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閉塞学級  作者: 成春リラ
4章 リモニウムを抱く乙女
23/88

22話 ガラスの靴を割り捨てて

お姫様は、きっと裸足で走り出したのだろう。

 あれはきっと、博愛の美しさだった。

 世界の全てに無関心な目を向けるというのは、世界の全てを等しく愛するということだ。彼女もそういう人だったのだ。

 手元の本に向けられているはずなのに、どこも見ていないような瞳。執着も拘泥もない瞳。

 ページを捲る細い指先も、たおやかな肢体も、お人形のように整った顔立ちも、背中に垂らされた烏羽色の髪も、美しさの一端にすぎない。平等で冷たい無関心が、彼女の美の本質だった。少なくとも、わたしはそうだと信じていたのだと思う。


 本の中から飛び出て来たお姫様と目が合うことなんて、あり得ないと思っていた。

 空調の効いた夏の図書館。賑わう児童書コーナー。たった一人で現れた彼女は、確かにわたしの方を見ていた。一瞬見つめられただけなのに、耳たぶまで熱くなった。


 身を翻した彼女を夢中で追いかけた先で、わたしはもっと信じられないものを見た。

 彼女が笑っている。幸せそうな笑顔を誰かに向けている。

 信じられない、そんなはずない。どうしてか、無性に涙が溢れて止まらなかった。

 だけど、それが真実なら受け入れるしかない。正しい美しさを備えた彼女自身もまた正しいのだから。わたし一人のちっぽけな気持ちは、取るに足りないものだから。

 あの日の衝撃も悲哀も受容も、いつしか薄れて過去のことになった。





 自分がもし那由なゆだったら絶対に自分のことは友達にしない。

 夏休みが明けて早々に、十和子とわこは暗い自己嫌悪に陥っていた。


「でさぁ、ほんとにお盆休みぐらいしかなかったじゃん。何で私たちまだ一年でコンクールにも出られなかったのに、あんなに練習しないといけないのかね。私もうついてけないかも。文化部なのに体操服で外周って意味わかんない」


 自慢のポニーテールを揺らして、那由なゆは十和子の机に肘をついた。怠そうに溜息をこぼし、子犬みたいに黒目勝ちな目で十和子の顔を覗き込んでくる。コメントを求めている目だ。


「……え、えっと。大変だよね」


 十和子も那由と同じ吹奏楽部員なのに、他人事みたいな言葉しか出てこない。以降の台詞が咄嗟に思いつかなくて、十和子は真面目に考えた。来年までにもっと練習して、二人ともコンクールに出られたらいいね、とか。的外れだろうか。那由は練習で忙しくてつらいということを吐露しているのだから、更なる練習の話をするのはおかしいかもしれない。それに、一緒にコンクールに出たいと思っているのも十和子の方だけだったら、こんなことを言われても那由は困るだろう。ここはとりあえず、「わたしも練習しんどい」と同調しておくべきだ。嘘ではないのだし。


「あのね、那由ちゃ」

「でもまー、真面目に練習しないと来年のコンクール出れないもんねえ。十和もがんばろ!」

「……う、うん」


 やっぱり考えていた通りに言えばよかった。半分くらい言いかけた言葉を飲み込んで俯くと、那由は「どしたの?」と眉根を寄せた。


「あうう、あ、あ、なな、何でもないよ」


 十和子はアワアワと顔の前で両手を振った。あっという間に顔がカッと熱くなる。昔から恥ずかしくなったり焦ったりするとすぐこうだ。中学に上がったら今度こそ赤面症をどうにかしようと思っていたのに、結局治っていない。


「あ、あの、那由ちゃん」

「ん?」

「いつもごめんね」


 吐き出された十和子の言葉にぽかんとした後、那由はからから笑った。


「もうさぁ、何で謝るの。誰に謝ってるの。そういうのやめない?」

「……うん、ごめんね。あっ」


 また謝ってしまったことに気づいて十和子がパッと口を塞ぐと、呆れたように苦笑された。那由は立ち上がって十和子の頭をくしゃくしゃ撫でて、ぽんぽんと軽く二回叩いた。那由の行動の意味がわからず、今度は十和子がぽかんとしたら、那由はにっと笑った。


「私たち、友達でしょ」


 そう言って、那由は窓際の席に行ってしまった。


「たまきー、おはよ」

「うわっ、あんた寝癖ひどくない? 感染るからあっち行け」

「寝癖ってうつるん?」


 二人の冗談を含んだ楽しそうな会話が聞こえてくる。心なしか、那由の声は十和子と話している時よりも弾んでいるように感じられる。


 どうして那由は自分に構ってくれるのだろう、と十和子は常に思っている。

 若槻わかつき那由なゆ手柴てしば十和子とわこに接点はあまりない。同じC組のクラスメイトで、吹奏楽部員。それぐらいだ。那由はホルンパートで十和子はトロンボーンパートだから部活で話すこともないし、席が離れているから班活動で一緒になることもない。出身校だって違う。気さくで調子の良い那由には友達がいっぱいいるので、わざわざ十和子に話しかける理由もないはずだ。でも、授業が終わると那由は真っ先に十和子の席まで来る。いつも那由にばかり手間をかけさせていては申し訳ないから、偶には十和子の方から遊びにいこうと思うのに、そういう時に限って那由の机の周りには他の子がいっぱいいる。クラス委員の智春のようなクラスの中心、とまではいかなくても、皆から満遍なく愛される人なのだ。


 夏休み前、話しかけてくれる理由を那由に尋ねてみたことがある。どんな風に訊いたかは忘れてしまったけど、那由はちょっと怒ったようだったから、きっと十和子は無神経な言い方をしたのだろう。


「ほら、奏斗とか将人とか、うるさいでしょ。万寿小出身って男子も女子もああいうやつらばっかりなの。もう飽き飽きしてんだよね」


 だからおっとりしてる十和は癒しだし、貴重なんだよ、と那由は言った。その言葉も十和子を慰めているようにしか聞こえなかった。

 明るい那由のことは勿論好きだし、那由のお陰で十和子は一人にならずに済んでいる。本当に感謝している。だけど、ひょっとしたら、那由は友達ができそうにない十和子のことを気遣ってくれているのかもしれない。本当は十和子なんかと話しても全く楽しくないんじゃないかと思うと、すごく申し訳ない気持ちになるし、そう思ってはいても結局那由に頼ってしまう自分にほんの少し惨めさを覚える。

 那由が心の底で十和子をどう思っているか知りたい。やっぱり知りたくない。

 せめて那由の為に、すぐ謝ってしまう癖だけは直さないといけない。





 始業式が終わってから結構時間が経った。チャイムは鳴っているのに、日野先生はなかなか教室に来ない。筆箱をかちゃかちゃ開けたり閉めたりしながら、左斜め前の席の奏斗が後ろを向き、左側に投げ出すようにして脚を組んだ。


「知ってるか? 今日転校生が来るんだぜ」


 奏斗の大きい声は静かな教室によく響く。あからさまに反応はしなくても、クラス全体がどことなくソワッとした。


「は、マジか。二学期から来るとかそんなんあるの?」


 将人が興味津々で机に身を乗り出すと、奏斗は得意気に人差し指を振った。


「それがあるんだってさ。オレさっきその子と話したもん、なあ? 玲矢」


 奏斗はぐいっと身を反らして、少し離れた席にいる玲矢に声をかけた。話を振られた玲矢はにっこり笑って頷く。


「日野先生も言ってたから間違いないよ。学校全体への紹介は始業式じゃなくて来週の全校集会でやるんだってさ」

「ねえ玲矢ぁ、それって女子? 男子?」


 前の方の席から千紗が甲高い声を上げる。みんな内心知りたかったのか、玲矢の返答を聞こうとして、奏斗の発言で少し騒がしくなった教室がまた静まり返った。

 アンダーリムの眼鏡の奥の目を細めて、玲矢は答えた。


「女子だよ。名前は――」


 玲矢がその先を言う前に、教室のドアが開いた。好奇心によって緊張を高められたクラスの空気が、強制的に緩んだ。


「はい、皆さんおはようございます。遅くなってごめんなさいね」


 いつも通りの挨拶に少しの謝罪を加えて、日野先生が教室に入ってきた。先生の後ろを、紅黄中のものではない制服を着た女子生徒がついてきている。誰かが口笛を吹くのが聞こえた。

 教壇の上に立った日野先生の隣に、転校生も並んだ。

 黒い服に白のセーラー。二つに結わえた長く艶やかな髪。丹念に磨き上げられた宝石のような瞳。


(……?)


 初対面のはずなのに、何故か既視感がある。


「既に知っている人もいるかもしれませんが、今日からC組に新しいクラスメイトが入ってきます。では、軽く自己紹介をお願いします」


 先生に促されて、彼女は教卓の前に立った。真っ直ぐ前を向き、教室の後ろの方を瞬きもせずじっと見つめたかと思うと、徐に口を開いた。

 決して大きくはないのによく聞こえる、同級生にしてはややハスキーで芯の強い声。


「鬼城真夜です。花浜中学校から転校してきました。前の中学校では美術部に所属していました」


 ――きじょう、まよ。

 十和子は心の中で復唱した。

 鬼城という名前を、十和子は知らない。だけど、真夜のことは知っている。

 さらに何かを言いたげな目で数秒間、真夜は虚空に視線を漂わせたが、結局ありきたりな言葉で挨拶を終わらせた。


「……よろしくお願いします」


 真夜が折り目正しく頭を下げて、大仰な拍手の音が教室を包んだ。

 十和子は真夜のことを知っている。

 早乙女真夜は、十和子が小学生の時の同級生だった。

 彼女の外見を、声を、名前を、たった今まで忘れていた自分に、自分でショックを受けた。





 十和子が生まれた土地は紅黄市ではない。同じ県内にある、紅黄市よりずっと自然豊かな田舎町――花浜町が、十和子の故郷だった。小学校二年生の春、父の仕事の都合で紅黄市に引っ越してくるまで、十和子は花浜町に住んでいたのだ。

 正直なところ、物心ついた頃から引っ込み思案で赤面症だった十和子は、あの町が苦手だ。祖父母の家があるので、引っ越し後も何回かは行ったことがあるが、「近所の人みんな家族」の距離感で知らない人が話しかけてくるのに耐えられなかった。小学校にも良い思い出はない。成績も運動神経も悪く、取り柄もなかった十和子の唯一の趣味が読書。一年生の時から既にクラスで踏ん反り返っていたいじめっ子に目をつけられないように、休み時間は息を潜めて図書室に直行し、誰とも話さず黙々と本を読んでいた。


 だが、個を殺して無色透明な日々を送っていた十和子にも、憧れている存在があった。

 同じクラスの物静かな女の子、早乙女真夜だ。

 初めて真夜と出会った日のことを、十和子は今でも思い出せる。入学式の日、新入生の中で誰よりきらきら輝いている女の子がいた。周りの大人も彼女を見ながら妬ましそうにひそひそ話していたから、誇張のない客観的事実だ。

 大きなリボンがついたシンプルな紺のワンピースを着ているだけなのに、彼女は飛び抜けて綺麗だった。絵本の中のお姫様みたいだと、幼い十和子は直観的に思った。お姫様は周りの視線に一切興味がないようで、入学式の間中つまらなそうに体育館の天井を見上げていた。誰も彼女に寄りつこうとしないのが、ますます彼女の気高さに拍車をかけた。高貴なお姫様に話しかけるのは誰だって躊躇われるだろう。


 クラス名簿から早乙女真夜という名前を知って、いっそう彼女のことが気になった。さらりとしていて冷たくて、彼女にぴったりの名前だ。

 十和子の席がある列の一番前に、真夜は座っていた。教室の後ろから彼女の後頭部を見つめる日々がしばらく続いたが、入学式から一ヶ月が経過した五月の頭、十和子はとうとう意を決して彼女に話しかけた。

 真夜が十和子と同じように図書室に通っていることを、十和子は当然知っていた。真夜は十和子が当時まだ読めなかった文字がたくさんある本から、十和子が好んで読むような海外の絵本まで、選り好みせずに何でも借りているようだった。お姫様と同じ趣味があることが嬉しくて、誇らしくて、本を読むのがますます楽しくなった。

 十和子は図書室で本を探している真夜に、横から声をかけた。


「あっ、あの。 そそ、それ、面白いよね」


 十和子は真夜が手に持っている本を指差していた。十和子も読んだことがある有名な絵本だ。というか、真夜が既読の本に手を伸ばすタイミングを、十和子はずっと窺っていた。ばくばくする心臓を押さえて、十和子は真夜の反応を待った。

 ところが。真夜は答えるどころか、十和子の顔に一欠片の視線を向けることもなく、背筋を伸ばしてすたすたと歩いていってしまった。

 休み時間の終わりを知らせるチャイムが鳴って我に返るまで、無視されたのだ、ということに十和子は気づかなかった。

 家に帰ってから一晩中泣いた。


 それからしばらくは真夜の方を見るのもつらい日々が続いたが、一度冷静になったことで、真夜が周りからどんな風に見られているかをやっと知ることになった。気難しくて、何を考えているかわからないひとりぼっちの女の子。話しかけて無視されたのも十和子だけではなかった。彼女と同じ保育園出身の人が「いつも睨み付けてくる」「あの子怒るとすぐ殴る」「友達いらないんだよ」と吹聴していることも、真夜が孤立する原因の一端のようだった。

 十和子には、真夜が誰かを睨んでいるとは思えなかった。嫌悪や好意といった人間らしいものは、真夜の瞳に宿っていなかった。関心を持って読んでいるはずの本にさえ、真夜はほとんど集中していないように見えた。


 真夜は、透き通った神聖な無関心をあまねく世界に向けていた。群衆を無感動に見下ろすお姫様みたいに。

 無能な生徒を除け者にする先生とも、出来の悪い娘を詰る親とも、鈍くさい同級生を嗤うクラスメイトとも、真夜は違う。真夜は誰のことも差別しない、とくべつな人なのだ。何も語らない真夜の視線を自分に都合よく解釈した十和子は、彼女の無関心に一方的に浸るようになった。ガラスケースの外から誰のものでもない宝石を眺める思いだった。


 五月の終わりからしばらくの間、真夜は学校を休んだ。「真夜ちゃんのお父さんは『ひとごろし』なんだって」を筆頭によくない噂がいくつも広まり、真夜が義家族のもとで暮らしていることが知れ渡っても、十和子は全く気にしなかった。そんなことで真夜の視線の価値は変わらないと信じ切っていた。不謹慎だけど、ますます童話の中のお姫様みたいになったとすら思った。





 席替えは学期ごとに行われる。月ごとにやっているクラスが多いのだが、C組では日野先生の「学期を通して同じ班で活動することで絆を深めましょう」という意向でこうなっていた。十和子にしてみれば勘弁してほしい。現在同じ班の奏斗はいつも騒がしいし、千紗はちょっと怖いし、心良は幽霊みたいでさらに怖い。ようやく離れられると思うとほっとする。

 普段は静かでおとなしいC組の生徒たちも、席替えの時は結構騒々しい。くじを引いては一喜一憂するクラスメイトの声に熱がこもっていた。


 十和子がくじを引く順番も早めに回ってきた。二学期は平穏無事に過ごせますように。普通っぽい人と同じ班になれますように。できれば那由と同じ班になりますように。願いを込めて引いた番号は二十一番。教室の真ん中の方の席だ。

 座席表が描かれた黒板に自分の苗字のマグネットを貼っていると、右側からにゅっと日焼けした腕が伸びてきた。


「おっ、手柴さんオレの後ろ?」

「ひっ」


 十和子の前の席に「笹村」と書かれたマグネットを貼りながら、奏斗が白い歯を見せて笑った。


「ラッキー! 授業中寝ちゃったらノート見せてね。二学期もよろしくなっ」

「う、うん……」


 離れるどころか更に近くなるとは、ついてない。眩いオーラにあてられて十和子が委縮してると、奏斗の後頭部をぺしりと叩く手があった。


「げえっ、委員長」

「奏斗くん、寝る前提なの? 練習が忙しいのはわかるけど、もっと真面目に授業を聞かないとだめだよ」


 自分のマグネットを二十六番――奏斗の左隣の席に貼って、智春が叱責した。


「委員長、オレにだけ厳しくねえ?」

「奏斗くんだけが不真面目だからです!」

「じゃ、委員長がノート見せてよ」

「あたしの話聞いてた?」


 黒板前で言い合いを始めた二人からじりじり後退していると、背中を受け止められた。番号が書かれた紙を持った那由だった。


「十和、災難だねえ。また離れちゃったし」

「うそっ、那由ちゃん何番?」

「六番。内職はしやすいかな」


 廊下側の一番後ろの席だ。一学期の時よりは若干近いが、それでも遠い。十和子の気分がどん底まで落ち込んだ。那由は励ますように十和子の肩を背中を叩いてくる。


「まーまー、元気だしなって。ほら見なよ、十和の隣は玲矢だぞ」

「あ……ほんとだ」


 さっきは気づかなかったが、新しい席の隣には既に玲矢のマグネットがあった。十和子の不安がほんの少し和らぐ。玲矢なら、奏斗が調子に乗っていても適度にたしなめてくれる。千紗のようにペア活動で嫌味を言ってくることもないだろう。


「十和の席が占領されてたら私のところに逃げてくればいいよ。ね?」

「うう、那由ちゃんありがとう……」

「おー、よしよし」


 那由に頭を撫でられる十和子の視界を、漆黒が過った。

 十和子は思わず那由から離れて目で追う。転校生の真夜が、智春に話しかけられていた。


「鬼城さんのマグネットはまだないから、名前を書いてね」

「わかった」


 短く受け答えをする真夜に、十和子は目を見開いた。

 あの、真夜が。ちゃんと反応している。しかも、初対面の人に!

 真夜のしなやかな手がチョークを掴み、コツコツと音を立てて名前を書いていくのを凝視していると、十和子の目の前で那由がひらひらと手を振った。


「おーい、大丈夫? どっか飛んでない?」

「……あう、那由ちゃん」

「さっきも転校生ちゃんのことじっと見てなかった? 確かにびっくりするくらい可愛いけどさあ、そんなに気になる?」

「え、えっとね」


 真夜と小学校の時同級生だったことを、耳元でこっそり伝えると、那由は「えー!?」と大声を上げた。


「すごーい! 何で話しかけないのっ?」

「い、いや、友達だったわけじゃないから……」

「向こうも覚えてるかもじゃん。ねえねえ、そこの転校生!」


 那由に片手を引かれて、十和子は真夜の前に引きずり出された。あの頃と変わらない、真夜の輝く瞳がこちらを向く。どこにも向かないはずの、真夜の目が。


「この子ねえ、手柴十和子って言うんだけど、鬼城さんと一緒の小学校だったんだって。覚えてる?」

「な、なゆちゃ、あの、あの、まっ、待って」


 全身から汗が噴き出て、顔から火が出るのを感じながら、十和子はアワアワと那由の後ろに隠れた。真夜の瞳がじっと見つめてくる。返答を聞くのが怖い。ここから逃げ出したい。


「あの、おおお、覚えてないと思、だからっ、気にしな」

「知らない」


 十和子の言葉を遮って、真夜は真顔で答えた。

 覚えてない、ではなく、知らない。

 流石の那由も一時ひるんで、「……あーっと、そうなんだ! ま、これから仲良くなればいいよね!」とフォローらしきものを始めた。那由が騒ぎ立てたからか、なんだなんだとギャラリーが集まってきた。十和子は内心半泣きでもうやめて、と言いたくなる。


「私、若槻那由。吹奏楽部! こっちの十和も吹部。あ、私は十和子のこと十和って呼んでるんだけどね」

「待って」


 那由のフォローをすっと手で制したのは、まさかの真夜だった。


「今思い出す。少し考えさせてほしい」


 思いもよらない真夜の発言に、十和子も那由も目をぱちくりさせた。真夜は記憶を探るような顔になって、しばらく黙り込んだ。現実時間にすれば数秒間の静寂が、十和子には数百年にも感じられた。

 真夜は至極真剣な顔で、視線から逃れようとする十和子の目を捉えた。


「ごめんなさい。やっぱりきみのことは知らない」


 さっきよりもゆっくりと、きっぱりと、誠実に言い切られる。沈黙の分も合わせて、十和子は二重にダメージを負った。





「過去は忘れるもの! 未来はこれから作るもの!」という那由の一声にほとんど強制される形で、十和子は一日中真夜に接触し続けた(実際に話しかけていたのは那由だったが)。

 学校を案内しようかと言えば「もう覚えた」、好きなアーティストを尋ねれば「特にない」、紅黄中でも美術部に入るのかと問えば「決めていない」、家はどの辺にあるのと訊けば「教える義務はない」。


「鬼城さん! 親睦を深める為に一緒に帰ろう!」


 放課後の教室。「親睦」を殊更に協調して、最早やけくそ気味に伸ばされた那由の手を、真夜はすげなく拒絶した。


「私に構わなくていいから」


 紅黄中指定のものではない鞄を両手に持ち、真夜は風のように教室から去って行った。

 一部始終を見ていた堂馬どうまたまきが、可哀想なものを見るような目で近寄ってくる。


「よく頑張るね。諦めた方がいいんじゃない? 多分あの美少女、あんたたちのことどうでもいいと思ってるよ」

「だ……だって、いつもおっとりしてて恥ずかしがり屋で引っ込み思案な十和が、誰かを熱っぽく見つめることなんて初めてだったからさ……ここは親友としてなんとかしてあげないとって思って」

「ありがとう……でも、もういいよ」


 那由がそこまで十和子のことを考えてくれているとは思っていなくて、目に涙が滲んできた。納得していない顔で「だけど」と言う那由に、十和子は微笑む。


「あの子は……真夜ちゃんは、あれが普通なの。ううん、あれが正しいの」


 他人に興味を持たない、誰にも媚びようとしない真夜に、十和子は憧れた。あれこそが、十和子の焦がれた真夜だった。那由にはわからないだろう。

 那由は心配そうに十和子を見返す。


「私、お節介だった?」

「そんなことないよ! すごく嬉しいよ、那由ちゃん。あ、あと、親友って言ってくれたのも、嬉しかった。ありがとう」


 十和子が両手を握りしめて一生懸命に礼を言うと、那由は頬を掻いて照れくさそうに笑った。和やかな雰囲気になった空間を、「ていうかさ」と環の機嫌の悪そうな声がぶった切る。


「あんたしれっと帰ろうとしてたけど、うちらは今日も練習あるんだからね。体育大会まであと何日だと思ってんの」

「ぐう……環様の目は誤魔化せなかったか」

「馬鹿め。三年生引退したばっかりでしょうが。C組吹部でサボろうとしてるのはあんたぐらいだよ。殴ってでも連れていく」


 右手を掴み、嫌がる那由を引きずっていく環が、教室の入り口付近で振り返った。


「何してんの十和子。あんたも行くよ」

「あ、うん。ごめんね」


 環に急かされた十和子は慌てて鞄を片付けながら、頭の片隅でまだ真夜のことを考えていた。





 波乱の始業式から二週間弱が経った。実際には、間にもっと波乱の出来事――盗難事件があって、魚の小骨が喉に引っかかったような微妙な空気が広がっていたのだが、週が明けると「一応解決はしたし、嫌なことをわざわざ蒸し返すのもなあ」というC組的事なかれ主義が作用し、再び日常が戻ってきた。


 体育大会準備の興奮に呑まれた、とも言える。十和子にとってはあまり喜ばしくない。

 休憩時間と名の付くものをほとんど読書で消費してきた十和子は、当然運動が大の苦手である。十和子が吹奏楽部に入ったのは那由に誘われたからで、文化部の皮を被った体育会系っぷりに地獄を見たことは言うまでもない。たまに体操服で外を走らされると、大抵同じクラスの唯織いおりと一緒に最後尾を走っている。

 体育大会の種目に学年別クラス対抗全員リレーがあると知って、十和子はひたすら憂鬱な気持ちになった。団対抗リレーが既にあって、体育大会の目玉は絶対にそちらなのに、わざわざ全員で走る必要はあるのだろうか。C組の生徒は足が遅い人を表立って詰ったりはしないだろうが、十和子のせいで他のクラスに追い抜かれたらと思うと、その状況を想像しただけで冷や汗が出てくる。


 今日の体育の授業は、そのクラス対抗リレーの初練習だ。残暑厳しい太陽の下、校庭の地面に体育座りをして、十和子も那由と共にリレーの列に並んでいた。順番が回ってくるまでの時間に十和子がつい不安をこぼすと、那由は眩い笑顔で十和子を励ました。


「大丈夫だって! C組足速い人多いじゃん。峯仁みねひとでしょ、奏斗でしょ、玲矢でしょ。女子ならはるかも速いよね。十和がちょっと遅れるぐらい平気だよ」

「そうかなぁ……」


 言いながら、十和子はグラウンドの反対側に目をやった。真夜が並んでいるのはあちらの列だ。遠くてここからではよく見えないが、真夜が列の前の方にいるらしいのは辛うじてわかった。そろそろ順番が回ってくる頃だろう。

 真夜は十和子と同様に運動が苦手だったはずだ。授業中のプリントは無表情にさらさら解いていた真夜も、体育の授業は若干憂鬱そうな顔をしていた覚えがある。昔の十和子は無邪気に「お姫様だから外を走り回ったりしないんだろう」と思っていた。今考えてみるとなかなか恥ずかしい。


「鬼城さんってさ、足遅そうだよね」


 十和子の思考を読んだのか、那由が十和子の肩越しに向こう側を見て言った。


「ド文系っていうか、文学少女っていうか。そんな感じしない? 美術部って言ってたし」

「確かに、速くはなかったかな」


 那由の直截な物言いに苦笑いしつつ、十和子は答える。


「わ、わたしも、人のこと言えないけど……」

「やー、意外とわかんないよ。四月から五十メートルのタイム測ってないじゃん。部活でいっぱい走ったし、ちょっとは縮んでるかも」

「だといいねえ」


 那由と他愛ない会話をしている内に、真夜がスタートラインに立った。十和子たちの側から走り出したのは遼だ。綺麗な姿勢でグラウンドを駆け抜けていく。流石に陸上部期待の星と言われるだけのことはある。走り姿に皆が注目する暇もほとんどなく、遼は反対側まで辿り着いた。

 まず、差し出されたバトンを、真夜が取り落とすことなく受け取ったことに驚いた。

 十和子も那由も、おそらくその場にいた全員が、すぐに気づいた。真夜の走りが想定していたものと違うということに。


「おっ……と。なんか、話と違くない?」


 戸惑う那由に、十和子は相槌すらも打てなかった。

 速い。

 十和子なんかとは全く比べものにならない。見かけに寄らず、というレベルでもない。明らかに運動部の女子より速いのだ。もしかすると、遼と張れるかもしれない。

 長い髪を九月の風になびかせて、真夜は颯爽と走ってくる。振動が足元まで伝わる。十和子の鼓動もむやみに早めていく。

 次の走者の将人が感心したように「すげえなあ」と月並みなコメントを述べた。

 速度を落とすことなくカーブを曲がった真夜は、直線的にここまで向かってきた。将人が差し伸べる手に、真夜はバトンを渡そうとする。


「……あっ」

「やべっ」


 真夜と将人の焦った声が同時に聞こえた。将人がバトンを取り落としてしまったのだ。

 落胆よりも安堵に近い空気が流れる。ふう、と誰かが息をついた。

 将人が「すまん!」とバトンを拾い上げて走っていく。真夜は特に気にした様子もなく、しばらくその場で真っ直ぐ前を見ていた。


 那由が隣で何かを言っているような気配がしたが、十和子の耳には届かなかった。立ち上がり、夢うつつに真夜の側に駆け寄る。コースから離れた真夜の顔に疲労の色はなく、彼女は呼吸一つしていないように見えた。強い光を放つ真夜の瞳が、「あの夏の日」と同じように十和子を捉えた。


 何も見ようとしなかった少女が、何かを見ようとしていた。何かを見つめていた。


 ああ、やはりわたしが憧れたお姫様はもういないのだと、十和子は悟った。六年前に十和子の心を突き破ったその事実は、改めて確かめてみると、どうしてあんなに悲しかったのかわからないほど、すとんとおとなしく十和子の胸に落ちてきた。


「……真夜、ちゃん」


 再会して初めて、十和子は真夜に自分から話しかけた。


「足、速くなったんだね」


 無視されても、冷たく返されても構わなかった。

 だが、真夜は額の汗を手の甲で拭うと、もう一度十和子を鋭い視線で射抜いた。桜色の唇から、落ち着いた声が零れる。


「頑張ったから」


 それで終わりかと思えば、真夜はまだ言葉を紡ごうとしていた。十和子は無言で待った。

 真夜は水色の空に右手を伸ばした。天を掴むように手を大きく広げ、眩しそうな顔をする。


「二度と、置いていかれないように」


 変わらない美貌と崇高さを抱えたまま、確かに変わってしまった少女は、空に向かって言い放つ。


「見失わないように。見失っても、追いつけるように」


 十和子は両手を握りしめた。真夜が何の話をしているのかはわからない。けれど、きっと真夜は何かを見つけたのだろうと思った。


 何も見ていない彼女の目が好きだった。世界を平等に愛する冷たいお姫様に憧れていた。

 そして、彼女が変わり果ててしまったことを、今は嬉しいと心から思えることが嬉しかった。


 返事の代わりに、十和子は別のことを尋ねた。


「今でも、本を読むの?」


 真夜は腕を下ろし、唇を噛んだ。「本は、」言いかけて、少し黙る。


「本は、あまり読まなくなった」


 顔を伏せて、十和子の横を通り過ぎる。数歩歩いてから、真夜はかぶりを振って立ち止まった。


「……ううん、これからはもう、読まない」





 図書館の中を、真夜は早足で歩いていった。十和子は真夜に気づかれることも厭わずに、無我夢中で追いかけた。

 新聞コーナーなんてところに何の用があるんだろう。不思議に思った十和子の耳に、知らない声が入ってきた。


「あっ、まよちゃん見て見て! 新聞がたくさんあるよ!」


 真夜はぱたぱたと声の方向に近づき、後れ毛を耳にかけて新聞を覗き込んだ。


「新聞、読めるの?」


 そう言ってくすくす笑う真夜を見て、違う、と十和子は唇を震わせた。

 あれは、自分の知っている冷たいお姫様じゃない。お姫様は、自分から誰かに話しかけたりしない。幸せそうに笑いかけたりしない。


 ――あの子を変えたのは、誰?

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