20話 猫と願いとラムネいろ③
「嘘のような、本当の話って、こういうことだったんだね」
*
ベッドの枕元に、「鬼城真夜」と書かれたプレートが貼ってある。
最初に認識できたのはそれくらいだった。
「西村さん、お食事の時間ですよ」
看護師と思われる人が、私の隣のベッドに寝ているおじいさんに話しかけている。左手の上には、あまりおいしそうには見えない病院食が乗っていた。
私は少しも動かずにただ自分の名前のプレートを見ていたので、看護師は私が起きたことにしばらく気づかなかったようだ。西村さんのベッドを起こして、机に食事を置いた後、ようやく私に声をかけた。
「あ、鬼城さん。起きたんですね」
「……はい」
早乙女です、と訂正する気力は残っていなかった。
「どこか痛むところはありますか?」
「口の中が痛いです」
「歯が数本折れましたから。乳歯でよかったですね」
看護師のおざなりなフォロー。何がいいもんか、歯が折れるなんて大変なことだ。どうりで血の味がすると思った。
血の――。
お母さんの顔が頭に浮かんでまた吐き気がしたが、目の前にいる看護師に悟られたくなかったので堪えた。ポーカーフェイスも作った。
ついでに、白い包帯でぐるぐる巻きにしてある左足を指差して尋ねてみた。足もずきずきして痛いのだ。
「これ、何ですか」
「左足が折れてるので、その治療中です」
看護師は会話を止めるように言葉を切り、「ついさっき帰られたばかりなので、お母さんまだいらっしゃると思いますよ。呼んできますね」と病室を出ていった。
私は部屋の中を見渡した。白くて何もない部屋に、ベッドが四つ。私は窓際に寝かせられていた。窓にはカーテンがかかっていて、外の景色は見えない。廊下からはスリッパのぱたぱたという音、隣のベッドからはスプーンと食器が擦れ合う音。あとは何もなくて、私は早々に調査を終えてしまった。
枕元には小さな置時計と、おばあさんがくれた浴衣、三人で撮った写真が置いてある。私はそれらを無感動に見つめた。
何をする気にもなれなくて、というか何かをするために何かを考えることも億劫で、時計の秒針を目で追っていたら、五周したところで巴さんがやってきた。
巴さんは私を見ると、ほっと息をついた。
「真夜ちゃん、目が覚めてよかったわ。心配してたのよ」
それ以上のコメントはない感じだ。私も「はあ、ご心配おかけしました」とコメントを返す。本当だ、それ以上特に言うことがない。
巴さんは、気まずそうな顔で何かを言いかけてはやめ、言いかけてはやめを繰り返した後、「怖かったでしょう」とだけ言った。コメントはないんじゃなかったのか。
「……怖くないです」
私は俯いて、何とかそれだけ絞り出した。
巴さんが言っているのは、私が階段から突き落とされたことだろう。そんなこと、私にとってはどうでもよかった。あのまま死ねばよかったんじゃないかとさえ思っていた。
それより、もっと大切なことがある。
「心良くんは、どこにいますか」
「うら……」
一瞬視線をさまよわせ、「ああ、双子の片方」と巴さんは納得した。
「一時間くらい前に、お母さんが迎えにきてたわ。ご実家に帰ったみたい。真夜ちゃんにごめんなさいとお伝えくださいって」
それは二人のお母さんの言葉だろう。「心良くんは何て言ってたんですか」
巴さんは困ったように手を頬に当てた。
「ええと……双子のどっちかは知らないんだけど、どっちかがね。階段の上でふざけてたらうっかり肩を押してしまったって。ごめんねって、言ってたそうよ」
「そう、ですか」
なるほど、そういうことになったんだ。じゃあもうそういうことでいいです。どういう状況で私が突き落とされたかは、何だって構わない。私が一人で勝手に落ちたことになっていても、文句は言わなかったと思う。
巴さんの言葉を反芻していると、「……ん」違和感に気づいた。
「双子のどっちかって、それ二人のお母さんが言ったんですか?」
「え、ああ、そうね」
巴さんは微妙に歯切れが悪くなって、次のように言った。
「そうね、お母さんが言ってた。双子のどっちかはわからないけど、ともかくうちの子がご迷惑をおかけしてすみませんって、そう言ってたわ」
私は絶句した。掛布団の中に突っ込んだ両手を、ぎりぎりと握った。
どうして――どうして、二人のお母さんも、巴さんも、玲矢くんも、心良くんも、平気でそんなことが言えるんだろう。
心良くんと玲矢くんのどっちでもいいなんて、そんなことあっていいはずがない。心良くんも玲矢くんも、一人一人の人間だ。全く別の人だ。
私たち三人だけが知っている。そして他の誰も、それを知ろうとしない。
私を階段から突き落としたのは、心良くんだ。
この目で、ちゃんと確認した。私が心良くんと玲矢くんを見間違えるわけがない。あの時階段の上にいたのは、本物のお月さまだった。
心良くんがどうして私を突き落としたのか。そんなことはどうでもいい。
一番大切なことに、私は気づけていなかった。
(……私は、心良くんの笑顔に、近づきたかった)
知りたかった。触れたかった。手を伸ばしたかった。心良くんの笑顔を、自分のものにしたかった。
だけど、そう思ってしまったことこそが、私の犯した間違いであり、最大の罪だった。
肩を押されて階段から落ちる直前、私は心良くんの顔を見た。
心良くんの顔には、私が救いを求めて焦がれて縋った笑みは無く――私があの夜に直面したものに近しい絶望と、深い悲しみと、諦めがあった。
私が関わらなければ、心良くんがあんなことをする必要もなかった。
全部私が悪いのだ。あんな顔をさせるくらいなら、初めて心良くんの笑顔を見た日、そのまま家に帰ればよかった。心良くんの笑った顔を見た時、周りに見えた闇は、きっと私自身のものだ。私は心良くんの笑顔を抱えて、ずっと一人きりで真夜中に生きているべきだった。
私は全身全霊をかけて、一生に一度のお願い事をした。
神さま、どうかお願いします。
心良くんと仲良くなりたいと思ったこと、
心良くんに触れたいと考えたこと、
心良くんとずっと一緒にいたいと祈ったこと、
すべてを、無かったことにしてください。
その代わり、私の夜の中に、これからもずっと、心良くんの笑顔を抱えさせてください。お月さまに、あの眩しい笑顔を返してください。
私の願いが叶うのなら、私はどうなっても構いません。
――願った、はずだったのに。
*
六年後の九月。
心良くんのはずなのに、心良くんではない誰かが、私の前に立っている。
「……っ、なん、で」
六年間、私は一度も心良くんに会おうとしなかった。
心良くんが紅黄市に住んでいることは知っていた。巴さんに訊けば、網瀬家の連絡先を教えてもらえる可能性もあった。私は何度も、実行に移そうとした。
どちらもできなかったのは、また私が心良くんと関われば、心良くんの笑顔を消してしまうかもしれなかったからだ。今話しかけているのだって、本当はしちゃいけないことだ。心良くんが元気でやっていることだけ確認して、終わりにするつもりだった。
なのに、現実はこうだ。私は何もしなかったのに、心良くんはこんな有様になっている。
「心良くん……どうしてっ……」
どうして、なんで。そんな言葉しか出てこなくて、私は廊下の床に目を落とした。
沈黙を破ったのは、私の背後から現れた知らない男の子だった。
「わあ! すっげ!」
快活な声に、私はつい心良くんの後ろに隠れる。
私と同じ学年の男の子のようだ。ネームプレートには「笹村」と書いてある。
「なあなあ、転校生? だよな?」
「は?」
私の田舎くさいセーラー服を見て言ったのかもしれないが、あまりにも唐突な台詞に私は面食らった。笹村くんは振り返って、「やっぱりなんか知ってただろー! イカサマはずりいぞ玲矢!」と叫んだ。
一体何が始まったのだろう。思わず後ずさりしながら逃げ出しそうになって、
「……ちょっと待って、きみ今玲矢って」
聞き捨てならない名前が出たことに気づいたのと、笹村くんの後ろから本人が現れるのと同時だった。
「……れい、」
「失礼だなあ。本当に知らなかったって。偶々だよ、偶々」
私が名前を言い終わる前に笹村くんと話し始めた。彼は紛れもなく、あの玲矢くんだった。
驚いたのは、私より少し背が高いこと。心良くんと身長が違うのだ。おまけに顔には赤い縁の眼鏡まであって、今の心良くんとは全然印象が違った。
玲矢くんは私を見るなり、完璧な笑顔を見せた。
腹の底から、今まで感じたことのない怒りのようなものがこみ上げてくる。
どうして心良くんは笑っていないのに、きみはあの頃より遥かに本物に近い顔で笑ってみせるの。
「初めまして。俺は網瀬玲矢。日野先生に、二学期からC組に転校生が来るってことだけ聞いていたんだ」
「オレ、笹村奏斗! よろしく!」
玲矢くんまで、まるで初対面のようなふりをする。
本当に覚えていないの? 私は一度だって忘れたことはないのに?
玲矢くんは私の前で棒のように突っ立っている心良くんを見ると、くすりと笑った。
「そろそろホームルームが始まるよ。行こうか、兄さん」
私はギョッとした。「兄さん」? あの玲矢くんが心良くんに、「兄さん」だって?
衝撃と困惑の連続で二の句が継げなくなっている私を一瞥もせずに、心良くんは私の横を通ってとろとろと歩き始める。
「まっ……」
「それじゃね、転校生ちゃん。C組で待ってるぞー」
心良くんと同じ方向に駆け抜けていく笹村くんの後を、玲矢くんもついていく。
玲矢くんとすれ違う一瞬、廊下の窓から吹いてくる夏の終わりの風に混じって、嘲笑を含んだ声がした。
「ラムネの瓶を割ったんだね」