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閉塞学級  作者: 成春リラ
6章 飛び込みシミュレーション
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38話 求愛ディストーション③

 孤高のお姫様は、運命の人に出逢ってしまったんだって。一度心の中の「いちばん」の宝箱に誰かを仕舞い込んでしまったら、もう他の人が干渉することはできないの。


 木くずやほこりが空気に舞う、放課後の美術室。壁に染みついた油絵の具の匂い。週に一度の定例会に参加していれば文句を言われることはないけれど、わたしは時々ふらりと遊びに来ている。少なくともここにいるときは、胸が詰まるような思いにならないから。


 あの子もそんなに真面目に部活に来る人ではないから、定例会以外だと週に一、二日部室にいれば良い方で、わたしと顔を合わせる日となるとさらに少ない。だからこそ偶々あの子に会えた日はラッキーだ。冷たく華やかなお人形さんに憧れない女の子はいないでしょう? その気持ちは「好き」とは違うけれど、あの子を見ていると心が洗われるような気持ちになる。


 造られたように白くて細長い指が水彩筆を掴み上げる。色とりどりに汚れたパレットの上で小さく絵の具をかき混ぜて、鉛筆で下書きをしたスケッチブックに色をつけていく。あの子はいつ見ても違う絵を描いているのに、描いている内容はいつも同じだ。夜空に浮かぶお月さま。鬱蒼とした森の中だったり、何もない車道の上だったり、透明な湖面に映り込んでいたりするけれど、お月さまを描いていることだけはいつも変わらない。


 鬼城真夜ちゃん。わたしと同じクラスのうつくしい女の子。


 まよちゃんはとても無口な子だ。わたしの知っている限り、自分から話し始めたことは一度もない。美術部のみんなと楽しくおしゃべりしているときも、まよちゃんだけはぼんやり窓の外を見ている。部員に話しかけられても、ちゃんと答えてくれることは少ない。みんな最初は九月になって突然入部してきた彼女に興味津々だったのに、一週間も経たない内に関わることを諦めてしまった。賢明な判断だと思う。まよちゃんが周りの全てに興味を持っていないことに、みんな早々に気づいたのだ。


「ねーえぇ、まよちゃんっ」


 そういうわけなので、部室にわたしとまよちゃんの二人しかいないときに話しかけている。話しかけない方が賢明だけれど、賢明な判断に従うかどうかはまた別の話だ。普段はあんまりしつこくすると他の部員に止められるからしないだけ。わたしは無視されてもへいちゃらだしね。


 まよちゃんは筆を動かす手を止めない。向かいの椅子に座って、机の上で重ねた腕に顔を乗せて、こんなに近くでまよちゃんのことを見ているのに一度も目が合わないのはすごいと思う。わたしは一方的に尋ねた。


「まよちゃんって、好きな人いるの?」


 三秒待つ。無言。わたしは両手をひらひら振って笑った。


「あっ、ごめんね。恋バナとかじゃないよ。えっとねぇ、まよちゃんの『いちばん』はだれ? って訊きたかったの」


 白い手がスケッチブックの上で止まる。筆の先を紙からゆっくりと離して、まよちゃんはわたしの方を真っ直ぐに見た。あまり期待していなかったわたしは「お?」と思って、まよちゃんの射抜くような視線を受け止めた。小さな呼吸音とともに、緩んだ空気に一本芯が通ったのがわかる。


「心良くん」


 授業以外で久しぶりに聞いたまよちゃんの声は、凪いだ海のように静かで穏やかだ。


「うららくん? って、誰だっけ」


 名前を聞いたことはある。多分C組の人だけど、顔を思い出すことができない。


 まよちゃんはさっきよりもはっきりした声で、「網瀬心良くん」と繰り返した。


「……ああ、れいやくんの双子のお兄さん!」


 影が薄い子なので忘れていた。フルネームで言われたら顔と性格まで思い浮かぶ。最近は盗難事件を起こしたり美術室で手を切り裂いたりしているちょっとした問題児なのに、どうしても存在感がないのだ。


「ええー、あんな子がいちばんなの? どうして? うららくんとは、前から知り合いだったのかな」


 教室でまよちゃんとうららくんが話しているところなんて、一度も見たことがない。話したことがない人がいちばん? そんなのあり得ないでしょう。半ば煽りとも取れるわたしの質問に、まよちゃんは短く答えた。


「笑顔」


 刃物で刺すように言い切った後、「それが理由」と付け加える。


「え、笑顔ぉ?」


 さすがにわたしも声が裏返った。一番想像していなかった返答だし、うららくんの特徴としてあまりに不適当だ。まよちゃんみたいな人でも冗談を言うことがあるのかな。それとも本当にうららくんが笑顔になると信じているのかもしれない。ふうん。なんて愚かでかわいいお姫様だろう。


「それって海の中を泳ぐ雀とか、空を泳ぐイルカみたいな感じ?」


 茶化しても、まよちゃんはもう反応してくれなかった。


「えへへ、わたしも笑うの、上手だよ。もっと練習しよっかなぁ」


 両手の人差し指を口の端に当てて、わたしはにぱっと笑った。へらへら笑うのも、媚びを売るのも、無邪気な笑顔を作るのも得意だ。でも、まよちゃんが言っているのはきっとそういうことじゃないんだろうな。


 わかっている。何をしても無駄だって。


 本当に愛されるためには、誰かのいちばんになるには、「才能」か「運」が要る。


「うららくんも、ちはるちゃんも、ずるいねぇ」


 わたしのぼやきにも、まよちゃんはやっぱり何も言わなかった。





 わたしにとって「いちばん」は、苺のショートケーキにたっぷり塗られた生クリームみたいに甘くてキラキラしている魔法の言葉だ。それでいて、胃の中にいつまでももったりと残って決して消化されない呪いの言葉だ。


「明佳のことが世界で一番好きだよ」と、わたしを抱え上げてパパは言った。


 あれがわたしの、野河明佳の始まりだった。


 瞬間、ぱあっと温かな光に包まれる。「いちばん」と、甘い飴を口の中で転がすようにつぶやいて、わたしは自分が世界で一番の幸せ者なのだと悟った。わたしが四歳のときのことだ。パパにねだって買ってもらったギンガムチェックのカチューシャをつけて、二人で紅葉の美しい街道を散歩していた。木の高いところにある、一番きれいに赤く染まった葉っぱに伸ばしかけていた手を止めて、わたしはパパの顔をじっと見た。


「ほんと? ほんとにめーかのことが一番好き? めーかがいちばん?」

「ああ、もちろん。パパは明佳のことが一番好きで、明佳が何より大切なんだ」


 わたしがパパに抱っこされながら喜びのあまり手足をばたばたさせたので、パパの顔から眼鏡がずり落ちた。手が塞がっているパパの代わりにわたしが掛け直してあげると、パパは「ありがとう」と笑う。その笑顔が自分だけに向けられていることが嬉しくてたまらなくて、わたしは目一杯パパに頬ずりした。


 あのときのわたしはパパのことだけを考えていられた。最も幸せな時期だった。


 パパの名前は野河優という。ひょろりとした痩せぎすの長身で、わたしが生まれたときに二十三歳。いつも申し訳なさそうに背中を丸めて、困ったような笑みを浮かべている。メタルフレームの眼鏡は傷だらけで、意外と涙もろくて、甘いお菓子が大好き。何もないところで転んだりするドジなところもある。近所の小うるさいおばさんに、「明佳ちゃんのお父さんはぱっとしなくて頼りない人ねえ」とか嫌味を言われたりもする。


 だけどわたしは知っているんだ。パパが誰よりも優しくて世界で一番かっこいいって。


 パパは忙しい人だ。土曜日も日曜日も会社に行って、毎日へろへろになって帰ってくる。わたしが寝た後に帰ってきて、わたしが起きる前に家を出て行く。出張で何日も家を空けることも多く、一週間の間に一度もお話しできない日もあった。その分、家にいるときはたくさん遊んでもらえた。わたしの行きたいところならどこにでも連れて行ってくれたし、欲しいものは何でも買ってくれた。


 わたしのお部屋の中は、パパに買ってもらったものでいっぱい。ふわふわの毛糸の大きなイルカのぬいぐるみに、ケーキを模したジュエルケース、桜色のうさぎのネックレス。お洋服も、食べるものも、住む部屋だってパパにもらったものだ。パパのものに包まれたわたしのこの身も心も、隅々までパパのものだと思った。パパの愛情に囲まれて、わたしは毎日安らかに眠った。


 あんまり家にいられなくてごめんね、とパパは申し訳なさそうに言う。一番大切な明佳のために頑張っているんだ。明佳のためなら頑張れるよ。


 わたしは決まってにっこりと笑って、パパ大丈夫だよ、と答える。パパはきっと物分かりも愛想も良い女の子の方が好きだろうから、わたしもパパの望む言葉をあげるんだ。パパがいなくてもわたしは平気。わたしのためにありがとう。それは本心でもあった。わたしの隣にいなくても、パパがわたしを一番好きということに変わりはない。


 そう、パパさえいれば他に何もいらないの。


 パパはいわゆる転勤族だ。二、三年に一度は引っ越しがあって、わたしも二回小学校を変わった。学校にあまり馴染めなくなったのは、一回目の転校からだろうか。それなりに仲良くやっていた前の学校の友達とはしばらく文通を続けていたが、一年ほどで途絶えてしまった。休み時間はいつも一人でパパの似顔絵を描いていた。クラスメイトに揶揄われても無視し続けた。


 わたしに友達がいないとわかったら、パパはきっと心配するだろう。そう思ったわたしはパパがお休みの日に時々家を出て、友達の家に遊びに行くふりをした。もちろん遊びに行く家なんてないから、大抵は校庭の隅でぼんやりしていたけれど。


 寂しいと思ったことはない。わたしはパパのいちばんで、パパはわたしのいちばん。その事実さえあればわたしは十分だった。ううん、恵まれすぎていたくらいだと思う。


 わたしは世界で一番パパに愛されていて、世界で一番幸せな女の子だという自信があった。パパのくれる「いちばん」こそがわたしのアイデンティティ。それは絶対不変で未来永劫揺らぐことはないと、わたしは何の根拠もなく信じ切っていたのだ。


 あの日まで。





 小学校三年生の春、ママが妊娠したことを知った。


「あのね、明佳はお姉さんになるの」


 テーブルの上に置いてあったコーヒーの苦い香りを今でも覚えている。既にお腹が大きくなりつつあったママは嬉しそうに笑いかけてきた。まるでわたしが喜ぶことを前提としているみたいに。


 わたしは何と答えたらいいのかわからなくて、隣に立っているパパの顔を見上げた。


「よかったね、明佳。今まで一人でつまらなかっただろう? 遊び相手ができるんだよ」


 パパもこれ以上ないってくらいにこにこしていた。赤ちゃんができたという報告は、野河家の中で最も祝福すべき大ニュースだったらしい。わたしはあまりぴんときていなかったけれど、パパとママが言うならそうなんだろうと思った。ママおめでとう、とだけ言って、後は二人が難しい話をしているのを横でずっと眺めていた。なんだか仲間外れにされたような気分でちょっと面白くない。


 ふうん、遊び相手かあ。わたしは別に要らないのに。わたしにはパパがいれば十分だもの。でもまあ、パパが喜ぶのなら遊んであげてもいいかも。多分、最初はその程度にしか考えていなかったような覚えがある。


 心が騒ぎ始めたのは、初夏のとある日だった。


 ママが病院で診察を受けている間、わたしとパパは病院の小さな待合室でテレビを見ていた。周りにほとんど人がいなかったからか、ソファに寝っ転がってパパのお膝に頭を乗せても怒られなかった。受付のお姉さんにもらった桃味の飴をぺろぺろ舐めていると、番組がぱっとおむつのCMに切り替わった。テレビの中できゃあきゃあ笑う赤ちゃんを見ながら、パパは懐かしそうにこう言ったのだ。


「明佳も昔はあんなに可愛かったんだよ」


 口の中から桃の味がなくなった。わたしは飴を左の頬に動かして、口を開く。


「昔?」

「うん、赤ちゃんのときの明佳はこんなにちっちゃくてね、立つこともできなくて……」

「今は可愛くないってこと?」


 わたしに言葉を遮られて初めて、パパはまずいことを言ったという顔をした。慌てて笑顔を作ると、わたしの頭をよしよしと撫でてくる。


「いやいや、もちろん、今が一番可愛いに決まってるよ」


 膝枕されながらパパの顔を見上げる。わたしは昔から人の嘘を見破るのが得意だった。相手の目の動きや視線の方向を見ていると、嘘をついているかどうか一発でわかる。特にパパは正直な人だからわかりやすい。このときのパパもやはり嘘をついていた。


 パパにとっては、小さい子の方が可愛いのか。そうなんだ。


 確かに、小三のときのわたしはお世辞にも小さいとは言えなくなっていた。背の順で並ぶといつも一番後ろだったし、パパに買ってもらった可愛い服が着られなくなるのはとても早かった。パパの背が高いのが遺伝したんだろうと言われて、何も考えずに喜んでいたっけ。背が伸びるたびに新しいお洋服を買ってもらえて嬉しい、とも思っていたかもしれない。


 ママの診察が終わって待合室を出てからもパパに言われたことが頭の片隅に残っていて、後日おむつのCMを見るたびに否が応でも思い出させられた。


 赤ちゃんが生まれたら、この家で一番小さいのはわたしではなくなる。


 わたしはこっそり夜中に起き出して、暗い洗面所で鏡に映った自分の顔を見た。鼻と口はママ譲りで、目はパパ譲りの顔。前は踏み台を使わないと洗面台に届かなかったのに、いつの間にか必要なくなっていた。


 両手をそっと頭に乗せて、わたしは鏡に映った手の位置を覚えた。手のひらでぐぐぐ、と頭を押さえる。変化はない。わたしはその場に踏ん張ると、「ん、うぅ、うー」と小さく呻いてますます手を押し付けた。力んだ腕が痺れ始めるまで続けた。


 どっと溢れ出した疲労感から膝をつきそうになる。不規則に息をはあ、はあ、と吐いて、わたしは頭から両手を離した。鏡の前に真っ直ぐ立って、さっきと頭の位置が変わっているか確かめる。


「ちょっと縮んだ、かなぁ……?」


 少し小さくなれたようにもまったく変わっていないようにも見えて、わたしはその場にしゃがみ込んだ。ふいに零れた涙が洗面所のマットレスに濃い染みを作る。パパとママはすぐにわたしの泣き声を聞きつけたらしい。わたしから事情を聞くと、パパはわたしを力いっぱい抱きしめてくれた。


「酷いことを言ってごめんね。明佳がそこまで気に病むとは思わなかったんだ。明佳はいつだって一番可愛いよ。本当だよ」


 パパの胸に顔を押し付けて泣きながら、身長なんて一生伸びなきゃいいのにとわたしは願った。わたしの背中をぽんぽん叩くパパの手は温かくて、いつもの優しい声に嘘はなかったけれど、一度芽生えた不審を摘み取ることはもうできなかった。


 それ以来、わたしの身長はほとんど伸びていない。





 夏が近づくと、パパは早く家に帰ってくるようになった。土日も家にいることが増えた。でもそれはわたしと遊ぶためじゃなくて、ママのことが心配だからだ。わたしと一緒に折り紙をしているときでも、ママに呼ばれるとパパはすっ飛んでいく。逆に、わたしに呼ばれてもすぐには来てくれなくなった。少しずつ、家の中心がわたしからママへ移っていくのだ。


 ママが大変なときにわがまま言うなって? ごめんなさい。でもわたしは嫌だったの。


 パパがママのお腹を撫でて幸せそうに微笑んでいるのを見ながら、ママはずるいな、いいなぁ、と思った。もう赤ちゃんの性別もわかっていて、どんな名前にするか二人で考えている時期だった。わたしは一人蚊帳の外。


 わたしのこともあんな風に案じてほしい。もっとパパに触れてもらいたい。六月のカレンダーが終わりそうになった頃に、わたしはふと考えた。


 わたしも子どもを産めたらいいのにって。


 可能であるはずだった。この日のつい三週間前、わたしに初めての生理が来たとき、ママは「明佳も赤ちゃんが産めるようになったのよ」と言っていたから。詳しいことははぐらかされてしまったけど、それなら調べればいい。


 休みの日にわたしが自転車を漕いで向かったのは町立図書館だ。真新しい検索機に四苦八苦して思いつく単語を打ち込むと、何冊かの本が引っかかった。その中からふりがなが振ってあってわたしにも読めそうなものだけ棚から引っ張り出してきて、わたしは子どもが産まれる仕組みについて書かれているページを真剣に読んだ。


 日の暮れた坂道を滑り落ちるように走って家に帰り、リビングで新聞を読んでいたパパにソファの後ろからしがみつく。


「パパ! ねえパパ! 聞いて聞いて! めーかはパパの子どもが欲しい!」


 振り向いたパパは「子ども」を今度ママから産まれてくる赤ちゃんのことだと思ったのか、「うん、楽しみだね」と微笑んだ。ちがうちがう、そうじゃないの。わたしがパパの子どもを産みたいの、ママみたいに! 期待を込めて説明すると、パパは目をぱちくりさせた。と思えば、愉快そうに声を上げて笑い出す。


「はは、それはそれは、明佳にそんなに好いてもらえて嬉しいなあ」


 パパは台所から戻ってきたママに、聞いてよママ明佳がこんなことをなんて面白半分に話している。ママもにこにこ笑ってパパは幸せ者ねえとか返した。一人だけ本気のわたしは置いてけぼりだ。わたしはむうっと頬を膨らませて、パパにもママにもよく聞こえるように大きな声で言った。


「冗談じゃないよ、めーかは本気だよ!」


 度肝を抜かれたように目を丸くしたパパが口を開く前に、パパにいっそう抱きついて畳みかける。


「めーかとセイコウショウ、してくれるよね?」


 パパの顔が真っ白になった。


 何かがぱりんと割れる音がして、わたしは肩を震わせた。ママが手に持っていたティーカップを落としたのだ。花柄の陶器が割れて、中に入っていた熱々の紅茶が零れる。フローリングの隙間に琥珀色の液体がしゅうっと染み込んでいくのに気を取られて、わたしはパパからもママからも目を逸らす。


 あのティーカップ、華やかで可愛くてお気に入りだったのに。明佳はまだ小さいから割れ物は使っちゃダメよと言われて、いつか解禁されるのをずっと待っていた。


 ティーカップが割れてしまうほどにまずいことを言ったのだという実感が薄くて、わたしはただただ困惑した。


「……あ、あっ、ママ大丈夫? 雑巾を、持ってくるよ」


 パパの声に引き寄せられるようにぼんやりと目線を上げる。わたしの腕をぎこちなく振りほどいたパパは、床にへたり込んでいるママの腕を取って立ち上がらせていた。ママは何も言わないまま真っ青な顔で床を見つめている。二人がまるで何も聞かなかったみたいに振る舞うので、わたしは慌ててパパの前に回り込んだ。


「パパ、聞いてた? めーかは、」

「明佳」


 聞いたことのないような厳しい声に、伸ばしかけていた手をぴたりと止める。


「そういうのは、言ってはいけないよ」


 言ってはいけないよ。


 わたしが初めてパパに否定された瞬間だった。わたしが「欲しい」と言って、断られたことなんてそれまで一度もなかったのに。欲しがれば何だって与えてもらえると信じていたし、パパに不可能なことはないと思っていた。パパがわたしに向かって、ちょっと怒ったような固い声を出すことがあるというのも知らなくて。


 胸の奥に、ぼうっと火が灯る。


「パパ……ごめんなさい。でも、」


 どうして? どうしてママは良くてわたしはだめなの? まだ八歳だから? 子どもだから? それとも、パパの娘だから? そんな疑問を吹き消すみたいに、「だめなものはだめなんだ」とパパは答えた。答えになっていない。


 零れた紅茶とティーカップの破片が片付けられていくのを部屋の隅っこで見ながらも、心の火はちろちろと燃え続けていた。それが何の炎なのか、どうして灯ったのか、このときのわたしにはまだわからなかった。


 パパがわたしと露骨に距離を置くようになったのはその次の日からだ。お風呂に一緒に入ってくれなくなったし、寝室には鍵が掛けられるようになった。ドアを必死で叩いてもパパは出てこないのに、翌朝そのことを尋ねると「ごめん、熟睡してて聞こえなかったんだ」と苦笑する。


 わたしは悔しくて悔しくて、自分の部屋で毎夜しくしく泣いた。声が届いていないのか、パパもママももう来ない。わたしを見ていてくれるのは、パパに買ってもらった宝物だけ。


 火は次第に燃え広がって、矛先を体の外に向け始めた。





「パパは、めーかのことが世界で一番好きなんだよね?」


 七夕の少し前の夜。ずっとずっと言おうと思って、でも怖くて訊けなかったことをわたしはとうとう訊いてしまった。わたしが小学校で少しだけ分けてもらった笹の葉を、リビングの邪魔にならないところに飾り付けていたパパはすぐに振り返った。「どうしたの、明佳」とパパは七夕飾りを持った手でわたしの頬っぺたをむにむにする。


「もちろん、パパは明佳のことが世界で一番好きだよ」


 何年も経つのに、あの日とそっくり同じ言葉をパパは繰り返した。「本当に?」と小声で確認して、パパの服の裾を掴む手に力を込める。その手が意外だったのか、パパは虚を衝かれたような顔になった。


「本当だよ。パパが今までに嘘を言ったことがある?」


 あるよ、と言いたいのを堪えて「ないよ」と答える。パパは嘘を結構たくさんつくよ。嫌いな野菜をこっそり残していることも、夜中にママに内緒でクッキーを齧っていることも、わたしより赤ちゃんみたいに小さい子の方が可愛いと思っていることも、わたしが泣いているのを見ると一瞬面倒くさそうな顔をすることも、わたしがドアを叩いているときに起きていることも、わたしは全部知っている。


 だけど、わたしが「いちばん」っていうのは変わらないよね。


「パパ、私のことは?」


 ソファに座ってテレビを見ていたママが会話に混ざろうとしてくる。わたしはパパの方を見続けた。パパがママの質問になんて返すのか、耳の奥の神経を研ぎ澄ませて息を殺していた。ママの反応なんてどうでもいい。わたしが知りたいのはパパの回答だけだ。


 パパはへらへらと笑った。わたしのパパらしくない、浮ついた、薄っぺらい笑顔。


「そりゃあ、ママのことだって一番好きだよ」


 ――いちばん。いちばん。いちばん。


 魔法の言葉が、頭の中でこだまする。


 パパはママにも、「いちばん」を使ったのだ。


 微笑んでいるパパの声が、水を通したみたいにぼやけて聞こえにくくなった。口パクだけでは何を言っているのかわからない。視界が歪む。笹の葉が立てかけられたリビングの白い壁に大きな亀裂が入って、ぐしゃぐしゃとかき混ぜられていく。水底から見上げるように、わたしはパパの顔があったところを見つめた。


 うそつき、と二人には聞こえない大きさでわたしはつぶやく。


 パパは嘘つきだ。「いちばん」が二つも三つもあっていいわけがない! それは軽々しく使っていい言葉じゃない。その場しのぎに吐いていいものではない。「いちばん」は何を差し置いても相手のことを一生最優先で考え続けるという誓いだ。二つとない約束だ。


 心の中の炎が、油を注ぎこまれたように燃え上がる。


「明佳は、誰のことが一番好き?」


 耳が偶然拾った問いかけに、わたしは「パパ」と即答した。


「えー、ママは?」

「ママは二番目」


 そうよ、パパが一番で、ママは二番目。


 ママのことが世界で二番目に好きで、世界で一番、嫌いなの。





 黄緑色の短冊の、端っこに小さく書かれた願い事。


「ママなんていなくなっちゃえばいいのに」

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