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閉塞学級  作者: 成春リラ
1章 閃く悪意、僕の人形
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2話 閃く悪意、僕の人形②

 今日は部活が長引いてしまった。音楽室を出たときには十八時半を回っており、智春は急いで靴を履き替えた。学校から智春の通う塾まで自転車で三十分。全力で漕げば二十分。授業が始まるのは十九時なので、急げばなんとか間に合う。


「あれ、智春ちゃん今から塾?」

「そうです! お疲れさまでした!」


 先輩に軽く会釈をして、智春は自転車小屋に駆け込んだ。上手く刺さらないことにもどかしさを覚えながら鍵を差し込み、勢いよく地面を蹴る。数メートル進んで、ライトを点けていなかったことに気づいた。一旦停止して、スイッチを入れてから、また走り出す。


 夕方の面影を残した空は、山の際の赤と薄墨色が混ざり合っている。汗が滲むカッターシャツの隙間を温い風が吹き抜けていった。早く帰って着替えたいけども、そうもいかない。


 正直なところ、智春は塾に通うのがあまり好きではなかった。部活が終わった後はサックスパートの子と話しながら帰りたいし、こんな風に慌ただしく塾へ向かうのも本当は嫌だ。そもそも智春は塾などに行かなくても十分自分の成績を保てるつもりなのだが、そこを許してくれないのが智春の母である。練習が多く忙しい吹奏楽部に入部するのを許可してもらえたのも、塾と両立するという条件の下でだった。不満はあるが、最初にそう約束してしまったので仕方がない。


 自転車をひたすら漕ぎ続けること二十分。ようやく塾の近くにあるコンビニが見えてくる。この調子なら大丈夫だろうと、智春はいっそう強くペダルを踏み込んだ。目的地は少し先にある集団塾で、コンビニの横で止まるつもりはなかったから、智春は最大のスピードで自転車を漕いでいた。


 コンビニの窓に映った人影を一瞬横目で見て急ブレーキをかけたのは、ほとんど本能みたいなものだろう。アスファルトとタイヤが甲高い音を立てて擦れて、籠の中に突っ込んでいた鞄が危うく落ちかけて、それでも智春はその場で止まることができた。周りの車にぶつからなかったのは奇跡だった。


 ブレーキの勢いで乱れた前髪をはらって、智春はつぶやく。


「網瀬くん……?」


 あの、智春が何回言っても作文を出してくれない、網瀬心良である。生ける屍かと言うほど最小限の行動しかしない心良が、なんとコンビニで寄り道をしているのだ。


 智春はサドルに跨ったままの自転車をゆるゆると漕いで、もう少しコンビニに近づいてみた。心良は智春どころか真後ろを通ろうとしている人にも気づかない。どうやら文房具コーナーの前にいるようだった。心良が手に持っているのは、おそらく、消しゴム? スクールバッグを床に置き、何かを考え込んでいる。


 どうしよう。


 本当に文房具を見ているだけなら、厳密には校則違反ではないと思う。買い食いではないのだから。だけど、日頃の行い次第では寄り道をしただけで怒られることだってある。


 どうしよう。どうしよう。注意すべきか、見過ごして去るべきか。注意は必要なのか、したところで意味はあるのか。早く決めないと塾に遅刻してしまう。頭の中で時計の秒針がカチコチと鳴り響く。


 それよりも智春の心を一番占めていたのは、どうして心良がこんなところにいるのか、という疑問、もとい好奇心だった。心良は数少ない帰宅部の生徒だ。家がどこにあるのかは知らないけれど、自転車通学者のリストには入っていなかった。要するに、普通ならとっくに家に帰り着いているはずだ。


 智春が汗ばむ手でハンドルを握り直したとき、ずっと手元の消しゴムを見ていた心良の視線が、わずかに向こう側へと逸れた。


 え、何。その意味を考える暇はなかった。


 心良はスクールバッグを拾い上げると、何事もなかったかのようにコンビニから出てきた。


 ――――今、


 消しゴムを制服のポケットの中に入れた、ように見えた。


 どっ、と心拍数が一気に上がるのがわかった。智春は今更になって目を凝らした。だってこんなの、散々騒ぎ立ててあたしの勘違いでしたじゃ済まされない。自分が見たシーンを頭の中で、高速で再生する。考え直してみても、やはり心良は消しゴムを棚に戻さないままスラックスのポケットに手を突っ込んでいた。心良への好奇心は懐疑心へと変わり、智春の中でもくもくと膨らんでいく。


 文房具。一年C組の生徒。月曜から続く盗難事件。人の話を聞かない、怠惰なクラスメイト。


 万引き。


 安易に結びつけることは、本当に強引だろうか?


 コンビニの店員も、客も、不自然なほど心良を引き留めなかった。いいや、最初から誰も、心良の存在に気づいていないようですらあった。後ろを通ろうとした人でさえ、心良のことを障害物みたいに避けていた。


 智春だけだった。智春だけが、心良を見ていた。


 入り口を出た心良は、鞄を片手にぶら下げてこちら側までふらふら歩いてくる。硬直した体と重たい自転車が邪魔をして、どこかに隠れる余裕はなかった。


 心良の不安定に揺れる双眸が、智春の目を捉えた。


「……え、えっと、こんにちは」


 混乱して他に言葉が思いつかず、智春はへらりと笑った。口角が変にヒクついている。


 心良は立ち止まらなかった。動けない智春の横を、平然と通り過ぎようとする。


「ま、待ってよ」


 足音は静かに遠ざかっていく。またスルーだ。先週からずっと声をかけているのだ、智春がクラスメイトであることは知っているはずなのに、これほど無視され続けるのはもう我慢ならない。


 降って湧いた憤りに突き動かされて、ぼうっとしていた脳に血が回り始めた。


「網瀬くん、待ってってば!」


 固まっていた体が動いた。突き飛ばした自転車が倒れ、耳障りで金属質な音を立てるのも構わずに、智春は目一杯腕を伸ばして心良の手首を掴んだ。掴んだはいいものの、結局「ひい」と声を上げて手を離してしまう。


 初めて触れた心良の手首は蝋の白さで、死体と錯覚するほど冷たくて、少し力を入れたらぽっきり折れてしまいそうなほど細かったのだ。


 心良は細い糸に引っ張られるようにして振り返った。相変わらずの無表情には汗一つなく、狼狽の色は全く見えない。本当は智春の見間違いだったのではないだろうか。ここまできて、気の弱い自分が顔を覗かせる。そこまで強く掴んでいるわけではないのに、心良は智春の手を振りほどこうとしなかった。


 かぶりを振って、智春は恐る恐る尋ねた。


「さっき、網瀬くん、万引き……してたように、見えたんだけど。ごめん、あたしの見間違いだったのなら、そう、言ってほしいの」


 心良は答えない。無言の肯定と、考えていいのだろうか。


「……網瀬くん、あたしの声、聞こえてる?」


 沈黙が流れた。


 俯くでもなく、顔を背けるでもなく、心良の顔は真後ろを向いた状態で固定されている。にもかかわらず、額を人差し指で軽く押したら、簡単に首ごと外れそうな危うさがある。かえって不自然だった。


 この徒労感は何だろう。どんなに話しかけ続けても絶対に答えてはくれないだろうという諦念が、智春の中で渦を巻いていた。


 智春はじわりじわりと後じさった。汗をかいたキャミソールが背中に張り付く。九月のうだるような蒸し暑さが、チカチカと真っ赤に光る危険信号を伴う寒気へと変わっていった。


 網瀬心良とは、何だ?


 無口で無表情でマイペース。内向的でおとなしい子。二学期に入るまで、心良の印象はそれぐらいだった。きっとこの子だって、家族や親しい友人の前では素直に笑ったり怒ったりするんだ。クラスで物静かなのは極端に人見知りだからだろうと、ずっとそう思い込んでいた。


 だが、関われば関わるほど、心良はおとなしいのではなく、何もないのだと実感する。


 空を掴むようで、存在そのものが曖昧模糊としていて、問いかけても答えはなくて、そこにいるのにそこにいなくて、心良だけが智春のいる現実世界から遊離しているみたいで。


 感情という感情がすべて漂白された心良の顔を見つめているうちに、智春は目の前の映像がぶれて二重になったような、強烈な既視感にとらわれていた。同級生とコンビニの駐車場に黒いブロックノイズがちりちりと走って、もうずっと目にしていない懐かしい景色と折り重なる。


「児童館……」


 自分の記憶に向かって確かめるようにつぶやく。児童館。紅黄南児童館。


 児童館の遊戯室。使い古されたおもちゃが散らばったカラフルなタイルカーペット。


 その片隅にある、豪奢なドレスを着た、女の子の人形。


「ちはるが持ってる人形、なんか怖い」


 思い出の中の誰かが指を差して、何でもないことのように言う。それ、全然かわいくない。目は水晶みたいにきらきらしてるけど、笑ってないし怖いよ。服はぼろぼろだし肌の色はくすんでるし、そんなのもう誰も使ってないって。


 そうだね、と智春も頷いた。自分のしていたことが一気に馬鹿らしくなって、愛情が瞬く間に冷めていくのを感じた。あの子の言う通りだと思った。何でこんなものに名前を与えて、家から持ってきたリボンを付けてあげて、我が子のように可愛がっていたのだろう。


 だから智春は捨てたのだ。ただ美しいだけの、無表情で不気味な空っぽの人形を。


 ああ、あの人形だ。


 特に、目。遠くからも確認できるくらい大きくて、底まで見えるほど透明で、時間をかけて研磨されたように形が整っている。一度見た者を捉えて放さないのに、生命の息吹をまったく感じない、人工的な魅力を宿したふたつの瞳。


 心良の目は、児童館のカーペットに捨てられている、命を持たない人形の目だった。


 智春は自分が思っていたよりも、クラスメイトのことを全然知らない。





 智春の遅刻を叱る講師の声を聞いて、常習犯の生徒には何も言わないくせにとむくれた覚えはあるから、塾には一応行ったのだろう。帰宅後は作り置きの夕飯を食べて、お風呂に入って――それ以降の記憶がおぼろげだ。翌朝、普段より早めに教室に入ってようやく、結局昨日は何も聞けなかったということを思い出した。


 心良は本当に万引きをしていたのか。それと、盗難事件の犯人なのか。


 沈痛な面持ちで席についた智春は、一人で悶々としていた。自分が目撃したことについて、誰に相談するのが最適なのか、どんなに考えてもわからないのだ。日野先生。両親。友達。部活の先輩。候補はいくつも思いついたが、ついぞ絞り込むことはできなかった。


 見間違いでしょ。網瀬心良がそんなことできるわけない。誰かにそう断定してほしかった。もしくは、智春はどうすべきなのか、誰かに示してほしかった。少し後に登校してきた遼や明佳と他愛ない話をしながら、智春はずっと上の空だった。


 予定されていた持ち物検査は朝読書の時間に行われた。落ち着いたクラスとは言っても、抜き打ちの検査を喜ぶ人はいない。教室のあちこちからブーイングが聞こえてくる。智春の右隣の席でも、ガタンと椅子を大仰に引く音がした。


「まじかよ、抜き打ちとか卑怯っすよ。なんで突然そんなことするんですか」


 教室中によく響く一際大きな声で不満を垂れたのは、数少ないお調子者の奏斗かなとだ。奏斗に追従して、そうだそうだと主に男子の間で声が上がった。日野先生はぎこちなく笑っている。智春にもわかるぐらい、演技が下手だった。


「持ち物検査は思いもよらないタイミングに抜き打ちでやらないと意味がないでしょう」

「んなこと言って……なんか、物が盗まれてるやつ! あれが理由ですよね? オレたち全員、容疑者扱いかよ」


 おそらくクラスの全員が察していることを、奏斗は椅子を揺らしてぺらぺらと喋った挙句、智春のことを意味ありげに横目で見た。


「どっかの委員長様がやろうとか言ったんじゃないすかあ?」


 智春は顔を赤くした。唇を噛んで、膝の上で拳を作る。何でもいいから言ってくれればいいのに、日野先生は黙って微笑んでいるだけで、それでは肯定しているのと同じだ。


「なに、奏斗は見られてまずい物持ってきてるの?」


 もう一列向こう側から、くすくす笑いを含んだ優しい声がした。玲矢だった。


「ああ? 喧嘩を売ってらっしゃるのかな玲矢くん。オレはいつでも清廉潔白にして青天白日の身ですけど?」

「よく言うよ。この間休み時間に動画見てたくせに」

「あっ、クソッ、てめえ玲矢、オレを裏切ったな」

「せんせー、俺も見てました。奏斗は常習犯でえす」


 奏斗を中心に生徒がざわつき始めたことで、智春に集まりかけていた視線が分散した。大したことではないけれど、ホッと胸を撫で下ろす。玲矢に感謝だ。


 日野先生は手を叩いた。


「はいはい、皆さん静かに。私は廊下側、前田先生は窓側の生徒から見ていきます。鞄を机の上に置いてください。中身を確認したら、机の中も見ますからね」


 ざわつきが収まらない一年C組の教室で、持ち物検査が始まった。二人の先生が生徒の鞄の中、机の中を一つずつ確認していく。携帯電話や財布、漫画などがちらほら見つかっているようだったが、肝心の盗難品は出てこない。


 どうか、何もかも思い違いであってほしい。日野先生が心良の席に近づくほどに、智春は息が詰まりそうになった。


 手持無沙汰になった智春は、自分の机の中に入れてある筆箱を開いていた。万が一家に忘れてきても困らないように、予備として学校に置いているものだ。使っていないシャーペン、少し小さくなった消しゴム、目盛りが読みづらくなった定規などが入っている。


 あれ、と智春は目を見張った。


 赤のボールペンがない。雑貨屋のセールで買った安いものだけど。他の文房具の陰に隠れているのかと思って中身をばらばらと机の上に出してみたが、やはり見つからない。


 最後にこの筆箱を開いたのはいつだっけ。智春が考えを巡らせ始めた、そのときだった。


 椅子が床と擦れる音が聞こえて、智春はびくりとした。


「お前のそれ、ぼくのシャーペンだろっ!」


 男子生徒の剣呑な声を皮切りに、教室が湧き立つように騒がしくなる。


「あ、その消しゴム!」

「俺のハサミ」

「それ、ウチの定規だよね」


 生徒が次々と立ち、一人の机の周りに集った。後ろの席の明佳も背伸びをして、呑気そうに「あ、あたしのペンもある」と言う。ついには関係のない生徒まで野次を飛ばし始めた。


 智春もたまらず立ち上がって、クラスメイトの波をかき分けた。


 輪の中心にいたのは、心良だった。机の上にはたくさんの文房具が散らばっている。シャーペン、消しゴム、ハサミ、定規、ノート――どれも、話に聞いていたものと特徴が一致する。


 目眩がした。


「おい、何とか言えよ」


 被害者の一人が心良に掴みかかった。ひゅう! と奏斗が楽しそうに囃したてている。


 疑いの目を向けられているどころか完全に犯人と断定されているというのに、心良は弁解もせず、されるがままになっている。胸倉を掴んでガクガクと揺さぶられるのに合わせて、心良の頭もぐらぐら揺れた。智春は、昔旅行の土産にもらった首振り人形を思い出した。


 作り物の心良の瞳が、鏡になって相手の顔を映している。


「うっ……」


 気持ちわりい、と小さな声。男子生徒は心良から手を離すと、机から半歩退いた。ざわめきが段々と収まって、しんと静かになる。


 気持ち悪い。一人の本音が共感を呼んで、集団を同心円状に伝っていく。この期に及んで無機的な心良に、周りの生徒は軽い拒絶反応を示していた。心良の腕はだらりと垂れ下がり、長い前髪は顔を隠し、半開きの口からは微かな吐息だけが漏れ出ている。


 周りが静かになって、心良は自分が皆から見られていることにやっと気づいたらしい。ずっとどこを見ているかわからなかった心良の目が、焦点を結ぶのを智春は見た。机の上に散乱している文房具を、心良は真っ白な顔で見下ろしていた。


「うあ」


 心良は喘ぐように言葉にならない何かを言った。彼が自分から話そうとしているのを見たのは初めてだ。それは想像以上に異様な光景だった。


 誰かが、スイッチを入れたのだ。


「…………ごめん、なさい」


 誠意とか、反省とか、それ以前に、心良の声には温度がない。


 録音された音声を繰り返すように、人形はもう一度ごめんなさい、と言った。

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