32話 飛び込みシミュレーション③
色褪せた夢の中にいるような心地だった。空は鈍色の雲で覆われ、公園の遊具に陽光が当たるのを遮っている。年季の入った遊具に興味のないらしい小学生たちは、凛たちから見て向こう端にあるベンチに座ってゲームに夢中で、すぐ近くでは杖をついた老人がゆっくりとした足取りで散歩をしていた。それだけ。話し声はなく、びゅうびゅうと吹きつける風の音のみが聞こえている。小学生も、老人も、時を経てまだら模様になったゾウも、誰も凛たちを見てはいなかった。
そんな中、錆びだらけのブランコに近づいた薄荷色の彼女はきゃらきゃらと愛くるしい声で笑い、凛の方に振り向いてみせたのだ。
「わお、ブランコなんて久しぶりだねぇ。ここに公園があるのは知ってたけど、入ったことはなかったんだぁ」
チェーンを小さな手で掴まれたブランコが軋んだ音を立てる。明佳は躊躇いなく両足を乗せ、ぐんと勢いをつけて立ち漕ぎを始めた。ブランコが頂点に達するたびに「おお」とか「ひゃっほう」とか感嘆する姿を見ていると、先ほど本音を吐き出してしまったことに対する不安と後悔が募っていく。目の前で明佳が行ったり来たりするのを何度か見送った末に、凛はようやく声をかけた。
「明佳ちゃん、飛び込み部って」
「りんくんも隣においでよぉ。けっこう楽しいよこれ」
「…………うん」
これは座らないと話を聞いてくれなそうだな、と凛は明佳と十分に距離を取って前から回り込み、積もり積もった砂埃を払ってブランコに腰掛けた。明佳のように立ち漕ぎをする勇気はなく、かと言って普通に漕ぐこともせず、ただ両手でチェーンを握って前後に揺れる。
凛に構うことなく、明佳は捲し立てるように話し出した。
「わたし、中学入学と一緒にこっちに引っ越してきたんだ。だからこの公園も来たことなかったの。前住んでたとこはねぇ、公園が家の近くになかったから、学校のブランコで遊んでたんだけど、人が多いと何回かで代わんないといけないじゃん? いーち、にーいって数えられるやつ。めーかはそれが嫌で、こうやって一人で思う存分立ち漕ぎするの夢だったんだよね」
モノクロの曇天を背景に制服のスカートがはためく。
「あっ、いけない。まためーかって言っちゃった……。えっと、嫌わないでね? みんなが自分のこと名前で呼ぶのは恥ずかしいって言うからわたしって呼ぶようにしてるんだけど、ちっちゃい頃からの癖だから直んなくて。やっぱりだめかなぁ。かわいこぶってるように見える? 男の子的には、その辺どう思う?」
「別に、どうでも……」
答えかけて、凛は明佳のペースに乗せられかけていることに気づいた。話題を断ち切って「あのさ、明佳ちゃん」と姿勢を正す。そろそろ凛の質問にも答えてもらわなければならない。
「さっき、線路に飛び込むって言ってたけど」
明佳はこちらを向かず、曇り空をひたすらに見つめている。
「それって、電車が来ていないときとかに、ってこと……?」
「もー、違う違う。そんなの意味ないって。電車が来てないときに線路に入るのだって罪になるって知ってる? 鉄道営業法違反、なんだよぉ」
明佳がいつもと変わらないのほほんとした声音で似つかわしくない熟語を口にしたことにびっくりして、凛は揺れるのを止めた。
「学校のない土曜か日曜。できれば平日がいいかな。の、昼間。高校生とか大人とかがいちばん少ない時間帯で、普通列車しか止まらないしょぼい駅の、なるべく人がいないホーム。急行がホームに入ってきて通り抜けようとした瞬間に、線路に飛び込むんだ」
背筋に冷たいものが走った。
安穏とした停滞の夢に突然ドライアイスをごろごろと放り込まれたようで、完全に思考が固まる。深く考えることなく凛は「そんなことしたら、死んじゃうよね?」と震える声で尋ねていた。ついさっきまで死にたい死にたいと喚いていた人の発言か、と我ながら情けない。
「そんなことしたら死んじゃうよ?」
明佳は楽しげに復唱する。
「でも、そしたらもうめーかを罪に問うことはできないよ。まー、家族とか駅員さんとか駅にいる人とかにいっぱい怒られて恨まれて詰られて死体に石を投げられるかもしれないけど、めーかには聞こえないしわからないから関係ないよね」
カナリヤが囀るように紡がれる、傲慢極まりない言葉の数々。言葉を発しているのは紛れもなく、凛の目の前で幼稚園児みたいにはしゃぎながら立ち漕ぎをしているクラスメイトの野河明佳だ。凛にはそれがどうしても信じられなくて、明佳のことを凝視してしまう。
ブランコが真横を通り過ぎる一瞬、明佳は初めて凛を見てにこりと笑った。
「あれぇ、りんくんは死にたいんじゃなかったの? さっきのは嘘だったの?」
「ちがっ……」
悪魔のような囁きに熱い何かがこみ上げて「違う! 僕は本気だ!」と凛は声を振り絞った。
「僕は本気だけど、明佳ちゃんは」
その先は言わなかったが、明佳には伝わったようだ。少しずつ漕ぐ勢いを緩めて高度を下げ、凛の隣で静止した明佳はむうっと頬を膨らませていた。死ぬという言葉の意味もわかってなさそうな、凛とは真逆のベビーフェイス。
明佳は不服そうに言う。
「最初に喋ったときから思ってたけど、りんくんてわたしのことバカにしてるでしょう」
「そ、そんなことないよ」
どきりとして凛は否定したが、嘘をついているのは多分バレバレだった。気まずくなって視線を落とすと、マシュマロのごとく白い明佳の脚が目に入って更に居心地が悪くなる。
「小学生みたいとか考えてるよね。わたしにはわかるんだぁ」
ブランコから降りた明佳は凛の正面までやって来ると、くるりと背を向けた。何をするつもりだろうと困惑する暇もなく、太腿に柔らかいものが触れる感触と、圧迫感が襲いかかった。
「なっ……!」
「へへっ、りんくんやっぱ背高いね。脚も長い」
前置きもなく膝の上に座った明佳は、凛の胸にぴったりと背中をくっつけてきたのだ。それだけでも凛にとっては前代未聞だと言うのに、明佳は凛の顎の下に頭を挟み込んで擦り寄せてくる。おまけにチェーンを握る右手の上に手を添えられて、凛はパニックになった。さっきのがドライアイスなら、今度は沸騰したばかりの熱湯を頭からぶちまけられたようであった。
「め、めめめ明佳ちゃん、えっと、何やって」
「んー、でもちょっと座りにくいなぁ」
あっさりと退かれてほっとしたのも束の間、明佳は向かい合うようにして凛の太腿に跨り、背中に腕を回してきた。「ひゃあ!?」と凛がみっともなく悲鳴をあげると明佳はますますにっこりと笑って上半身を密着させた。ぎゅうっと体重をかけられて、三十九度の熱を出して寝込んだときよりも全身が熱くなる。汗とミントの匂いが凛の中に入ってぐるぐると体内を駆け巡り、思考力をぐずぐずに溶かしていく。溶かし尽くされて溺れる寸前で凛は息継ぎをした。
「ちょ、ちょっと待って明佳ちゃん! こういうことはしない方が、」
「なんで? 小学生みたいならいいじゃん」
「そういう問題じゃなっ、あっ、ひっつかないでえ!」
凛が引き離そうとすればするほど、明佳は身体を強く押し付けてくる。這わせられた手が背中の中心に触れたとき、怖気とは違う感覚にぞわりとした。わけもわからずもう一度悲鳴をあげた凛は思わずチェーンから手を放してしまい、重力に従って仰向けに倒れた。
わあ! と大声を出したのはどちらだったか。ブランコから盛大に落っこちて地面に両手をついた凛は一時気を失いかけていたが、やがて意識がはっきりすると、自分が今どんな状況に置かれているのかを知ることとなった。
明佳は凛の上に覆いかぶさっており、彼女の右手は凛の頭の横にある。つまり、凛は押し倒されていた。それも、自分より三十センチ以上背の低い小柄な女の子に。
胸元の赤いリボンが凛の鼻先で揺れている。少しだけ身を起こした明佳はなぜか誇らしげに微笑んだ。女の子の顔をここまで至近距離から眺めるのはもちろん初めてのことだ。凛の心臓は激しく拍動していた。たとえ明佳が今すぐ凛から離れたとしても、もう一生止まりそうにないと感じるほどに。
明佳の手が凛の茹った頬を撫でる。冷たい、ということぐらいしか認識できなかった。
あははっ、と可憐な笑い声はふたりだけの空間に残酷に響いた。
「顔真っ赤だねぇ」
そうだろうなあ、と思う。意思と身体が切り離されて、自分を頭上から見下ろしているような心地になりながら、凛は息遣いが肌に感じられるほど顔を近づけてくる明佳の瞳をぼうっと見つめた。
明佳は唐突に訊いた。
「りんくん、誕生日いつ?」
凛は自動的に口を動かしていた。「八月三十一日」
「おおー、近い。わたしは八月二十九日」
だけど、わたしの方がふつか早いね、と明佳は笑う。幼い顔立ちに不釣り合いな妖しい笑み。嘲笑のようにも見える。
「めーかの方がおねえさんなんだよ。りんくん」
たった二日の優位を振り翳して、明佳は凛の耳元で囁いた。くすぐったさにぞくりとする。
吸い込まれそうな黒い瞳を直視できずに目を逸らすと、ゲームをしていた小学生の姿がずっと向こう側に見えた。彼らもベンチから立ち上がり、凛たちを見て何かを話している――ように見える。
凛のことを、罰している。
体中を暴れまわっていた熱があちらこちらで暴発した。ああ、いつものアレだ。
「……お願いだからっ、もう離れて!」
今までの恥や緊張などではない、命の危機を伴った熱に凛は貫かれた。明佳はわかっていないのか、怪訝そうに首を傾げるだけで動こうとはしない。
「どうして? めーかが怖い?」
「あ、あの人たちに見られてるからっ! こんなところで目立ちたくないから、お願い、離れてっ!」
見られること、存在を否定されるのではないかと予感すること。それこそが凛の恐怖の源であり、過呼吸に陥るスイッチだった。自分は生まれてはならなかったのだという強迫観念が、大勢に注目された途端、いつ、どこにいても発生するのだ。
気づかない間に涙が溢れていて、顔をぐしゃぐしゃに濡らしていた。明佳が目の前にいるとわかっていても止められない。ひくひくとしゃくり上げて荒い呼吸を幾度か繰り返し、震える手で明佳の肩を掴み、強引に押しのけようとしたそのときだった。
「りんくんは、見られることが怖いんだね?」
明佳の手が、再び凛の頬に触れた。
「それなら簡単だよ。見なきゃいいんだよ」
頬から両目へと明佳の手が滑っていき、視界が真っ暗になる。
明佳の肩を掴んでいた手が、脱力して滑り落ちた。そんな簡単に話ではないと思っていたのに、明佳に作られた暗闇に浸っているうちに動悸は次第に収まっていき、熱は徐々に引いていき、静寂が戻ってくる。数十秒が経った頃には平常に近いペースを取り戻していた。
目から鱗が落ちた、と言うのはこの場合不適切かもしれない。「見ない」というのがこんなにも精神を安定させるとは思いもよらなかった。自分は非難を受け止めなければならない、向き合わなければならないのだと、ずっとずっと思い込んでいたのだ。
指の隙間から陽光が差し込んできた。
「どう、落ち着いた?」
凛は無言で頷いた。
「もう怖くないでしょ?」
ほんの少し間を空けて、凛はがくがくと頷く。「あ、ありがとう、明佳ちゃん」
「どういたしまして。それじゃあ、飛び込み部、入る?」
頷きかけて――凛は慌てて叫んだ。
「ま、待って!」
「ちぇ、今の流れならいけると思ったのになぁ」
残念そうな声が手の向こうから聞こえてくる。明佳は凛の前髪をかき上げるように目を塞いでいた手をずらした。灰を混ぜ込んだような曇り空と、唇を尖らせた明佳の顔が凛の目に映る。明佳の目にはきっと、肩で息をする泣き腫らした顔の凛が映っていることだろう。
「なんで、僕を誘うの?」
凛の当然の疑問に明佳は平然と答える。「りんくんは死にたいんでしょう」
「それだけで十分だよぉ。飛び込み部は、死にたい人のための部活だから」
非公認だけど、と付け加えて明佳は安心させるように凛の額を撫でた。
凛は迷っていた。明佳が見た目通りの無邪気で可愛らしいだけの女の子ではないことはさすがの凛にももうわかっている。彼女がどんな意図で凛を飛び込み部に誘うのか、マシュマロのような甘さとミントの香りを放つ風貌で何を包んでいるのか、凛にはまるで想像もつかない。もしかすると何もかもが嘘で、凛はまんまと騙されようとしているのかもしれない。
けれど、凛は首を横には振らなかった。
凛の視線を、明佳は了承と受け取ったらしい。
「飛び込み部へようこそ。わたしはりんくんの味方だよ」
明佳は嫣然と笑って、愛おしそうに凛の手を取った。