3話 閃く悪意、僕の人形③
カチ、と音を残してメトロノームが鳴り止んで、はっと気がつく。
放課後、木工室での個人練習。乾いた木くずの匂いの中、智春は上の空で楽譜をぼんやりと眺めていた。二年の久保川昴先輩が席を立とうとしたので、慌ててメトロノームを手に取る。
「あたし巻きます」
「おっ、ありがとー」
ネジを巻きながら、まだ智春は朝のことを考えていた。
あの後、再びさざめき始めたC組の生徒たちを、日野先生はどうにか抑え込んで着席させると、ハリボテじみた笑顔でこう言った。
「皆さん、この件はもうお終いにしましょう。全員失くしたものは手元に戻ったようですし、もう大丈夫ですね」
失くしたんじゃない、盗られたんだ。全然大丈夫なんかじゃない――という不満がクラス全体から漂っていたが、一年C組は色んな意味で「お利口さん」のクラスだったので、誰も口にはしなかった。心良はどうも、昼休みに生徒指導室に連れていかれたようだ。そこでどんなやり取りがあったのかは知る由もない。
こうして、数日間クラスを騒がせた盗難事件は表面的に解決した。
そう、表面的には。
今朝から智春の心の中に巣食っている異物感が未だ消えない。何かがおかしいと、アラームが聞こえ続けている。ボタンを何度押しても止まらないアラームが。
疑問点は山ほどある。後になって気づいたが、朝に持ち物を調べても盗品が出てくる可能性は低かった。もし自分が犯人なら、鞄や机の中に盗んだものを隠していたとしても、次の日までそのままにはしないだろう。持ち帰って家に置いておくはずだ。持ち物検査をするなら帰りの会がいいということまで、智春は日野先生に言っておくべきだったのだ。
なぜ心良は無防備にも、盗品をすべて鞄の中に隠し持っていたのか。どうやって誰にも見つからずにクラスメイトの持ち物を盗んだのか。どうして盗んだのか。万引きの件だって、結局はっきりとはわかっていない。
それだけじゃない。もっと根っこの部分で、見逃せない違和感がちりちりと弾けていた。
心良は本当に、自分の意思で盗みをはたらいたのだろうか。
あの網瀬心良に、窃盗や万引きをする目的や理由があるようには、どうしても思えなかった。きっとまだ明らかになっていないことがある。事件はこれで終わりじゃない。
「ネジ、壊れるよ」
「……えっ、あっ、ごめんなさい」
アルトサックスの一年生に言われて、智春はまた物思いに耽っていたことに気づいた。メトロノームのネジはとっくに最大まで巻かれている。練習に集中できない自分が情けなくて、ぱたぱたと自分の席に戻った。
心配そうに智春を見ていた昴先輩が、「よし」と言った。
「智春ちゃん、教本持ってきてる?」
教本とは、吹部共通の練習で使っている本だ。ロングトーンの基本から簡単な合奏曲まで幅広く載っており、基礎練習の手引きとなっている。最近は体育大会の練習で忙しいので、パート練で使うことはない。
「えっと、教室に置いてあります」
「取ってきな。ほらほら、愛しのテナーサックスちゃんは見ててあげるからさ」
昴先輩はにししと笑うと、智春の背中を押した。
教本を取ってこいなんていうのは建前で、昴先輩は智春に気を遣ってくれているのだ。木工室から教室まで行って帰ってくれば、気分転換になるだろうと。ありがとうございます、と礼を言い、お言葉に甘えることにした。
校舎を出ようとして、智春は顔の前に手を翳した。視界に広がる橙色の陽の光を妙に眩しいと感じる。土埃が立つ渡り廊下には長い長い影ができており、智春は何か途方もないものに向き合っているような気持ちになった。三階で練習しているトランペットの高らかな音が響いていた。今年の夏のコンクールで演った、課題曲のマーチのDパートだ。つい癖でアルトサックスの運指を再現しながら、顔をほころばせる。
智春は誰もいない廊下を一人でとぼとぼ歩き、一人で渡り切った。
教室がある南校舎の階段を上りながら、仰ぐように天井を見上げる。薄汚れた天井があるだけだ。智春にしては珍しく、もうちょっとさぼってここにいたいな、という考えが頭を過った。智春は頭を振って足を速めた。
教室の前に辿り着いた智春は、ドアを開けようと引き手に手をかけた。
あれ。
そういえば、紅黄中の全教室には鍵が取り付けられていた。生徒の持ち物が無くなったり壊れたりすることはC組以外のクラスでも頻繁に起こる。そこで、体育の時間や放課後など、生徒が教室にいない時間帯は鍵をかけることが義務化されたのだ。どうも他のクラスではあまり守られていないルールであるらしいが、C組は律儀に従っていた。
音を立てないように少し引き手を引くと、ドアが動いた。開いている。
体育大会の放課後練習はまだ始まっていない。C組では、教室に残る人はほとんどいない。放課後になると皆すぐ塾や部活に行ってしまう。だから、鍵を閉める係の人はいつも全員が教室を出るまで待っているのだ。
鍵係は、クラス委員の片方が兼任することになっている。
智春じゃない。玲矢の方だ。
心良の万引き現場を見たときみたいに、動悸が止まらなくなった。
昨日、放課後に職員室の前で会ったとき、玲矢は「お疲れ、委員長」と言った。あのときは特に意味のない言葉だと思っていたが、もしかして。
玲矢は、智春と日野先生の会話を聞いていたのかもしれない。
声をかけられる前、玲矢が職員室から出てきたかどうか、混乱した頭では思い出せなかった。でも、そもそも玲矢に聞かれていたとしても問題ない会話であったはずだ。だって玲矢も智春と同じクラス委員なのだから。
はやる気持ちを抑え、智春は耳をそばだてた。微かに話し声がする。
「……さん……? …………ればいいのに」
聞き取りにくいが、紛れもなく玲矢の声だ。
誰に話しかけているんだろう。
「だから、…………ぃさんは…………」
前触れもなく、椅子が投げつけられたような音と、それが床を転がる音がして、智春は体をすくめた。ドアの隙間から生温かい液体が染み出してくるようだ。ここから離れて、と遠くで声がする。遼の声だろうか。智春もそうしたいのに、足がすくんで立ち去れない。手が引き手に張り付いてしまったみたいだ。
智春が躊躇していると、向こう側から勢いよくドアが引かれた。バランスを失って膝をしたたかに打ち付け、ついでに誰かの剥き出しの脚に額がぶつかって、瞼の裏に星が瞬く。
ちょっとびっくりしたような顔で、玲矢は智春を見下ろしていた。智春と同じように部活を抜け出してきているのか、山吹色のユニフォーム姿だ。
「あ、小田巻だ」
玲矢の顔がぱっと明るくなった。
「今って部活中だよね。何か忘れ物かな」
背を屈めて、玲矢は親切に手を差し伸べてきた。智春がなかなかその手を取らないことを不思議に思ったのか、首を傾げている。
「どうしたの、へたりこんじゃって。そんなところにいないで、教室に」
智春は玲矢ではなく、その奥にあるものを見ていた。
黒板にもたれかかるようにして、教壇に誰かが座っている。チョークの白い粉を被った髪、端の切れた薄い唇、前に投げ出された両脚、片方脱げかけた上靴。シャツには真新しい灰色の足跡がうっすらとついており、彼がたった今誰かに踏み荒らされたことを表していた。
操り人形の首が回る、ぎこぎこと軋んだ音が聞こえたような気がした。網瀬心良のきれいな夕闇色の瞳が、智春の姿を映す。
「玲矢くん、こそ」
到底自分のものとは思えない、裏返った変な声。
「教室で、何やってるの?」
急に手首を掴まれ、ギュン、と強く引き寄せられる。立ち上がる準備をしていなかった足がもつれて、玲矢の胸に飛び込むような形になる。玲矢の心音は凪いでいた。
「あーあ、ばれちゃった」
智春は顔を上げた。玲矢はにっこりと、これ以上ないぐらいにっこりと笑っている。その笑顔は、台詞通り悪戯のばれた幼い子どものようであり、大人が赤ん坊をあやすようでもあり、はたまた人間を陥れる悪魔のようでもあった。普段と何も変わらないように見えるのに、このときの玲矢の笑顔はそういう玉虫色の苛烈な魔力を帯びていた。
玲矢は「まあ、いいか。小田巻でも」とぼやくと、智春から手を離して心良の横に移動した。教卓の上に置いていたボールペンを、智春の赤いボールペンを手に取って、器用にくるくると回す。右足に重心をかける行儀の悪い立ち方は玲矢らしくなくて、智春は飲み下せない不安を感じた。よく知っているものが、突然まったく別のものに転じてしまう不安だ。
「ね、兄さん」
網瀬心良の双子の弟、網瀬玲矢は慈愛のこもった眼差しで兄の腹を蹴り飛ばして、それから思い出したように智春を見た。
「早くドア閉めてよ、小田巻。優等生のあんたらしくないな?」
冷たく錆びついている、悪意を宿した声だった。
とんでもない場所に足を踏み入れてしまったみたいだと、気づいたときにはもう遅い。
*
網瀬心良と網瀬玲矢は一卵性双生児だ。玲矢が眼鏡をかけていることもあって一見気づきにくいが、近くで見ると瓜二つであるとわかる。
顔立ちは鏡に映したようにそっくりで、性格は鏡に映したように正反対。
明るく外向的な玲矢と、暗く内向的な心良。
人気者の玲矢と、日陰者の心良。
表情豊かな玲矢と、いつも無表情の心良。
行動的な玲矢と、何もしない、何もできない心良。
二人は教室でほとんど干渉しないので、仲が良くないのかもしれないとは思っていた。双子とは言え、ここまで性格が違ったら話も合わないだろう。智春も玲矢と話をするとき、心良の話題はなるべく出さないようにしていた。心良の作文を智春が回収しようとしていたのも、玲矢に気を遣っての行動だった。
だけど、現実は想像よりもずっと残酷で。
智春は震える声で確認した。
「盗難事件は、二人の共犯だったの?」
「うーん、不正解」
「……網瀬くんのことを、玲矢くんが庇っているとか」
「庇う? 俺が? 兄さんのことを? あはは、それ面白いね」
玲矢は一番近くの机に腰掛けると、両足をふらふら揺らして優しく笑った。
「余計な質問をするのはやめて。気づいてるんでしょ? 全部俺がやったんだって」
笑顔は穏やかなまま、玲矢は続ける。
「難しくなかったよ。俺が教室を施錠するから先に行ってって言ったら、みーんな真に受けちゃったし。盗られて困るものは教室に放置しないようにって教わらなかったのかな」
信じたくなかった事実を突きつけられて、智春はこぶしを握った。
確かに、玲矢なら簡単なことだった。体育大会の練習の前には、男子は教室、女子は隣の学習室が更衣室になっている。玲矢が最後に残って鍵をかけるところは誰も見ていない。移動教室の場合も同様だ。万が一見られたとしても、「落ちてたから、拾って机の中に仕舞おうとしてただけ」とでも言えば、皆気にしないだろう。
「それは皆、玲矢くんのことを信頼して、」
「うん。俺のことをそんなに信じてくれるなんて、皆良い人だね」
玲矢は罪悪感の欠片もない顔で平然と智春の言葉を遮った。
「小田巻も、いつも言ってるじゃないか。このクラスは良い人ばっかりだって。俺もそう思うよ。本当に――笑っちゃうぐらい、善人の巣窟だ」
軽やかな声音は智春の耳を侵食し、思わず頷いてしまいそうになる。玲矢と目を合わせるのが怖くて、智春は心良の方を見た。心良が関係ないのなら、どうして彼は巻き込まれたのだろう。どうしてそこに座っているのだろう。どうして、唇の端から血が出ているのだろう。
「玲矢くんは、持ち物検査のことを知って、網瀬くんに罪をなすりつけようとしたの?」
智春が尋ねると、玲矢は片目を瞑ってつまらなそうに答えた。
「五十点。知ってても、知らなくても同じだったよ」
知ってても、知らなくても同じ。
玲矢の真意にようやく気づいて、智春は声を押し殺した。
「まさか、玲矢くんは最初から、網瀬くんに罪を着せるつもりだった……?」
「正解!」
何がおかしいのか、玲矢はまた朗らかに笑う。
「兄さんの鞄から盗まれたものが見つかったら、兄さんが盗んだんだって安直に結びつけて。やっぱり育ちが良いよね、あの子たち。例えばそう、俺に家で入れられたんじゃないかって、考えようともしない」
玲矢は一瞬、ぞっとするような流し目で智春を見た。
「小田巻、あんたも同じだろう?」
咄嗟に否定できなかった。智春の胸がずきりと痛む。その痛みを無視して、代わりに怒りを思い出そうとした。ここまで言われたい放題なのは許せない。C組の人たちは関係ないでしょう、と智春は玲矢を睨み付けた。
「何のためにこんなことするの。網瀬くんは双子のお兄さんなんでしょ?」
智春だって妹や弟と喧嘩になることは稀にある。数日間口を利かないこともある。でも、窃盗を計画して、その罪を兄弟に着せようなんて考えたことはない。どう考えてもやり過ぎだ。
「網瀬くんのことがそんなに嫌いなの? 喧嘩なら正々堂々とやりなさいよ、卑怯者!」
卑怯者、と罵ったことが翻って自分を傷つけた。本当はこんなことを言いたくはなかった。あの玲矢が、人の善意を、憤りを、素直な心を操って平然としているような人だと、兄弟に濡れ衣を着せるような人だと、知りたくなかった。知らないままでいたかった。
そうしたら智春は、明日も玲矢と顔を合わせて笑えたのに。
智春の発言が意外だったのか、玲矢は初めてきょとんとした。が、すぐに憐れむような笑みが顔に広がる。
「小田巻って、本当に良い子だよね」
「え?」
馬鹿にされたのだ、としばらくの間気づかなかった。智春は徐々に顔を赤らめた。
「なっ……」
「俺が兄さんのことを嫌いかって? いいよ、あんたには教えてあげるよ」
机からぴょんと飛び降りた勢いのまま、玲矢は呆然と座り込んでいる心良の顎を蹴り上げた。
自分が蹴られたわけでもないのに、ガン、と脳髄が揺れるような衝撃があった。
「きゃあ!」
智春の金切り声と、心良の後頭部が黒板の粉入れにぶつかる音。当の心良は僅かに呻いただけだった。玲矢は無邪気に笑っていた。
「何……して、」
声が上手に出せない。
「ひど、い……網瀬くん、何もしてないじゃない! 何で、そんな……、やめてってば!」
智春が叫んでいる間にも、玲矢は二、三発心良の上半身に蹴りを入れていた。玲矢をどうにか止めようとした手が、いとも容易く振り払われる。やっぱり心のどこかで玲矢のことを華奢な男子だと思っていた智春は、彼の強い力にひるんだ。怯えの伝わった指先が震えていた。
「ねえ、小田巻」
声には、芯まで悦楽が染み込んでいる。
「兄さんはね、僕の人形なんだ」
「にん、ぎょう……」
智春は玲矢の言葉を反復した。
人形という喩えは図らずも智春の認識と同じで、だけど同じだと思いたくはなかった。否、心良に対して少しでもそんな感想を抱いたことを、智春は深く後悔し始めていた。自分の考えの浅はかさが目の前で実体化したようで、今にも泣きそうになる。
玲矢は心良の襟首を掴んで立ち上がらせた。
「小田巻もさ、人形で遊んだこと、あるよね? 人形は、服を着せ替えても、頬擦りしても、髪を引っ張っても、床に叩きつけても、何も言わなかっただろう?」
「は……」
幼い頃の記憶が疼いた。メスを入れられた、と思った。玲矢の言葉は智春の心の柔らかいところを切り裂く。見慣れた教室を、血液のようなどろりとしたものが満たしていった。
「僕は、兄さんのことが、今も昔も心の底から大好きだよ」
そう唱える玲矢の顔は、愛おしそうで。
「叩いても、殴っても、蹴っても、引っ掻いても、引っ張っても、噛みついても、炙っても、突き刺しても、首を絞めても、何にも言わない。僕の、自慢の兄さんさ」
玲矢は白くてきれいな並びの歯を見せて、お気に入りの玩具を自慢する小さな子どものように、あどけなく、本当にあどけなく笑ったのだ。
嘘や誤魔化しではないと、その表情を見てはっきりとわかった。玲矢は本心から心良が大好きだと、その上でやったと言っているのだ。
あり得ない。この人は――おかしい。忌避感を認めたら、一周回って頭が冷えてきた。智春はもう一度玲矢をキッと睨んで、じわじわと後退した。ドアに汗ばんだ手が触れる。
「あ、あたしが、これを見て、先生に言うとは思わないわけ?」
「……ふうん、そう。小田巻ならそう言うか」
玲矢はすうっと目を細めた。言うが早いか、ボールペンをぱちんと弾き飛ばして空中で掴むと、ペン先を心良の眼球すれすれに突きつける。
智春は息を呑んだ。あっという間の出来事で、足を踏み出すことすらできなかった。
「どうしたの? 早く行けばいいのに」
「網瀬くんから……っ」
ボールペンを、離して。
声が掠れて後半は発せられなかった。熱くて粘っこい空気が智春の体に纏わりついて、まるで身動きがとれない。一方で、玲矢はこの期に及んで涼しい顔をしている。
「頭の良い小田巻なら、俺が何を言いたいのかわかるよね」
頭が良いなんて、ちっとも思ってないくせに。
「そんなことして……許されるわけが、」
「許されるとか、許されないとかじゃない」
眼鏡の奥の整った形をした目が、初めて興奮気味に見開かれる。
この教室に入ったときから、玲矢は完全に智春の常識の外にいた。
「僕はいつでも兄さんを壊せるってだけだよ。何にも、難しくなんかないんだ」
ボールペンのペン先を戻して、玲矢は心良の襟首から手を離した。床に崩れ落ちた心良は首元を抑えて苦しそうにむせた。
「そもそも、こんなことになったのはあんたのせいなんだって、わかってる?」
心良の膝を爪先で軽く二回蹴って、玲矢はそんなことを言う。
「ほらほら、思い出して。物が盗まれるようになったのは、いつから?」
智春はぽつりと答えた。今週の月曜日。
「あんたが、兄さんによく話しかけるようになったのは」
言われるままに智春は記憶をたどった。作文の提出日、つまり始業式の後。正確には、
「先週の、金曜日……」
「そう。どういうことだと思う?」
信じられない、と智春は呟いた。盗難事件を起こしたのも、心良に濡れ衣を着せたのも、智春が心良に話しかけたからだと言いたいのか。
「本当は、あんたが勝手に幻滅して兄さんから離れてくれればいいと思ってたんだけどね。予定とは多少違ったけど、結果オーライだ」
玲矢は音もなく詰め寄ると、ボールペンで智春の顎に触れた。ボールペンってここまで冷たかっただろうか。智春の買った、安物の、プラスチック製の、普通のボールペンなのに。
気が変になりそうだ。
「僕の人形を、そう簡単に他人に触らせるわけにはいかないから」
独占欲をはらんだ仄暗い囁きに、ぞわぞわと悪寒が走った。強張った顔で黙り込む智春を見て、玲矢は笑う。頬が緩むのを抑えられないようだった。
「結局さ、あんたは偽善者なんだよ」
「ぎ、ぜん、なんて」
「だってあんた、教室に入ってきてから一度も、兄さんを心配して駆け寄ろうとしなかった」
あなたにそんなことを言われる筋合いはない。そう言い返したいのに、喉の奥で言葉が突っかかって出てこなかった。さっきから言いたいことが何一つ適切に言えていない。智春の意思や言葉が全部先回りして封じられているようだ。気づかないうちに、両目に涙の粒が浮かんでいた。「あ、泣いちゃった」と面白がるように玲矢はくすくす笑って、智春の顎から頬をボールペンでゆっくりとなぞった。
「よく聞きな、小田巻。あんたは自分の手が汚れない範囲だけでお節介焼いて、そこから先に手を伸ばすつもりはない、ただの偽善者だ」
教室の悪魔は、智春には耳慣れない黒い言葉を滑らかに紡ぐ。
「だけどね、俺はあんたのこと、わりと嫌いじゃないんだよ。だからさ、また遊ぼうね」
玲矢の手から離れて床に落ち、教壇の方へ転がってくボールペンを、智春は黙って眺めることしかできなかった。
「鍵、ここに置いておく。小田巻がかけておいて」
ちゃりん、と金属の音が響いて、智春が顔を上げたときにはもう玲矢はいなかった。
続いてよろよろと立ち上がった心良が、同じように教室から出て行こうとする。智春は耐えきれず声を荒げた。
「……網瀬くんは! ほんとうに、それでいいの?」
言ってから、馬鹿な質問だ、と後悔した。答えは返ってこないだろうとも。
それなのに、心良はぎこちなく振り向いたのだ。
「おれの、弟、なんだ」
泣きそうな顔なのに、涙は零れなかった。唇は震えているのに、声はどこまでも優しかった。
「玲矢と、おれは、双子……な、んだ。双子、なんだ」
壊れた再生機のように繰り返すのは、人形なのか、人間なのか、智春にはわからない。
「おれたちは……ふたりでひとりって、玲矢との約束、だから……おれは、玲矢と、離れちゃだめなんだ。離れ、られないんだ」
最後にこう言い残して、網瀬心良は教室から去って行った。
「……おれも、離れたく、ない」
*
誰もいなくなった教室に、一人の少女が佇んでいる。
闇の中に咲く花のような少女だった。腰まで届く艶やかな黒髪を二つに結わえ、少し切れ長の目を憂鬱げに伏せて、紅黄中指定のものではない、シンプルな黒襟のセーラー服を身に付けている。少女は色褪せた一枚の写真を手に持っていた。写っているのは浴衣を着て恥ずかしそうに微笑む幼い少女に、同じ顔の少年が二人。
「心良くんは私のこと、もう覚えていないんだね」
静かな声で呟くと、少女は教室の後方の窓を開けた。秋の始まりの風が胸元の黒いスカーフを揺らす。細く白い指先が窓の桟にそっと触れた。
「私は心良くんのこと、一度だって忘れたことはないのに」
遠く、遠く前だけを見つめる凛とした横顔に、つい先ほどまでの憂鬱はない。代わりに少女の中では、熱を帯びた感情がひっそりと醸成されていくようであった。
「ごめんね、心良くん」
スカーフが揺れる。少女の声にはまだ微かに後悔と迷いが混じっているものの、何かに取り憑かれたような瞳の底では無数の小さな星が爛々と燃えていた。
「私は、心良くんと玲矢の絆を、砕いて引き裂いて、ぐちゃぐちゃにしてしまうかもしれない」
「だから、これは私のエゴだよ、心良くん」
鬼城真夜の声は、誰にも届かない。