29話 人形の両手
鏡の割れる音がする。
『八月二十九日日曜日の、全国のお天気をお伝えします。今日は、全国各地で一日を通して爽やかな晴天が続くでしょう』
間に挟んだテーブルの長さよりも、ずっとずっと遠くにれいやくんがいるような気がした。
一緒に好きなテレビを見ている時や、鬼ごっこをしている時よりも、ずっとずっとれいやくんは嬉しそうだった。ぼくはこんなに悲しくておかしくて、食べたばかりのはちみつパンを吐きそうなぐらい胸が苦しいのに。れいやくんは何が楽しいんだろう。どうして笑っているんだろう。
怖くて、訊けない。なんだかとても恐ろしい答えが返ってくるような気がして。それに、れいやくんに「どうして笑っているの?」なんて訊いたこと、今まで一回もなかった。訊かなくたってわかるから。れいやくんが笑っている時は、ぼくも嬉しい時だから。
引っ掻き続けた右手が、うっすら赤くなってひりひりしてきた。むずむずは治らない。
「ぼくが、なんとかしてあげる」
れいやくんはさっきと同じことを言う。
「手を引っ掻くだけじゃ治らないよ。風邪だって、お薬を飲まないと治らないでしょ」
「れいやくんは、どうやって治すか知ってるの?」
ぼくが右手を引っ掻くのをやめると、れいやくんは自信満々に頷いて、優しくぼくの手を取った。れいやくんの手は焼きたてのホットケーキみたいに温かい。そこだけはいつもと同じで、ぼくは少しだけ安心する。
どこに行く時も固く繋いでいる、ぼくとれいやくんの手。絶対に離したくない同じ大きさの手。
れいやくんはぼくの手のひらに話しかけている。
「あのね、うららくんは一回悪いことをしたから、もっと悪いことをしたいって、もっとさせろって、手がワガママ言ってるんだよ。だから、お仕置きしないといけないんだ」
「おしおき……?」
「悪いことしたら、先生に怒られるよね。それと一緒」
「……うん」
こくり、とぼくは頷く。ほんとうはよくわかっていないんだけど、大人みたいな言い方をするれいやくんの言葉には、頷かないといけないような不思議な力があった。
ぼくは左手を握りしめて、「おしおきって、どうやるの」と訊いた。お仕置きって言ったら、授業中にうるさくした人が宿題を増やされたり、廊下に立たされたりするやつだ。あとは、ママやパパに夜ごはんを買ってきてもらえなかったり、ベランダに放り出されたり。ぼくの手にお仕置きをするやり方が、ぼくにはぜんぜん思いつかない。
「ぼくにはわかるよ。うららくん、こっちにおいで」
とろけそうに笑うれいやくんに手を引かれて、ぼくは椅子から飛び降りた。れいやくんが笑っている理由が、ぼくにはやっぱりわからない。今からぼくの手にお仕置きをするはずだ。なのにどうして、れいやくんはそんなにわくわくしているんだろう?
トースターが置いてある棚の、一番上にある文房具入れから、れいやくんは黄色くてごつごつしたものを取り出した。あれ、何て言うんだっけ。黒いところを押すと、薄い鏡みたいな銀色の板が出てくるやつ。ママが段ボールを開く時に使っていた。学校の先生は、一年生には危ないからまだ使っちゃダメって……。
ぎちぎちぎちぎち。
聞いたことのない音に、背中がぞわっとした。耳の奥にそのまま入ってくる音が気持ち悪い。
黄色のごつごつから飛び出してきた薄い鏡の先が、ちょっと削れている。れいやくんは黄色い方からキャップを取り外すと、鏡の先にはめて、ぐぐぐ、と力を入れた。
鏡がぱきん! と割れる。
「それ、なんだっけ……?」
「カッターって言うんだよ」
ぼくが名前も使い方も知らないのに、なんでれいやくんは知っているの?
れいやくんはまた、カッターをぎちぎちと鳴らした。新しく出てきた銀色の鏡はぴかぴか光っていて、目を細めるれいやくんと、ぼくの顔を映している。鏡の尖っている方がそれはもう鋭くて、パンもスプーンもお皿もテレビも、ぼくとれいやくんの間にある糸も、かんたんに傷つけてしまいそうで。
「なに、するの」
「まだわからない?」
れいやくんはにっこり笑った。
「うららくんの手を、『お仕置き』するんだよ」
――銀色の鏡が、ぼくの右の手のひらの上をシュッと通りぬけていった。
最初は何もなかった。けれど、鏡の通りぬけた跡から血の玉がぷつぷつと生まれて、手のひらに滲むのを見た瞬間、遅れてやってきた痛みが頭を叩いた。
「っあ、え、えっ……?」
思わず手を引っ込めようとすると、れいやくんは強い力でぼくの手首を押さえた。がっちりと押さえられた手はどうやっても動かせない。
銀色の鏡の冷たさが、手のひらを撫でていく。初めはゆっくり、だんだんすばやく。
「いだっ、あっ、たっ……やめっ、あっ」
手を段ボールと同じようにザクザク刻まれる痛みを、ぼくは知らない。
「やあっ、ああ、あああっ、あううぅ」
鏡が通りぬけるたびに痛みはひどくなった。ぼくの手のひらがトースターに手を突っ込んだみたいに熱くて、痛くて、痛くて痛くて痛くて、わけがわからなくて、目の前がチカチカする。切られているのは手なのに、頭を横から殴られている感じがした。
「いだいいいぃっっ!」
耐えられずに叫んだ瞬間、鏡が止まる。
突然手首から手を放され、ぼくはしりもちをついた。両目から涙がぶわっと溢れ出して、立っているれいやくんのこともよく見えない。手のひらから垂れた血が床にぽたぽた落ちていき、小さな染みをいくつも作っていく。その間も右手はずきんずきんと痛むのをやめてくれなかった。
「たい、いたい、いたいよ、いたいよぅ……」
「でも、むずむずしなくなったでしょ?」
れいやくんがぼくの前に片方の膝をついたのがわかる。真っ赤になった手のひらを人差し指でちょんと触られると、ぼくの頭の中は真っ白になった。
「いたいいたいいたいぃっっ!」
「もう大丈夫だよ。ちゃあんとお仕置き、したからね」
涙が零れた時、ようやくれいやくんの顔が見えた。
白い歯を見せて笑っている。にこにこって。
れいやくんの笑った顔には、ぼくをいじめたい気持ちなんて一つもなくて、それがなおさら恐ろしかった。悪の帝王や鬼がするような怖い顔をしていたら、全部嘘だったことにして忘れられたのに、れいやくんはいつも通りだったのだ。
「れいや、くん、なんで……」
痛みがてっぺんを突き抜けたのか、何も感じなくなった。立ち上がろうとしても、足ががくがく震えて全く力が入らない。ぼくはれいやくんに向かって左手を伸ばした。初めてのことが起こりすぎて、ぼくの中の全部がもうぐちゃぐちゃだった。なんて言えばいいのかな。なんでこんなにひどいことをするの。あんまりだよ。確かにむずむずしなくなったけど、それよりずっと痛くてたまらないよ。
でも、ぼくの口から出てきたのは、全く違う言葉だった。
「れいやくん、手を、握って」
怖いから、手を握ってほしい。どんな時もれいやくんが隣にいた。れいやくんより大切な人なんていない。れいやくんだけでいい。れいやくんじゃない人に手を伸ばすなんて、考えられない。
その時頭のどこかで、入道雲と青空が広がって。大きな麦わら帽子を被った長い髪の女の子が振り返った。
「あっ……」
「うららくんさあ」
差し出されたぼくの左手を取ったれいやくんが、笑顔を崩さないまま言う。
「まよちゃんを突き落としたのは、両手だったよね?」
ぱきん、ぱきん。鏡の割れる音が聞こえる。
*
からだ中が、喜びで震えていた。
ああ、楽しい! 嬉しい! ぼくはずっと、こうしたかった。生まれた時から、うららくんのことが大好きだと気づいた時から、ずっとこうする日を待っていたのだ。
血だらけになった両手を床に放り出して、うららくんは壁に寄りかかっている。血よりも涙の方がたくさん流れたんじゃないかと思うほど泣き叫んでいたのに、頬の跡はすっかり干からびていた。左手に傷を付け終える頃には声も出せなくなったようで、今では時々うめき声を出すばかりだ。
まだだ。まだ終わりじゃない。
うららくんを壊しつくすのが今日ならこのままでいいけれど、それは先の話。ぼくはもっとたくさん、うららくんのことを壊したい。これだけじゃ全然足りない。
今からすることだって大切なことだ。
「うららくん、ごめんね」
ぼくはうららくんの濁った目を見つめて、辛そうに謝った。
「お仕置きする方法がね、これしか思いつかなかったの。うららくんのためなんだよ。ほんとうだよ」
うららくんはぼくを見つめ返し、ぱちぱちと瞬きをした。
「ぼくもね、悪い子なんだ」
言いながら、ぼくは自分の左手にカッターを走らせる。
「いたっ! ……つう、うう、はあっ……」
自分の手のひらを何度も切りつけるのは、気が狂いそうなほど痛かったけど、ぼくは我慢した。同じように真っ赤になった左手を、うららくんに見せつける。うららくんは息をのんだ。
「同じ、でしょ」
「……れいやくん」
「ねえ、うららくん。ぼくたち双子だよ。うららくんが悪いことをするのは、ぼくがやったのと同じ。苦しいのも、痛いのも、半分こ。だからね」
ぼくはもう一回カッターを滑らせて、痛みをこらえる顔をする。
うららくんはびっくりしたように目を大きく見開き、顔をくしゃくしゃに歪めた。
ぼくはこれだけ自分勝手で、自分の願いを叶えることしか考えていないのに、うららくんはぼくのことを心配している。自分が傷つくのと同じくらい、ぼくが痛いことが苦しいのだろう。ぼくは、うららくんの片割れだから。二人で一人だから。
うららくんにはもう、「二人で一人」を手放して生きていくことができないのだ。ぼくは、そのことを誰よりもよくわかっていた。
ぼくの大好きな優しいお兄ちゃんは、ばかだなあ、って思う。
「うららくんの分も、ぼくがお仕置きを受ける。ぼくたちは双子だから、ね」
「……ううううう」
小さな獣みたいに唸って、うららくんは真っ暗な目でぽろぽろ泣いた。涙は流し切ったはずなのに。
「ごめんなさい、れいやくん。ぼくのせいで、ごめんなさい、ごめんなさい……」
とっくにニュースの終わったテレビから、知らないタイトルのドラマが流れていた。