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閉塞学級  作者: 成春リラ
6章 飛び込みシミュレーション
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37話 求愛ディストーション②

 テストの点数なんてどうでもいいじゃない、とずっと耳元で囁かれているような気がして、自然に目が覚めてからも凛は布団の上でじっとしていた。アラームを設定して寝なかった時点でいつも通りの時間に起きることは諦めていたが、まさか朝になってもスマホに手を伸ばす気すら起こらないとは思わなかった。雨は降り続いているどころか夜中よりも酷くなっている。部屋の中は薄暗く、本当に今が朝なのかは怪しい。体温で温くなった敷布団の上をずるずると転がって、凛は窓の方を向いた。


 千葉山家の老朽化した窓枠がカタカタと揺れている。轟々とガラスを打つ雨音に飲み込まれそうだ。昨日の朝に今週の天気予報を確認してはいたものの、ここまで大降りになるとは聞いていない。日野先生は何と言っていたっけ。何も思い出せない。部屋の隅まで飛ばされていた鞄に向かって這い寄り、凛はようやくスマホを取り出した。


 画面の白い光に視界を奪われる。数秒後、ロック画面にメールの通知が来ていることに気づいた。迷惑メール――ではない。学校からの連絡だ。紅黄中の連絡メールは本来保護者に送られるものだが、母には逐一携帯を見る習慣がないので凛のメールアドレスで登録している。


 件名は「大雨・洪水に伴う休校について」。凛は寝起きの頭でぼんやりと本文を流し読みした。紅黄市の各地で道路冠水や床上浸水の被害が出ており、登校することができない生徒がいるため今日は休校とする。二日目の試験は連休明けの火曜日に行う。要するにそういうことらしい。現在の時刻は九時三十二分で、メールが届いたのは三時間前だった。


 すぐに布団に戻って横になる。昨晩の寝つきが悪かったせいか、凛はまたとろとろと微睡み始めた。ザアザアと降りしきる雨の音に身を委ねて、再び眠りに落ちようとしたそのときだった。


 スマホの着信音が真横から鳴り響いて、凛はびくんと起き上がった。いつか音量を最大にしていた自分を激しく恨みながら、着信の相手をよく見ないで拒否しようとする。だが、すんでのところで踏みとどまった。


 電話の相手は明佳だ。画面の上で人差し指を彷徨わせる。迷った末に通話ボタンをタップした。


『りんくん、おはよっ』


 凛が話し始めるより早く明佳の声が聞こえてくる。心なしかいつもよりテンションが高い。おはよう、どうしたの、と明佳に届いたか届いていないかわからないほどの小声で答える。


『今日のがっこお休みだって! やったねぇ』

「……それだけを伝えるために、電話してきたの?」


 凛の声から刺々しさを感じたのか、『ごめんね、起こしちゃった?』と明佳は珍しく申し訳なさそうに言った。かぶりを振った後、明佳に伝わらないことに気づいて口でも「ううん、今ちょうど起きてたところだけど」とおざなりにフォローする。


『そう、ならよかった。ねえ、今からりんくんの家に行ってもいい?』

「はあ?」


 思わず素で相槌を打ってしまい、慌てて「えっと、急に何?」と言い直す。


「やめた方がいいよ、こんな雨だし……メール、ちゃんと見た? 道路が冠水してるって。外に出たら危ないんじゃ」


 他人事のように言いつつ、内心では早く電話を切りたい気持ちでいっぱいだった。家に来る? 非常識どころではない。明佳は何を考えているんだ。何がしたいんだ。


 この子は一体、どこまで凛の領域を蹂躙していけば気が済むんだ?


『りんくんのおうち近いから行けるよぉ。ね、だめ?』


 凛は息をひとつついて、平静を保とうとした。


「どうしたの、突然。昨日はそんなの一言も」

『だって、いきなり学校お休みになってつまらないじゃない。退屈』

「……他に友達、いるよね」

『ちはるちゃんたちのこと? みんな川の向こうだから行けないんだよね』

「家が汚いから、人を上げるわけには」

『わたし気にしないよ。なんなら片付けお手伝いするよぉ』

「…………僕、が」


 うん、何? と訊き返した明佳を遮って、凛は声を荒げた。


「僕が気にするんだよ!」


 電話が切れたのかと勘違いしたほどに、ぷつんと、向こう側が静かになった。しまった、少しきつく言いすぎたかもしれないとストップをかけようとする頭とは裏腹に、全く言うつもりのなかった言葉が滑り出る。今まで堪え続けてきた分、一度溢れ出した本心は堰き止められなかった。


「馬鹿じゃないの? 家を人に見られたくないんだ、それぐらい察してよ! 僕にだって触れてほしくないことの一つや二つあるんだよ。明佳ちゃんは家族と仲良くて幸せそうだからわかんないだろうけどさ!」


 凛の絶叫は暗い部屋の中で虚ろにこだました。


 布団の上で膝を抱え、呼吸を止める。通話のノイズさえも聞こえなくなったような気がして、本当に切られてしまったのかもしれないと思った。耳からスマホをゆっくりと離そうとしたとき、終わりかけの線香花火のような声がした。じゅうっと焼き尽して、儚く落ちていく声。


『……めーかが、幸せそう?』


 それだけ残して、今度こそ電話は切れた。


 凛は布団の外にスマホを放り捨てた。深い海の底に沈められたみたいに体が重い。明佳を怒らせてしまったかもしれない。だけど自分は間違ったことを言っていないと思う。もう一度明佳の目の前で同じことを言えと言われたら、今度は言えるかどうかわからないけれど。


 これから自分がどうなるのか、先のことは何も考えられなかった。ただ、処刑台の上で置き去りにされたような寂寞だけが胸を苛んでいた。





 コンビニの袋や食べ終えた弁当の容器、飲みかけのペットボトルで散らかった部屋の真ん中で、眠って、起きて、また眠りについて、幾度となく悪夢を見て、忘れて、同じ悪夢を見た。


 窓の外は暗闇に包まれており、雨足はまったく弱まっていない。凛は頭を壁にぶつけそうになりながら立ち上がって、ほとんど倒れ込むように部屋のドアノブを掴んだ。今が何時かを確かめるより先に、カラカラになった喉を潤したかった。


 最後に母さんと父さんの顔を見たのはいつだっけ。もう何日話していないんだったか。ぼんやりと二人の顔を思い浮かべながらリビングに続くドアを開ける。


「……母さん?」


 真っ暗なリビングに母がいることはわかった。部屋が相変わらず散らかっているということも。空気からすえた臭いがするのも珍しくはない。だが、何か様子がおかしい。窓の外は雨が地面を穿つ音でこんなにも騒がしいというのに、家の中は永遠の眠りについてしまったかのように生きたものの気配がないのだ。何か固くて尖ったものを踏みつけたようで足の裏に鋭い痛みが走ったが、足元が暗くてよく見えない。


「母さん、寝てる、の……?」


 震える声に返答はない。


 ピカッ、と稲妻が突然閃き落ちて、リビングの中が煌々と照らし出される。


「え?」


 どうやらまだ覚めない悪夢を見ているらしい。


 直後に続いた激しい雷鳴が終わる前に、凛は左手で壁を探って部屋の電気を点けた。明るさに慣れた凛の目に、まず飛び込んできたのは無残に原形をなくしたカーテンだ。鋏を使ったのか、素手でやったのかは定かではないが、左下から右上にかけて大きく切り裂かれている。窓辺にはもうほとんど光を遮るものが残っていなかった。


 足をおそるおそる踏み出そうとして、皮膚が引きつるような痛みに顔を歪めた。凛の足元に血を引きずった跡がある。周りに散乱している小さな白い破片を何も考えずに拾い上げようとして、凛はまたしても指先を傷つけた。つう、と溢れた鮮血が人差し指を伝って落ちていく。何だろう、これ――皿?


 そこまで思い至って凛はようやく周囲を見渡し、リビングの惨状を把握した。家族で使っていたテーブルと椅子はひっくり返されて、定位置から遠く離れた場所にばらばらに転がっている。食器棚の引き出しは全開で、電灯の光を浴びて煌めく細かな皿の破片が至るところに散らばっていた。液晶にヒビの入ったテレビを見ていると、部屋に明かりが灯ったのが奇跡とさえ感じられる。


 世界の終末だ、と凛は思った。


「なんっ、だよ……!」


 上ずった声を出して、今度は足元を注意深く見ながら一歩踏み出す。足の踏み場はあまりないが、破片を避けて通れないこともない。次に凛の口を衝いて出てきた言葉は「母さん」だった。


「母さん、母さん! 何だよこれ、説明して! 一体何があったの?」


 非常に不思議なことに、強盗に入られたとは微塵も思わなかった。凛の家のトラブルは概ね母に起因するから、今回も母がやったに違いないという確信が最初からあったのだ。だけどここまで酷いのはさすがに経験がない。


 母はソファの上で頭を抱え込んで丸まっていた。微動だにしない母の細い体を激しく揺さぶって「母さん! 起きて! 母さん!」と耳元で闇雲にがなりつける。背中を叩いても反応しない母に苛立ちが募る。眠っているのか、凛を無視しているのか。凛は歯を食いしばって、とうとう振り上げた右足で母の後頭部を蹴り飛ばそうとした。


「……いで」


 耳に引っかかった音に、寸前で足を止める。


「……ないで、おいてか、ないで、おいてかないで」

「かあ、さん?」


 泣きじゃくる子どものような声に微かに違和感があった。行き場を失った怒りをしまい込んで、凛はソファの横に膝をついた。耳をそばだてると、母は呪文のように何かを唱えている。


「ごめんなさいごめんなさいごめんなさい、ちゃんとりっぱなおとなになります、かじも、します、もうわがままはいいませんめいわくもかけません、ちゃんと、ちゃんとした、おとなに……」

「ねえ母さん、何を言っているの? この部屋は何? 僕全然わからないよ、ちゃんと説明してってば!」


 両肩を掴んで無理矢理ソファから起こすと、母の顔が現れた。濡れた頬に手入れのされていないぱさついた髪が絡みついている。血走った目からは今なお涙が溢れ続けていた。割れた唇から止まることなく吐き出される譫言を遮って、凛は母と目を合わせようとする。何度か母の名を呼ぶと、ようやく瞳の焦点が合った。


 壁にかかっていたはずの時計にちらりと目をやる。高い位置に備え付けてあったからか、どうにか被害を免れていた。現在の時刻は十九時過ぎ。凛はあれから十時間近く眠りこけていたようだ。


「どうしたの、母さん。父さんは会社に行ったの? まだ帰ってきていないの?」


 父さん、と凛が口にした途端、母はまたぐずぐず泣き始めた。


「う、うぅ、ごめんなさいごめんなさい、おいてかないでおいてかないでおいてかないで……」

「…………『置いていかないで』?」


 母の精神状態が比較的安定して、きちんと事情を聞き出すまでにそれから十五分を要した。


「父さんが、出て行った?」


 あちこち破れたソファに座り直した母は、恨みがましい目で凛を見ている。まるで凛が悪いとでも言いたげだ。母にそんな目を向けられる謂れはないはずなのに、「凛は最近部屋にこもってばかりで、お母さんの話を全然聞いてくれなくて」と言われると、口を縫い付けられたように何も言い返せなくなる。


「最近ずっと帰りが遅くて、帰ってきても様子がおかしくて、何度か問い質したけどはぐらかされるばっかりだったのよ。そしたら今朝、荷物をまとめて、もうこの家を出て行く、お前たちには構えない、って。何回電話しても繋がらないの」


 ぽつぽつと語る母を見ながら、そんな馬鹿な、と胸中で独りごちる。


 冗談に決まっている。凛の知る父はそこまで無責任な人間ではない。凛と母を放り出して逃げたりはしない。少し家出をして一人になりたいだけで、満足したら帰ってくるだろう。連絡が取れない程度で大袈裟だ。――そう言い切ることのできる自信は、もう凛に残っていなかった。


 明確な証拠がある。父は浮気をしていた。凛の知らない女性と連絡を取り合っていた。きっとそれが真実なのだ。


 父は出て行った。この焼け落ちていく家の中に、凛と母を残して。


 温い空気に浸かった頭が、歯車をぽろぽろ零しながらぎこちなく回り始める。警察に連絡すべきだろうか。警察で良いのだろうか。捜索願、失踪届。どう違うのだっけ。口座は父が管理しているから、凛も母も金を引き出すことはできない。預金がどれくらいあったのかも知らない。もしかするともう全額引き出している可能性だってある。これからの生活費はどうすればよいのだろう。家賃は、食費は。生活保護なんて、子どもが申請できるのか。


 凛は何も知らない。何も知らなかった。


 ぶつぶつと凛への恨み言を言う母を呆然と眺めながら、「冗談じゃない」とつぶやく。中学校生活はあと二年以上もある。どうやっても行き止まり。この逃げ場のない家の中に、これから先ずっと母と二人きり。


 冗談じゃない。冗談じゃない!


 じくじくと痛む傷口を踏み消すように立ち上がって、凛は母に背を向けた。


「り、凛……?」


 母の声が不安の色を帯びた。ソファから転げ落ちるように「待って」と身体を起こし、歩き出した凛の後ろをよたよたとついてくる。凛はドアの前で立ち止まり、振り返った。


「母さん」

「え?」


 何をされたのかわからない。そんな顔だった。


 凛は母の薄い胸を両手で押し、破片の散らばる床に突き飛ばした。ぎゃあ、と潰れた声が上がる。母は痛そうに顔をしかめた。皿の破片で手を何か所か切ったようだ。倒れた母を見下ろしていると、母は凛の目を見て「あ、あ……」と口を半開きにした。必死の形相でその場に土下座をして、気が違ったように捲し立てる。


「ご、ごめんなさい、ごめんなさいおねがいゆるして! いや、いやあ、やめてっ、やめてえ!」


 母の反応に――いいや、母の反応を引き出した自分自身に苦々しい嫌悪を抱く。こっそりと駆け出した凛に母は気づかなかった。学校のスニーカーを足に引っかけ、両手で力いっぱいに玄関のドアを開けると、雨音が直接耳に流れ込んできた。車のライトさえ見えない夜の闇へ、傘も持たずに飛び出す。瞬く間に全身ずぶ濡れになったが、どうだって構わない。


 どこにも行けないなんて嘘だ。行き止まりなんて信じてやるものか。自分にはここから逃げ出せる足がある。母を突き飛ばすことのできる腕がある。


 他には――他には、何にもない。


「う……ううっ、ううう……」


 視界の悪い雨の中を、凛は行先も決めずがむしゃらに走った。たとえ脚が折れても腕がひしゃげても走り続けてやろうと息巻いていたのに、シャツとズボンが雨を吸って体が重くなり、凛はあっという間に動けなくなった。へたりこんだ凛の背中に、雨粒は容赦なく打ち付ける。自分がどこにいるのかもわからないまま凛は慟哭した。


「うあああ、ああああっ!」


 父さん。僕の父さん。


 自分の生まれた事情なんて、本当のところはどうでもいい。会ったこともない実の父親に会いたいと思ったことは一度もない。凛の父親は千葉山輝たった一人だけだ。他に代わりはいない。


 父と自分は、「母の被害者同士」という連帯感で緩く結ばれていると思っていた。はっきりと口にはしなくとも、凛はそういうものだと信じて十三年間を生きてきた。だけどそうじゃなかった。全部凛の愚かな勘違いだったのだ。


 心にぽっかりと大きな穴が空いたようだった。穴の中に注ぎ込まれた感情の正体を凛は見た。


 そうか、僕は寂しいのか。


 父に愛されたいと祈るのは、実はとっくに諦めていた。父は凛に親としての愛情を感じていない。それは多分最初から決まっていたことで、凛がどんなにお利口にしてもテストで良い点を取っても徒競走で一位になったとしても覆しようのないことだった。何も父と凛の血が繋がっていないからというだけではない。最初から、千葉山輝は千葉山凛を愛することができなくて、千葉山凛は千葉山輝に愛されることができなかった。


 だから、せめて見捨てないでほしかったのに。愛さなくていいから、一生凛のことを息子と思わなくて構わないから、ずっとそばにいてほしかったのに。


 土砂降りの雨の中、凛は叫ぶように泣き続けた。雨が止まないように、泣いても泣いても涙が枯れることはなかった。





 降り注ぐ夜の雨の中に、場違いなピンク色の馬が浮かび上がっている。入り口に一つしかない街灯に照らされて、びしょ濡れの馬の遊具はてらてらと輝いていた。当然ながら誰もいない公園を泳ぐように歩く。ズボンは膝の上まで泥だらけだ。


 あてもなく歩き始めた凛が引き寄せられるように辿り着いたのは、明佳と一緒に来た公園だった。光源から離れるほど遊具の輪郭は闇に溶けている。凛はしばらくジャングルジムを滴り落ちていく水の流れを見つめていたが、すっと離れた。


「あったあった、ここなら大丈夫だよ」


 あの日、明佳はそう言ってドーム型の遊具に入っていった。ここに明佳はいないのに、彼女の甘やかな声がすぐ隣で聞こえたような気がする。


 土汚れのついた薄茶色のドームは、目の前に立ってみると凛の想像よりもずっと大きくて、もしかすると凛でもぎゅっと縮こまれば中に入れるのかもしれないと思った。ぐるりと回り込んで小さな入り口を見つけると、凛は四つん這いになって中を覗き込んだ。


 まさか先客がいるとは思いもよらなかったから、「うわあっ!」と情けなく叫んで凛は尻餅をついた。


 先客が、いたのだ。ドームの奥で信号機のようにちかっと光った双眸が、凛のことを見ていた。やがて大雨の音に混ざるように、不安そうなかぼそい声が聞こえてきた。


「……りんくん?」


 凛はあたふたと腰を上げた。「えっ、明佳ちゃん?」


 その呼び方も、可愛らしい声も間違いなく明佳のものだ。凛は再びドームの中を覗いた。入り口以外に穴のないドームの中は真っ暗だったが、明佳が身を捩ったのはわかった。


 そこは何だか、侵してはならない神聖な場所のように思えて、凛は暫し入ることを躊躇った。


「りんくんも、来ていいよ」


 明佳の声に誘われて、凛は結局ドームの中に入っていってしまった。


 凛の思った通り、身を縮めれば入ることは可能だった。しかし二人となると話は別だ。這うようにドームに入った凛が中で上体を起こして座り込むと、ひどく窮屈に感じた。明佳の身体がほんの少し手を伸ばせば触れられるほどの至近距離にある。明佳は膝を抱えて座っていた。真っ暗闇の中でも、この距離なら顔が見える。


 明佳の顔は濡れていた。それが雨のせいなのか、涙のせいなのかはわからない。けれどにこりと笑った明佳の口角は微弱に震えていた。


「やっぱり、入れるじゃん」


 凛が無言で頷くと、くすくすと笑い声がした。くすくす、くすくす、となかなか止まない少女の声は、凛を慰めているようにも責め立てているようにも、罰しているようにも救い上げようとしているようにも聞こえる。しびれを切らした凛が「明佳ちゃん、何か言いたいことがあるなら」と言ったとき、


 濡れた腕を首に回されて、柔らかな唇を強引に重ねられた。


 頭の中が真っ白になる。しばらく何が起こったのかわからなかった。雨と汗と土と、ひんやりとしたミントの匂いが混ざり合って鼻を通りぬけていく。しゅう、と凛が耐えきれずに隙間から息を漏らすと、明佳はようやく顔を離した。と思ったら、今度は凛の胸に側頭部を押し付けてきた。凛はなすすべもなく体勢を崩して壁に寄りかかる。心臓の音は丸聞こえだろうと思うと、今すぐドームの外に逃げ出したい。


 明佳の涙声はどことなく怒りをはらんでいた。


「りんくん、謝ってよ」

「……え、えと」


 明佳のマシュマロみたいな体の感触にすっかり酩酊してしまって、まったく頭が回らない。しかも本気で思い当たる節がない。だから凛は「えっと、ごめん、何に……?」と尋ねた。正直答えてくれないかもとは思ったが、意外にも明佳は素直に返してきた。声は不満そうだが。


「電話のこと」

「……あ、ああ」


 そういえば寝る前の電話で余計なことを口走ったような気がする。凛からすればそもそもあんなタイミングであんな電話をかけてくる明佳にも責任があるんじゃないかと思うが、今言ったらますます機嫌を損ねそうだ。


「ひ、酷いことを言って、ごめん」

「うん、いいよ」


 凛の心の中を見透かしたのか、明佳は「めーかは謝らないからね」と付け加えてきた。


 ドームにぼつぼつと音を立てて落ちてくる雨は、やはり全然止みそうにない。明佳と凛のいる場所も水溜りになっていて、凛に関してはさっき尻餅をついたこともあってズボンが完全にだめになっていた。


 明佳の丸っこい瞳が、闇の中で爛々と輝いている。


「ねえ、りんくん」


 何度目かの「ねえ」に、凛は軽く顔を動かすことで反応した。


「わたしを見て」


 それは今までとは違う、切実な響きを伴った願いだった。顔を近づけて、鼻先が触れそうな距離で、真正面から明佳はじっと凛を見据えてきた。


「わたしのことだけ見るって約束して」


 凛は喉を鳴らした。その「約束」は鉛のように重たく、語義以上の意味を含んでいることも、簡単に首肯してはならないこともわかっていた。約束を破ったら酷い目に遭うのだろうとも。


 でも、いい。もう何もかもどうでもいい。


「うん」と、はっきり声に出して凛は頷く。


「約束するよ」

「……ありが、とう」


 それから明佳は、凛の胸に顔を押し付けてわんわん泣き始めた。体の内側から魂を絞るような号泣だった。おそるおそる手を乗せた明佳の頭は片方の手で覆えるほど小さくて、ああやっぱり明佳ちゃんは明佳ちゃんなんだな、と凛は納得した。


 明佳がどうしてここにいるのか、凛は訊かなかった。明佳も訊いてこなかった。明佳の苦しみの中身はわからないけれど、きっと自分たちは近しい痛みを抱えているのだろう。それで十分だ。何も知らないままでいい。もしかしたら自分はまた酷い勘違いをしているのかもしれないけれど、気づかないまま最後まで二人一緒にいられたら、それ以上に幸福なことはない。


 ドームに打ち付ける雨の音がうるさかった。どちらかが一緒に死のうねと言って、どちらかが約束だよと返して、二人で抱きしめあったまま微睡みに落ちた。

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