36話 求愛ディストーション①
何度も同じ夢を見る。夢だけど、現実にあったことだ。
夢の中の凛は小学校の二年生で、体操服を着て徒競走の列に並んでいる。紅白帽を深々と被って、誰とも目が合わないように目を伏せて。既にクラスで一番高かった身長を誤魔化すように背中を丸めて、早くこの時間が終わるようにと祈る。周りの同級生がぺちゃくちゃと楽しそうに話しているのはわかるが、意味のある言葉として耳に入ってこない。校庭の端にあるスピーカーからはお馴染みの曲がひび割れた音で流れていた。
空はいつも澱んだ灰色だ。実際もそうだった。どんよりと曇った空は今にも降り出しそうで、空気は雨の匂いがした。だけど、結局最後まで降ることはなかった。
ぱん、とピストルが鳴って、三列前の児童が一斉に走り出す。足の裏に振動が伝わってくる。中腰で一列前に移動してまた座り直すと、校庭のトラックを取り囲むように立っている保護者の足元が見えた。
視界の端に捉えた革靴につんと刺さるような既視感を覚えて、思わず勢いよく顔を上げる。
「……とう、さん」
徒競走のゴールから少し離れた、人の少ないところだ。入学式にも授業参観にも来なかった凛の父親が、千葉山輝が確かに立っていた。凛はあまりにびっくりしてしまって、目を大きく見開いたまましばらく硬直した。とても、とても信じられなかった。
凛が見ていることに気づいたのか、父はこちらに向かって小さく手を上げてきた。凛は周りをこっそり覗ってから、無言で懸命に手を振り返した。へにゃ、と口角が緩むのが自分でもわかる。頬がぽかぽかと温かくて、心臓はどくどくと高鳴っていた。
どうして来てくれたんだろう。スーツを着ているから、お仕事を抜け出してきたのかもしれない。凛の出番を見るために、わざわざ。
短い笛の音がして、横に並んでいる児童が立ち上がる。凛も慌ててスタート位置に移動した。もう一度トラックの向こう側を見ると、父はポケットに手を入れて凛を見ていた。特に何かを言われたわけではないけれど、凛はこくんと頷いた。
「いちについて、よーい」
高らかなピストルの音と同時に駆け出す。多分、人生で一番必死で走ったのがあのときだ。ほとんど目を瞑りながら腕を振って、闇雲に足を前に出す。今だけでいいから陸上選手になれればいいのに。隣の子との間にどんどん広がっていく差がもどかしかった。凛の脚は他の子よりも長いのに、どうして肝心なところで役に立ってくれないのだろう。
結果は五人中四着。練習ではいつもぶっちぎりでビリだったから、凛にしては上出来だ。それでも悔しかった。父の前ではいつでも一番良い子でいたいから。お前はすごいな、俺の自慢の息子だなって、褒められたいから。来年の運動会まで毎日走り込みをしようと胸に誓って、四着の旗が立てられた列に座る。
徒競走が終わるまで同じ場所にいた父は、いつの間にかいなくなっていた。お昼ご飯の時間になる前に帰ってしまったらしい。凛は自分の分のおにぎりしか持ってきていなかったから、きっと気を遣ってくれたんだろうと解釈した。ひとりぼっちのお昼休みでも、昆布の入った普通のおにぎりがいつもより美味しく感じた。校庭の木陰で顔を隠して、ちょっぴり泣きながらもそもそと食べた。
本当に、泣くほど嬉しかったのだ。もしかしたら、小指の先ほどのほんの少しの可能性だけれど、血の繋がっていない自分のことも父は愛してくれているのかもしれないと思えた。果てのないトンネルの中を這うような凛の人生で、それがどれほどの希望になったことか。
「そんなはずがないでしょう?」
小さな手から、ご飯粒が零れ落ちる。
気づくと、冷やこい薄荷色の霧の中にいた。児童も保護者も先生も、運動会の音楽もピストルの音もなくなって、凛は一人その場に膝をついている。つるつるした床には不思議と人肌の熱があった。
凛の大きな背中に、くすくす笑う人影が覆い被さった。背後から伸ばされた柔らかい手が、開きっ放しの口の中にぬるりと侵入する。
「りんくんを愛する人なんて、だあれもいないんだよ」
指が――明佳の指が、凛の舌の奥に触れた。一本、二本と突っ込まれた指が、気道を塞ぐようにぐちゃぐちゃと動かされる。凛はなぜだかまったく抵抗できなかった。夢の中なのに呼吸が苦しくなって、次第に意識が朦朧としていく。唇の隙間からひゅー、ひゅー、と細い息を漏らし、後方に目を向けようとする。
凛の左側に大樹が立っていた。大小様々な痣だらけの痛々しい顔と暗い目で、何も言わずに凛を見ている。大樹は凛を慰めるみたいに優しく微笑んだ。
なんで、と声は出せないままに問いかける。何でそんな風に笑うの。何もかも僕が悪いのに、どうして大樹は僕を詰らないんだよ。
お願いだから、見ないで。もう誰も僕のことを見ないで。
震える指をこわごわと濡れた眼球に伸ばす。いっそのこと抉り出してしまえば、誰かに見られていることもわからなくなるだろうと信じて、凛は下瞼に人差し指を引っかけようとした。
「だめ」という制止の声とともに、指先がぱっと捕らえられる。
霧の中にふわりふわりと反響する、悪魔の甲高い声。四方八方から押し寄せる笑い声の波の中で、明佳の意思がチカッと光った。
「りんくんは、めーかのことだけ見ないとだめ」
耳鳴りは止まないまま、朧げな意識が薄荷色の霧に飲み込まれる。
*
皆さんわかっていると思いますが、今日の部活動はお休みです。と日野先生が前日の帰りの会で言うまで、凛は今日から中間考査が始まるということを忘れていた。普段のテストでは前日までに大事なポイントをまとめたノートを作っておくのだが、今回は宿題のワークを埋めるだけで精一杯だった。ここまで切羽詰まるのは中学に入学して初めて定期テストを受けたとき以来だ。
試験は国語、社会、英語の順に行われた。理科と数学は二日目に実施される。得意科目のはずの社会が全然解けなかったのはもちろんほとんど勉強していないからだ。最近は家に帰っても泥のように眠るばかりで、宿題だってまともにやっていない。だから睡眠は十分すぎるほど取っているはずなのに、授業中すら眠いのはどうしてだろう。数日前から目の下に隈があることには気づいている。やはり連日見る悪夢のせいだろうか。
社会の用語集で間違えたところを確認しながらそそくさと教室をあとにすると、「おい」と背後から声をかけられた。どきりとしていっそう足を速めた凛の行く手を塞ぐように、後ろから素早く回り込まれる。窓と窓の間の壁に右手をつき、下から凛をぐいっと見上げてくる彼の瞳は、最初に会ったときみたいにぎらぎらとしていた。
「お前、いい加減にしろよ」
その顔を正面から見ることはとてもできなくて、凛は一瞬で顔を背けた。あれから一週間も経つのに左目のガーゼはまだ取れておらず、痣のいくつかも消えていない。廊下を歩くときも明らかに目立っている。周りにどう言い訳しているのか、凛は知らない。
壁に手をついたまま、大樹は凛を問い詰める。
「手間、かけさせんな馬鹿。何でオレのこと避けるんだよ。いつもこそこそ逃げ回って知らない間にいなくなって、部活もサボりやがるし」
「……何で、って」
大樹の言う通り、先週から部活には一度も顔を出していない。先輩とも同学年の子とも顔を合わせたくないのだ。放課後になったらすぐに教室を抜け出せるように、荷物は常に鞄の中に詰めてある。
何でって、言わなくてもわかるよね? そんな言葉を飲み下して、凛はつぶやくように言う。
「避けてなんか、ない」
「嘘つけ」
ぎりぎりで絞り出した言葉は真っ二つに切るように否定された。大樹は背伸びをすると、ますます凛に詰め寄り顔を近づけてくる。大樹の体温も近づいて、仄かに血が香ったような気がした。
「じゃあ、朝家で待ってないのは何て説明すんだ。おばさんにオレが謝られただろ」
一昨日の朝、「今日も大樹くんと行かないの?」と言ってきた母のとぼけた顔を思い出していらいらする。大樹に来てもらっていたのは毎朝駄々をこねて凛を引き留めようとする母のせいなのに。
「もういいよ」
咄嗟の返答は自分で思っていたよりも突き放すような声色をしていた。
「そういうの……もう、大樹だって恥ずかしい、でしょ。小学生じゃないんだから、大樹に連れ出してもらわなくても学校くらい来れるよ」
どの口が言っているんだろうと思った。だったらまず今までありがとうと感謝の気持ちを伝えるべきじゃないか。それよりも先にもっと言わなきゃいけないことがあるはずだ。でも、それを言ってしまったらまたこれまでに逆戻りしてしまう。
大樹が軽くショックを受けているのを肌で感じた。下を向いて数秒黙った大樹は「そうかよ、ごめん」と低い声で言うと、「お節介で悪かったな」と続けた。大樹の返しに今度は凛が身勝手にもショックを受ける。大樹に謝らせたいわけじゃない。大樹がそんなことをする必要はない。むしろ謝らなければならないのは――。
顔を上げた大樹は尚も食い下がった。
「でも、学校で避ける理由にはならないだろ? 避けてないなら何でさっきからこっち見ないんだよ、オレの方を向けよ!」
ぎゅう、と首が締まるような感覚があって、一つ瞬きをする間に正面を向かされていた。凛の胸倉を掴む大樹の顔が視界に広がる。近くで見るとグロテスクですらあった。ああでも良かった、一週間前よりは癒えたみたいで。だけどきっと大樹が必死に隠している心の傷が癒えることはないだろう。悪意を浴びせられ続けた凛の心のように。
「その顔」
「は?」
大樹は怪訝そうな顔をした。
「先輩に、やられたんだよね?」
廊下を通り過ぎていく生徒が眉をひそめてこちらを見ていることに気づいて、凛は声のトーンを落とした。ついでに大樹の手も振りほどく。さすがの大樹も人目を気にしたのか、壁についていた手を気まずそうに下ろす。
凛は声が震えないように語調を強めた。
「僕なんかと、一緒にいるから」
「あっ……あのなあ、お前」
一転、大樹は呆れたような表情になった。顔の傷が引きつれたようにぴくぴく動いて、見えている方の目が細くなる。喉から掠れた声が零れる。笑っているのだ。
「お前は何も悪くねえんだから、気にしなくていいよ。なっ?」
優しくて穏やかな声が心臓の中心に突き刺さった。
大樹の言葉が、声音が、気楽さを装った笑顔が、噛んだら崩れるスナック菓子のように軽い。本当は痛かったくせに、怖かったくせに、何もなかったみたいに笑うのはおかしい。凛に非がないはずがない。簡単に許さないでほしい。大樹は何もわかっていないのだ。
大樹はもっと凛を憎んで恨んで呪ってくれないと凛の罰にならない。
「……だ」
廊下の喧騒に紛れるくらいの小声に、大樹は「何だって?」と口角をヒクつかせて聞き返した。けれど、本当に聞こえていなかったのならそんな強張った表情はしないだろう。
「迷惑、だ」
凛はもう一度、今度ははっきりと言った。先に大樹の反応を見ている分、改めて耳から入る言葉は何倍も深く自分の心を抉った。
「迷惑だから、僕に近づかないで」
ばちん、と鋏で糸が断ち切られる音が聞こえた。
ガーゼで覆われていない右目が、ふっと焦点を失った。掴んでいた手を離されたような失意の顔が、みるみるうちに歪んでいく。大樹は「凛、お前、」と何かを言いかけた後、涙を堪えるように唇を結んだ。凛は思わず目を落とした。自分の赤い上靴と染みのついた廊下は随分と近くにあるのに、大樹の上靴は遥か彼方にあるように感じられた。
ゆっくりと凛から距離を取った大樹は、心を落ち着けるように長い長い息を吐いて、「わか、った」と感情を抑えた弱々しい声で言った。
「お前が嫌がるなら、もうお前には話しかけない」
居場所をなくした糸の切り口が凛の目の前で揺れている。断ち切ったのは凛だ。
大樹は肩を落としたまま凛に背を向けた。階段の入り口に大樹の背中が消えるのを見届けてから、凛も歩き出す。テスト期間中にわざわざ北校舎に行く生徒は少ないのか、次第に周りから人がいなくなる。周りを見渡して北校舎に入った凛は、空き教室の軋むドアを開けた。
電気のついていない暗い教室を、窓ガラス越しの白い光だけが照らす。一番後ろの列の真ん中の机に座って、明佳は可憐に鼻歌を歌っていた。数日前から長袖になったシャツの上に学校指定のカーディガンをゆるりと羽織っている。両脚を揃えて前後に揺らし、きれいな首を反らして、明佳は汚れた天井を見上げていた。
「あ、りんくん」
明佳は机から飛び降りると、ちょこちょこと駆け寄ってきた。正面から凛の腰に手を回して抱きつくと、華やかな笑顔になる。
「じゃあ、今日もしよっか」
*
先週の火曜日が第一回なら、第二回は金曜日。今週の月曜日に第三回があって、今日、木曜日が四回目の飛び込みシミュレーションだった。テスト期間中に放課後居残るのはちょっと、とうっかり零した凛を、明佳は「もうすぐ死ぬんだからテストなんてどうでもいいじゃない」と笑い飛ばした。確かにその通りだ。
大半が勉強のために帰ってしまったようで、北校舎どころか南校舎にも校庭にも生徒の影はほとんどない。それでも完全下校時刻までにはまだ少し余裕がある。
てきとうに引き出した椅子に座り、明佳は二人しかいない空間を目一杯使うようにのびのびと腕を伸ばしている。凛も明佳の向かいに椅子引っ張ってきて座っていた。
「やっぱり、確実なのは首吊りだよねぇ」
「結局?」
「けっきょく」
明佳は椅子の背もたれに寄りかかって、髪を人差し指にくるくる巻きつけながらつまらなそうに言う。
「一番コスパがいいんだ。だからみんな首を吊るんだよぉ」
「自殺成功者の六、七割が首吊り……だったっけ」
「そうそう。日本では死刑だって首吊りでしょ? 死に損なう余地がないから選ばれてるんだよ」
飛び込みシミュレーションも第四回ともなるとそろそろネタが出尽くして、これまでに立てた計画を復習する段階に入っていた。刃物で頸動脈を切り裂く、服薬して川に飛び込む、線路に投身する、屋上から飛び降りる、風呂場でリストカットをする――どれを取ってもリスクと失敗する可能性が付きまとう。その点、首吊りは手軽で苦痛もない。
「あのねぇ、首を吊るときって、実は高さが要らないんだって。首に体重がかかりさえすればいいから、座ってたっていいんだ」
そう言われると首吊りが一気に身近なものに思われて、凛は無言で椅子の座面に触れた。この状態から首を吊る、というのは想像がつかない。そもそも漫画やドラマの首吊り死体は上半身から上が映っていないことが多いから、高い位置に縄を結びつける場合でもどこを選べばよいのかわからない。もう少しちゃんと確認しておくべきだった。
「ドアノブで吊ることもできるんだよ。ちょっとコツが必要だけど」
「詳しいんだね」
「えっへへ。いっぱいいっぱい調べたもん」
頭を撫でられた子どもみたいに、明佳はへにゃっと笑う。その和やかな笑みからはとても信じられないが、明佳のスマホの検索履歴にはおびただしい数の自殺に関する単語が並んでいるのだろう。
「ねえねえ、りんくん」
明佳は浮かせていた足を床につけると、凛の方に身を乗り出した。
「もし首を吊ったとしたら、自分の死体を誰に最初に見てもらいたい?」
「……えっ?」
相変わらずの突飛な質問に面食らう。自分の死体? そんなの、想像したこともなかった。死に至るまでにどうすればよいのかで頭が埋め尽くされていて、死後のことは何も考えていない。困惑する凛に、明佳はますますにっこりとした。
「りんくんは誰がいいの?」
「だ、誰って言われても」
明佳は例によって下からじっと見つめてきた。彼女の穢れのない瞳を見ていると、凛が嘘をついてもすべて見抜いてしまうだろうという確信がこみ上げる。気恥ずかしさでさっと右に目を逸らしたら、明佳は凛の視線を追いかけるように身体を動かした。脊髄を撫で上げるかのような笑い声とともに。
「もしかして、ひろきくん?」
刹那、大樹の喜怒哀楽様々な顔が走馬灯のごとく巡った。
明佳の口から初めて大樹の名前が出てきたことも衝撃だったが、それどころではない。自分の死体を誰に最初に見られたいか、なんて全くイメージできなかったはずなのに、明佳にそう言われると図星を突かれたような気がして、段々と最初からそうだったに違いないと思えてきた。
凛に裏切られた大樹の歪んだ顔が、頭の中のスクリーンにぱっと大写しになる。
「そ、そんなこと許されないよっ!」
勢いよく立ち上がった拍子に椅子が倒れて派手な音を立てた。自分のどこにこんな激情があったのかと驚くほどに、凛の全身は怒りで震えていた。何かとても神聖で尊いものを土足で踏み躙られたような気分だ。しかし凛の怒りも、明佳の普段と変わらない無垢な目を見ているうちに萎んでしまった。
「ご……ごめん。ひ、大樹はもう、関係ないから」
「ふーん、そう?」
明佳はちょこんと首を傾げている。凛は椅子を元通りにして座り直し、軽い抵抗のつもりで問い返してみた。
「そ、そういう明佳ちゃんはどうなの」
「わたし?」
可愛らしく自分の胸元のリボンを指差した明佳は、じわじわと表情を明るくした。いや、今までも十二分に楽しそうな顔をしていたのだが、同じ明るさでも明度が違う。普段の明佳の笑顔が街灯の明るさなら、今の彼女は真昼の太陽の輝きを放っていた。
異常なまでの好意的な反応とは逆に、凛は嫌な予感を覚えた。
「わたしはね――パパ!」
ずどん、と光の弾に撃ち抜かれる。明佳のまばゆい声を皮切りに、教室が急激に色褪せた、ように見えた。
「……明佳ちゃんの、お父さん?」
「うん! めーかのパパ!」
光り輝く笑顔で繰り返す、同級生の少女。
明佳ちゃんのお父さん、だってさ。へえ。
そうなんだ、と平坦な声を出す。気が動転するという段階を一足で飛び越えて、脳が考えることを拒んでいた。凛の思考は世界に対してシャッターを下ろしてしまった。今日の営業はお終いです、とでも言いたげに。
泳がせた視線の先に明佳の鞄が倒れていた。さっき凛が椅子を倒したときに巻き込んでしまったみたいだ。開いたファスナーの隙間から丸めた画用紙が半分だけ顔を覗かせている。
「ああ、これ?」
明佳は鞄を拾い上げ、画用紙を取り出す。
「部活で描いた絵が佳作に選ばれたの。すごいでしょ。りんくんも見る?」
「絵は、好きじゃないんじゃなかったっけ」
「描くのは好きだし、賞に選ばれるのも好きだよ」
細くて頼りない支柱に掴まっていた凛には、続いた言葉が駄目押しになった。
「だって、パパが褒めてくれるもんっ!」
色褪せた教室は、完璧なセピア色に変わっていた。心の表面に生まれた小さな埃が、ころころころころ転がって、汚い感情を吸い上げて、加速度的に大きくなっていく。凛の心をべたべたと散らかしていく。明佳が何か喋っているのはわかったが、何も耳に入ってこなかった。
「明佳、ちゃんは」
「ん、うん?」
「お父さんのことが、好きなんだ」
凛の言葉の裏の醜い嫉妬を、きっと明佳は知らない。知り得るはずがない。だからそんな酷いことを幸せそうに当たり前みたいに言えるのだ。
「うん、もちろん! めーかはパパのことが大好きだし、パパもめーかのことが大好きなんだよ!」
この前もねぇ、パパの誕生日に手作りのチョコレートをプレゼントしたの。とっても美味しくできたんだから。レターセットも、ラッピング用の紙もちはるちゃんたちと一緒に選んで、全部自分で包装したんだよ。パパすっごく喜んでくれた! パーティーで一緒に食べたよ。嬉しかったなぁ。
そんな台詞が眼前で流れていくのを、凛は乾いた目で見ていた。
「あ、あと十五分で下校時刻だけど、どうする? もう一回シミュレーションする?」
無邪気な提案を振り切って、凛は立ち上がった。明佳の方を見ないように椅子を元の場所に戻す。
「今日はもう、やめておくよ。テストもあるし」
「えーっ、テストの点数なんてどうでもいいじゃない。ってこれさっきも言ったよね」
「ああ……そうか、そうだった。ごめん。なんか現実感がなくて」
散らかった心で答える。声が裏返っていた。会話の何もかもが面倒で、早くこの場をあとにしたかった。床に足がついていないみたいに頭がふわふわする。
まるで夢の中にいるようだ。
「嘘ぉ。りんくん、本当に死ぬ気あるの?」
「……明佳ちゃん、こそ」
明佳が後ろで動きを止めたのがわかったので、「何でもない」とだけ言い捨てて凛は教室を出た。逃げるように北校舎を抜け出して、無人の渡り廊下を一直線に走り始める。教科書しか入っていないはずの鞄が鉛のように重い。
あの子は本当に死にたいのだろうか。飛び込み部に来たときの疑問が再び胸の内を侵食していった。父親が好きだと、愛されていると明佳は言う。クラスの友達とも仲良くしているように見える。部活だって楽しそうだ。死にたくなる理由が明佳の周囲からは何一つ見えてこない。
薄々気づいていた。だけど見ないふりをしてきた。
明佳は凛なんかとは違って幸せいっぱいなのだ。
めーかはパパのことが大好きだし、パパもめーかのことが大好きなの。そう答えた明佳は今まで見た中で一番の笑顔だった。頬が紅潮しているようにさえ見えた。自分が愛されていると、当然のように信じている人間の顔だ。
どうして? 明佳ちゃんはどうして死にたいなんて言うの? 幸せなのに、愛されているのに、どこにだって居場所があるのに、生きていても非難されないのに! 僕がどんなに願っても手に入らないものを明佳ちゃんは全部持っているのに! 僕にはわからない!
明佳の前でそう叫ぶことができたらよかった。
飛び込みシミュレーションは全部嘘で、全部罠で。明佳は凛と一緒に死ぬ気なんてさらさらなくて、凛のことを嵌めようとしているのではないか。最後の最後で凛は見捨てられて、結局一人で死ぬことになってしまうのではないか。頭の中で悪魔の笑い声がガンガンに響いて、凛の不安と疑念を増長させていく。どうして自分は一人で死ぬのが怖いのだろう。今だってどうせ一人なのに。死んだら誰だって一人なのに。
たとえ明佳に騙されているのだとしても、もう凛にはどうすることもできない。
渡り廊下の先の薄明にぼうっと浮かび上がる南校舎を眺める。気づかないうちに退路は断たれていた。
どうやって帰ったのかもよくわからないまま家のドアを開けた凛を迎えたのは、明かりの灯らない静かな玄関だった。母の顔も父の顔も見ないまま自室に直行し、鍵をかける。布団に倒れ込むと、手から離れた鞄がどこかに転がっていった。
頭が痛くて無性に疲れているのになぜか眠くならない。母の睡眠薬を取ってこようかと思ったが、リビングに行って鉢合わせるのは嫌だった。
夜中から酷い雨が降り始めたらしく、近くに感じられる場所で窓枠が震えるほどの雷鳴が轟いていた。カーテンの引かれていない窓を容赦なく照らし出す閃光が鬱陶しくて、凛は布団に顔を押し付けた。