27話 人形の左手③
三人分の足音と、遠く体育館から聞こえてくる溌剌とした声援が、授業時間中の廊下で嫌にこだまする。最近はもうすっかり秋だなあと呑気に話していたのが嘘のように、空気は湿りを帯びて辛気臭く大樹の肩に伸し掛かってくる。まだ午前中だと言うのに、北校舎の日当たりの悪さが災いして辺り一面が暗い。気分はちょっとした肝試しだ。
美術室を出たっきり一言も言葉を発しない双子は、大樹の後ろを特に焦ることもなくついてきていた。振り返らない大樹に二人の表情は見えないが、確認するつもりはない。目が合ったら微妙に困るだろうし。
明らかに、彼らが学校の怪談ムードを助長している。
「……」
切り出す言葉を持たない大樹も無言だ。
せめてそっちから何か喋れよ、と大樹は胸中で毒づく。元々大樹はクラスで目立つ方ではなく、人付き合いも厳選する性質で、心良はもちろん玲矢ともクラスメイト以上の関わりはない。とは言えこの気まずさを放置するわけにもいかず、大樹は共通の話題を探していた。先刻の心良の自傷行為に触れるのは流石に憚られた。訂正。面倒そうなのでなるべく事情を聞きたくなかった。
二階から一階に続く階段を下りている途中、がしがしと頭を掻いて、「あー」と大樹は前を向いたまま話しかけた。
「網瀬って、ソフトテニス……だったか? しばらくラケット握れないな」
言ってから、この場には網瀬が二名いたことに気づく。でもまあ、ソフトテニス部に所属しているのは片方だ。もう片方はどうせ何を訊いたって答えてはくれない。
大樹の意図通り、玲矢の方が反応した。涼しげな声が頭の上から降ってくる。
「血が止まってしまえば平気だよ。見た目ほど深くないんだ、傷」
「そ、そうか。それは良かったな」
ぎこちなく答えて、また、沈黙。
「なあ、」
最後の段を下りたところで、大樹は意を決して言った。
「演技だろ」
「え?」
玲矢のとぼけたような声。
足音の間隔は変わらない。
「あー、いや」
大樹は歩くペースを落とし、玲矢の隣に並んだ。並んで、内心「おっ」と思った。玲矢は想像していたよりも背が高くない。大樹より二、三センチ上という程度だ。
「さっきの、アレだ。美術室出る前の」
数分前のことである。大樹は、「あー、えっと、二人いるなら、二人で行けばいいんじゃないスかね……」とさりげなく申し出を辞退しようとしていた。よく考えてみたら、保健室は美術室のすぐ下だ。小学生じゃあるまいし、ははは。
――というのはもちろん建前で、大樹は心良の突拍子もない行動に正直言ってかなり引いていた。何だこいつ。意味がわからない。不良品のロボットじゃなかったのか。不良品なら不良品らしく電源切っておとなしくしていればいいものを、どうして急に誤作動を起こす。どさくさに紛れて忘れていたが、心良がついさっきまで握りしめて離さなかった血まみれの彫刻刀は大樹の私物だ。あれ、どうしよう。彫刻刀って水洗いしていいんだっけ。錆びるかな。
玲矢は最初、「うん、大丈夫。兄さんは俺が連れていくから。中断してごめん」と何とも優等生らしいコメントを残してスマートに去ろうとした。だが、美術室の入り口で突然ふらついて膝をついたのだ。平気平気と口で言ってはいたが、顔色は悪い。
玲矢自身よりも、手を貸そうともせずに黙って玲矢を見下ろしている心良に不安を覚えたのか、環や先生が大樹の方を非難するように見てきた。大樹はそういう目に逆らえない。だからあっさり折れた。
そうとは言っても、玲矢に対しては言いたいことがある。
「なんか、まわりくどいっつうか。違和感があるっていうか。付いてきてほしいならそう言えよ。ていうかさ、お前」
言葉を切って横目で見ると、玲矢は普段通りの親しげな表情をしていた。「それで?」と続きを促しているかのようだ。
玲矢の態度に背中を押されて、大樹は最後まで言い切ってしまった。
「お前、わりと恒常的に演技してる、よな?」
「……ああ、そうだね」
くすくす、と玲矢は柔らかい笑い声を上げた。人は違うが、今朝も聞いた声だ。
「もしかして、堤にはぜーんぶお見通し?」
優等生の玲矢が子どもっぽく好奇に顔を輝かせて笑うのを、大樹は初めて見た。悪戯がバレた男児みたいな目に、焦りや敵意は感じられない。へえ、こいつでもこんな顔するんだ、と思ったら緊張が緩んで、つい口調まで軽くなる。
「いやいや、んなわけねえし」
「どうしてわかったの? 猫被りに見えるのかな」
「だってお前、完璧すぎるじゃん」
奏斗や将人と仲が良いと書くと、迷惑なお騒がせ野郎というレッテルをグループ単位で貼られ易いのに、玲矢にそういったイメージはない。些細なところで気を遣っているのだ。同じ教室にいるだけでも、玲矢の善行は自然と目に入る。汚れ仕事は進んで引き受けるし、係が忘れている作業は誰にも言わずに自分でする。
大樹には、穿った目で人を見る癖があった。故に、善行とは心からの善意で行うものではなく、別の理由があってするものだと思っている。例えば小田巻智春の場合は、普段の様子を観察する限り「クラス委員だから」という過剰な義務感からやっているのだろう。打算ではない。智春は恐らく、見返りを求めていない。そこが彼女の心根の良さだ。
玲矢はそれとも少し違う。さらに本質的なところで、「そうするのが正しい」と自分に課しているように感じられる。全くブレがない一本筋の通った信念、というものだろうか。
いくら何でも人間が出来過ぎている。そして、出来過ぎた人間には大抵裏がある。
「なるほどね」
玲矢は真面目に頷いて、大樹の視界に入るように前へ出た。
「でも、こうやって堤についてきてもらったのは、俺の我儘と言えなくもないんじゃない?」
「だから、まわりくどいんだって。素直に我儘言えばいいだろ」
オレは知らないけど、と保険のように付け加える。玲矢は「はいはい、心得ておきます」と芝居がかった言い方をした。全然わかってねえじゃん。
「でさ、何でオレを引っ張ってきたわけ」
「あ、それはわからないのか」
「知らねえって」
「さて、どうしてだろうね」
玲矢は含みのある笑顔を見せた。その後ろを、心良は無表情にとことこついてきている。玲矢の発言には全く興味がないようだ。
仲が良くないと思われた網瀬兄弟が、今この場に揃っていた。ひょっとしたら、玲矢も心良も、兄弟の前では別の一面を露わにするのかもしれない。大樹の興味が僅かに刺激された。
*
保健室は無人だった。鍵は掛かっておらず、校庭側の窓も開け放されたままで、薄いカーテンが風に煽られてはためいている。実に不用心である。
「二人とも、傷口洗えよ。オレが準備しとく」
先生が帰ってくるまで待つ必要もない。一応保健委員として、救急処置の指導は受けているのだ。あまりちゃんと覚えてはいないが、ガーゼを貼るぐらいなら大樹でもできるだろう。以前教えられた場所を漁っていると、蛇口を捻る音が聞こえた。
双子は二人で水道に並んで手を洗っている。後ろ姿もやはり似ている、気がする。双子だから当たり前なのだが。
何も言われずとも玲矢と同じように手を洗っている心良を見ながら、こいつの行動の基準は何なのだろうと大樹は考えた。気まぐれなのか、周りを見ているのか。それとも――玲矢?
大樹としてはどれでも構わないが、できるなら普段からやってほしい。
「手のひら、見せて」
大樹の言葉に、玲矢は洗い終えた左手を差し出してきた。血は止まっているが、真ん中にシュッと一線入った赤い傷跡は痛々しい。大樹はガーゼを当てると、テープを複数に分けて切りながら固定していった。これが意外と大変だった。切っている内にガーゼがずれたり、短すぎて剥がれたりする。
「ごめんな、下手くそで」
「ううん、ありがとう。やっぱり堤に付いてきてもらって良かった」
大樹はようやく合点した。自分の片手の処置を自分でするのは確かに難しい。
じゃあ、と今度は心良の方を向くと、大樹の手からガーゼとテープがパッと掠め取られた。
「え」
「兄さんのは俺がやるよ」
と、声がした時には、玲矢はもう心良の左手にガーゼを合わせていた。
「……あ、ああ。わかった」
反応が遅れた。一瞬何が起こったのかわからなかったのだ。あまりに自然に治療道具を奪われたので、取られた、という実感もしばらく湧いてこなかった。
強い既視感を覚えると同時に、先ほど心良に彫刻刀を盗られたことや、数週間前の盗難事件を思い出す。
なるほど、双子だ。
手が空いた大樹は適当な椅子にどさりと座った。気を取り直して、話を再開する。
「えっと、お前は慣れてるな。手当てするの」
「まあね」
玲矢はてきぱきと手際良くテープを貼っていきながら、照れくさそうに笑った。
「兄さんは昔からそそっかしいから、よく怪我をするんだ。俺はその治療係」
「そそっかしい?」
「前を見ないで歩くから電柱にぶつかったり、何もないところで派手に転んだり。ね、兄さん」
玲矢に呼びかけられた心良を見ていると、数秒遅れてではあったが、こくり、と小さな頷きがあった。大樹や他の人間にはほとんど返事をしない心良が、玲矢の言葉には反応したのだ。
さっきから薄々考えていたこと――網瀬兄弟実は仲良し疑惑が俄かに現実味を帯びてきていた。本当ならば、教室でああも不干渉を貫いている理由がわからない。「優等生」たる玲矢が、心良の孤立を放置しているのはなぜだろう。
そういうものだろうか。そういうものかもしれない。大樹にも少し歳の離れた姉がいるが、小学生の時は学校で話しかけてこられることをひどく嫌っていたような覚えがある。というか通っている学校が異なるというだけで、当然今でも嫌だ。仲が拗れているということはない。家では人並みに会話をする。きょうだいでべたべた引っ付くのを学校の友人に見られるのは格好悪いというか、恥ずかしいというか。きっと、双子でも同じだ。
網瀬兄弟との心理的な距離が、少し縮まったような感じがした。
心良の手当てを終えた玲矢が、きょろきょろと周りを見ている。
「堤、来室記録表って、どこにあるんだっけ」
「あー、それは」
大樹が椅子から立ち上がると、ふいに歩き始めた心良とすれ違った。「おい、待てよ」という大樹の言葉に振り返ることなく、心良は不安定な足取りで保健室を出て行く。ドアぐらい閉めろよ。
「帰んの早くないか? 先生いないんだし、もうちょっとサボっていけばいいだろ」
「はは。兄さんとしては、用事が済んだらすぐに戻りたいのかな」
玲矢は来室表に二人分の名前や日時、怪我の理由を書き込んでいる。「彫刻刀による刺し傷」ね。それは、両者ともそうだろうけどさ。
心良が自分の手を刺した背景。保健室に来る前は訊くまいと思っていたのに、大樹は口を滑らせそうになった。
お前なら、兄があんなことした理由も、わかるの?
「堤もさ、たぶん本当はよく思ってないよね。兄さんのこと」
――が、先に口を開いたのは玲矢の方だった。来室表に書かれた「網瀬心良」に目を落とす玲矢は、親愛と憂鬱の入り混じった複雑な顔をしていた。どこか疲れているようにも見える。教室では見られない表情だ。
これが網瀬玲矢の素顔だろうか。
眼鏡の奥の静かな瞳が、保健室と大樹を映す。
「兄さんが持ってた彫刻刀、堤のだろ?」
「あー、まあ」
何だ、気づいていたのか。玲矢は「本当にごめん」と申し訳なさそうに目を伏せた。
「明日までには洗って返すね」
「別にいいわ。オレのボロいし、新しいの買うから」
「それなら弁償するよ」
「いやいや、そこまでしなくていいって」
お前は心良の保護者か、とツッコみたくなるのを抑えながら、しばらくそんなやり取りが続いた。結局玲矢が折れて、彫刻刀は大樹が買い直し、件の血まみれ丸刀は心良に処分してもらうことになった。当事者がいないところで決めるのもおかしな話だが。
話が一段落すると、玲矢は困ったように溜息をついた。
「知ってるだろうけど、兄さんは手癖が悪くて」
「……えっと、うん」
お前も素質あると思うけど。と言いたいのをギリギリで飲み込んで、大樹は控えめに頷いた。
玲矢の目は益々憂いを帯びた。
「あの時も、兄さんがやってることは知ってたんだ。持ち検の前日から」
「え、そうなのか」
考えてみれば、同じ家に住んでいるのならあり得る話だ。大樹はやや身を乗り出して玲矢の言葉に耳を傾けた。どうしてそのことを今になって、しかも全く関係のない大樹に教えてくれるのだろうという疑問が頭を掠めたが、好奇心が勝ってしまった。
「持ち検が始まった時は、流石に俺も言い出せなくて。小田巻や先生に頼んで穏当に収めてもらおうと思ったんだけど……やっぱり上手くいかなかったね」
「……タイミングが悪かったな」
玲矢が裏で手を回していたとは。心良のような人を兄に持つと苦労するな、と少しだけ同情の念を抱いた。
「兄さんの忘れ物も、俺が見ればいい話なんだけど。兄さんは嫌がるから」
「い、嫌がる?」
思わず、調子の外れた声が出る。嫌悪という人間的な感情を持っている心良は、正直想像できない。
玲矢は軽やかに笑った。
「意外かもしれないけど、兄さん、家では結構喋るよ。それに、あんまり俺が構おうとすると避けるんだ。学校でも話しかけるなって言われてる」
「それは、意外、だな」
「昔は仲良かったんだけどなあ。いつからだろう」
「……まあ、そんな風に言える内は、まだ良い方だろ」
なんだか聞いてはいけないことを聞いているような気がして、大樹は半歩分後ずさりした。あの心良が? 喋る? 玲矢を避ける? とても信じられないが、双子の弟が言うのならそれが真実なのだろう。
来室表の置かれた台に背を向けて、玲矢は一歩踏み出した。
「けどね。やっぱり、俺の兄さんだからさ」
真っ直ぐ伸びた背中と、情の滲んだ声音。
玲矢の前では、耳を塞げない。人を惹きつける声だ。
「どうしようもない人だけど、俺の兄さんだから。せめて俺だけでも、良い子にしないとね」
「……あ」
そうか。それが玲矢の「理由」なんだ。
玲矢は再び悪戯っ子の目になって、小さな子どものように言った。
「このこと、兄さんにバレたら怒られるから内緒な」
*
保健室から帰る途中で、玲矢が思い出したように言った。
「そういえば堤、今日の朝兄さんと何か話してたよね」
「ああ、あれか」
歩きながら、大樹も今朝のことを思い出していた。玲矢も席が近いから、若干聞こえていたのだろう。帰り道の話題のつもりで、大樹は最初から話した。
「それがさあ、鬼城っているだろ。転校生の。あいつが偶にこっちを見てくるんだけど、どうも網瀬の方を見てるっぽいんだよね。で、お前と何かあったの? って訊いてただけ。ま、相変わらず何も反応なかったけど」
「何も?」
言った直後で、大樹は些細なミスに気付いた。
「あ、いや、違う。オレが前を向いた後に『まよちゃん』って言ってた。なんかあんのかな、やっぱ」
「……そう、そうか」
「……網瀬?」
顔をこちらにむけた玲矢は、いつもと同じようににこやかだった。
「何でもないよ。ありがとう」