28話 人形の左手④
心良と同じ血が、流れている。白いガーゼで塞がれた左手の傷口から、全身の隅々まで。それは皮膚を切り裂いて確認するまでもない、当たり前のこと。
右手の人差し指でガーゼをぐりぐりと押したら、傷口の疼きが薄い手のひらに広がった。痛い、と至極真っ当な反応が自分の内側から起こる。
子どもだって大人だって、誰でも知っていることだ。刃物を手に突き刺すと、痛い。手じゃなくたって、足でも首でも腹でも背中でも額でも瞳でも、どこだって痛い。時には心も痛くなるらしい。現にこの傷の主な原因である女子生徒は、とっくに二限目の授業が終わった今でも、外傷を負った本人よりずっと痛そうな顔で謝り倒してくる。心から気にしていないと言っているのに、痛そうな顔のままの彼女が少し面倒になってきた。
この左手が痛いのは理解る。けれど、あの左手が痛いのは共感らない。
共感らない自分は、きっと最初から何もかも間違っている。網瀬玲矢の理解っていることだ。
給食終了直後、生徒の半数が教室に残っている時間。今日こそは本気で勉強しようだとか、学校の近くにできたカフェにお母さんと行ったとかいう平和な喧騒の中、スプーン一杯ほどの甘い感慨に浸りながら左手を黙って見ていると、「どうしたんですか、その手」と頭上に影が降ってきた。
「血が染みてますね。彫刻刀で切ったとか、ですか」
生徒に対しても敬語を崩さない、腫れ物に触れるような距離と遠慮を感じるこの声の持ち主は、日野先生だ。暗い茶色の後れ毛を耳にかけて、いかにも心配そうに玲矢を見下ろしている。玲矢は先生用の清潔で邪気のない笑顔を返し、立ち上がりながらしれっと嘘をついた。
「はい、その通りです。授業中にやっちゃいました」
「網瀬くんでも手が滑ったりするんですね。……ああ、それならどうしようかな」
「俺に何か用でしたか」
「職員室にワークの解答があるんですけど、五限目が始まる前に配っておいてほしいんですよ。でも、結構量が多いので、その手だと持てないかもしれませんね」
困った顔で辺りを見渡した日野先生は、玲矢の右斜め前を見ると表情を明るくした。反対に、玲矢は僅かに目を細める。
「小田巻さん、良かったら網瀬くんと一緒に運んできてくれませんか」
友人の遼、明佳と談笑の最中だった智春は、日野先生の後ろにいる玲矢を見るや否や、一瞬だけ眉根を寄せた。が、すぐさま玲矢と同じ笑顔を作ると、「いいですよ」と朗らかに答えた。友人二人はやれやれといった調子で顔を見合わせて、「じゃあ、先行ってるから」「早くしてねえ」とその場を離れていく。
日野先生の「よろしくお願いします」に、二人で「はーい」と声を揃える。傍から見ると仲の良いクラス委員だ。
先んじて教室を出た智春の少し後ろを、玲矢は付いていった。南校舎三階の生徒で賑わう廊下を通り、生温い風が吹く外の渡り廊下に出る。ここにもまだ生徒が多い。渡り廊下を抜けて北校舎に入ると、奥の音楽室から楽器の音が聞こえてくる。やや暗く、人のいなくなった階段に足を踏み入れようとしたところで、
智春が振り向いた。
同じクラス委員の智春に、玲矢はなぜか、睨み付けられている。
良い子の委員長とは思えないほど子どもじみた反抗の色が、ぎゅっと閉じられた口元に滲む。煮え滾る怒りをはらんだ声が、玲矢を糾弾するがごとく暗い階段に反響した。
「何であんなことしたのか、ここで教えてもらうからね」
わざわざ職員室から遠い階段を使おうとされた時点で、何か文句があるのだろうとは思っていたが、こうも予想通りだと面白くない。智春の精一杯の先制攻撃を受け止めた上で、玲矢はそらっとぼけた。
「あんなこと、って? 俺は小田巻にワークの解答を運ぶ手伝いをしてもらいたいだけなんだけど」
お兄さんのことだよ、と智春は玲矢を無視して続けた。胸元の赤いリボンが不安定に揺れる。向かい合っているくせに目を合わせようとしないのは、怒りで包み込んだ怯えを悟られたくないからだろう。生憎と玲矢は、クラスの誰よりも人の感情の揺れ動きに敏感だった。そうであるようにと自分を律してきたのだ。
どうも智春は、心良が手を切ったのは玲矢の命令であると思い込んでいるようだった。
「おかしいもの。だって、網瀬くんが、あんなこと急にするはずない。ねえ、あなた今度は何を企んでいるの」
「……俺もすっかり、信用を失ったね」
軽口を叩きつつ、玲矢は冷静に智春を真正面から見た。
智春の中にある怯えは、自分が頂点で仕切っていると信じていたクラスが玲矢に引っ掻き回されることへの忌避感によるものと推測される。みんな仲良く正しくあれと、綺麗に駒を並べてにこにこしていたところに、突然得体の知れない異物を放り込まれることがたまらなく嫌なのだ。
玲矢は、なるべく柔らかい声で真実を教えてやった。
「彫刻刀で手を切ったのは、兄さんが自分でやったことだよ。多分、大した意味もないだろ」
玲矢は朝から心良と話していない。そもそも心良は自分の彫刻刀を持っていないから、玲矢に今日の一件は予測できなかった。あれは心良が玲矢の指示もなく、勝手に、能動的に取った行動だ。
行動の理由もほとんど察しがついていたが、それは智春に話すことではない。
「あたしが信じると思う?」
「どうだろう。無理かも。でも、本当のことだから、俺としては信じてほしいな」
「……どの口が」
「小田巻に今更嘘をついたって仕方ないじゃん」
苦笑を交えて、玲矢は誠実な人間のふりをする。この程度で「う……」とたじろぐ智春はとんでもないお人好しだ。
「俺が怪我をしたのも不可抗力」
玲矢は左手をひらひらと振って補足した。智春の目が見開かれる。
「予想外の事故。俺だって自分の手を意味もなく傷つけたくなんかないよ」
「……じゃ、じゃあ、ただ十和子ちゃんに優しくしただけ?」
「そうそう。優しくて賢くて頼りになる網瀬玲矢くんだから」
茶化されるのが気に食わないのか、智春は憮然としてしばらく黙り込んだ。
昼休み真っ只中でも人通りの少ない階段とは言え、普段から全く人気がないわけではないのに、玲矢と智春が来てからは誰も通っていなかった。仄暗い階段に立ち込めるぴりぴりとした空気は智春から発せられているものだ。玲矢はいつも通りに余裕の構えで、階段の手すりに手を置いた。
「全部計算ずくで動いてる人なんて、いないと思うよ。俺も例外じゃない。俺だって人間だ。常に先を見据えてなんかいないし、行き当たりばったりだし、その時に考えたように行動するし。失敗することもある。さっきのは不味かったなって、反省することだってある。自分でもわかってるけど、わりと迂闊なんだ、俺」
相手を安心させる声音で、ゆっくりと諭すように、共感を誘うように話す。智春の緊張が次第に緩んでいくのがありありとわかった。
「だからさ、」
智春が安堵したタイミング。今回は心配するほどのことではないのかもしれないと、頑なな警戒心を解いた時が、玲矢のターン。
「あんたに兄さんのことを教えたのも、迂闊だったかもね」
玲矢は智春の肩に手を置いて、階段の下に向かって突き落とすような姿勢を取った。
弛緩した表情がたちまち恐怖に染まる。「ま、待って!」と智春は甲高い声を上げた。
「何も言ってないよ、あたし。誰にも話してない」
「それこそ信用ならないな。真夜ちゃんにはあっさり喋ったのに」
「き、鬼城さんだけ! それ以外は本当に、何も!」
智春の言うように、玲矢は盗難事件の次の日、真夜の様子を智春に尋ねた。後から教室に来た真夜が智春と話すことまで見越した上で、だ。真夜に口を滑らせたことを咎められると思ったらしく、智春は最初、身を縮こませていた。だが、玲矢にその意図はないとわかると、ぺらぺらとつまびらかに語り始めた。つまり、真夜は心良の実情を公開する気がないということ。玲矢の想定通りだ。六年前の心良と玲矢をよく知っている真夜ならば、二人の間の関係を絶っても意味がないというのを理解しているはずだった。
真夜が今でも心良に執着している、というのが前提ではあったが。それは再会した時に既にわかっている。
別に智春を完全に信じたわけではなかったが、これまでに何もなかった以上彼女の訴えは本当なのだろう。
「……あ、あの、玲矢くん」
智春は不安げな目を玲矢に向けた。いつも気丈に振る舞っている委員長の面影は消えてしまっている。
「鬼城さんのことも、あたしみたいに、」
「待った」
玲矢は即座に発言を遮った。思わしくない方向に話が流れるのを感じたのだ。
「何か企んでるのは、あんたの方?」
掴んだ肩がびくんと跳ね上がった。明らかに狼狽えているのが肩を通して伝わってくる。つくづく正直な子だ、と玲矢は呆れた。
「たっ……企んで、なんか」
狼狽えてはいるが、嘘をついているようには見えない。玲矢は肩に込めた力を緩めてやった。
「まあ、いいけど。仮にあんたがこの会話をボイスレコーダーか何かで録音して、」
「そんなことしてないっ! あたしが、そんなもの、持ってきたりなんかっ!」
「わかってるって。小田巻はそんなことできないもんね。人の話は最後まで聞けよ」
智春は体を強張らせた。肩から手を離しても、苦しそうに足を踏ん張っている。
「……録音してたとしても、誰かがその内容を理解するより先に、俺は終わらせるから。学校にいようが関係ない。友達も先生も知ったことか」
智春はぽつりと繰り返した。終わらせる。
舌の根も乾かぬ内に、玲矢は迂闊にも口を滑らせていた。思えばこれまで心良以外の誰にも話したことのなかった玲矢の「願い」を、最初に知ったのは智春だ。智春に心を開いた? まさか。玲矢が他人に本心を曝け出すことなど、万が一にもありはしない。
ただ、玲矢の言ったことを額面通りに受け取って顔色をくるくると変え、玲矢の言葉一つで被害者面をする智春の様子が、昔の心良と重なって見えて。智春ごときに心良と同じ顔をされることに、玲矢は腹立たしいような、昔を愛おしく懐かしむような、矛盾する感情を抱いた。
「俺は、僕の願いを終わらせるためだけに、今まで生きてきたんだ」
終わらせるのだ。これまで一時も揺らぐことのなかった、僕のたった一つの願いを。
「……あなたのことが、わからない」
震える声で智春は言う。
「あたしの知ってる玲矢くんは、気さくで、親切で、真面目で、良い人で……なのに、あなたはそれが、全て嘘で、演技だったみたいなことを平然と言う。信頼してたのに。仲良くなれたと、思ってた、のに。網瀬くんも鬼城さんも理解できないけど、あなたのことが一番わからない。どうしてそんなに、冷たくなれるの。と、友達を、家族を、ひとのこころを、何だと思ってるの」
言葉だけ並べると玲矢を責めているようだが、智春の声に非難の響きはない。訥々と話す智春は目に小粒の涙を浮かべている。一体何を言われているのだろう、と玲矢は内心首を傾げた。まるで智春は、玲矢を「わかりたい」と言っているようじゃないか。
「俺と関わりたくないんだと思ってたけど、違うの?」
智春は答えない。答えられないのだ。
楽器の音も聞こえなくなって、この階段だけ学校から切り離されてしまったかのように静かだった。
教室にいる時の智春を、玲矢は思い浮かべてみる。先生からも同級生からも頼りにされるクラス委員。学校の勉強も塾の課題も部活の練習も毎日休まず真面目に取り組む素直な努力家。正義感と義務感を宿し、常に正しいと思ったことを行う、品行方正の具現。絵に描いたような優等生。「優等生」を自分に被せる皮としてしか利用していない玲矢とは全く違う、本気でそれが美しい在り方だと信じ切っている、愚かな少女。
――ああ、そうか。ひょっとすると、だからこそ。
「あんたもしかして、楽しんじゃってる?」
俯きがちだった智春が顔を上げた。玲矢の言葉の意味が理解できないのか、口を半開きにして呆けている。
「誰にも言わないのではなくて、言いたくない。自分だけが知っていることを、他人に知られたくない」
智春は段々と顔をひきつらせた。違う、ちがうと涙声で呟きながら後ずさりし、「……あっ」階段を踏み外して背中から落ちそうになったところを、玲矢は手首を掴んで引っ張り上げる。ぐっと近づいた智春の心臓が不規則に脈打ち、口からひゅうひゅうと枯れた息が零れるのを感じ取って、つい笑い出しそうになった。
玲矢も初めて見た智春の側面。異常なものを大声で異常と断じながら、完全に切り捨てることができずに興味本位で覗き込んでしまう。
手首を掴む手にますます力が入った。
「小田巻は、秘密の共有がしたいんだろ」
「…………ちがう、」
「いつも清浄な世界で生きてるから、危うくて甘美な感じに浸かってみたいとか」
「ちがう、そんなことない、あたしは、」
「ね、そんなに知りたいならさあ」
智春の手首をぎりぎりと握りしめて、自分の心臓に引き寄せると、玲矢は酷薄な笑みを湛えた。
「俺の心の中、もっと見せてあげようか」
なんてね。信用できないあんたにはダメだよ。
*
自転車通学の許可が下りるのは、家庭から学校までの直線距離が二キロ以上の地域だ。
紅黄中を基準とすると、金盞小校区は万寿小校区よりも遠く、紅黄小校区よりも近くに位置する。玲矢たち兄弟の母校である金盞小校区に住んでいる生徒は、ほとんどが自転車通学を許されているが、稀に半径二キロ圏内に引っかかってしまう哀れな人がいる。
「あ、そっかぁ……だから玲矢くん、歩いて登校してるんだ。家から学校までどれくらいかかるの?」
「片道三十分ぐらいだね。余裕を持って七時半には家を出てるよ」
「わあ、偉いなあ。俺いっつも遅刻スレスレなのに」
車道側で大きめの自転車を懸命に押しているのは、玲矢のクラスメイトでも数少ない、同じ小学校出身の男子生徒だ。名を胡桃坂唯織という。アイドルの芸名と見紛うほどの仰々しい名前が、あどけない童顔とふわふわの猫っ毛に妙に馴染んでおり、「ひよこみたいで可愛い」「からかいたくなる」等とC組のマスコットキャラクターのような扱いを受けている。玲矢は他の生徒と同じように接しているものの、小さな体躯でちょこまかと動き回る様子には確かに人の嗜虐欲を刺激する何かがあると思う。玲矢には関係のないことだが。
今日は校門の前で唯織と会い、途中まで一緒に帰る流れとなった。丁度部活動が終わって生徒が帰宅し始める時間帯だ。灰色と茜色が混ざり合う空の下で、同じ制服の中学生がちらほら歩いている。どこかの家から漂ってくるカレーの匂いが鼻孔をくすぐった。
唯織はしゅんとした顔で玲矢を見上げた。
「もうすぐ中間テストって思ったら、俺胃が痛くなる……玲矢くんは、テスト勉強してる?」
「全然やってない。部活と塾が忙しくってさ、時間がないんだ」
「ほんとに? でも、玲矢くん毎回学年上位なんでしょ」
「まあ、ある程度成績を保ってないと親に叱られるから」
にこにこ笑って当たり障りのない台詞を返す玲矢に、唯織は神妙な面持ちになると、「やっぱり玲矢くんって頑張り屋なんだね」と溜息をついた。
「頑張り屋って……あはは、唯織くんの方がすごいって。吹部は忙しいって聞くし、塾も習い事もやってるんだろ」
「……あっ!」
のろのろと歩いていた唯織は弾かれたように立ち止まると、「忘れてた、忘れてた!」と自転車にまたがった。
「今日フルートの練習があったんだ、早く帰らないと……」
申し訳なさそうに上目遣いになった唯織に、玲矢は手を振る。
「じゃ、ここで。また明日」
「うん、ごめんね! ばいばい! あ、あと手お大事にっ」
よたよたと不器用に自転車を漕ぎ始めた唯織は、時折転倒しそうになりながら去って行った。その後姿を見送って、玲矢も自分の家の方向へと歩き出す。
「頑張り屋、か……」
思いつきで唇に乗せた言葉は存外無垢でノスタルジックな響きを持っていた。努力家、というよりも頑張り屋、の方が心地が良い。
実際には嘘っぱちだったとしても、「心良が使っていたような言葉」は玲矢の気分を高揚させる。
勉強も部活も本気で頑張ったことはなかった。教えられたことは一回で覚えられるし、人の技を盗むのも容易い。玲矢にとっては化けの皮を厚くするための手段でしかないから、別に一位を取る必要もないのだ。オールマイティな優等生という印象を周りに植え付けられればそれで十分。
玲矢が努力しているのはもっと別のことだ。この人は今、どうして喜びを露わにしているのか。どうして悲しみに暮れているのか。何がこの人を傷つけるのか、癒すのか。何が道徳的で、何が非道徳的なのか。何が善くて、何が悪いのか。
世界は排斥的だ。異常であると判断された者は居場所を与えられない。ましてや願いを叶えることなんて到底許されない。自分が誰かに共感することのできない「悪い人」であると理解しているからこそ、誰よりも「良い人」のふりをするために励まなければならない。
玲矢の惜しみない努力は全て、これからのため。
*
鍵を差し込んで自動ドアを開ける。エントランスはがらんとしていた。鍵についた赤いキーホルダーを右手で弄びながら、タイミング良くやって来たエレベーターに一人で乗り込み、三階のボタンを押す。
三階のエレベーター前にはマンションの清掃員がいた。玲矢が塾のない日に帰宅すると必ず出くわす、話の長いおばさんだ。軽く会釈をして、何か話しかけられるより先に通り過ぎる。誰も見えなくなったのを確認すると、玲矢は小走りになった。
廊下の真ん中にある三○三号室。何の変哲もないマンションの、何の変哲もない2LDK。決して広くも新しくもない、これといった取り柄のない部屋。
だけど、玲矢と心良の住む家だ。
「にーいさん。ただいま」
バタン。
靴を脱ぎ捨てて家に上がり、真っ先に自分の部屋のドアを開ける。
兄弟の部屋の管理権限は玲矢にあるので、一見すると整っている。まっさらな机、綺麗な床、テキストや漫画が並べられた本棚、きっちりと閉じられたタンス。だが、部屋の隅に物が散らばっている場所があって、そこだけは常に雑然としていた。
心良の定位置だ。
「ただいま」
三角座りで居眠りをしている心良に目線を合わせてもう一度言うと、睫毛が小刻みに震え、瞼が開いた。
「うぅ……あ、お、おかえり」
心良は制服を着たまま座り込んでいた。音楽を聴こうとしてそのまま眠ってしまったのか、横にはライトグリーンのヘッドホンとCDプレイヤーが転がっている。
玲矢は心良の左手に目を落とした。手首を持ち上げて、ガーゼの上から傷口のある辺りをそっと撫でる。心良は動じない。
「これ、痛い?」
「……え」
心良は瞬きすると、ゆっくりと首を振った。
「いたくない」
「ふうん。そうなんだ」
ヘッドホンと同じように転がっている心良の鞄を、玲矢は勝手に開けた。目当てのものはすぐに見つかった。どこに入れたかはわかっているのだ。
玲矢は心良のガーゼを一息に剥がした。皮膚にしつこく貼り付いていたテープが音を立てる。一本の赤い線を中心に、ところどころ皮が剥け、じゅくじゅくと黄色い汁が溢れる傷跡が姿を見せた。
これは、玲矢じゃない。心良が自分でつけた傷跡だ。
「で、何。どうしてこんなことしたのか、僕に教えてよ」
あくまで穏やかな声で。良識的な親が子どもの悪事の現場を見つけた時に、まず叱りつけるのではなく、行動の理由を問うように。
心良も自分の傷口を見て、「あ、あ……」と口から言葉にならない声を吐き出した。額に汗が一筋。表情は固まったままだが、瞳は落ち着きなく揺れている。
「ほら、教えて?」
「う……あ」
顔を覗き込んだ玲矢から、心良は気まずそうに目を逸らす。それでも説明しなければならないと悟ったのか、小さな口を何度か開閉すると、唇を噛み、また口を開いた。
「れ、れいや、あのね、おれ、わかんなくて」
「うん?」
「まよちゃんって、なに?」
「……は」
流石の玲矢も呆気にとられた。最初から真夜の名前が飛び出すとは思っていなかったのだ。
心良は途切れ途切れに話を続けた。
「この前から、ずっと、そればっかり……ぐるぐるしてる。玲矢は、知ってるの?」
「それが、これと、何の関係があるの」
玲矢は心良の傷口を指差し低い声で言う。質問に質問で返されたことが不愉快だった。
心良の脳内では情報の整理がついていないようだ。右手の人差し指を口に突っ込んで、「うう、ううう」と呻き、目をきつく閉じてから、心良は再び話し始めた。
「お、おれが……おれが、わるいから。だから、玲矢が、玲矢に……ご、ご、ごめんなさいって、言いたくて。玲矢の、手が……いたそうで……おれがわるいのに」
最後の方は嗚咽混じりだった。
「うん、わかった」
概ね玲矢の想定内だった。要は「まよちゃん」という単語に反応して、昔のことが一時的に想起されたというだけだろう。大樹も余計なことをしてくれたものだ。今更どうこうするつもりはないが。
「……れいや」
心良は珍しく、食い下がった。
「まよちゃんって、何なの。ずっと考えてるのに、ぜんぜん、わからない。ねえ、玲矢、おしえて……」
――こんなのは、おかしい。「人形」であるはずの心良の声に、悲哀のような感情が乗っている。
「兄さん」
「え?」
玲矢は彫刻刀を握ると、血のこびりついた冷たい刃を指ですうっとなぞり、切っ先を人形の左手に突き刺した。
「たっ、ああっ……!」
普段はこの程度では反応しない心良が弱々しい声を出した。閉じかけた傷口がこじ開けられるように、彫刻刀を赤い線に沿って何度も、何度も引き摺る。熟れて潰れたさくらんぼの果汁みたいに零れだす血が、手のひらの柔らかい肉をぐちゃぐちゃに切り裂く感触が、心良のか細い悲鳴が、玲矢をあの日に戻していく。
そうだ。そうだった。あの日もこうやって――。
玲矢は楽しげに笑った。笑いながらも、彫刻刀を刺すことを止めなかった。つんと鼻を刺す鉄の匂い。ああ、馴染み深い匂いだ。
何時に家に帰ったって、カレーの香りが待っていることはないけれど、この血の匂いだけは、いつでも玲矢のテリトリーの中にある。
部屋の壁にぐったりともたれかかり、苦しそうに喘いでいる心良の前髪を掴み上げて、玲矢は囁いた。
「ほら。こうしたって、何にも思い出せないだろう?」
「いだっ……あっ、あああ」
悲鳴が大きくなってきたので、玲矢は心良の口に自分の左手を押し付けた。同時に、手のひらの更に奥深くへと彫刻刀を捩じ込む。
くぐもった声は、やがて止まった。虚ろな瞳で動かなくなった心良の口を少しだけ解放してやる。
「僕の言葉を覚えてる? また、教えてあげないといけないのかな。言ってごらん」
「……おれは、にんぎょう」
感情の掻き消えた声で、淡々と心良は答えた。
「おれは、人形。人形は、考えてはいけない。か、感じては、ならない。……あっ」
ぴくり、と手の痛みに身体を震わせて、心良はそれを抑え込むように目を閉じた。
「……っはあ、あぁ、そっ、それから、それから」
混乱して言葉が出てこないのだろうか。心良は息を荒くして幾度か呻いた後、「に、人形は」と再開した。
「人形は、泣いては、いけない。怒ってはいけない。わわわ、わ、笑っては、いけない……っ!」
「そう。よくできました。兄さんは誰の前でも、笑顔を見せてはいけないよ」
冷たい笑みを浮かべ、玲矢は満足そうに頷いた。
玲矢は頬に跳ねた温かい血を拭った。彫刻刀を床に置いて立ち上がり、古びた天井を見上げる。明かりの灯らないLEDを睨み付けて、今はこの町のどこかにいる少女のことを思った。
真夜ちゃん。あんたのことは、ひとまず放置してあげる。直せるものなら、直してみればいい。
僕は、それ以上を以て兄さんを壊してみせるから。