25話 人形の左手①
中学校生活とは思っていたほど輝かしくもない、という事実を認めざるを得なくなってくるのが九月だ。ついこの間まで最高学年の威光を笠に多少なりとも大きな面をしていたのが一転、一二年早く生まれた程度であれやこれやと命じてくる先輩様の下僕と化して球を拾い、眠い目をこすりながら読経と何が違うのかよくわからない授業を聞き流し、足繁く集団塾に通い、忘れた頃にやってくる定期テストを適当にそつなく解く、毎日。夏休みに入ったところですることは大して変わらない。球を拾って、宿題を解いて、だらだらとアイスキャンディを舐めながらテレビを見て、体験入部の時はたくさんラケットを触らせてもらえたのに詐欺だ訴訟だと愚痴りながら、また球を拾う。ひたすらその繰り返し。
知らない間に二学期が始まって、はたと気づくのだ。小学校六年生が無邪気に好き勝手に想像を膨らませていたキラキラ煌めく中学校生活とは存在せず、いやもしかしたら別のキラキラした連中は相応にキラキラした毎日を送っているのかもしれないが、とにかく自分とは縁遠い、ということに。もしかしてオレ、下手をすると卒業までずっとこのままなんじゃねえ?
悲しいかな、自分の学校におけるポジションは小学生時代からさほど変わってはいない。中学に入学したぐらいで人生のステップアップを無事果たし、生まれ変わったような気になったのは大変甘いガキの考えだった。所詮自分は誰かの人生の脇役で、今日も地球は自分以外の奴を中心に回っている。
予想される単調な三年間に漠然とした不安を抱きつつも、特に改善案も思いつかず、紅黄中学卓球部一年・堤大樹は今朝もいつもと同じように登校ルートを歩いている。毎日同じ道を通っているとさすがに自動化される模様。似たような家が立ち並ぶ住宅街の中にある、際立った特徴もない一軒家だって、手元のウォークマンを弄りながらでも予定通りの時間に到着する。掠れた明朝体で「千葉山」と書かれた表札の前に立ち、大樹は慣れた手つきでインターホンを押した。
マイクの繋がる音がしない時は、すぐに行くという合図だ。逆に音がする時は、少し時間がかかる時。
今日は後者だった。
「ちょっ、ごめん、待ってて!」
ノイズ混じりの焦った声に、大樹は苦笑しながら「焦んなくていいぞ」と答える。
壁にもたれかかり、周りに誰もいないのをいいことに口笛を吹いていると、ガチャリとドアが開いた。家の中から出てきた男子は、ひょろりとした長身を猫みたいに丸めている。四月の身体測定からさらに身長が伸びたようで、真新しさを若干残しているカッターシャツは小さくなり始めている。まだ買い替えたくはないなあとぼやいていたが、C組男子最低身長をギリギリで免れている大樹にとっては羨ましいことだ。
「おはよう。待たせてごめんね」
「おう。大丈夫か?」
「うん、平気」
頬を掻き、凛は照れくさそうにはにかんだ。大樹も軽く片手を上げてニッと笑い返す。
これも、大樹のルーティンワークの一つだ。
*
ここまで身長差があると、自然と大樹の方が凛を見上げる形になる。脚の長さが違うから、歩幅にも随分と差がある。凛は大樹が首を痛めずに済むように目線を合わせ、ゆっくりと歩いてくれるので、傍から見たら三年と一年が会話しているように見えるだろう。実際、凛は身長だけなら三年と比べても遜色ない。
大樹は凛の少し前をスタスタ歩きながら、他愛ない話題を振った。
「もう半袖だと朝はちょっと寒いな」
「来週から移行期間だもんね。カーディガン出さないとなぁ」
「げえ、そうか。十月なんだ」
入学式の余韻も抜けないままに半年が経とうとしていた。今年もあと三ヶ月と少しでお終いなのだ。中学の三年間は瞬く間に過ぎるから、一生懸命勉強と部活に励みなさいと出会う大人皆に口を酸っぱくして言われるのは鬱陶しいことこの上ないが、少なくともぼやぼやしていたらすぐに終わってしまうのは確かであるらしい。
頭の中でカレンダーを表示した途端、大樹は思わず渋い顔で歩みを止めた。
「……やべえ、もしかして来週って中間?」
「もしかしなくてもその通りです」
厳かに告げられて、大樹は緊張感もなくやべえ、と繰り返した。もちろんテスト範囲は把握していない。範囲表が配られたかも覚えていない。
大樹は背中を反らして凛を仰いだ。懇願の姿勢を取るべく手を擦り合わせる。
「えー、神様仏様千葉山様、どうかこの非力なオレにノートを見せてくださらないでしょうか」
「いいよ。今日の昼休み、教室で勉強会しよう」
「ありがとうございまあす。いやあ、千葉山凛大明神におかれましては日頃から格別のご高配を賜り」
「何それ」
凛は穏やかな顔立ちに笑みを浮かべた。
「でも、僕もそんなに頭良くないよ。夏休み明けテストの順位も低かったし」
「お前が良くないんじゃねえよ。C組の奴らが頭良すぎるんだって」
大樹は鼻で笑ってがしがしと頭を掻いた。
別に言い訳でも何でもない。一年C組の学力水準は他のクラスより高い。担任の日野先生の功績ということもなく、明らかに入学時のクラス振り分けでミスをしている。学年全体の順位を見るとそう叱られるほどでもないのに、クラス内順位が低いせいで塾通いの日数を増やされるこちらの身にもなってほしいものだ。――まあ、問題の根本は授業中バレないように居眠りしている大樹にあるわけだが。
「僕で良ければ、勉強ぐらいいくらでも教える」
九月の名残を感じさせる風と共に数歩先へ歩み出た凛が、振り返って大樹を見た。朝の日の光を透かした細く柔らかい髪がさらさらと揺れる。凛は眩しそうに、儚げに微笑んだ。
「大樹には、いつもお世話になってるから」
「……は。何の話だか」
大樹は大股で凛の横を通り過ぎ、もう一度前に出た。「ほら、早く行くぞ」と顔を背けて歩き出す。凛が無言でついてくるのがわかって、大樹はほっとした。
あと五分もすれば学校に着くはずだ。非常に気は進まないけれど、さっさと教室に入ってテスト範囲の確認でもしよう。
そのつもりだった、のだが。
たったった、という、軽快なようでのろまな、速いようで遅い、鷹揚な小走りの音が背後から聞こえてきた。
「りんくーん」
えぇい、とマイペースな掛け声と一緒に凛がよろめいた気配がしたので、大樹はぎょっとして振り向いた。
前かがみになった凛の背中にぎゅうっとくっついていたのは、小柄な女子生徒だ。向かって右側から顔を出し、子犬みたいな黒目勝ちの瞳で凛を見つめて、ゆらゆらと体を揺らしている。無造作な天然パーマのふわふわした長髪が余計に小動物っぽい。ヨークシャーテリアとかの系統だ。
誰だっけこいつ、何してんだこいつ、の両方が脳内を駆け巡り、大樹が口を半開きにしている間に「明佳ちゃん」と凛が言った。
大樹は未だにC組の女子生徒の名前を全て覚えていない。大樹に限らず男子は大体そんなものだろう。自分と関わりのある子、出身小学校が同じ子、授業中よく発言している子。そして、今凛に引っ付いている彼女はそのどれでもなかった。
正直名前を聞いてもピンとこない。が、C組の生徒であることは思い出した。恐らくクラス委員の小田巻智春と常に行動している子だ。卓球部の女子ということもないので、当然、大樹と面識はない。
凛とは、あるのだろうか。
明佳はナチュラルに凛と腕を絡ませ、小さな口を控えめに開けて笑った。
「りんくん、おはよ。がっこ行く途中で会うのは初めてだね」
「う、うん、そうだね。明佳ちゃんも、家こっちの方なんだ」
「えへ、そだよ。ここから歩いてすぐ」
「そ、そっか。じゃ、僕んちと近いね」
突然いちゃいちゃと、べたべたと会話し始めた二人を交互に見て、大樹は目を白黒させた。何だ、何が始まったんだ。
凛が教室で明佳と話しているところは一度も見たことがない。というか凛も女子と話すのは得意ではないはずで、現に言葉の端々にぎこちなさと困惑が滲んでいる。
凛は大樹に遠慮したのか、ちらちらと横目でこちらの方を見て「あの、また後でね」と小声で言った。小声だったが大樹にはばっちり聞こえていた。
「うん。また放課後に、ね」
普通の声量で、しかも凛よりやや具体性を伴った表現だ。明佳はダークブラウンのローファーを鳴らして凛から軽やかに離れると、胸元で可愛らしく手を振った。ついでのように大樹にも会釈してきたので、半分どもりながら「お、おう」と手を上げる。カラフルなキャラクターグッズがじゃらじゃらついた鞄を持ち直し、明佳は愉快そうにスキップで去って行った。くすくす。女子特有の甘やかな忍び笑いが去り際に耳を掠めて、全く関係ない大樹までがドキッとする。
場に残された大樹と凛は、明佳の背中が見えなくなるまで棒立ちになっていた。
「……ふう」
どちらからともなく二人で溜息をついた。無意識に息を止めていたらしい。
一時の、気まずい沈黙。
実際のところ、気まずい思いをしている(と思われる)のは凛だけなのだが。
「おいおい」
大樹は先に口火を切った。
「やるじゃねえか凛。いつの間に女子と仲良くなったんだよ」
ニヤニヤと笑い、凛の背中をバシバシ叩く。できれば男らしく肩を組んでみたかったが、残念ながら腕が届かない。
凛は一瞬安堵の表情になると、大真面目に大樹の手を退けた。
「いや。その。明佳ちゃんとは、そういうあれでは」
「けど、どう見ても好かれてるだろ」
「ち、違うよ……多分。あの子は誰にでもああなんだ」
「そうかあ? オレは脈アリだと思うね」
大樹は腕を組み、一人で納得していた。凛は線が細くて頼りなさげに見えるが、背は高いし、何より優しい良いヤツだ。部活には休まず真面目に参加しているし、無駄に怒ったり声を荒げたりすることもない。大樹とは違った意味で目立たないタイプだが、女子の一人ぐらいにはモテるだろうと大樹は思っていた。
「いいじゃん、あー、明佳チャン? なんかふにゃっとしてるけど、わりとかわいいし」
「本当に何でもないんだってば」
困り眉の凛を、大樹は更に問い詰めた。
「家が近いってことは、万寿小校区なんだな。あんな子いたっけ」
「……えーっと、中学入学と同時に、家族の都合で引っ越してきた、って言ってた」
「詳しいな」
ますますにんまりとする大樹に、「あのさ、そろそろ怒るよ?」と凛は眉を上げるふりをしたが、本当に怒る気がないのは大樹にもわかっている。
「放課後に何してるんだ? そう言えば、今日の部活は休みですなあ」
「……あー、もう」
珍しく赤い顔であたふたしている凛が面白くて、学校に着くまで揶揄い続けてやった。
真偽はどうあれ、少なくとも凛に大樹以外の友達ができたのは喜ばしい。ずっとそうなってくれればいいと大樹は思っていたから。
へえ、そうか。あの凛が、なあ。
*
紅黄中学一年C組の教室は、南校舎三階の昇降口側から二番目にある。二階は二年、一階は三年。学年が上がるほど階段を頑張って上る必要がなくなる、というわけだ。現状下っ端も下っ端である大樹たち一年生は、避難訓練や全校集会の度に、妙に一段一段が高い古びた階段を往復している。一段が高いというのは強ち大樹の主観でもなく、生徒が躓いて派手に怪我をする事故が相次いでいるというわりと信憑性の高い噂もある。補修工事される予定はない。それがこの学校の体質だからだ。
人口が多くも少なくもない田舎の公立中学校という特性上、教師にも全体的に覇気のない連中が多い。今年の春正式に教員として採用されたらしい日野先生を初めとする若手教師はマシな方だが、その他大勢のベテランは、上から目線で物を言うばかりで大して指導力もない老害だ。口にしないだけで皆そう思っている。だから余所のクラスでは窓ガラスが割れたり生徒の椅子が窓から投げ捨てられたりするのである。
だが、優秀な教師から授業を受けたいのならすぐ近くにある県立の中高一貫校なり私立の久遠館中なりに行けばいいのであって、受験に落ちたから仕方なくなのか、自ら公立を選んだのかは人によるだろうが、紅黄中に来ている時点で文句を言う資格はない。大樹も一般中学生並みに勉強が好きではないし、どうせどんな授業でも真剣に聞くことはないからこれで十分だ。勉強したい奴は勝手に自分でするのだろう、きっと。
で。そういういい加減で怠慢な雰囲気を象徴するかのような生徒が、大樹の後ろの席に座っているのだ。
大樹が凛と教室に入ってきた時、席は空いていた覚えがある。軽い雑談をしている内に朝読書開始五分前のチャイムが鳴り、「じゃあ」と凛が自分の席に行くのを見届けた後、ふと振り返ったらそこにいた。
能面のような表情の網瀬心良が。
「うわっ」
とっさにのけぞったことで右の肘を自分の机に強打し、「いてっ」と大樹は追加で声を上げた。
「お前、挨拶ぐらいしろよ。びっくりするだろ」
存在感ないんだから、という言葉を飲み込んで痛めた肘をさする。
心良は微動だにしない。髪の毛の一本も揺れない。
大樹は椅子に座り直して再び心良の方を向くと、コホンとわざとらしく咳ばらいをした。
「あー……まあ、オレも言ってなかったな。網瀬、おはよう」
「……」
無視かよ。
目の前で真正面から言ってるんだぞ。おはようの「お」の字ぐらい言えよ。
と思ったら、「……ぉ」と心良が呼吸音のような何かを喉の奥から発した。
「お?」
大樹がつい身を乗り出すと、心良は開きかけていた口をゆっくりと閉じた。
いや、言えよ。確かに「お」の字ぐらい言えとは思ったけど、そこまで言ったら最後まで言っちゃえよ。
大樹は心良の机の上に肩肘をつくと、パネルと見紛うほどに身じろぎもしない心良の顔を眺めた。
ロボットのような人間という表現があるが、心良と比べたらまだしもロボットの方が感情豊かで人間らしいだろう。第一、ロボットは訊かれたことに答えるし、仕事もきちんとこなす。ここまで万年休業電源オフ状態のロボットは、最早ロボットとすら呼べないのではなかろうか。
二学期初めの席替えで自分の後ろの席が網瀬心良であると知った時、大樹は純粋に「うわめんどくせえ」と思った。一学期の頃は遠巻きにして見ているだけだったが、心良が一人では何もしない、何もできない人であることはなんとなく知っていた。
何もしないというのはどういうレベルかと言うと、まず、給食の時間が終わっても机を下げない。C組では給食後、机を教室の後ろに下げて、それから昼休みが始まる。大樹の列の最後尾は心良なので、心良が机を下げるまでは誰も昼休みに入れない。心良は大抵の場合、時間が終わっても給食を食べ続けている。大抵の場合、半分も食べ終わっていない。とりあえず、食べる手を止めて机を下げてもらわないといけない。
その指示をするのは、当然前の席に座っている生徒だ。つまり、大樹だ。
毎日同じことをしているのだからそろそろ自主的に下げてくれればいいのに、大樹が「机下げて」といちいち言うまで心良は動かない。酷い日は、目を合わせて三回ぐらい言わないと動かない。
班活動でも一切発言しないし、小テストの答案も回してこないし、プリントを渡しても受け取らない。
人の話を全然聞いていないのだ、心良は。目の焦点が合っていない時に何を話しかけても反応なんてない。意思の疎通ができると思わない方がいい。
給食の時間が終わったら机を下げる。それさえできれば上々。二学期が始まって一週間も経たない内に大樹の学んだことである。
あの真面目な委員長は、真面目すぎる故にそれがわかっていない。頭の良い人が心良とコミュニケーションを取ろうとするのはより一層疲れるだろう。智春が何かと心良にお節介を焼いている(時には大樹の席を占領しながら)のは知っていたが、内心やめた方がいいのにと思っていた。結局盗難事件が起こって、お節介はぱったりと止まってしまったのだが。
そう、盗難事件。
心良の周りには最初から誰も寄り付いていなかったので、心良が犯人とわかったところで目立った変化はなかった。クラス全員、失くしていた物は返ってきたので、まあ恨みを抱いている生徒はいるかもしれないが、いじめも起こらなかった。そもそもC組の人は皆、誰かを苛めるほど他人に興味がない。
大樹は――自分の物が盗まれなかったからというのもあるが、心良犯人説に懐疑的だった。
心良をよく知らない生徒は、彼のことを幽霊のような、いわゆる根暗だと認識しているのだろう。教室の隅っこにいる、一人でぶつぶつ言ってる暗いヤツ。あいつが盗んだんだって言われたら、ああこいつならやりかねないって早合点される、そんなヤツ。
大樹の考えは異なる。心良はもっと、何もない人だ。例えるならば白。完全な「無」。
もちろん、皆の前で発言したりはしない。自分に得はないからだ。
そういうわけで、大樹と心良の関係は二学期が始まった頃からほとんど変わっておらず、挨拶をしては無視され、机を下げてとお願いしては無視される。それ以外には何もない、ドライな関係。
今朝の会話も、これで終わりだと思っていた。
「……あん?」
自分の背中に突き刺さる視線を感じて、大樹は顔を向けた。
窓際の列の一番前、噂の美少女転校生が射抜かんばかりに鋭い眼光を放っている。
今日は何かと、背後から女子がやってくる日のようだ。