35話 友愛の鎖
腐れ縁は、鎖縁と書くらしい。鉄の鎖で繋がっているかのように切れることのない縁。運命のふたり。離れたくても離れられない関係。どこまで逃げてもあなたに辿り着く。
「なんだか、ぞっとしないね」と険しい顔で智春は言った。
「そんなのじゃないよ。腐れ縁って、あんまり良い意味じゃないんでしょ? あたしと遼は『親友』だよ」
ねーっと、同意を求めるように智春は腕にしがみついてくる。迷惑そうに振りほどくと、相変わらず遼は照れ屋なんだからと知ったような口を利く。無垢な信頼を寄せられることは悪くない。智春のそういう今時珍しいほど正直に人を信じているところを愛おしいと思うから。
だけどね、智春。あんたがふらふらと危険に首を突っ込んで酷い目を見るくらいなら、鎖で縛って私の手元から動けないようにした方がいいんじゃないかと思うことはあるよ。
*
約束の時間にわざと遅れて行くと、智春は腕を組んで不満そうな顔をしていた。智春にしては丈の短いデニムワンピースにビビットカラーのスニーカー。どちらも遼は初めて見た。耳の横に留められているレジンの星のヘアピンだけは、一年前のクリスマスにお揃いで買ったものだ。智春が桔梗色、遼が檸檬色。
「遼、遅い! どうせ遅れるだろうと思って十五分早い時間を言ったのに、どうしてそこからさらに十五分遅れてくるのよっ」
「別に、予約してるわけじゃあるまいし」
「その遅刻癖、直す気あるの?」
一人だけ剣呑な雰囲気を漂わせ始めた智春に後ろからえいっ、と抱きついたのは明佳だった。こちらもお嬢様っぽい清楚な白のフリルワンピースを着ている。明佳は智春の顔を見て、ふわふわした笑みで駄々をこねるように言った。
「ちょっと遅れたくらいいいじゃん。はるかちゃん来たなら早く行こうよぉ」
智春の返答を聞く前に、遼はスタスタと歩き出した。「あっ、何先に行こうとしてるの、待ってよ」と智春も明佳に引っ付かれながら追いかけてくる。その様子を鼻で笑って、露骨に足を速める。
休日に行き場のない紅黄市の暇人が集うショッピングモールの一階を遼たちは歩いていた。土曜日の午後ということもあって、高校生カップルから老夫婦まで老若男女が溢れかえっている。余所見をして走り回っていた小学校低学年くらいの男児が案の定転んだようで、吹き抜けのフロアに耳を劈くような泣き声が響いていた。近くを通った遼が特に何の感慨も込めずに見ていると、男児はぴたりと泣くのをやめて母親の下に戻っていく。睨んでなんかいないのに。
「まずねぇ、レターセットが買いたいな」
「それじゃあ、二階の雑貨屋さんに行こうか」
いつの間にか進行方向を変えていた二人の後をついて、遼もエスカレーターに乗る。突然三人でお出かけしようと言い出したのは明佳で、ノリノリで賛同したのは智春だ。遼は行きたいなんて一言も言っていないのに、当然のように同行することになっていた。智春は昼まで部活があったはずだが、急いで着替えて自転車を走らせてきたらしい。遊びの主導権はいつも智春にあるので、明佳の方から遊びに誘ってくるのは確かに珍しかった。
智春の横に並んで立っている明佳は、幸せそうな笑顔でエスカレーターの上からの景色を眺めている。明佳に限った話ではないが、市内のありふれたショッピングモールにいつもの顔触れで来ることの何がそんなに楽しいのだろうと思う。ここは数年前の開業以来何一つ変わらない。智春と何度か来るうちに中学生が入るような店は大体見尽してしまって、遼はすっかり飽きてしまっていた。
それとも、明佳は三人で遊びに来たこと自体ではなく、買い物の内容に想いを馳せているのかもしれない。「そんなに好きなんだね」と、半ば呆れたような、それでいて感心しているような智春の声が聞こえてくる。明佳は何も言わずに大きく頷いた。
*
野河明佳という女子生徒に対して、遼は「周りの人間全員から可愛いと言われて育ったやつだ」という第一印象を抱いた。そして、遼はそういう女子が概ね嫌いだった。中学の入学式のときのことだ。
式が始まるまでの間、生徒は教室に待機させられていた。大きめの学ランやブレザーに身を包んだ生徒が、少し緊張した面持ちで同じ小学校出身の人と身を寄せ合って話している中、遼も智春が机の前に立って話しかけてくるのをてきとうに聞き流していた。知らない人だらけの教室はどこか張り詰めていたが、耳慣れた智春の声がBGMになっていたので居心地は意外と悪くない。
はるか、なんて名前だが春は嫌いだ。一新された教室に入るときなど、自宅が丸ごと作り変えられてしまったかのような不快感を覚える。一年かけてようやく自分のスペースを構築したのに、また一からやり直し。毎度のことながら馬鹿みたいだと思う。けれど、今年は智春がいるから。智春さえいれば、智春を支柱に自分を保つことができる。
前日の寝不足が祟ってうつらうつらとしていた遼は、「ねえ!」という智春の声に叩き起こされた。
「あの子、話す人いないのかな」
教室の前方を見ながら、心配そうに智春は言う。智春の視線の先には、席に座って捨てられた子犬のように虚空を見つめている女子がいた。
「だったら何なの」
「えっと……声かけてきてもいい?」
智春は申し訳なさそうに困り眉で笑った。遼は溜息をつくと、顔を背けて「お好きにどーぞ」と答えた。毎年の恒例行事だ。どうもこの子は「友達百人できるかな」を小学校一年生の頃から信じ続けているらしい。遠大な夢だ。
机に駆け寄って二言三言話した智春は、すぐに女子生徒を連れて上機嫌で戻ってきた。蜜のような甘い匂いがその場に立ち込める。
「この子ね、引っ越してきたばかりで同じ小学校の子がいないんだって」
「野河明佳です。よろしくねぇ」
おそらく新しいクラスの女子の中でも一番背の高い遼とは対照的に、明佳は生まれたての子うさぎみたいに小柄な生徒だった。いかにも女子らしい可憐な見た目も、髪を雑に短く切り揃えた遼とは正反対だ。飴がとろけるような口調と掴みどころのないふわふわした微笑みで、直観的に「あ、こいつ嫌いなタイプだ」と遼は思ったが、もちろん表情には出さない。
智春は言外に「明佳と友達になりたい」と言っている。どちらかというとそれは憐れみという感情ではないのかと思わないこともないが、さっき答えた通りだ。智春は智春のしたいようにすればいい。
「椎本遼。よろしく」
片頬で笑って答えると、明佳は手を差し出してきた。握った手はマシュマロのように白くて柔らかくて、ますます嫌いだな、と感じた。
*
二時間ほど雑貨屋や食品コーナーを行ったり来たりして、ようやく明佳の買い物は終わった。あれこれとアドバイスをしていた智春とは違い、遼は本当にただ隣で見ているだけだった。でも、休日を無駄にしたような気は不思議としない。智春が楽しそうなら、まあいいか。
フードコートに流れ着いたときには十五時を回っていた。昼時は座れないこともあるが、この時間になると幾分席に余裕がある。アイスクリームショップから少し離れたボックス席を陣取ると、「あたし買ってくるよ」と智春は言った。
「遼はいちごだよね。明佳は?」
「チョコミント」
「オーケー。じゃあ、荷物よろしくね」
智春はひらりと身を翻して小走りで去って行く。あとには遼と明佳の二人が取り残された。
途端に静寂が訪れて、店内に流れている曲が聞こえ出す。流行りの男性アイドルグループの曲だ。智春に勧められて何曲か聴いたことがあるが、あまり興味は湧かなかった。ふうん、こんな歯の浮くような歌詞だったのかと思いつつ耳を澄ませる。
向かいの席にちょこんと浅く腰掛けて、明佳はセルフサービスの水を飲んでいた。遼が一息に飲み干してしまった量をこくこくと飲み続ける明佳を見て、智春のいない間にもう一杯注いでこようかな、と思い立つ。
無言で席を離れようとした遼を追いかけるように、「ねえ、はるかちゃん」と声がした。
胡乱げに下を見ると、明佳が上目遣いでこちらを見ていた。こいつはいつでもこんな風に可愛らしく人を見上げてきて、そうすれば年上に可愛がってもらえたのだろう。だが、今その媚びるような目を遼に向けたところで何の意味があるのか。明佳はにっこりと笑って、内緒話をするみたいに囁いた。
「はるかちゃん、ちはるちゃんがいない間に、お話しよう」
へえ、そういうこと。遼は口元だけで笑ってどさりと座り直す。グラスの中に残っていた氷を口に含んだ。そういう話なら受けて立とうじゃないの。あんたに言いたいことなんて大してないけど、話ぐらいは聞いてあげる。
「で、何の用」
肘をついて言うと、明佳はうふふ、と女の子らしく笑った。
「はるかちゃん、ちはるちゃんがいなくなると急に怖くなるよね」
「さあ、どうだろ。明佳に対してだけってわけでもないけど」
あんたも、と遼は冷静に続けた。
「あんただって、ただの馬鹿ではないでしょ」
「ばかなんて、ひどいなあ」
くすくす笑う声が、遼の神経を逆撫でする。遼を苛立たせようと思って意図的にやっているのか、これが明佳の素なのか。両方かもしれない。明佳はグラスの水を最後の一滴まで飲み干すと、遼と同じように肘をついた。ただし、遼とは違って両肘で可愛らしく。
「はるかちゃんとちはるちゃんって、いつからお友達なの?」
当惑した遼は口の中の氷をがりがりと噛み砕いた。予想外の質問が飛んできた。今の流れからどうしてそんな話になる? 遼が眉をひそめても明佳は答えを待つように微笑んでいるので、仕方なく質問に答える。
「小学校に入る前の、児童館に行ってた辺りから」
「わあ、すごい。本当に幼馴染なんだ」
意図的に言葉を濁したが、遼の回答で明佳は納得したようだ。
「だったら、はるかちゃんはちはるちゃんのことが大好きだよね?」
笑みを深くして言われ、遼は片手でグラスを弄るのをやめた。
何だ、何が言いたい? ひょっとしてこいつはただ目の前の人間を翻弄したいだけで、特にものを考えて言っているわけではないのか?
「好きとか嫌いとか、あんたに教える必要ある?」
つい語調を荒げてしまう。智春が隣にいないとすぐこれだ。
明佳は一旦黙ると、感情の読めない瞳で遼の顔をじっと覗き込んできた。不躾な視線にとうとう遼は不快感を露わにして「何」と訊く。明佳は平然と、次のように答えた。
「ううん。……えへ、そんなに仲良しなのに、はるかちゃんがちはるちゃんの全部を知らないのは、おかしいなあって思っただけ」
思考が、絶対零度に放り込まれたように硬直する。
「――は?」
こいつの、野河明佳の前で心を乱すのはプライドが許さないのに、声の温度がどん底まで落ちるのを止められなかった。
「何? あんた喧嘩売ってんの?」
「わあ、怖い。怒らせちゃった? ごめんね」
気づくと遼は肘をつくのをやめていて、手元のグラスを割れんばかりに握りしめていた。ふうーと、長めに息を吐き出して呼吸を整える。向こうから遼たちの様子は見えないとは言え、近くに智春がいるのだ。ここで言い争いをして何になる。
「それで何の問題があるの。あんたは友達の全部を知らないと気が済まないってわけ?」
「んーん、そうじゃないよ。えっとね、」
明佳はアイスクリームショップの方をちらりと見ると、テーブルに身を乗り出してきた。遼の耳元に両手を当てる。温く甘い吐息に背筋が震えた。
「ちはるちゃんが今いちばん誰のことを見ているか、あなたは知ってる?」
脳の回線がショートして、火花が弾ける。真っ白になった頭で咄嗟に明佳のことを突き飛ばしていた。ソファに背中を打ち付けた明佳が「痛いなあ」と笑う。
「あんたが、智春の何を知ってるって言うの!」
「ふふ、気づいてるくせに。そうやって意固地になっていると、いつかちはるちゃんに嫌われちゃうよ」
今にも胸倉に掴みかかりそうになるのを、わずかに残った理性で押しとどめた。この体格差で暴力を振るったら完全に自分が加害者だ。ああ、この女は今までもこうやって小さな体を存分に利用して人を煽ってきたのだろうと気づかされて、はらわたが煮えくり返りそうになる。
「智春が私を嫌う? そんなこと、あんたにわかるわけないでしょ。あり得ない」
「えー、そこまで言う? いいなあ、その自信。妬いちゃうな」
明佳は椅子に行儀よく座り直した。反対に遼は立ち上がった。
「でも、ちはるちゃんの方が、はるかちゃんの知らないところで変わってしまうかもしれないよね」
「だからっ、あんたが何を、」
「取り返しがつかなくなっても、知らないよ」
明佳は、悪魔の顔で笑っていた。耳が智春の足音をかろうじて拾っていなかったら、きっと殴りかかっていただろう。
*
「じゃ、また月曜日にね」
右に曲がれば智春の家があるという角まで来たとき、遼は自転車に乗ったまま片足を地面についた。ひらひらと手を振って行こうとする智春を呼び止める。
「うん、なあに?」と、振り返った智春は不思議そうな顔をしていた。その声からは何の憂いも感じられない。小田巻智春。悪を決して許さない善なる人。
智春の正義は、智春の高潔は、自分が守らなければならない。
「あんた、私に隠し事してないよね?」
そんなはずがないと、自分に言い聞かせながら尋ねていた。正直な智春が嘘をついているときはすぐ顔に出る。この子は昔からババ抜きもダウトも呆れるぐらい下手くそだった。幼馴染の前で仮面を被ったりなんか、できるはずが――、
「遼に隠し事なんて、するわけないでしょ」
二の句が継げなかった。
靄がかかったような智春の純な笑顔は確かに今までと何かが違うのに、それがどうしてなのか、遼にはまったくわからなかったのだ。




