与していないと思っているのか、関与は知っていてもりんくんのせいだと思っていないのか、とにかくそれが原因で避けられるようなことになるとは到底思えないらしい。鈍いんだか、お人好しなんだか。


「誰が悪いのか、自分の胸に聞いてみたらいいのに」とわたしが悪意の赴くままに言うと、ひろきくんは口をぽかんと開けた。


「は……?」

「一つ、いいことを教えてあげようか」


 ひろきくんの耳元に両手を当てて、内緒話をするみたいに囁く。


「りんくんは、死にたくて死にたくてたまらないんだよ」


 くすぐったそうにもぞもぞしていたひろきくんは完全に動きを止めて、長い沈黙の後「ちょっ、と、待てよ!」とわたしを強く押しのけた。最初のたどたどしさは既になく、目には一転して殺意が宿っている。


「いきなり何の話だ? 冗談きついぞ」

「冗談なんて言ってないのに」

「……ヘラヘラ笑ってんじゃねえよ。てめえもういっぺん言ってみろ、ふざけんのも大概にしろよ!」


 肩をぐっと掴まれて「きゃ」とわたしが小さく悲鳴を上げると、周りの生徒が一斉にこちらを向いた。ひろきくんは視線に気づいて慌ててわたしから飛び退く。顔面傷だらけの男子が女子に掴みかかっている図ではさすがに分が悪いと察したようだ。わたしも負けじと言い返した。


「りんくんのことなんてなんにもわかってないくせに」

「……お前がデカい口叩けんのか」

「あの子が死にたいのはひろきくんのせいだもん」


 ひろきくんは眉間にしわを寄せた。りんくんが自殺への意志を強くするのは決まってひろきくんが関わっているときなので、強ち嘘でもない。


「友達に死んでほしくないのなら、もう話しかけちゃだめだよ」


 最後に言いたいことだけ言って、わたしはくるっと身を翻した。


 廊下をスキップして掃除場所に向かいながら、今後について考える。りんくんはわたしの言いなりだ。まだ若干何かを迷っているところはあるけれど、そのうち悩んではいられなくなるだろう。飛び込みシミュレーションも三回行って、様々な自殺のパターンを十分話し合った。すぐにだって決行可能だ。


 だけどわたしは、ここまで生き延びたからにはどうしても最後に済ませたいことがあった。


 十月五日はパパの誕生日なのだ。わたしは毎年手作りのチョコレートをプレゼントしている。パパが家にいない年もあったものの、基本的には二人でパーティーを開く。今年は亜希さんと明奈もいるだろうけど。


 パパからのいちばんを失ったのに、お誕生日を祝うなんて変かもしれない。死ぬ直前になって何をやっているのだろうとわたしも思う。りんくんにこのことを知られたら信用を失くすかもしれない。


 でも、やっぱり、わたしにとってパパが「いちばん」であることは変えられない。それはどうしようもない事実だった。好きな人の喜ぶ顔を見たいと思うのは全然変なことではないと思う。どうせ家にいたらパパと顔を合わせるのだから仕方ない、と自分を正当化する。


 朝からずっとうきうきしていたせいか、放課後になるまでの時間がひどく長く感じられた。ちはるちゃんに手伝ってもらって二人で作ったチョコレートは、当日まで小田巻家の冷蔵庫に保管してもらっておいた。「今日は楽しんでね」というちはるちゃんの笑顔に見送られて、わたしは学校をあとにする。


 小さな立方体の箱。淡い薄荷色のラッピングに、それより少し濃い色のリボン。パパの好きな色、パパがわたしに着せたがった色を胸元に抱えて、わたしは帰路を急ぐ。最近涼しくなってきたとは言え、わたしの体温で溶けてしまわないか不安だ。それくらい体が熱かった。


 玄関の前に立ってもすぐにはドアを開けなかった。今日は午後のお休みを取ったと言っていたから、もう帰ってきているはずだ。何て言おう。今朝はバタバタしていて声をかけられなかった。無難にお誕生日おめでとう、でいいかな。うん、それがいい。余計なことは何も言わないでおこう。わたしは小声で三回台詞を練習して、ようやくドアを開けた。


 パパと亜希さんの笑い声が聞こえてくる。「お」と練習通りに言おうとした途端、パパの弾んだ声が耳に入った。二人はわたしが帰ってきたことに気づいていないようだった。


「事前にどんなものかわかっていたとは言え、やっぱり嬉しいよ。ありがとう、亜希さん」


 靴を脱いで揃えたところで止まる。亜希さんも何かパパにプレゼントを渡したみたいだ。わたしは音を立てずに立ち上がると、壁からダイニングを覗き見た。


 あのクリスマスの夜とほとんど同じようにお皿を並べられたテーブルの横に、パパと亜希さんが立っている。テーブルの上に置かれた黒いケースが、小さなシャンデリアの光を反射してきらっと光った。


 それが何かを認識する前に、言いようのない不快感が胸を衝く。


「サプライズにしてもよかったんだけど、毎日使うものなら一緒に選んだ方がいいと思って」

「いやあ、亜希さんは気が利くよ」


 パパが手に持っているのは新品の眼鏡だった。


 一生懸命にラッピングした箱が、手から滑り落ちていった。


 記憶が――わたしの大切な思い出が、鮮やかな色彩とともに逆流する。「やだ、」そんなものもう見せないで。わたしがどんなに祈っても、取り戻せない過去の再生は始まってしまう。


 美しい紅葉の散歩道、パパにつけてもらうギンガムチェックのカチューシャ、「明佳のことが世界で一番好きだよ」というパパの声。わたしはずり落ちたパパの眼鏡を掛け直してあげて、


 パパはわたしだけを見て「ありがとう」と笑った。


 ぽろぽろ零れだした涙を止めずに、わたしはテーブルの端っこに無造作に置いてあったパパの古い方の眼鏡をひったくって二階へ向かった。後ろでパパが何か叫んでいたが、何も耳に入らない。階段を駆け上がって自分の部屋に飛び込み、流れるように鍵をかけた。


 んく、としゃくり上げてそのままずるずると崩れ落ちる。ドアによりかかって、思い出のメタルフレームを強く握りしめた。


「…………すき」


 パパが好き。大好き。


 優しい顔立ちが好き。ぎゅっと抱きつくと照れくさそうに笑うところが好き。わたしがわがままを言うと困った顔で叱ってくれるところが好き。パパの全部が一番好き。


 わたしは体が引きちぎれそうなほどパパが好きなのに、パパはわたしのことをいちばんにしてくれない。どうして、なんてもう訊かなくてもわかるのに、どうして、どうしてと何度も声にならない声で泣き叫ぶ。決して叶わない願いの欠片をかき抱く。


 けれど、同時にわたしは、この感情を抱いているわたしのことを、たまらなく愛している。塗り替えられない「いちばん」を抱きしめることは、何より素晴らしいことだと思うのだ。


 だからやっぱり、わたしはわたしがわたしであるうちに死のう。


 ダイニングのそばに落ちた箱は、わたしが拾い上げるまで誰にも気づかれることはなくて、翌朝公園のゴミ箱に放り込まれた。





 中間試験の二日目は中止になる可能性があると聞いてはいたけれど、ここまでの雷雨になることは想定していなかった。雨戸をしっかりと閉めたせいで、部屋の中が真っ暗だ。低く轟く遠雷の音を聞きながら、わたしは部屋の電気も付けずにベッドに座り込んでいた。スマホのデジタル時計は十五時半を示している。


 朝起きて休校連絡を受け取ってから、一度も部屋の外に出ていなかった。昨日の晩からパパは出張に行っていて、月曜日まで帰ってこない。つまり、今家にいるのはわたしと亜希さんと明奈の三人だ。亜希さんとはパパの誕生日以来まともに話していないので、顔を合わせづらい。できれば家にいたくなかった。


「雨、止まないなぁ」


 冠水するほどの大雨というのはどれほどなんだろう。昨晩の時点で既に結構酷かったけれど、雨足はさらに強まっているように感じる。川が増水していなければちはるちゃんの家に行ったのに。


「……りんくん」


 六時間前に電話をかけた相手の名前をつぶやく。りんくんの家なら川を越えずに行けるはずだった。電話の向こうの怒鳴り声を思い出す。今まで誰かに怒鳴られたことなんてほとんどなかったから、びっくりしてしまった。


『明佳ちゃんは家族と仲良くて幸せそうだからわかんないだろうけどさ!』


 りんくんが突然あんなことを言い出したのは、わたしが昨日嘘をついたせいだろうか。パパの名前を出したらつい口が止まらなくなって「パーティーでチョコレートを一緒に食べた」なんて言ってしまった。やっぱり嘘は良くなかった。


 でも、わたしが幸せとか、そんなのは絶対に違う。


 お腹がきゅう、と鳴った。わたしはベッドから一足ずつ降りた。遅くなったけれど、ダイニングに誰もいなかったらお昼ご飯を食べよう。時計をもう一度見て、恐る恐る部屋のドアノブを握る。暗い部屋の中にドアの開く重々しい音が響く。家中の雨戸を閉め切っているからか、廊下までが夜のようだ。


 一階のダイニングでは、亜希さんがテーブルに突っ伏して寝ていた。起こさないように忍び足でキッチンに近づき、冷凍庫からグラタンのパックを取り出す。これなら部屋に持ち込んで食べられる。電子レンジに入れて、タイマーをセット。温まるのを待っている間に、わたしはふとリビングに目をやった。


 ソファの横に敷かれた動物柄のタオルケットの上で、明奈がすうすう寝息を立てている。なるほど、亜希さんは明奈をなんとか寝かしつけた後、疲れて眠ってしまったらしい。わたしはリビングまで静かに歩いていくと、明奈の横にしゃがみ込んだ。


 明奈は口から涎を垂らしていた。顔の横で握りしめている手はぷにぷにしていて、ほんのりとミルクの香りがする。手も足も、顔も、胴体も小さい。赤ちゃんだから当然だけど、明奈はさらに発育が遅いみたい。首なんてほとんど無いようなものだ。


 首――


「……ああ、」


 一呼吸置いて、大福のような頬から首へと、わたしの右手を滑らせる。明奈の、産まれてから一年も経っていない細く短い首。もう一方の手を反対側に添える。両方で包み込んでも余るほど小さな、わたしの妹の首。


「…………いや」


 わたしが胸に耳を当てたときのりんくんと同じくらい、ううん、それ以上に、とっくん、とっくん、と脈打っていた。胸が苦しい。息が吸えない。頭に酸素が回っていないような感じがして、くらくらする。明奈の首に添えた手がうまく動かない。指先が目に見えて震えていた。


 落ちていく涙が明奈の顔面で弾かれる。


「めい、な、なんて」


 本当はそんな名前、許したくなかった。


 パパにもらったわたしの、「明佳」という名前の、半分だって明け渡したくはなかったのに、パパと亜希さんが全部決めてしまった。パパが明奈の名前を嬉しそうに呼ぶたびに、わたしの居場所はがりがりと削られる。わたしの名前も、存在さえも半分以下に価値を下げられていく。


 安らかな寝顔に一方的に話しかける。あなたは知らないでしょうね。パパが「めい、」と言うたびに、どちらの名前が呼ばれるのか、最後まで神経を研ぎ澄ましているわたしの気持ちなんて。


 何がわたしの幸せを奪ったのか、わたしにはもうわからない。幸せは最初からなかったのかもしれない。全部嘘で、ありもしない楽園を見ていただけだったのかもしれない。だけど、わたしの不幸の象徴はこいつだ!


 明奈もパパの娘だ。わたしと同じだ。小さな分身のようなものだ。だったら明奈もいつかはパパに捨てられる。期待させられて、舞い上がって、絶望した末に手放されるのだ。


 かわいそう。明奈はかわいそう。


 じゃあ、捨てられる前にわたしが消してあげましょう!


 首に力を加えられて苦しくなったのか、明奈はむずがって泣き始めた。明奈の叫びが耳の中で反響する。この泣き声を止めなきゃ。早く殺さなければ。何かに急き立てられるようにわたしはますます首を絞め上げた。明奈は手足をばたつかせている。うるさい、黙れ、黙れっ!


 明奈のものでもわたしのものでもない、絹を裂くような金切り声がリビングに響き渡った。脳みそに突然冷水をぶっかけられて、わたしは直ちに振り向く。


 腰の抜けた亜希さんが、真っ白な顔でこちらを指差していた。


「あ、き、さん」


 わたしの声も掠れていた。破裂寸前だった風船が萎んでいくように、頭の中を支配していた殺意が消えていく。殺意があった空間に代わりに忍び込んできたのは、焦燥だった。


「……ち、が、」


 違う。違うって、何が違うんだろう?


「ちがう……いや、いやっ、パパ違うの!」


 亜希さんも明奈も無視してわたしは走り出した。玄関の段差に躓きそうになりながら、靴も履かずに鍵を開ける。ドアの向こうには耳を塞がんばかりの激しい雨音。鈍色の空の下へわたしは飛び出した。


「きゃあっ!」


 傘を差さなかったのだから濡れるのは当たり前なのに、身体に打ち付ける雨の感触に思わず悲鳴を上げる。べっとりと顔に張り付く前髪をはらいのけて、わたしはアスファルトの上を裸足で駆けた。クリーム色の部屋着はあっという間に茶色くなった。


 亜希さんに見られた。わたしが明奈の首を絞めているところをはっきりと見られてしまった。亜希さんはきっとパパに報告する。明佳は悪い子ですって。パパに怒られる、呆れられる、軽蔑される――本当にそれだけで済むだろうか? パパは今度こそわたしのことを嫌うに違いない。事実上の放棄ではなく、わたしを家から追い出すだろう。ゴミ箱の中のチョコレートみたいに、なんの躊躇いもなく。


 やだ、やだやだ、嫌わないで!


 なんで、なんでと終わりのない疑問が思考を侵食する。わたしがなんでと尋ねても、今まで誰もちゃんと真実を伝えてはくれなかった。ほんとうのことなんて誰も教えてくれなかった!


 なんで、こんなにずぶ濡れになって走ってるんだろう。そうだ、逃げないといけないんだ。でもわたしは何から逃げているんだろう。なんで逃げているのだろう。逃げるって、どこへ?


 世界の果てへ。





 世界の果ては土砂降りの雨に覆われる汚れた遊具だった。


 どこでもいいから身を隠して雨を避けられる場所が欲しかった。わたしは雨で冷え切った身体を抱え込んで、ドームの中の端で小さく震えていた。足元の水溜りに身体を伝って水滴が落ちていく。家を飛び出してから何時間が過ぎたのかはわからないが、外はすっかり暗くなっている。雨はいつまでも止まず、公園には誰も来ない。


 体温が完全に奪われてしまって、体の感覚がない。さむい、寒い、ヒーターに当たりたい、ベッドで毛布に包まって眠りたい、パパに抱きしめられたい。


 帰り道が、わからない。公園から家までの道のりはわかるけれど、どんな顔をして帰ればいいのかわからない。帰ってもいいのか、許されるのかわからない。家に帰ってお前の居場所はここにはないと断言されたら、わたしはどこに行けばいいのかな。


「……みて」


 歯をかちかちと鳴らして声を出す。


 わたしを見て。お願いだから、わたしのことを見捨てないで。世界の果てに辿り着いても、唯一つの真実はなかった。得られたものは何もなかった。


 もしかすると、唯一つの真実なんてどこにもないのかもしれない。小さい頃は誰にだって「いちばん」があって、それは甘くてキラキラした一つしかない特別な何かだと信じていた。人はたった一つの大切なもののために生きて、まだ大切なものを見つけていない人は、それを探すために生きるのだと思っていた。


 わたしの「いちばん」は豪雨に飲み込まれて、原形を残していない。必死で拾い集めても、指の隙間から零れていく。


 誰にも届かないとわかっていながらも、わたしを見て、と再びつぶやいたそのときだった。


 ドームの外から「うわあっ!」という声と、どしゃりと転ぶ音がした。その声には聞き覚えがあったから、音の方向に目を向けつつわたしも反射的に問いかける。


「……りんくん?」


 落ちた雷に照らされてわたしの前に現れたのは、確かにりんくんだった。


 涙に濡れる二つの瞳が、わたしだけを見ていた。





 わたしの頭に乗せられたりんくんの大きな手は優しかった。どこか遠慮しているような、乗せること自体を躊躇っているような、触れたら壊れるとでも思っていそうな繊細な手つきが心地よかった。そんなところもりんくんらしいや。


 びしょ濡れのりんくんに抱きしめられて狂ったように泣きながら、どうしてわたしたち、真っ当に出会えなかったんだろうなぁと意味のないことを考える。わたしたちは多分同じ苦しみを感じているのに、こんなにも虚しい。抱きしめあってもここに幸福はない。


 りんくんのいちばんがわたしで、わたしのいちばんがりんくんだったらよかった。


 もし、そんな世界だったら。わたしたち、二人で一緒に生きていくことができたのかな。

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