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閉塞学級  作者: 成春リラ
6章 飛び込みシミュレーション
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33話 飛び込みシミュレーション④

 お前の母親は欠陥品だ。そう言って、千葉山の祖母と伯母が凛の両親を離婚させようとしたことがあった。凛が五歳のときの話だ。直接のきっかけはよく覚えていないが、当時の家の中の様子は今でも記憶に残っている。毎日不規則なタイミングで玄関のベルが鳴っても、母は決してドアを開けようとしないものだから、向こうが諦めて帰っていくまであの轟音が鳴り止むことはなかった。凛が出ようとすると止められた。祖母たちに連れていかれると思っていたのだろう。


 外の世界が怖い、というのは母の口癖だった。外の世界は何も悪いことをしていないわたしを罰して詰って騙そうとしてくる人たちで溢れていて、わたしから生まれたあなたもまたその被害に遭うの。外に飛び出しても良いことなんて一つもない。世界で安全な場所はここにしかなくて、あなたはお母さんと一生ここにいるのがいちばん幸せなのよ。母の発言が一貫していることはなく、そんなことを言っていたかと思えば勝手に外へ出ていき、母が心配していた通りの事態になってべそべそ泣きながら帰ってきたりするのだが。基本的に危機管理の加減がぶっ壊れているのだと思う。


 母の情緒が安定していることなど今でもないが、あの頃は特に様子がおかしかった。寂しさに耐えかねたのか一日中自室で涙を流している日は、うっかり捕まると窒息しそうなほど抱きしめられて逃げ出せなかった。お母さんには凛しかいない凛だけは誰にも渡さないと繰り返し囁かれて、凛はただただ頷きながら母の言葉を肯定し、ひたすらに解放を待った。反対に、周りの何もかもが憎いかのように喚き声を上げている日は、母の視界に入っただけで頬を叩かれた。お前がいなければよかったのに、そうすればこんなことにはならなかったのにどうして生まれてしまったの。そんなことを言われても物を投げつけられても凛にはどうすることもできないので、同じように嵐が過ぎ去るのを待つしかなかった。


 父がいると、母はおとなしくなる。自分より力の強い者の前では抵抗しない。そのことを証明するように、凛の身長が母を飛び越えてから母は比較的静かになった。この身長の唯一の利点だ。凛も抵抗することを覚えた。それでも、この家から逃げようとはどうしても思えなかった。できるはずがない、と言った方が正しい。


 実際には祖父の反対を跳ね返しきれず、離婚は成立しなかった。だけど偶に考えるのだ。もし、あのとき両親が離婚していたら、凛はどちらについていったのだろうと。凛の意思を介在させる余地はどのみちなかったけれど、母は凛がいなければ生きていけないのだと思うと、やはり母についていくべきであった気がする。父には実家があるが、ほとんど勘当されている母には帰る場所がない。ひとりぼっちだ。


 凛はとうとう幼稚園にも保育園にも通わないままだったので、小学校に入学して初めて同年代の子どもと関わるようになるまで、母親というのはそういう生き物なのだと、これが普通なのだと思い込んでいた。


 そうではなかった。そうではなかったのだ。普通であるとこの身に信じ込ませていた凛の家は、緩やかに焼け落ちていく扉も窓もない箱だった。このままここにいては肺まで爛れて息が吸えなくなるだけだと気づいても、逃れることはできないということを凛は悟った。





 明佳は、火曜日の放課後に北校舎の教室棟に来るようにと言った。今日がその火曜日だ。朝食を食べ終えた後の食器を洗っていると、母は「今日の部活は休みなのよね?」と確認してきた。そういうことはよく覚えている。


「うん。でも帰る時間はいつもと変わらないと思う。もしかしたら、ちょっと遅くなるかも」


 振り返って答えた凛に、母は露骨に顔を曇らせた。


「どうして? 堤くんの家に行くの?」


 そうだよ、と凛は表情を変えずに嘘をつく。


「中間前だから、沙樹さんに勉強を教えてもらうんだ。別に構わないよね?」


 父ならこれで騙されてくれるのだが、困ったことに母は妙に鋭いところがある。母は凛の作った目玉焼きをちびちび食べながら、上目遣いで凛を見てきた。怨むような、縋りつくような澱んだ目。凛はその目にどうやって応えたらいいのかわからない。


「遅くなりそうだったら、連絡入れるよ」


 でも、とまだ何か言おうとする母を無視して、凛は食器を水切りかごに置いた。がちゃん、と思っていたより大きめの音がした。


 母がどうして凛を家に縛り付けようとするのか、どうして解き放ってはくれないのか、凛は重々理解している。自分の血を受け継いだ唯一の息子が手を離れて、ひとりぼっちになってしまうのが怖いのだ。その不安も強ち間違ってはいない。


 だって凛は、母に黙って死のうとしているのだから。


「凛、ねえ、凛」


 手を洗っている凛の背中に向かって、母が呼びかけてくる。後に続く言葉はない。雑然とした室内に気味の悪い沈黙が漂う。凛は内心で溜息をついた。


「……何?」


 母には話し相手がいない。父は帰ってくるなり自室にこもってしまうし、そうでなくとも夫婦の間に会話はない。凛は十三年間ずっとその様子を見てきた。持て余した息を消費するように、母は息子に話しかけようとする。家事もまともにしてくれないくせに、なんとか「母親」っぽいことをしようと試みる。だけど母は母としての言葉を何一つ持っていないから、凛を家に留めるようなことしか言えない。


「お父さん、最近何か変わったことない?」


 凛は眉を上げた。今日のは少し変化球だ。父のスマホに映っていた見知らぬ女性からの通知を思い出しながら「特に、何も」と答える。母は何か感づいているのかもしれない。


「凛の方から、訊いてやってくれないかしら」

「訊くって、何を?」


 玄関のベルが鳴った。凛は慌ててインターホンの通話ボタンを押し、「ちょっ、ごめん、待ってて!」とマイクに向かって言った。『焦んなくていいぞ』と返ってくる声に安堵をおぼえつつ、母に向き直る。


「大樹が来たから、もう行くよ」


 母は返事をしなかった。あたふたと準備をして鞄を持ち上げた凛の姿が見えていないのか、虚ろな目でぼうっと明後日の方向を見ている。そうやって哀れなふりをしていれば凛に構ってもらえると思っているのだ。全くもって腹立たしい。


 行ってきます、と形式的に声を出して玄関のドアを開ける。


 家の前の壁にもたれかかっている小柄な体躯が見えた。目を伏せて手元のウォークマンを操作しながら気楽そうに口笛を吹いている。今日もいつもの平和な朝がやってきたことに感謝して、凛ははにかんだ。


「おはよう。待たせてごめんね」

「おう。大丈夫か?」

「うん、平気」


 大樹は耳からイヤホンを外すと、片手を上げて笑顔になった。


 切に願う。大樹だけはいつまでも、変わらないでいてほしい。





 まさか明佳と登校中に出くわすとは思っていなかった。おまけに放課後二人で会う約束をしていることまで仄めかされてしまって、ニヤニヤと楽しそうに揶揄ってくる大樹に対して取り繕う羽目になってしまった。凛はどう考えても女子の方から話しかけてもらえるタイプではないから、大樹にしてみればそれはそれは不自然だっただろう。


 大樹に何か話せるほど、凛は明佳のことを知らない。同級生であること、美術部の部員であること、中学入学と同時に引っ越してきたこと、ミントの香りがすること、子どもっぽく笑うこと。そして、「飛び込み部」と称して凛を何かの活動に巻き込もうとしていること。


 耳をくすぐる明佳の笑い声を思い出して、首筋の辺りがむず痒くなる。正直に言うと、得体の知れない明佳のことが怖かった。けれど、それ以上に引きつけられてもいた。凛は明佳の考えていることが知りたい。はっきりとは言っていないが、まだ飛び込み部に入ると決めたわけではなかった。今日の明佳を見て判断しなければ。


 凛の少し先を歩きながら、大樹は「まあ、良かったよ」と言う。


「お前最近調子悪そうだったから。安心した」

「え? そ、そうかな……」


 心当たりは無限にあるのだが、大樹は凛が苛められていたことと凛の母親が過干渉であること以外何も知らないので、自然と曖昧な答え方になる。凛が黙り込むと、大樹は何でもないことのように言った。


「深くは、訊かねえからさ」


 何でもないことのようでありながら、凛を励ますような優しい声。喉でごろつくハスキートーン。


「お前が言いたいときに言ってくれればいいよ」


 ぐっとこみ上げるものがあって、凛は奥歯を噛みしめた。前を歩いている大樹には凛の顔が見えない。大樹が心配して振り向かないように、「うん、ありがとう」と平静を装って答える。


 色んなことを隠している凛にも、大樹は優しい。いつでも一歩先で凛のことをゆっくり待ってくれていて、本当に苦しいときは慰めてくれる。凛の方は大樹に何も返せないというのに。


「あー、でも、家出するならオレんち来いよ、な? もう一人分の布団ぐらいならあるし」

「……うん」


 返事をするまでに間が空いた。


 大樹は優しい。混じりけのない善意から提案してくれている。凛は感謝すべきなのだ。


 だからきっと、こんなことを考える自分は間違っている。


 最近は少し、大樹の家に行くのがつらい、なんて。


 大樹の両親は普通の人だ。ちょっと口うるさいところはあるけれど、いつもニコニコしている専業主婦の母親。凛が家に行くと美味しいカルボナーラを作ってくれる、イタリアンシェフの父親。そして、実の弟の大樹と同じくらい凛のことも可愛がってくれる、姉の沙樹。絵に描いたような普通の、むしろ幸せすぎるくらいの、まばゆい理想の家族。凛の家と比較しても意味がないことはわかっている。大樹と凛は別の人間で、友達ではあっても別の人生を生きているのだから。


 だけど、ああ、羨ましい。羨ましくて仕方がない。どうして自分は千葉山凛として生まれてしまったのだろう。どうして堤大樹のようにはなれなかったのだろう。二人は何が違っていて、こんなに差ができてしまったのだろう。大樹の家に行くと、そのことをまざまざと実感させられる。


 嫉妬は醜い。大樹の善意を素直に受け取れない自分自身も醜い。何よりも、醜い自分を直視したくなかった。


「うん。……うん、ありがとう、大樹」


 この差を埋めることも、嫉妬心を紛らわせることもできないのなら、本当に――今すぐ死んでしまいたい。





 早く来てほしいような、一生来ないでほしいような相反する気持ちを抱えながら、上の空で放課後を待った。大樹と雑談や自主学習をしている間も、左斜め前の席に座っている明佳のことが気になっていた。


 明佳は特定の二人と一緒にいることがほとんどだ。小田巻智春と、椎本遼。智春の方は目立つので凛も知っている。クラスの女子のリーダー的な立ち位置で、網瀬玲矢と共に学級会などを仕切っている。遼のことはよく知らないが、凛ほどではないにしても背が高くすらっとした女子だ。親近感をおぼえなくもない。


 会話の内容を聞いているわけではないものの、明佳は三人の中で妹のようなポジションのようだった。べたべたと抱きついていくのを軽くいなされたり、逆に頭を撫でられたりしている。やはり誰に対しても距離感が近いというか、スキンシップが過剰であるらしい。


 現に、帰りの会が終わって放課後になった途端、明佳は凛の机に真っ先にやってきた。


「りんくん、いっしょに行こう」


 溶けるような笑顔で明佳は凛の右手を取った。明佳の後ろの席の将人が意外そうな顔でこちらを見る。


「え、えっと、それは、さすがに、なんというか……」


 周りの視線が気になって、凛は目を泳がせた。明佳は数秒、凛の顔を見つめてから「でも、行くところ同じなんだから、どうせいっしょにならない?」と言う。


「……ちょ、ちょっと離れて歩いて」

「ふうん。いいよ」


 明佳は素直に頷いた。


 先に教室から出た凛の数メートル後ろを、明佳がちょこちょこ付いてくる。何とも言えない居心地の悪さを感じながら、なるべく明佳を気にしないようにして凛は足を速めた。ところが、南校舎を出て渡り廊下に踏み出そうとした瞬間、後方から廊下に響き渡る大声が聞こえてきたのだ。


「りんくーーーん」


 顔が発火するかと思った。廊下に出ていた生徒たちが一斉に明佳の方を向く。凛はもつれる脚を引きずって明佳に駆け寄り、「わかった! わかったから叫ばないで!」と真っ赤な顔で懇願することとなった。


 結局、普通の声で話しても聞き取れるぐらいの距離を取って二人は渡り廊下を歩いていた。この半端な距離に意味があるのかは凛にもわからない。


 北校舎には部室が集中しているので、この時間帯の渡り廊下には部活へ向かう生徒たちが大勢いる。その中に明佳と凛が紛れていても誰も気にしていないようで、凛は少しだけ呼吸がしやすくなった。


「ねえねえ、りんくん」


 後ろから浮かれた声がする。凛は周りに気づかれない程度に視線をやって「なに?」と返した。


「ここからだと、中庭がよく見えるよね」


 明佳は渡り廊下の柵に手を置く。ふわふわの髪が風で揺れる。


 紅黄中の渡り廊下は校舎外に作ってあるので、特に三階は開放的な造りになっていた。北校舎と南校舎に挟まれた、緑が生い茂る中庭の様子も一望できる。


「三階から一階に行くとき、普通は階段を使うでしょう」

「……それが何か?」


 明佳はにこりと笑って、薄桃色の唇を開いた。


「でも、この渡り廊下から、ぴょーんって飛び降りちゃえば、何もかも早いのになあって、思ったことはある?」


 放課後の喧騒の中で、二人の間の時間だけが止まる。


 凛も柵から顔を出し、三階分下の中庭を覗き込んだ。凛の目線から遠く離れたところにある、タイルの敷かれた固そうな地面。生徒が踏み荒らしたことによる土汚れは、まるで血痕みたいで。


「……ある」


 からからの喉を潤すように、凛は唾を飲み込んだ。


「ある。何度もあるよ」


 明佳はますます顔をほころばせた。


「ふふふ、そうだよね」


 再び歩き出した明佳が凛の横を通り過ぎて、時間が進み始める。今度は凛が明佳の後ろを付いていく番だった。


 北校舎に用がある生徒は概ね右側の実技棟へ行く。教室棟には理科室や空き教室しかないからだ。他の生徒が右へ曲がる中、明佳は教室棟の扉に手をかけた。


「北校舎教室棟の三階はね、吹部の人たちも使っていない穴場なんだよ」


 扉を開けると、他の棟より明らかに幅の狭い廊下が現れた。掃除もあまり熱心にされてはいないのか、やたらに埃っぽい。丁度日差しの当たらない場所にあるせいで全体的に暗かった。


「放課後でもね、入ってくる生徒は全然――」


 そのとき明佳のすぐ左側のドアが開いて、教室の中から人が出てきた。ぼんやりとした顔の茶髪の女子だ。上靴の色から三年生だとわかる。名も知らぬ先輩は入り口で固まっている明佳と凛を見て舌打ちをすると、黙って教室棟から出て行った。後ろから脱色した髪の男の先輩が姿を見せて、同様にその場を後にする。


「――そんなにいないから、大丈夫だよ」


 実に説得力のない言葉を口にして、明佳はさらに奥にある空き教室の戸を開けた。ギイイ、と軋んだ音がした。


 一年E組とは、ここの空き教室のことを指していたのか。もっと昔、紅黄中の生徒数が今よりずっと多かった頃は北校舎にも教室があったのだろう。中は他の教室とあまり変わりがなく、黒板には当たり前みたいにチョークが置いてある。後ろの本棚には文庫本や辞書さえも並んでいた。薄汚れた廊下に比べると随分きれいだと凛は感じた。


「ここの掃除担当ね、二年生なんだけど、誰も使ってないからってこっそりサボってるんだって」


 だからわたしが代わりに掃除してるの、と掃除用具入れを開けて明佳は笑う。


 一年E組の空き教室の中には、二人しかいない。凛は、この間からずっと気になっていたことを尋ねた。


「飛び込み部に、他の部員はいるの?」


 明佳はあっさりと首を振る。「ううん。わたしたちだけ」


 ふたりきりなのだと気づいたとき、凛は唐突に、背後から口に手を突っ込まれるような脅威を感じた。


 彼女を、明佳のことを、年下の女の子みたいに思っていた頃には感じなかった脅威だ。ひとけのない北校舎の教室棟。誰も来ない空き教室。クラスの女子とふたりきり。


 ぶわっ、と汗が噴き出す。思わず教室の床を擦るようにじわじわと後ずさりする凛に、明佳は尚も「どうしたの?」と笑いかけてきた。


「……ぁ、」

「さあ、りんくん」


 明佳は逃げ出そうとする凛に構わず、教室の真ん中の机にぴょんと腰かけた。


「ふたりでいっしょに、飛び込みシミュレーションを始めましょう」


 その言葉で、凛は両足を床に縫い付けられたようになって。無意識のうちに背後のドアを自分で閉めていた。




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