40話 求愛ディストーション⑤
わたしたちの生活は一変した。小さな田舎町の狭いアパートから、紅黄市にある新築の一軒家に引っ越したのだ。ぴかぴかの大きなお家でわたしとパパ、亜希さん、明奈の四人暮らしが始まった。毎朝毎夕決まった時間に食事が並び、知らない間に洗濯物が干されている。わたしが何もしなくても床は綺麗なまま。自分の部屋も広くなって、ずっと夢見ていたふかふかのベッドに寝られるようになった。
亜希さんという人は、とても優しい。派手なお化粧や服装については両親にそう教え込まれたからという理由があるらしく、実際は温厚で気の弱い性格をしていた。おとぎ話の中に出てくるような継母とは全く違う。亜希さんは実の娘である明奈とわたしの間に差をつけない。わたしに気を遣っている節はまだあるけれど、明奈を贔屓したりはしない。
新しい家に越してくるなり、亜希さんはわたしを紅黄市のショッピングモールに連れて行った。「明佳ちゃんはもう中学生だから、こういう大人っぽい服も似合うと思うの」と言って、パパは絶対買わないような落ち着いた色の服を選んでくれた。わたしは何年も身長が伸びていなくて、パパとお買い物に行く機会もなくなっていたから、新しいお洋服を買ってもらったのは随分久しぶりのことだった。おまけに優さんには内緒ね、とアイスを食べさせてもらえた。
紅黄市は良いところだ。ほどよく人が多くて、ほどよく栄えていて、ほどよく自然が多い。市のシンボルであるマリーゴールドがあちこちに植えられていて、町中に彩りを添えている。わたしはたぶん、この町が好きだと思う。
中学校には何も期待していなかったのに、なんと友達ができたのだ。
入学式の朝、わたしは見慣れない教室で着慣れない制服に身を包んで座っていた。教室にいる誰にとってもわたしは余所者だ。スケッチブックを持ってくるのを忘れたわたしはすることもなくて、ぼんやりと黒板に書かれた「ご入学おめでとうございます」を眺めていた。
「……え、ねえねえ、聞こえてる?」
机をばしばし叩かれていることに気づく。ゆるりと顔を上げると、わたしの前に快活そうな顔をしたさらさらの髪の女の子がいた。わたしは左右を見た後、自分を指差す。
「わたし?」
「そうそう、あなた。さっきからずっと一人だから気になってたの。友達とはクラス離れちゃった?」
女の子はにこにこ笑っている。わたしはぱちぱちと瞬きをした。話しかけられることすら滅多にないのに、この子はわたしのことを心配していたのだ。わたしは機械的に返答した。
「引っ越してきたばかりで、同じ小学校の人がいないの」
「え、そうなの!」
ぱあっと顔を輝かせた彼女は、両手でわたしの手を取った。女の子に手を握られたという衝撃で、しばらく手の方しか見られなかった。視界に入る口元が嬉しそうに笑っている。
「せっかくだし、友達にならない?」
友達にならない? なんて歯の浮くような台詞を、こんなに素直に爽やかに言ってのける人がいるんだ。それがわたしの、小田巻智春に対する第一印象だった。断るという選択肢はなかった。
なんだか拍子抜けした。もはや作ろうとも思っていなかった友達があまりに簡単にできたから。もしかすると、小学校でわたしに友達ができなかったのは単に運が悪かっただけなのかもしれない。
小学生の頃は一日中誰とも話さないことさえあったのに、今ではあり得ない。毎朝教室に行くとちはるちゃんやちはるちゃんの幼馴染のはるかちゃんが待っていて、部活へ行くと部員のみんながいる。家では亜希さんが明奈をあやしながらご飯の準備をしていて、夕食前にはパパが帰ってくる。黙って一人でお絵描きをしているだけの野河明佳はもうどこにもいない。
絵に描いたみたいに穏やかな日々。お手本のような幸福。
だけどわたしは、この世界で誰よりも不幸だった。
*
誰かの一番になるには、「才能」か「運」が要る。わたしにはどちらもなかった。
もう無理なの、歩いていけないの。「いちばん」がないと、わたしはわたしを肯定できない。「いちばん」を失くしたわたしは底の抜けた空っぽの器で、何を流し込んでも永遠に満たされることはない。ありふれた幸に意味はなく、生きていても虚しいだけだ。
パパがわたしを一番愛してくれないのならば、わたしは誰のいちばんになれると言うのだろう? 生まれたときから一緒で、たった一人の家族で、わたしの最愛であるパパに「いちばん」と認めてもらえなかったのだから、きっとわたしは誰のいちばんにもなれない。わたしをいちばんにしてくれる人は、これから先も現れない。わたしは宝箱に仕舞われない。
わたしには誰が誰のことを一番見ているのかわかる。「あなたのことが好きだよ」「ずっと友達だよ」「これからも仲良くしてね」と誰かが口で言っている間も、別の誰かを想っているのだ。みんな一番愛する人とそれ以外を比較して生きていく。
みんなはどうやって「いちばん」を見つけるのかな。出会った瞬間からわかるのだろうか。それとも、時を経てゆっくりといちばんにしていくのだろうか。
自分がいちばんだと思っている相手からいちばんと思われていないと気づいてしまったとき、人はどうするのだろう。それでも相手を想い続けるのがほんとうの愛? 諦めて別のいちばんを探すのが成長?
わたしには「いちばん」しかなかった。「いちばん」を失くしたら、あとは消えていなくなるしかない。
七月八日、金曜日。ママが死んだのと同じ日、よく晴れた夏の日に、今日の夕食はカレーにしようぐらいの呼吸でわたしは人生を終わらせることを決めた。
死ぬ方法なんて知らなかった。とりあえず屋上から飛び降りたら死ねるのかなと思って学校の三階から上に行ってみようとしたけれど、使われなくなった机や椅子が行く手を塞いでいた。全部を一人で除けるのは色々な意味で難しいだろう。
次に、紅黄駅のホームから線路に飛び込もうかと思った。だけど駅は学校から歩いていくには少し遠いのだ。ここにいたら電車が通るかもしれないと、家に帰る途中にある踏切の前で数分待ってみた。二羽の烏が横切っただけだった。
家に帰り着いて、亜希さんにただいまぁと言って、自分の部屋に入って、最後にわたしは手首を切ろうとした。制服を脱ぐ前に机の中からカッターを取り出し、錆びた刃を左の手首に添える。どこを切れば死ねるのかわからなかったから、わたしは一番太そうな血管に刃の切っ先を突き立てた。
「……いたっ」
一瞬の刺激に、カッターが手から落ちる。数ミリの赤い線がつくだけで血はほとんど流れないのに、既に傷口がじくじくと疼いて痛い。わたしは傾く視界の中絆創膏を手首に貼った。普通サイズの絆創膏で収まる程度の傷跡だった。
パパから見ると、わたしの心の傷なんて絆創膏一枚ほども見えないんだろうなと思ったら、無性に悲しくて。
わたしはスカートのプリーツが崩れるのも構わずベッドに大の字になっていた。染み一つない白い天井を見上げながら、結局死ねなかったなぁ、と思いに耽る。亜希さんが夕食を作っている和やかな音を遠くに聞きながら、わたしは虚無の中に思考を蓄積していった。
すなわち、わたしはどうして死ねなかったんだろうという思考を。
よく調べなかったから、というのはあると思う。じゃあ、しっかり計画を立てたら死ねるんだろうか? そういうわけでもないような気がするのだ。「死」というものとわたしとの間には、物理的な障害以外にとてつもなく大きいものが横たわっていて、それを乗り越えなければ自殺を完遂することはできないだろう。
それは多分――未練だ。
わたしは、わたしが始まったときから「いちばん」になることだけを考えていた。いちばんになるためだけに、苦しいことも気持ち悪いことも寂しいことも耐えてきたのだ。だったら最後くらい、報われて終わりたい。
もうパパじゃなくていい。一瞬でいいから、わたしは誰かの「いちばん」になりたい。
一生は無理でも、一瞬なら可能なんじゃないか。死ぬ前の最後の瞬間、わたしだけを見つめてくれる人。そんな人を探すんだ。
わたしが死ぬそのときまで隣にいてくれる人。わたしが死のうとするのを止めない人。それはやっぱり、わたしと同じように死にたい気持ちを抱えている人だ。
しくじるわけにはいかなかった。わたしを茶化して遊びたいだけの人は決してわたしの願いを叶えてはくれない。わたしと一緒に最後までついてきてくれる人を、何らかの方法で見つけ出す必要がある。
わたしはこう考えた。わたしと心中してくれる人と一緒に、自殺の計画を立てよう。一から十までシミュレーションして、大切な人のことやこの世への未練を一つ一つ思い出してもらう。それでもわたしの死ぬところまで来てくれた人は、きっとわたしのことしか見ていないだろう。
こうして飛び込み部は設立された。「いちばん」をくれる人を探すために、わたしの最後の計画が密かに始まったのだ。
*
美術館の受付には誰も並んでおらず、居眠りをしている館員の女性がいた。彼女は人数を確認すると、わたしが生徒手帳を見せる前に中学生以下用のチケットを切った。この身長だから仕方ないとは言え、失礼な話だ。
同じく美術展を観覧しに来ている大人たちの服装を見ながら、サンダルはまずかったかなぁと足元に目を落とす。パパに買ってもらったお気に入りの服とアクセサリーで全身を固めてきたのだけど、暗い色のスーツやジャケットを着ている人が多い中ではちょっと浮いている。とは言っても、その程度で委縮はしない。どうどう? 薄荷色のフレアスカート、きれいでしょ? わたしのパパが買ってくれたんだよ。そうアピールするみたいに堂々と歩く。
わたしがまだパパのいちばんだと信じていた頃に、店頭で一目惚れしたスカート。大切な思い出の品にして、幸福の残滓だ。
市立美術館の現代美術展を見に行くことが美術部の宿題になっていたことを思い出したのは、夏休み最終日前日の夕方だった。半券の提出を求められているわけではないので、別に行かなくても適当に話を合わせられるとは思ったけれど、学校の宿題も終わっていて暇だったのだ。
時折大人の不躾な視線を浴びながら、特別展の中を悠々と歩き回っていたわたしの目にふと留まったのは、豪奢な額縁に入った一枚の絵画だった。金色の光が差し込む部屋の中、ロッキングチェアに座っている少し太った女性がいる。女性は優しげな面持ちで目を閉じた赤ん坊を抱えていて、子どもをあやしているのか、口はわずかに開かれていた。
正確に言うと、わたしが見たのは絵の説明の方だった。作者の年代は一九四七から一九九八。タイトルは「空想」。たかだか母子像に、空想?
わたしは絵の解説に目を通した。絵の中で母親に抱かれている赤ん坊は既に死んでいる。そして母親はそれを知らないのだそうだ。子どもが冷たくなっていることに気づかないまま、母親は赤ん坊に話しかける。ありもしない子どもの未来を夢見ながら。
――なんて幸福な絵なんだろう。
危うく涙を零しそうになって、わたしは慌てて目頭を拭った。この赤ん坊は偽物の愛情に気づくこともなく、母親に笑顔で見守られたまま、母親の視線をいっぱいに浴びて死んだのだ。そんなに幸せな最期があるだろうか。
わたしはもう一度絵に向き直って、隅々まで目に焼き付けようとした。陽光の柔らかさから椅子の影に至るまでをつぶさに観察していると、わたしの隣に誰かが立った。特に深い意味もなく見上げて、「あ」と小さく息を呑む。
無地の白いTシャツに膝丈のズボンを履いた、背の高い男の子だ。わたしはこの子を知っている。同じクラスだから、というだけではない。
夏休みが始まったばかりの頃。紅黄高校の近くにあるレンタルビデオショップで、わたしは彼の姿を見かけていた。
その日、わたしはちはるちゃんに勧められた映画を借りに店まで来ていた。「結構昔の映画なんだけど、すっごく泣けるの!」とちはるちゃんがあんまりはしゃぐものだから、つい気になってしまったのだ。ネットでてきとうに探して見るよと言ったら、違法にアップロードされたものは絶対見ちゃダメだよと大真面目に窘められた。わたしは仕方なくレンタルショップの場所を検索したのだけど、一番近いところでも紅黄中生は絶対に行かないような地域にあって、見つけるのになかなか苦労した。
ほとんど客のいない店内で、彼は棚の整理をしていた。店のエプロンを着けて一番上の棚にも軽々手を伸ばす長身にはなんとなく見覚えがあった。わたしには気がついていないようだ。どうしてアルバイトなんてしているんだろう。校則で禁止されているのに。そうは思ったものの、彼の名前を思い出せなかったこともあり、わたしは目的の映画を借りるだけ借りて店をあとにした。
後日、わたしはちはるちゃんに映画の感想を伝えるついでに、彼について電話で訊いてみた。
「ねえ、うちのクラスにさぁ、背が高くて気の弱そうな男の子いるでしょ? なんて人だっけ」
『ん、どうしたの、急に。……えっと、千葉山凛くん、かな』
電話の向こうのちはるちゃんはたどたどしく続けた。
『卓球部の子……だったと思う、多分。あたしも話したことはないんだけど』
友達百人できるかな主義のちはるちゃんでさえよく知らないということは、相当影の薄い人なんだろう。わたしは教えてくれてありがとうと言って電話を切った。
改めて美術館で出会った千葉山凛というクラスメイトは、同じ中学生とは思えないほど疲れ切った表情で絵画を見ていた。その横顔が仕事から帰ってきたばかりのパパによく似ていて、思わず穴が空くほど見つめてしまった。
わたしの方に目を向けたりんくんは、「わあっ!」と弾かれたように飛び退いた。睨んでくる大人たちにぺこぺこと頭を下げて、再びわたしの方を向く。他の同級生よりも大人っぽい顔立ちと、困ったように揺れる瞳。背が高いにも拘わらず情けなく見えるのは猫背のせいだろう。
パパが中学生の頃はこんな感じだったのかな。そう思ったら、ほんの少しちょっかいをかけてみたくなった。
千葉山凛くんでしょ。知ってるよ。わたしがそう言うと、りんくんは遠慮がちに笑って頷いた。笑った顔もパパに似ている。ここに来た理由を尋ねると美術展に興味があってと返されたが、嘘なのはバレバレだ。りんくんは何かを気にしているみたいに忙しなく視線を動かして、なかなかわたしと目を合わせようとしない。背伸びをして顔を覗き込むと距離を取られる。
ふと目を離した隙に真っ青になって汗をだらだら流していたりんくんを見たとき、パチッと、頭の奥でパズルのピースが嵌るような音がした。
りんくんの周囲の視線に怯えるような目や、崖の淵のぎりぎりに立っているみたいに震える指先、舌打ちの音、焦燥の声に触れる毎に、ぱちん、ぱちんとピースが噛み合っていく。一つ一つは大したものではなくとも、組み合わさって意味を成す。
わたしたちは同じ深淵を見ているのだ、と直感した。この子だ。この子がいい。ううん、この子以外あり得ない!
きっと一目惚れだった。まるでショーウィンドウに陳列されたぬいぐるみをまっすぐ指差すように、わたしは終の住み処を定めていた。
道連れにするのはこの子にしよう。わたしにどこまでもついてきてもらおう。
*
そこからの行動は我ながら早かった。卓球部に悪名高い二年生がいることは知っている。気まぐれに部活の後輩を恐喝しては、相手が応じないと暴力を振るうらしい。お金を巻き上げられないことがわかると、今度はその後輩の友人に手を出すのだとか。利用しない手はないと思った。
わたしがやったことは一つだ。りんくんがアルバイトをしているレンタルビデオショップの無料券の裏に八月二十五日と書き込んで、坂木先輩の靴箱に入れただけ。りんくんが店に行くかどうかは半分賭けだったけれど、その日が給料日である可能性は高いとわたしは踏んだ。不確定要素は色々あったのに、結果的に全部上手くいった。りんくんはわたしの計画通りに飛び込み部に入ってくれたのだ。
千葉山凛という同級生について、わたしはほとんど何も知らなかった。四ヶ月もの間同じクラスにいて、出席番号もそこそこ近かったのに。あの日美術館で出会わなければ、これから先も関わらなかっただろう。でも、少し観察してお話しただけで色々わかったことがある。それぐらいりんくんはわたしにとって大変わかりやすい人だった。
りんくんはA組に避けたい人たちがいる、ということにはすぐに気づいた。教室移動のときに遠回りをしているのは彼らに出くわしたくないからに違いない。大方、品の無い声で笑っているあの男子グループだろう。りんくんの気性を考えると、小学生の頃に苛められていたのかもしれない。いつも周囲に気を配りながら廊下を歩いているりんくんを見て、とても生きづらそうな人だとわたしは思った。りんくんは学校にいるだけで窒息しそうなんだ。
何よりりんくんは、自分が誰のいちばんにもなれないと思っている。唯一の友達であるらしいひろきくんのことは大切に思っているみたいだけど、どこか遠慮しているようにも見えた。ひろきくんが別の男子と楽しく話しているのを見ると、主人に見捨てられた大型犬みたいにしゅんとなって席に戻っていく。かっこ悪いけど、かわいいなぁ。
りんくんはものすごくかっこ悪い。最初はパパと雰囲気が似ていると思ったけれど、やっぱり全然違う。りんくんは弱虫で優柔不断で中途半端でへたれだ。泣きじゃくりながら死にたいと言ったくせに、わたしが傍にいないと死ぬ勇気もないらしい。永遠に独りになりたそうなのに、誰かに縋りつかないと生きていけない、矛盾を抱えた人だ。
わたしのことを内心見下しているのだって、わたしはちゃんと気づいている。わたしのようなりんくんより小さくてか弱い存在のことを馬鹿にすることで、なけなしの自尊心を守っているんだろう。本当にどうしようもないな。
少し意地悪をして意気地なしと言ってやると、りんくんは顔を真っ赤にして黙り込んでしまった。当然とは言え、女の子に身体をくっつけられるのも、嘲笑われるのも、罵られるのも耐性がないようだ。わたしの発言に振り回されて一喜一憂し返答を一生懸命に考えている様子に、胸の奥をちくちく刺激される。
誰かに対してこんなに意地悪な気持ちになるのは初めてだった。りんくんのこと、もっといじめたいな。もっともっと、わたしの方だけ見てくれないかなぁ。
第一回の飛び込みシミュレーションが終わった後、二人で渡り廊下を歩いているときに、りんくんは「あっ」と声を上げた。がさごそと鞄の中を確認している。
「どうかしたの?」
「さっき鞄から出した筆箱、置いてきちゃったかもしれない」
わたしはりんくんに、鞄は見ているから取ってきていいよと言った。りんくんはぺこりと頭を下げると、鞄を足元に置いて北校舎へ走っていく。背中が見えなくなってから、わたしはりんくんの鞄を見下ろした。
まったく不用心だなぁ。躊躇いなくりんくんの鞄に手を突っ込んで、スマホを取り出す。ホームボタンを押すと、四桁のパスコードを要求された。
さて。りんくんがさっき空き教室で弄っているのを覗いたときに最初が「一」であるのは盗み見たけれど、それ以降がわからない。四桁のパスコードといえば誕生日を設定している人も多い。ちはるちゃんなどがそうだ。りんくんは違うのかな。
誕生日、誕生日――りんくんの誕生日は八月三十一日と聞いた。わたしは試しに、「○八三一」をひっくり返した「一三八○」を入力してみる。ここまで五秒。
「開いた……」
どうしてわざわざ誕生日をひっくり返しているのか、考えるのは後だ。最初にわたしはりんくんの電話番号を控えた。北校舎をちらちら確認しつつ、メッセージアプリを探して開く。トーク画面の上の方にある個人名は、おそらくりんくんのママ、パパであると思われるものと、ひろきくんの三つだけだ。それ以外は最終送信が随分前の日付のものばかりだった。
りんくんはわたしが「りんくんのパパとママ」と言ったとき、あからさまに目を泳がせていた。なるほど、りんくんが死ぬのを躊躇っている理由の一端は両親にあるらしい。パパとの会話の方に特に問題はない。ならば原因はママにあるのだろう。
スマホの電源を切り、鞄の中に仕舞う。戻ってきたりんくんはわたしに鞄を漁られたことに微塵も気づいていないようだった。りんくんの横を歩きながら、わたしは心の中で呟く。
安心して、りんくん。わたしがママのことなんて忘れさせてあげる。りんくんを縛るものを一つ一つ取り払ってあげる。全部失ってひとりぼっちになったら、わたしのことだけを見てくれるでしょ。りんくんの瞳の中をわたしでいっぱいにしてくれるでしょう?
そしてわたしと死んでよ。
初回の三日後、りんくんが川に飛び込むのに失敗した次の日に、わたしたちは二回目の飛び込みシミュレーションをした。坂木先輩の件でひろきくんと一悶着あったことは聞いている。わたしが言い聞かせていなければ学校にも来ていなかっただろう。りんくんは見るからにげっそりしていて、目の下には隈があった。わたしは敢えてひろきくんの名前を出さないことにした。
「すごいやつれてるねぇ。大丈夫?」
一年E組の教室で、りんくんの顔を見上げて白々しく尋ねる。りんくんは無理矢理に笑顔を作って「だいじょうぶ」と答えた。
「おうちで心配されたりしなかった? 元気ないねーって」
りんくんの笑顔がますます作り物くさくなった。返答を迷うように視線を左右に動かすと、「えっと、うん……どうだったかな」とイエスともノーとも取れないことを言う。わたしはわざとらしく顎に人差し指を当てた。
「りんくんのママに、ここにいること知られてないよね?」
「えっ?……そ、それはもちろん! 何も知られてなんかいないよ!」
「だよねぇ。知ってたら絶対行かせないもんね」
近くの椅子を引き出して座ると、りんくんも隣の席についた。沈痛な面持ちで口を噤んだりんくんの目の前でひらひらと手を振り、わたしは笑って追撃する。
「りんくんが死にたいと思ってるなんて知ったら、りんくんのママとパパはどう思うだろうねぇ?」
目を見開いたりんくんはしばらく絶句していた。やがて唇をわなわなと震わせると、膝の腕に置いた手をぎゅっと握り、「明佳ちゃんもそんなことを言うんだね」といつにも増して低い声で言う。
「そんなことって?」
「親が悲しむとか、怒るとか、そう言いたいんじゃないの。……明佳ちゃんは言わないと思ってたのに」
はて、とわたしは首を傾げた。どうもわたしはおかしなところで苦労している。りんくんはずっと、わたしが自殺に対して本気じゃないとか、りんくんを揶揄って遊んでいるとか思っているみたいだった。まあ、後者は半分本当なんだけど。今回は今回で、わたしがりんくんに自殺を思いとどまらせようとしていると勘違いしたらしい。りんくんの思い込みの激しさには溜息をついてしまう。
「違う違う、むしろ反対。ねえ、ママやパパがどう思っているかなんて、どうでもいいと思わない?」
りんくんは不意を突かれたように「え」と口を半開きにした。わたしは両手を開いてにっこりと笑う。ほら、武器なんて何も持ってない。わたしはあなたの味方だよ。
「だって、考えてもみてよぉ。りんくんは、『千葉山凛』という個人は、りんくんが自分で作り上げたもので、りんくん一人だけのものなんだよ。行く末を決めるのはりんくんの勝手じゃない」
無意味な正論ではなく、りんくんの求める甘言を、なるべく優しい声音で。わたしはあなたと同じだよ、正しいことしか言わない大人とは違うよということを、全身を使ってりんくんに伝える。「明佳ちゃんの言う通りだけど、」と前置きした後、りんくんは罪を告白するように重々しく言った。
「……僕は、子どもだから」
「子どもだから死んじゃいけないの? 大人になったら死んでもいいの? そうじゃないでしょ」
「……何が言いたいの」
「死ぬと決めたのなら、思い悩む必要はないってこと」
それは、半分自分自身に言い聞かせてもいて。
わたしは床に膝をつくと、座っているりんくんの胸に耳を当てた。どくん、どくん、という心音の間隔が次第に短くなっていく。気まぐれに左手を添えたりんくんの肩がびくっと跳ね上がる。以前は距離を詰めただけで避けられていたのに、いつの間にか逃げられなくなった。右の人差し指で鎖骨から太腿にかけてをつうっとなぞると、りんくんが固唾を呑んだのがわかった。大きな身体の芯まで響かせるように、わたしはゆっくりと囁きかける。
「この心臓はりんくんのもの」
だから、りんくんの目は、わたしがもらうね。