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閉塞学級  作者: 成春リラ
6章 飛び込みシミュレーション
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39話 求愛ディストーション④

 毎年、七夕の季節が訪れる度に一人で考える。本当に悪いのは、許されないことをしたのは一体誰だったんだろうって。嘘をついたパパ? わたしからパパを取ろうとしたママ? そうでないのなら――わたし?


 ううん、わたしのはずがない。わたしは悪くない。


 わたしは何もしていない。わたしは何も言っていない。


 ただ、織姫様に願いをかけただけ。「あかちゃんがぶじに生まれてきますように」と書いた短冊の裏面に、ほんとうのお願い事を書いただけだ。正直なのは悪くないでしょう。嘘を吐く人よりよっぽど正しいはず。歳を重ねる毎に言い聞かせている。わたしは悪くない。わたしは何も悪くない。誰かが悪いとするならば、願いを叶えた織姫様が悪いのだ。


 だけど八歳のわたしはそう言い切れる自信がなくて、うっかりパパに尋ねてしまった。


「これってめーかのせい、なのかなぁ……」


 明佳は悪くないよ、とパパは疲れ切った顔で微笑んだ。たった数日で五歳も十歳も老け込んだように見える。きちんとアイロンをかけたはずの礼服はくったりとしていた。


 わたしは新しく買ってもらった黒の襟付きブラウスとスカートを着ている。フリルもリボンもついていないシンプルなやつ。もっと可愛いのがいいとお願いすると、パパは「我儘言うんじゃない」とわたしを叱りつけた。そんなことを言われるのも初めてだった。


 線香の匂いで鼻がむずむずして、くしゃみが止まらなかった。眠くなる呪文みたいな変なお話を聞くのも退屈で、座っている間はきれいな照明を見ながらずっと脚をぶらぶらさせていた。不思議なことにパパ以外に来ていた人の顔はほとんど記憶にない。周りに飾られている色とりどりのお花の種類は覚えているのに。


 小さな白い箱に、ユリやカーネーションなどがいっぱい詰められていく。その真ん中でママは眠っている。眠っているようにしか見えなくて、どうしてこんなことをしなければならないのかもよくわからなかった。名前を知らない親戚のおばさんにお花を手渡されてぽかんとしていると、「明佳ちゃんも入れるのよ」ときつい声で言われ、わたしは慌てて箱の端っこにお花を置いた。


 ママが車に撥ねられた。即死だった。という連絡があったのは、七夕の次の日の昼間のことだ。最初に電話を受け取ったパパはしばらく真っ青な顔でその場に立ち尽くした後、何も説明しないままわたしを連れて病院へ行った。


 車通りの多い時間帯に横断歩道もないところをふらふらと飛び出してきたのだと、運転手は答えたそうだ。まだ二十代半ばの真面目そうな好青年だって。友達の結婚式に向かう途中だったらしい。何も悪くないのにかわいそう。何も悪くなくても、人を殺したという事実に変わりはない。


 何も悪くなくても――


「……めーかは、」

「明佳は悪くない」


 食いぎみにパパは言った。自分に言い聞かせているような口調だ。実際、パパはわたしではなく棺の中のママを見ていた。


 ママはわたしが短冊に書いた本当の願い事を見たんだろう。パパもそれを知っているんだ。


 きっとパパは、短冊を見てショックを受けたママが混乱の中道路に飛び出したのだと思っている。そして、そのことを考えないようにしている。


 だからわたしも、なんにも知らないふりをしてにっこりと笑った。パパの礼服の袖口を指先で摘まんで、とびっきり甘えた声を作る。


「パパは、めーかから離れていかないでね」


 一滴も涙を流していないわたしを、親戚の人たちは不審の目で見ていた。親不孝な娘だと思われたかもしれない。ママが死んで悲しいか悲しくないかなんて、わたしにはまだよくわからなかった。この間までいた人が突然いなくなるなんて信じられないもの。これからじわじわ悲しくなるんだろうな、とわたしはどこか夢見心地で考えた。


 大事なのは、これでパパがわたし一人を見てくれるようになったということで、それ以外はどうだって構わない。ここから続いていくパパと二人きりの幸せな日々を思うとにやけるのを止められなくて、わたしは手で顔を押さえて泣いているふりをした。心の中の火が少しずつ消えていくのを感じた。


 今思い返してみると、わたしは馬鹿だったなぁ。





 ママが棺の中から蘇ることはもちろんなくて、わたしとパパの二人暮らしが始まった。ママが死んだということは、赤ちゃんが産まれてくることもなくなったのだ。たくさんの喜びを一度に失って、パパは抜け殻のようになってしまった。わたしが話しかけると返事をしてくれて、毎日会社に行ってきちんと帰ってくるけれど、その全てに意味を感じていないみたいだ。以前のように笑うことも少なくなった。家にいる間もぼーっとテレビを見ているだけで、何も考えていないように見えた。


 わたしがパパのいちばんにふさわしい女の子になったら、パパはまた笑ってくれるかな。パパにはわたししかいないのだから、わたしがちゃんとしていなきゃだめだよね。


 ママがいなくなってする人がいなくなった家事を、わたしは全部引き受けた。ママのように振る舞うのが正解だろうと思った。毎朝早起きして洗濯機を回して、朝ご飯を作り、洗濯物を干してから学校に行く。放課後はどこにも寄らずに家に帰ってお掃除や晩ご飯の支度をする。学校にいる間もパパのことだけを考えていた。常にそんな風だからか学校にはますます居場所がなくなって、陰口を叩かれるようになった。なんて言われていたかは覚えてない。


 パパのために頑張るのは全然苦じゃなかった。頑張ったら頑張っただけ、きっとパパに愛してもらえる。愛されるためならわたしは何だって頑張れる。何だって耐えられる。


 愛されるために甘い笑顔で武装した。愛想に磨きをかけた。無害で従順な雛鳥を装った。何でも言うことを聞くパパの理想の女の子になろうとした。


 なのに――どうしてだろう。いつしか、パパは家に居つかなくなったのだ。


 日付が変わるまで帰ってこなくなり、一週間も家を空けることが増えた。帰ってきても、疲れてるからと自分の部屋に引きこもってしまう。パパは出張で忙しいのだと言っている。本当かどうかなんて考えたくなかったから、わたしは目を塞いでパパの言葉を信じることにした。


 一人分だけご飯を作るのは面倒だろうと、パパは一万円札を置いて出張へ行く。近所のコンビニのお弁当やレトルト食品は早々に飽きてしまった。わたしとパパとママの三人で暮らしていたアパートの一室は狭いけれど、一人で住むには広すぎる。ダイニングの小さな電球に照らされた数枚のお札と小銭を見下ろして、「こんなものが欲しかったんじゃないのに」とつぶやく。


 来る日も来る日もパパのいない夜を越えて、パパを一人で待ち続けた。火曜の夜に帰るよと言われたら、明け方までリビングのソファに座って起きていた。それでもパパは何も説明しない。パパが何も言わないから、わたしも何も言えない。


 家のことを全部任せてごめんね、パパは無責任な親だ、とパパはある朝謝った。一方的に謝るだけ謝って、わたしの返事は聞かずに会社へ行ってしまった。


 わたしは椅子の背をぎゅっと掴んで、誰もいないのに「そうじゃない」と言う。


 そうじゃない。そうじゃないのパパ。わたしはパパのためならお掃除だってお料理だってするし、お留守番だってできるし、クラスの全員から嫌われたってなんてことない。


 ただ、わたしだけを愛してほしいの。わたしだけを見ていてほしいの。わたしが望むのはほんとうにそれだけ。あの日の「いちばん」の約束を守ってほしいだけ。


 ママが死んでから三年が経ったとき、これでは駄目なんだとわたしはようやく気づいた。


 ちっちゃくて愛らしくて素直な良い子がパパの好みで、パパの理想の女の子になればパパに愛してもらえるとずっと思っていた。だけどもしかしたら、パパに言われた通りにしているだけでは不十分なのかもしれない。ううん、逆効果だったんだ。わたしが一人で暮らせるようになればなるほど、きっとパパはわたしから離れていく。


 賢く立ち回らなきゃ。わたしはある作戦を決行することにした。


「ねえパパ、聞いてほしいことがあるの」


 何でもない土曜日、早朝に家を出ようとしていたパパを引き留める。パパは笑顔の奥に若干の煩わしさを隠して「何?」と振り向いた。


「あのね。めーかももう六年生でしょ。勉強も難しくなってきたから、家庭教師をつけたいの。いいよね?」

「か、家庭教師?」


 パパは素っ頓狂な声を上げた。今までわたしが勉強に必要以上の興味を持ったことはなかったから当然だろう。


「明佳は中学受験でもするつもりなの……?」

「うーん、それもいいかも。ね、ね、だめ? 日曜日の昼間だけでいいの」


 腕を絡めて甘えた声を出すと、パパは困惑を露わにした。どうして急に家庭教師なんてとか、どうして塾ではだめなのかとか、色々訊きたいことはありそうだったが言わないことにしたらしい。時計をちらりと見ると、パパは渋々といった感じで答えた。


「明佳が、それで満足するなら……」


 満足なんてしないよ。とは言わず、わたしは「ありがとう」とにっこり微笑む。


 二週間後にわたしの家へ派遣されてきたのは、電車で三駅の場所にある私立大学の男子学生だった。先生は立石(たていし)良二(りょうじ)と名乗って、はにかむように笑った。黒い短髪の誠実そうな人、という印象。まだ家庭教師に登録して間もないそうだ。わたしが初めての生徒だと言っていた。


「今日からよろしくお願いします、野河さん。えっと……」


 玄関をきょろきょろと見渡している立石先生の手を引いて、自分の部屋に案内する。


「パパはお仕事でいません。こちらにどうぞ」


 最初はパステルカラーに彩られた部屋にどぎまぎしていた立石先生だったが、何度か来るうちに慣れたらしい。次第に授業にも雑談を交えるようになり、わたしのことも「明佳ちゃん」と呼ぶようになった。


「明佳ちゃんのお父さんは日曜日もお忙しいんだね」


 算数のテキストにくるくると丸をつけながら、立石先生は朗らかに言う。


「いつも一人で平気? あ、お友達の家に遊びに行ったりするのかな」

「パパは、お仕事が好きなんです」


 後半部分は無視して、わたしは憂鬱げに目を伏せた。落ち込んでいるのが先生にはっきりと伝わるように。


「わたしよりお仕事の方が好きみたい。だってこんなに家に帰ってこないんだもん」


 立石先生は困ったように笑って、そんなことはないと思うけど、と答えた。パパのことを相談すると誰だってそう言うのだ。学校の保健室の先生でさえ同じことを口にした。野河さんのお父さんは、野河さんのことが好きだから頑張っているのよ。


「日曜日だって、夜遅くまで帰ってきません。わたし以外にだあれもいないんですよ、この家」


 目を潤ませて、上目遣いに立石先生を凝視する。距離を詰めて剥き出しの二の腕をちょんとくっつけると、先生はわたしから離れるようにさりげなく椅子を動かした。わたしも最初はそれ以上近づかなかった。


 そう、最初は。体の一部を触れさせるところから始まって、何でもないときに熱っぽく見つめたり、骨ばった手をそっと握ったり、寂しそうに瞳を揺らしたりした。やんわりと振りほどきながら「授業に集中しなさい」と言っていた立石先生も、呆れたのか、諦めたのか、次第に抵抗しなくなった。――実は楽しかったりして。


 固い膝の上に乗って初めてのキスをしたときも、立石先生は火照った顔でわたしのことを見ていた。


「明佳ちゃんは、いつもこんなことをして大人を揶揄っているの?」

「そうだよ。って言ったら?」


 先生こそ、こんなことされて嫌な顔一つしないなんて、ほんとうはロリコンなの? わたしが尋ねると、立石先生は気まずそうに目を逸らしてどうだろう、わからないな、とはぐらかした。


 気がつくと先生の方からわたしに触れるようになっていて、わたしも先生に触られることを喜ぶふりをした。もちろん本当は嬉しくもなんともない。パパ以外の人からいやらしい目で見られるのなんて反吐が出る。太腿に指を這わせられたり首筋に息を吹きかけられたりする度に、ぞわぞわと虫が這うような気色悪さを感じた。薄いブラウス越しにわたしの胸を撫でる立石先生を見つめ返しながら、わたしは拒否感を抑え込む。先生が帰った後は何度も口の中を濯いで、トイレで喉が焼けるまで吐いた。何週間も、何ヶ月も。


 すべてはこの瞬間のため。


 わたしに深く口づけた立石先生の武骨な手が、はだけたスカートの裾からゆっくりと脚の間へ差し入れられたとき、音もなく部屋のドアが開いた。


「明佳、勉強は頑張ってる、かな……」


 わたしは知っていた。この日のパパはいつもより早く帰ってくるということも、帰ったら真っ先にわたしの部屋の様子を見に来るであろうことも、ノックをしないことも。パパが息を呑んだのを確認してから、わたしは悲鳴を上げて先生を突き飛ばした。


 立石先生は額に大粒の汗を浮かべて目を白黒させていた。


「パパ、助けてっ、こわい!」


 よたよたと駆け寄ってパパに抱きつくと、自然と目から涙が零れた。硬直していたパパもやがて状況を理解したようで、わたしをしっかりと抱きしめ返した。「あなたは」と静かに怒りを滲ませた声が頭上から聞こえてくる。


「ち、ちがっ、お、俺じゃ」


 何を言っても言い訳にしかならないと気づいたのか、立石先生はそれ以上何も言わなかった。パパも今日はもうお引き取りください、とだけ言った。逃げるようにわたしたちの家を出て行く先生を見送ってから、パパはもう一度優しくわたしを抱きしめた。


「パパに告げ口したらもっとひどいことをされると思って言えなかったの、ごめんなさい」

「ううん、パパが悪いんだ。気づかなくて、本当にごめんね……」


 パパの声には後悔と愛情が詰まっている。わたしはパパにしがみついて号泣しながら、これでパパはわたしを弱い子だと認めてくれただろうか、と考えていた。他の男の人に手を出されているわたしを見て、嫉妬心を抱いてくれただろうか。わたしを守らなければならないと、決意してくれただろうか。


 不快感と高揚感で頭の中をぐちゃぐちゃにしてわたしは泣き続けた。気持ち悪くて泣いているのか、幸せで泣いているのかはわたしにもわからなかったけれど、泣いて泣いて泣き尽したら、パパに愛される日々が帰ってくると信じていた。


 立石先生が来ることはなくなって、わたしの目論見通り、パパはまた家にいてくれるようになった。文句なしのハッピーエンドだ。


 平日でも夕食時に帰ってくるようになったので、わたしは毎日張り切ってご飯を作った。パパはこれ好きかなあ、喜んでくれるかなあと料理番組を見ながらレシピをメモに取ったりネットで調べたりしている時間が最も幸福に包まれていたと思う。パパはわたしが作ったものを何でも美味しそうに食べてくれた。


「明佳は将来、良いお嫁さんになるな」とパパは言う。


 でも、明佳がこの家からいなくなるのは寂しいね。そんなことを付け加えるので、わたしはいたずらっぽく笑って「わたしがお嫁に行ってもいいように、パパも家事ができるようにならなきゃだめだよ?」と答えるのだ。


 チーズ入り豚カツを箸で摘まみながら、本心は心の中に隠す。


 わたしはどこにも行かないよ。一生この家にいるし、パパは帰ってくるだけでいいんだよ。だからパパもどこにも行かないで。わたしをパパのいちばんのままでいさせてね。


 いちばんを維持するためには、ただ良い子でいるだけではいけないのだ。時折悪い子になって、パパのいちばんがわたしであることをわからせなければ。スカートを翻して、うさぎのように跳ねまわって、パパの方にわたしを追いかけてもらうんだ。わたしがパパの後ろをついていくのではなく。


 わたしはパパを繋ぎとめる方法を理解した。


 もう、ひとりぼっちの夜を泣いて過ごす必要もない。





 年末が近づいて、小学校卒業まで残りわずかとなったある日、パパはまた一週間家に帰らないと言った。パパと二人きりのクリスマスをずっと前から楽しみにしていたわたしは心底がっかりした。


「えーっ、パパ、一緒にフライドチキンを食べようねって言ってたのに!」

「大丈夫大丈夫、二十五日の夜には帰ってこれるようにするから。お利口にして待っててね」


 パパが家を出るときに、わたしの知らない茶色のトレンチコートを着ていたのが気になった。パパの冬用のコートはママがいた頃からある紺のダウンだったはずだ。いつの間に新調していたんだろう。あんなのパパの趣味じゃないのに。


 少し早い大掃除をしたり、オードブルの試作をしたり、冬休みの宿題を解いたりしながらパパのいない一週間を過ごした。携帯に電話をかけてもパパは出てくれない。パパの声を聞けないことが、顔を見られないことが寂しくて切なくて、パパに似たアーティストの曲をリビングで流していた。


 クリスマスの当日は張り切って家の飾りつけをした。フラワーペーパーを折ったり折り紙を切ったりしている間は何も考えずに済む。無心に作業をしていると、心が透明になっていくのだ。しわを伸ばしたテーブルクロスを敷いて、お皿もお花もばっちり準備した。ソファでマシュマロを落としたホットココアを飲みながらパパの帰りを待つ。テレビからはクリスマスの特番が流れていた。


 時計の短針が十一を過ぎた辺りから、わたしは不安を抱き始めた。


 パパは――本当に帰ってくるのかな。途中で事故にでも遭っていたらどうしよう。ママのことを思い出したら心配になって、わたしは逸る心でパパに電話をかけた。出ない。着信履歴に無数に残っているパパの名前を見て、心臓がどくんと波打つ。


 パパがいなくなったら、どうしよう。


 わたしはパパのために生きている。パパに「いちばん」と認めてもらえるからここにいるのだ。パパがいなくなってしまったら意味がない。


 暖房をガンガンに効かせていて、風邪も引いていないのに、ひどい悪寒がする。歯の根が合わない。わたしは空のマグカップを床に転がしてソファの上できつく毛布に包まった。顔に押し付けた毛布からパパの匂いがした。


「パパ、パパぁ……」


 時計を見るのが怖かった。聞こえてくるのは、自分が洟をすする音と、時計の秒針のカチコチという音だけだ。何分とも何時間とも知れない長い長い時間が過ぎて、


 外の廊下のかすかな足音を耳が拾った。


 革靴の音。パパだ。パパが帰ってきた!


 わたしはソファから落ちるように飛び起きると、足をもつれさせながらリビングを駆け出した。毛布を踏みつけてべしゃりと転んで、再び起き上がって走る。多分鼻がトナカイのように真っ赤になっていると思うけど、もうどうでもいい。


「パパ、パパだよね? おかえりなさい! 待ってて、すぐに開けるから!」


 玄関のドアに向かってわたしは叫んだ。腕を伸ばして二重鍵を開けようとしている間に、パパが家の前に辿り着いたのがわかった。


 鍵を開けて、わたしは違和感でぴたりと動きを止めた。


 足音が二つ聞こえる。人の気配が二つ以上ある。


 動けないわたしの前で、ドアはゆっくりと開いた。


「明佳、遅くなってごめんよ。メリークリスマス!」


 白い息を吐くパパがそこにいた。右手には約束通りフライドチキンの白い箱を持っている。ぼろぼろの眼鏡が曇っているところが鈍くさくて、いつも通りのパパだ。


 けれど、わたしはやっぱりしばらく動けなかった。唇をぎこちなく動かして、パパの横に視線を動かす。


「パパ、その人は誰?」


 真っ赤な口紅を塗った、女の人だった。長身のパパとは差があるものの、女性にしてはかなり高い方に入る身長に、厚底のヒール。高級そうな鞄。


 パパは女の人の肩を支えて微笑んでいた。


「明佳、紹介するよ。この人は末吉(すえよし)亜希(あき)さんといって、」


 やめて、パパ。自分で訊いておきながらわたしは内心耳を塞ぎたかった。


 そこから先は言わないで!


「パパの再婚相手なんだ。とっても素敵な方なんだよ」


 さいこん。サイコン。サイコン――


 漢字を知っているはずなのに、頭の中でなかなか変換されない。


 目の前にいるパパの声が、また水の中にいるみたいにぼやけた。代わりに、今までにパパからもらった数多の言葉が頭の中を巡りだす。明佳のことが世界で一番好きだよ。明佳はいつだって一番可愛いよ。明佳が何より大切なんだ。明佳は悪くない。もちろん、今が一番可愛いに決まってるよ。赤ちゃんのときの明佳はこんなにちっちゃくてね、立つこともできなくて……。


 わたしは右手の人差し指を、女の人の胸元に向けた。


「それ、何?」


 パパは目を見開いて「ああ、説明してなかったね」と言い、発言を促すように女の人の方を向いた。末吉と呼ばれたその人は、派手な外見にそぐわない緊張の面持ちで口を開く。声は上ずっていた。


「初めまして、明佳ちゃん。えっと、驚いたらごめんなさい。この子はね、明佳ちゃんの妹」


 細い腕に抱きかかえられていたのは、まだ産まれたばかりにしか見えない赤ん坊だった。薄いピンク色の真新しいタオルケットに包まれて、すやすやと眠っている。


「私と優さんの子どもよ。名前は明奈(めいな)っていうの」


 こども、とわたしは復唱した。


 三年もの間燻っていた心に、新しい火が灯る。


 ああ、きっとあれは嫉妬の炎だった。パパのたった一つの「いちばん」になりたくて、わたしはママに心を燃やすほど嫉妬していたのだ。けれど今、揺らめく炎は真実を照らし出していた。


 パパはどうして何日も家に帰ってこなかったのか、どこにいたのか、誰と会っていたのか、新しいコートを誰と選んだのか、わたしがコンビニのお弁当を買っているときに誰とご飯を食べていたのか、わたしが一人の夜を過ごしている間に誰と寝ていたのか。すべての疑問に対する解答がわたしの目の前にあった。


 そしてそのことは同時に、パパはわたしのことを「馬鹿で何も知らない子ども」としか見做していないということを意味していた。わたしがすべてに気づいたということに、きっとパパは気づいていない。そのくせ、新しい恋人がいること、子どもができたことはぎりぎりまで隠していた。ママの二の舞を演じないために。


 パパはわたしを、全く信用していなかった。


「今度こそ、明佳はお姉さんになるんだよ。祝福してくれるよね?」


 わたしは肩を震わせた。パパの目が笑っていない。隣にいる人は「優さん、もう少しゆっくり話していきましょう、ね?」とおろおろしている。


 心に落ちてきたとある絶望が、真実の炎に照らされて輝いていた。


 わたしのパパは、対等な人間のことしか「いちばん」にしてくれないのだ。


 ママや、この女の人や、周りにいるたくさんの女性だけがパパの「いちばん」になり得る存在で、娘であるわたしは最初からその中に入っていなかった。わたしがパパの娘である限り、わたしは永遠に二番目以下。


 リビングから流れてくる賛美歌は崩壊の不協和音で、大切に作り上げてきたガラス細工が一突きで粉々に砕け散るのをわたしは見た。


 どうして――どうしてパパは、ここまでわたしを放っておいたのだろう。パパに一番愛されたいわたしが、自分でも制御できないくらいに暴れて止まらなくなるまで、どうして何もしてくれなかったんだろう。


 嘘なら嘘って言ってよ。見せかけの言葉で誤魔化さないでよ。今頃になって裏切らないでよ!


 一度期待させたら最後までちゃんと愛し通してよ!


 そういうものなの? たった一人の愛する人のいちばんになれないって、そういうものって受け入れて諦めて忘れて生きていくことが、大人になるっていうことなの?


 それなら大人になんてならなくていい。なりたくない!


 パパに一番愛されないわたしなんてもういらない!


 混濁した思考の隙間、吹き荒れる風と風のぶつかり合った後の一瞬の静寂に、わたしはママのことを思った。パパの寝室の端っこに置いてある小さな仏壇とママの遺影。あれは何だったんだろう。パパはたった三年でもうママのことを忘れてしまったんだろうか。ずっとママのことを忘れないっていう約束だと、パパは言っていたのに。


 本当にママを一番愛していたのなら、絶対に忘れないでしょう。ずうっとずっと引きずって、いちばんを更新しないでしょう。わたしはパパがママを忘れることを望んでいたはずなのに、こんなのは違うと心が叫んでいる。


 形あるものに意味なんてないのだとわたしは知った。


 パパはきっと、わたしが死んだってすぐに忘れてしまうだろう。

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