34話 飛び込みシミュレーション⑤
ガチャリ、と凛の後ろで音がする。ドアの内鍵を閉める音だ。それだけで、この教室が外界から見えない壁で隔絶されてしまったみたいだった。部活動に励む生徒の声は今もぼんやりと聞こえているのに。
静謐で侵し難い、薄荷色の空気が教室を満たしていく。口へ鼻へと流れ込む。冷ややかなミントの香りが、乾いた喉に染み込んで気管を内側から押し拡げる。
「鍵」と、明佳が凛の背後を指差した。彼女は教室の真ん中から動いていなかった。
「閉めるの?」
凛は我に返って視線を落とした。ドアの鍵にしっかりと掛かっている、自分の人差し指。内鍵を閉めたのは他の誰でもなく凛自身だったのだ。無意識の行動の理由を、行動の後に考える。
「うっかり他の生徒が入ってきたら、困るから」
「うん? ……うん、そうかも」
じゃあ前のも閉めちゃおう、と明佳は教室の前方にあるドアの鍵をかけた。軽快なステップを踏みながら、溢れ出す期待を抑えられないといった風に凛に笑いかけてくる。明佳の声はぽんぽんとよく跳ねる手毬のように弾んでいた。
「えへ。えへへへ。二人で部活できるんだって感じするね。やあっとだ。わたしずっと待ってたんだよぉ」
教壇の上に飛び乗る靴音までが鮮明に聞こえる。二つの黒板消しが叩き合わされて、白い粉塵が空間に舞った。黒板消しが薄汚れた黒板を横方向に拭き取っていくのをぼんやり眺めていると、凛の前にもう一つが差し出された。
「りんくんは、上の方お願い。わたし届かないから」
片手に黒板消しを持った明佳が微笑んでいる。
凛は受け取った黒板消しを左上に当てて、明佳とは反対方向に歩き出した。いつのものかわからないチョークの粉がほんの少し吸い付く。黒板はもう長年の汚れが固着してしまっていて、あまりきれいになることはなかった。
「ほんとうはね、りんくんの他にもスカウトしてたんだけど」
「……え?」
「だから、飛び込み部に」
満足したのか、明佳は黒板消しを粉受けに置いた。
「断られちゃった。ううん、断られてはいないのかなぁ? ともかく、入ってもらえなかったの」
それはそうだろうと、口にはしなかったが、凛は心の中で頷く。別に凛も入ると決めたわけではないのだし。明佳が粉受けに置いてある小さく砕けたチョークの中から、まだましなものをためつすがめつ選んでいるので、所在無い凛は近くの机から椅子を引き出して座った。
小指の第二関節から先ほどの長さの黄色いチョークを摘み上げて、明佳はくるんとこちらを向く。
「りんくんには、飛び込み部で何をするかちゃんと説明してなかったね」
凛はごくりと喉を鳴らし、姿勢を正すように椅子に座り直した。思わず真剣な声で尋ねる。
「まさか、今すぐ死ぬわけじゃないよね……」
「それはもちろん。ふふ、当たり前だよぉ」
ころころと笑う明佳は仲の良い友達と喋っているときと変わりなく、とても飛び込み自殺の話を始めようとしているようには見えない。チョークが黒板を叩いて、女の子っぽい丸文字が並ぶ。「第一回 飛び込みシミュレーション」――漫画のタイトルみたいだな、と凛は思った。明佳は先生みたいにゆっくりと教壇の上を歩く。
「どこで死ぬか、どうやって死ぬか」
薄桃色の唇から改めて「死ぬ」という単語が零れたことにどきりとする。
「いろんな死に方を調べて、計画を立てて、黒板でシミュレーションするんだよ。あのねぇ、いつでも死ねるって思ったら、自殺願望が消えることがあるんだって。それならそれでラッキーじゃない? 一から十までシミュレーションして、それでもやっぱり死にたいってなったら、計画通りに死ねばいいんだよ」
ほとんど一息に言って、「それが飛び込み部の活動」と明佳は説明を締めくくった。
「質問のある人は挙手をお願いしまぁす」
二人しかいないのに何の必要があるのかと思いつつ、凛はおずおずと手を挙げた。
「はい、りんくん」
「し、死に方を調べるって、線路に飛び込むだけではないの? 飛び込み部なのに」
正直なところ、凛は明佳がそこまで自殺に対して慎重に考えているとは思っておらず、活動とは言っても二人で線路に飛び込んでお終いだとばかり考えていた。それだって十二分に覚悟の要ることではあるのだが。
明佳は依然ふにゃふにゃとしまらない顔で笑っている。発言の内容とあまりにも不釣り合いだった。
「だってぇ、飛び込み部って書いておかないと勧誘できないもん。首吊り部とか、自殺部とか物騒だし、ぜんぜんかわいくないし」
――物騒。かわいくない。
凛は開いた口が塞がらなくなった。本当に競技の飛び込みと勘違いして誰かが来たらどうするつもりだったのだろうという具体的な感想よりも、何かがずれている、という違和感が勝った。
何かがずれている。同じところを目指して、同じ話をしているはずなのに、自分と明佳は違うものを見ている。苦いものが喉の奥からこみ上げるような不快感。凛の声は自然と憤りをはらんだ。
「明佳ちゃん、やっぱり僕のこと揶揄ってるでしょ」
「からかってる?」
きょとんとする明佳に、凛はなるべく感情を抑え込んで言った。
「死にたいのは、冗談じゃないんだ。僕は、本気で……っ」
また目頭が熱くなって、凛はぐっと涙を堪えた。もしかしたら、自分は明佳に盛大に騙されているのかもしれない。この教室の様子を別のどこかから観察されていて、今も笑いものにされているのだろうとか、そうでなくとも後から女子の会話のネタにされて陰で大馬鹿者と罵られるのだろうとか、被害妄想ばかりが頭を駆け巡る。考えれば考えるほどそうだとしか思えないのだ。もっともらしいことを言いながら凛を揶揄う明佳の言動の意図なんて、それぐらいしか思いつかない。
「わたしだって本気だよ?」と、明佳は頬をぷくっと膨らませる。
「本気じゃないのに、勧誘ポスター五枚も手書きで描いたりしないよぉ! これ、すごく大変だったんだからね。ほらほら、ここのねこちゃんとかさ」
おそらく明佳はスカートから取り出した紙を凛に見せつけているのだろうが、ほとんど目に入らなかった。席から立ち上がると思ったより乱暴な音がした。反対に、凛の口からは弱々しい声しか出てこない。
「遊びのつもりなら……僕は、抜ける」
さしもの明佳も口をつぐんだ。紙片がくしゃりと握りしめられる。C組と変わらない広さのはずの教室が、今はひどく大きく感じられた。明佳がすうっと息を吸うのがわかった。
「遊びじゃ、ないよ」
教壇を静かに降りた明佳が目の前まで近づいてくる。徐に机に膝立ちになって、明佳は凛の顔を覗き込んできた。さらに強く香るミントに突かれたような痛みが脳髄を走る。凛は小さく呻く。
「遊びじゃない」
明佳の顔はいつになく強張っていた。子犬のような黒目勝ちの目は真剣だった。その目に見つめられただけで、明佳の言葉にはいかなる偽りも騙りも存在しないのだと信じ込まされてしまう。凛は靄がかかったような鈍い頭で謝った。
「……疑って、ごめんなさい」
「ううん、いいの。気にしないでね」
凛が再び椅子に座ると、明佳はそのまま机に腰掛けた。
「りんくんも、わたしがこんなだから信じられないよね。みんなわたしのこと、ばかっぽいとか妹みたいとか言ってくるし」
「そんな、ことは」
嘘を平然と見透かして、明佳はにこりと笑う。
「ほんとにわたしバカだから、今更かしこぶってもしょうがないしなぁ。それに、この背でしょ? 何やっても無駄だよねぇ」
わたし昔は背高かったんだよ、と明佳は床につかない脚をぶらつかせながら信じ難いことを口にする。
「何歳だったかなぁ。九歳? 十歳? それぐらいのときまで、背の順では後ろから数えた方がずっと早かったの。でもそこから全く伸びなくなって。友達にもどんどん抜かされて、いつの間にか一番前になっちゃった。何でかなぁ」
凛とは正反対の悩みだが、極端な身長の苦労は痛いくらいにわかるので、明佳にこんな話をさせてしまった罪悪感が胸を苛んだ。
「あ、あの、本当にごめん……」
「十月十日」
いきなり感情が抜け落ちた明佳の声に、「え」と凛は面食らう。座ったばかりにも拘わらず明佳は机から降りて、黒板に今言った日付を大きく書き込んだ。どうやら、飛び込みシミュレーションが始まったらしい。凛はなんとなく背筋を伸ばした。
「川に飛び込むとするでしょう。学校の近くに大きなのがあるよね。あそこの橋の上から飛び降りよう」
どこからか取り出した水色のマグネットを、明佳は黒板にくっつけた。チョークで矢印を書いて、「りんくん」と添える。凛が慌てて鞄からノートと筆箱を取り出そうとすると、「ストップ」と声がかかった。
「ごめんごめん、言ってなかった。シミュレーションの様子は形に残しちゃだめだよ。形に残るものは信用ならないからね」
どういう意味だろう、と凛は純粋に疑問に思った。他人に見られる危険性があるってことだろうか。それなら黒板に書く方がよっぽど危ないような気もするが、鍵を閉めているなら大丈夫かな。凛は何も訊かないことにした。
明佳はマグネットの横に一軒家の絵を描く。
「十月十日は体育の日だね。学校はおやすみ。りんくんのパパもおやすみかな?」
「え……っと、たぶん」
「それじゃあ、家にはりんくんのパパとママがいる」
白いマグネットを二つ追加して、水色の横に貼る。
「何時に家を出る? 何て言って家を出る? 想像してみてごらん」
今度は閉口することとなった。この教室に来てから予想外のことが起こり過ぎて思考が追いつかない。飛び込みシミュレーションって、そんなところから考えるのか?
明佳に言われた通り、凛は自宅の玄関を脳内に思い描いた。家を出て行こうとする凛を引き留める母。父は――きっと部屋にいるだろうから、気にしなくていい。
「じゃあ、大樹……友達の家に行くって、言うよ。時間は」
家を出る時間なんて、休みの日なら何時でもいいような気がする。だけど、大樹の家に行くと言うのならあまり遅い時間は不自然だ。
「時間は、朝の十時、で」
「本当に朝でいいの?」
間髪入れず明佳は問題点を指摘した。
「休みの日だし、日中は外にも人が多いよ。誰かに見られていたら飛び込めないし、流されている途中で助けられてしまうかも。どうする?」
さすがに目を見張った。凛の発言に対して鮮やかに切り返す明佳は、まるで別人のように生き生きとしている。口調まできびきびとしたものになっていて、同級生の急激な変化に凛は困惑するしかなかった。
「よ、夜にする。十九時。ええと、晩ご飯を買ってくるって言う。それぐらいの時間ならすぐ帰るって言えば許してもらえる……と思う」
「うんうん。りんくんの家から川までは近いからそれでいいね」
明佳は家の横に「十九時」と書くと、波打つ川と橋を描き足した。橋の横にマグネットを移動させる。
「さて、りんくんは橋の前まで来ました。ここからは?」
凛は少し考えてから答えた。
「川をあんまり長い間覗き込んでいたら怪しまれる……から、誰もいないタイミングを見計らって橋の真ん中まで行く。で……川に飛び込む」
実際の状況を想像してみて、頭が揺さぶられるような感覚を味わった。あの橋は凛も渡ったことがある。石造りで、乗り越えること自体は簡単で、真ん中から地面までの距離は結構あって。きっと飛び降りたら溺死以前に脚の一本や二本は折れる。溺れながら痛みでのたうちまわるのだろう。凛は思わず身震いしていた。
明佳は左手の人差し指を可愛らしく頬にあてる。
「うーん、でも何もしないで飛び込むと、うっかり岸まで泳いじゃわない? 自分から入水自殺を選んでも、息が苦しいと本能的に助かろうとしてしまうって聞いたことある」
「そ……そんなこと、言われても」
凛は明佳の止まらない追撃にたじろぐ。
何てザマだろう。ほんの数分明佳とやり取りをしただけで、凛は全身に疲労を感じていたのだ。「死」という凛の隣に漠然と存在していたものが、現実的な形を伴って二人の間のコミュニケーションツールとなっていくことに、凛は言いようのない寒気と怖気を覚えた。
あんなに死にたいと願っていたのに、一体自分はどうしてしまったんだ?
明佳は粉受けに手を置いて黒板にもたれかかった。瞬きひとつせずに、淡々と凛を責める。
「ね、りんくん。ちゃんと死にたいなら、ちゃんと頭使って考えなきゃだめだよ」
頭、のところで明佳は自分の頭をちょんちょんとつついた。
「自殺は結構失敗するからね。一回失敗したら再挑戦は難しいし。最初で成功させないと。特にわたしたちみたいな子どもは、おうちや学校に閉じ込められて、どこにも逃げられなくなってしまうよ。りんくんも、それは嫌でしょう」
「い、嫌だ!」
凛は反射的に声を振り絞って叫んでいた。明佳は優しく微笑んで、凛に手を差し伸べる。
「それならいっぱい考えて? どうすればいいと思う?」
凛は目を泳がせて、言われるままに考え続けた。どうすれば致死率は高まるのだろう。どうすれば抵抗することなく安らかに死ねるのだろう。自分の手足を縛る? 経験もないのにできるだろうか。重しを手足にくっつける? そんなもの、家から持ち出したら不審に思われる。一時的に行動不能になる方法は――。
そのとき母の顔が思い浮かんで、凛は「あ」と声を上げた。
「睡眠導入剤……」
凛は精神科や心療内科に連れていってもらえたことがないので持っていないが、母は寝る前によく飲んでいる。あれを飲んでから川に落ちれば、確実に死ねるのではないだろうか。と、凛が説明すると、明佳は嬉しそうに手を合わせた。
「うん、合格! よくできましたぁ」
明佳が今日一番の満面の笑みになったので、凛もつられて照れくさくなり、頬を掻いて笑った。はははは、と一転して和やかな空気になる。黒板に飛び込みシミュレーションの過程が書き込まれてさえいなければ、仲の良い男女の談笑に見えるに違いない。
「……あれ? でも、」
ふと気づいたことがあって、凛は頬を掻く手を止めた。
「これって、僕一人で死ぬって想定だよね。明佳ちゃんはいつ死ぬの?」
温い空気が凍り付いた。
一瞬で明佳が笑うのをやめたことに不安を感じて、凛はおそるおそる手を下ろした。明佳の顔を正面から見るのが怖くて、咄嗟に目を伏せる。自分は何かまずいことを言ってしまったらしい。だが、何が失言だったのかわからない。
だって、飛び込み部って二人で一緒に死のうってことでしょう?
ほどなくして、ふふ、と声を抑えた笑みが聞こえてきた。
「ふふふ、ふふ。勘違いしちゃった? うふ、わたしそんなこと一言も言ってないのにね」
呆気にとられる凛の前で、明佳は嘲るような笑顔になった。
「りんくんは、一人じゃ死ねないの? 意気地なし」
*
大樹が明佳の話題を出したのは、翌日の部活が終わった直後だった。
「そういえば、あれどうなったんだよ、明佳チャン。昨日の放課後会ってたんだろ。なんか進展あったか?」
「い、いや、進展って言うか、後退って言うか……」
結局、記念すべき第一回飛び込みシミュレーションはあれで打ち切りになって、母と言い合いになったにも拘わらず凛は早々に帰宅した。明佳に何と話しかけられたかはショックでほぼ覚えていないが、励ましの言葉をいただいたような。
ユニフォームをしまい込んだエナメルバッグを肩に下げて、大樹はふむ、と思案顔になった。
「お前が女子の機嫌を損ねるようなこと言ったりするとは思えないんだけど、押しが弱すぎて拗ねられたのか?」
「大樹だって女子と話すことないくせに、てきとうなこと言わないでよ……」
「なっ」
大樹は途端に顔を赤くして、そんなことねえよお前に比べたらちょっとはマシだぞオレには姉貴がいるんだからなと捲し立ててきた。狂犬みたいにキャンキャン吠える大樹の横で明日の数学は当てられそうだなあと考えながら歩いていると、
背後に忍び寄る気配があった。
「堤、少し面貸せ」
大樹も凛も、足を止めた。正確に言うと、凛の方は足がすくんで動けなくなった。何も知らない大樹は気楽に振り向く。凛もこわごわと後ろに視線をやった。
「あ、先輩。オレたち今から帰るんですけど、明日じゃダメですかね?」
「急ぎの用なんだよ。千葉山は帰ってていい」
気色悪いぐらいの猫撫で声で、坂木先輩は大樹を見下ろしていた。後ろにはにやにやと笑う他二人もいる。全身の毛が逆立って、心拍数がバクバクと上昇していった。
何も、解決してなどいなかったのだ。写真を撮られて慎重になっているのか、凛からこれ以上金を取ることは無理だと諦めたのかはわからないが、坂木先輩たちは「お前が駄目なら、堤でも」の言葉通りにすることにした。その結果がこれだ。
唾を飲み込むと、こめかみがズキンと痛んだ。目眩が始まる。
「フーン、わかりました。じゃ、悪いけど凛は先に帰っててくれ」
鞄の持ち手を握りしめる。発汗が止まらない。
だめだ――大樹を、引き留めないと。これは凛の咎だ。凛が引き起こした問題だ。大樹を巻き込むことだけは絶対にあってはならない。大樹だけは、あの暴力に曝してはならない。ああ、神さまどうして――
だめなのに、どうしてもだめなのに、歯の根が合わなくて、想いは声にならなくて、踏み出すことさえできなくて。腹部の痛みを思い出すだけで無力な自分は何も言えなくて。
凛の足が動かない間に、大樹は連れて行かれてしまった。
皮肉にも、大樹の背中が見えなくなると凛は歩けるようになった。何かに急き立てられるようにして一心不乱に足を動かし、道行く人に幾度もぶつかりながら帰路につく。町が、家が、ぐにゃぐにゃに歪んで見えていた。鍵を差し込む位置と向きを何度も間違えながらもようやく家のドアを開ける。玄関に足を踏み入れた瞬間に膝から力が抜けた。
凛は吐き気を押し戻すように右手で口を塞いだ。もう片方の手を床についてへたりこむ。顔の熱さと対照的に玄関のタイルは冷たかった。
自分は最低だ。行かないでと、ただ一言言えればそれで十分だったのに、その一言がどうしても言えなかった。凛は大樹のことを、何より大切な友人のことを裏切ったのだ。
「ごめ、ん、ごめんなさい、大樹……」
泣くことさえおこがましい。
リビングからは怒号が聞こえていたが、ドアを開けて確認することなく凛は自分の部屋に入った。頭の中が滅茶苦茶で、もう何も考えたくはない。凛は敷かれた布団に突っ伏し、毛布を被って、その体勢のまま朝まで動かなかった。これまでで一番長い夜だった。
*
きっと大樹は迎えに来ないだろうと思ったから、大樹が毎朝来る時間より十分早く、凛は一人で家を出た。大樹のいない通学路はモノクロで、殺風景だ。自業自得の寂しさを抱えて凛は歩き続けた。足元のアスファルトが内臓みたいに柔らかく感じて、一歩踏みしめるだけで足首まで埋まるようだ。
教室に入ってからも生きた心地がしなかった。凛と一緒に登校しなくたってあと十分もしない内に大樹は学校に来る。いいや、本当に来れるだろうか。大樹は無事だったんだろうか。凛は明佳に助けてもらえたからそこまで怪我をせずに済んだけど、大樹はそうはいかない。
周りの生徒の目が気になる。いつもは大樹と朝読書が始まるまで話しているから、大樹のいない朝をどのように過ごせばいいかわからないのだ。朝だけじゃない。大樹と出会う前の自分が何をして学校生活を送っていたのかまったく思い出せない。このまま大樹に見捨てられてしまったら、自分はこれから何に縋りつけばよいのだろう?
先に大樹のことを見捨てたのは凛の方なのに、自分は保身ばかりを考えている。そのことに気づいたとき、右側から大樹の名前が聞こえてきて、凛はびくりと肩を震わせた。
「堤、どうしたんだ……?」
同級生の蓮田将人が、こちらに背を向けて立っている。凛の位置からは将人の背中しか見えなくて、大樹の席は完全に隠れてしまっていた。丁度今やってきた名前も知らない女子が大樹の席を見て「うわ」と驚愕の表情になる。女子の場所を空けるように将人が横に移動すると、椅子に座る小柄な大樹の姿が、今日初めて凛の目に映った。
大樹の「それ」が、自分の身に起こったことでなくてよかったと、何よりも先に凛は思ってしまった。だから、自分は一刻も早く死ぬべきなのだ。
左の目に貼られた大きなガーゼと、右の頬の青黒い痣。切れた唇の端には絆創膏があって、その他小さな擦り傷や出血の跡が顔のあちこちにある。
見えている方の目は暗かった。凛を下から見上げる無垢な光は消え失せていて、瞳の底まで濁っていた。
「あ、あんたそれ、何事?」
大樹は女子の声にぎくりと反応して顔を上げた。
「え、あ、あー……」
気まずそうに廊下側を向いた大樹は、すぐに向きを戻すと困ったような顔になり、「えーっと、な」と悩ましげに視線を彷徨わせて、
「…………えっと、勲章?」
何でもないことのように、へらりと笑った。
もう、耐えられない。
「……あっ、凛、おいっ! 待てよ!」
咄嗟に鞄を抱え込んで、凛は教室から逃げ出していた。大樹の声が遠くなる。次第に聴覚が白く塗り潰されて、何も聞こえなくなる。
*
自分はどうしてこんなところにいるんだっけ、と真下に流れる川を見ながら凛は考えに耽っていた。柵に置いた手は汗でびっしょり濡れている。
川の流れは思っていたよりも速い。底がここから見えないほど川は深い。あんなところに落ちたらあっという間に下流まで流されてしまうだろうし、懸念通りに脚は折れるだろう。痛いかな。痛いだろうな。だけどきっとそんなことすぐに忘れるぐらい瞬く間に溺死できるはずだ。
さっきから数メートル離れたところにいる女性が凛の方をちらちらと見ている。気が動転していたせいで、人がいないか確認するのをすっかり怠っていた。時間帯は紛れもなく朝だし、睡眠導入剤なんてもちろん持ってきていない。せっかく明佳と二人でシミュレーションしたのに、何もかも計画から外れている。
それ以上に――凛の心が、この柵を踏み越えて川に飛び込むことを拒絶していた。
生きているだけで大樹を傷つける。ろくでもない事情に大樹を巻き込んでしまう。だから自分は死ぬべきだ。そう何度も言い聞かせているのに、膝が震えて動き出せない。溢れる涙が川の中にぽたりと落ちていった。
「…………僕、は、どうして、」
生きることも、死ぬこともできないのだろう。
ずっとずっと死にたかった。生まれてはならない存在だったのなら、後ろ指を指されて生きるぐらいなら、大切な人を血で汚してしまうのなら、死んでしまおうと思った。どこにも生きる理由はないと思った。元々望まれていなかった命だから、簡単に捨てられると思っていた。
けれど、結局飛び込むことはできなかった。一人で死ぬ勇気も覚悟も、最初から自分には一滴もなかったのだ。
いつの間にか周りに人がいなくなっても、凛はその場に立ち尽くしていた。
家に帰ることも学校に戻ることもできずにぼうっと秋空を見上げていると、鞄の中からリリリリ……と電話の音がした。いつもはスマホを家に置いてきているのだが、何かの拍子に鞄に突っ込んでしまっていたらしい。通知は知らない番号だった。深く考えずにスライドする。
「もし、もし」
『あっ、りんくん? めーかだよ』
橋の上に両膝をつく。明佳と話すのはまだ数回目のはずなのに、彼女の甘やかな声に妙な安心感と懐かしさを覚えていた。なぜ明佳が凛の番号を知っているのか、そんなことはどうでもいい。もう片方の手をスマホの下側に添えて、凛は背中を丸めた。
「明佳、ちゃん」
『うん?』
「明佳ちゃんの、言う通りだった。僕は、意気地なしだ」
先輩に脅されていること、何もかも自業自得なのに保身に走ってしまったこと、そのせいで大樹に怪我を負わせてしまったこと、一人では死ねなかったことを、凛は洗いざらい電話口に向かって吐き出した。別にすっきりするということはなく、むしろ話せば話すほど情けなさが増していくようだったが、それでも止めることはもうできなかった。
凛の告白を聞き終えた明佳の声が、かえって恐ろしいほど優しく響く。
『りんくん、この間はばかにしてごめんね』
つらかったよね、がんばったね、と明佳は言う。凛は黙って頷いた後、慌てて涙声で「うん」と答えた。
『わたしと一緒に、死のうか』
強く吹き付ける風の中でも、明佳の声は凛の耳に届いた。
『ひとりで死ぬのは怖いよね。でも、ふたりなら怖くないよ。大丈夫』
飛び込みシミュレーションを思い出して、と明佳は続ける。
『きちんと準備をすれば、命を絶つことは不可能ではないんだよ。いつだってできるんだ。焦ることない』
凛はただ、うん、うん、と頷き続ける。全部明佳の言う通りにしよう、そうすべきだと自分に言い聞かせた。流れる水と風の音、明佳のとろけるような声だけが、凛の耳の中でいつまでもこだましていた。
*
渡り廊下に一人立っていた少女は、薄荷色のカバーのスマートフォンを耳から離し、スカートのポケットの中に滑り込ませた。しばらく動かないまま立っていたが、やがて口を小さな手で押さえて、少女はふふ、と笑んだ。
ふふ、ふふふ、と笑い声は膨らんでいく。
「かんたんかんたん。すごく簡単だった!」
少女は舌なめずりをした。右手の人差し指と中指の間に挟んだ、レンタルビデオショップの無料券をびりびりと引き裂いて、こっそりと中庭に撒く。
「ね、ね、りんくん。りんくんはそれでいい、それでいいんだよ」
カナリヤが歌うように、少女はここにいない少年への言葉を紡いだ。
「りんくんはずっと、そのままでいてね」
渡り廊下を右へ左へ行き交う生徒は知らない。少女が――野河明佳が、何者であるのかを。