19話 猫と願いとラムネいろ②
早乙女真夜。ぼくたちと同じ小学一年生で、六歳。誰より長い髪と、小麦色の肌の女の子。
まよちゃんは最初から花浜町に住んでいた。ぼくたちにとってこの町は「おばあちゃんが住んでいる町」だったし、てっきり子どもはいないと思っていた。まよちゃんは、ぼくたちがこの町で最初に出会った同い年の子だった。
まよちゃんは本が好きらしい。いっつも青色のトートバックの中に本を何冊か入れてやってくる。なのに、いっつも出さないまま帰る。ぼくは両方気づいているけど、まよちゃんが何も言わないので気にしないことにしている。
あと、まよちゃんは多分、けっこうかわいい。おばあちゃんも、まよちゃんが帰った後にこっそり「お店で売っている外国のお人形さんみたいな子ね」と言っていた。だからか、ぼくたちと話す時はたいてい真顔だ。
本が好きで、真顔で、長い髪の女の子。これだけ言うとおとなしくて無口な子みたいだけど、まよちゃんは意外とよくしゃべる。暗くて静かな、だけどはっきりした芯のある固めの声で。
笑うこともある。うららくんみたいに大きな声を出すことはなくても、口を押さえておかしそうにくすくす笑ったり、幸せそうににこにこ微笑んだり。
そして、まよちゃんの笑顔はほとんど、うららくんだけに向けられている。
まよちゃんの気持ちは痛いぐらいわかりやすかった。初めて会った時からずっと、うららくんのことが大好きなんだ。うららくんがそれに全然気づいていないのが不思議なくらいだった。
うららくんは明るくて優しくて誰とでもすぐに仲良くなる人だから、うららくんを好きになる人がたくさんいるのは当たり前だ。まよちゃんもその中の一人で、他の人と変わらないとぼくは思っていた。
だからぼくはびっくりした。まさかそんなはずは、って。
「まよちゃん?」
うららくんが少し怯えたことに、まよちゃんは気づいていたのかな。
三人で図書館に向かう、がたごと揺れるバスの中。楽しくお話をしていたうららくんとぼくを遮って、まよちゃんがうららくんの目にゆっくりと人差し指を伸ばすのを、ぼくは最初から最後まで目を動かさず、手のひらにかいた汗を握りしめて見ていた。体は動かないのに、胸の奥にある心臓では熱いお湯がぐつぐつ沸騰していた。
「ぼくの顔になんかついてる?」
「あ……ううん、何もついてないよ」
顔を少し赤くしてへらっと笑ったまよちゃんは、何かまずいことをごまかそうとしているみたいだった。
ぼくには、まよちゃんがうららくんの目を指で突こうとしていたように見えた。
うららくんではなく、他の誰でもなく。
まよちゃんこそが、ぼくと「同じ」なんじゃないか。
まよちゃんもうららくんのことが好きで、ぼくと同じように「壊したい」と考えているんじゃないか。
これはぼくにとって大事件で、宿題も遊ぶのもどうでもよくなってしまうレベルだったんだけど、そんなことうららくんやまよちゃんは知っているわけがなくて、ぼくの考えていることを教えるのもむつかしくて、ぼくだけが一人で大きなショックを受けていた。ぼくの思っていることが他の人にばれないようにするのは得意だったけど、この時ばっかりはぼくがどんな顔をしているのか心配になった。二人には何も言われなかったから、たぶん大丈夫だったんだろう。
ぼくはけっこう、悩んだ。
まよちゃんがうららくんを壊そうとしているなら、ぜったいに、止めないといけない。うららくんを壊すのはぼくだ。まよちゃんがどんなにうららくんのことを好きだとしても、それだけはダメなんだ。うららくんを、あの猫みたいにしてしまうことはできない。
だけど、それと同じくらい、ぼくはまよちゃんのことをもっと知りたいと思った。だって、今までぼくの気持ちをわかってくれそうな人なんて、ほんとうに一人もいなかったんだ。ひょっとしたら、まよちゃんだけは、ぼくの考えていることにうなずいてくれるかもしれない。
ついでに「そうだね、一緒に壊そう?」とか言われたら……いや、それはやっぱり困るけど。でも、ちょっとぐらいなら考えてあげてもいいかも。
ともかく、今まで考えたこともなかった選択肢に、ぼくはすっかり打ちのめされてしまった。
ううん、そもそも、全部ぼくの勘違いである可能性もあった。だからぼくは、すぐに確かめようとした。
ぼくの横で、まよちゃんがしゃぼん玉の絵を描こうとしている。地面にスケッチブックを置いて、左手にしゃぼん玉を乗せて。
まよちゃんが割れないしゃぼん玉を作ろうと言った時は、普通にすごいと思った。そんなものがあるんだぁとびっくりした。しゃぼん玉はぼくにとって、あっという間に壊れてしまうもののリーダーみたいなもので、全然気にしたこともなかったんだ。ぼくが知らない間に、しゃぼん玉は進化していたんだ。
うららくんも、いくら壊しても壊れきらない子だったらよかったのにな。そしたらいつまでも壊していられるのに。現実は厳しい。物も動物も人間も、ちょっとやり方を間違えたら簡単に壊れてしまう。あの猫みたいに。
割れないしゃぼん玉の液を三人で作りながら、「これをうららくんに飲ませたら、うららくんは壊れにくくなるのかな」とぼくは考えた。でも、液を作るのに使った洗剤に、子どもが洗剤を飲もうとしている絵が描いてあって、その上から大きくばってんがつけてあったのでやめておいた。
まよちゃんとうららくんが割れないしゃぼん玉にきゃあきゃあ言っているのを見て、まよちゃんに訊きたいことを思いついた。ぼくはどうにか理由をつけてうららくんを家の中に戻し、まよちゃんと二人きりになったところで、質問してみた。
「われないしゃぼん玉とふつうのしゃぼん玉、どっちが好き?」
ぼくの考えをわかっているなら、これでぴんとくるはずだった。まよちゃんは、いつものきれいな顔を少しだけ困ったようにゆがめて、質問を返してきた。
「しゃぼん玉って、どっちの方が好きとか、そういうものなの?」
まよちゃんはぼくの言いたいことがわからないみたいだったので、もう少しはっきり言うことにした。
「ぼくはねえ、われないしゃぼん玉の方が好き」
「そうなんだ。……なんで?」
まよちゃんはまだ首を傾げている。
ぼくは指を突き出して、まよちゃんの手のひらの上にあったしゃぼん玉をもう一度割った。うーん、やっぱりしゃぼん玉は、割れるものでも割れにくいものでも、突き刺したら割れてしまうらしい。でもまあ、うららくんの言う通り、普通のしゃぼん玉は手に乗せる前に割れるから、割れにくいのは本当なんだろう。
それならきっと、うららくんを壊れにくくする方法も、どこかにあるんだとぼくは思った。
「あのね、われないしゃぼん玉はなかなかわれないでしょ」
「……そうだね」
「だから好き」
「ん、うん? ……うん」
まよちゃんはとうとう、ぼくの質問の意味に気づかなかった。
やっぱり勘違いだったのかなあ、とぼくはちょっとくじけそうになった。よく考えてみたら、まよちゃんは図書館に行った日からうららくんに何もしていないのだ。まよちゃんとうららくんが図書館でお話している時も、ぼくは近くの本棚に隠れて見ていたけど、まよちゃんはうららくんの向かいに座って嬉しそうにしているだけだった。その時は、人が多いからやめておいたんだなとしか思わなかったのに。
でも大丈夫。諦めるのはまだ早い。確かめる方法は他にもある。
うららくんとまよちゃん、それにおばあちゃんを連れていった夏祭りは、そこそこ楽しかった。ぼくの一番の目的は金魚すくいだったんだけど、うららくんの方からやりたいと言ってくれたので、それに乗っかることができた。ぼくは安心した。うららくんがやりたくないものをやりたいと言い続けるのは大変だからだ。
ともあれ、ぼくは大きな金魚を手に入れることに成功した。ポイがどれくらい壊れやすいか気になって、最初の一枚を無駄にしてしまったので、二匹しか捕まえられなかったのは残念だったけど。
ついでにラムネの瓶もゲットした。これはボーナスポイントみたいなものだ。使うかは決まってないけど、一応取っておこう。
やぐらの下に走っていくうららくんとまよちゃんを、ぼくはすぐには追いかけなかった。まよちゃんがやぐらの方をちらちら見ているのはぼくも気づいていたし、うららくんがまよちゃんを見て何かを企んでいるのもわかっていた。やぐらの上からの景色は気にならないこともないけど、今はどうでもいいや。
それよりも、これからの計画の方がよっぽど大切だった。
ぼくはおばあちゃんの横で、ちょうちんにかざしたラムネの瓶がきらきら光るのを眺めていた。近くにいたおばさんたちの話し声が聞こえてきたのはその時だった。
「……ね、あそこにいるのって、早乙女さんのところの娘さんじゃない?」
「ああ、例の」
ぼくはおばさんたちに気づかれない程度に、ちらりと目を向けた。三人のおばさんが、片付け中のお好み焼きの屋台のそばで話をしている。そのうちの一人は金魚の屋台にいたおばさんだ。そんなに大きな声ではなかったけど、内容はこっちまで届いてきた。
耳が遠くてお話が聞こえないらしいおばあちゃんが、ぼくを見てけげんな顔をしたので、「なんでもないよぉ」とにっこり笑っておいた。
ぼくはもう一度耳を澄ませた。今、「早乙女」という名前が出たような気がする。早乙女はまよちゃんの苗字だし、実際に三人はやぐらの下にいるまよちゃんを見ていた。
金魚のおばさんが眉をひそめた。
「あの子が早乙女さんの……知らなかったとは言え、あたし無神経なこと言っちゃったね」
「まだ六歳ってさ。ひどい話もあるもんだ」
ぼくはますます気になった。「ひどい話」? 何の話だろう。まよちゃんはそんなこと、一言も言ってなかった。
ぼくの心の声に答えるように、おばさんの一人が教えてくれた。
「まったくだ。目の前でお母さんが殺されたなんて、下手したらトラウマものだよ」
体のどこかで、ひゅう、と冷たい風が通りぬける音がした。
おばさんたちはまだ何か話していたけど、もう耳には入ってこなかった。今のお話だけで十分だった。ぼくはおばさんたちの言った言葉を、頭の中で繰り返した。
まよちゃんの目の前で、まよちゃんのママが、壊された。
「……へえ」
ぼくは思わず、汗ばんだ両手でラムネの瓶をぎゅうって握りしめた。ぷるぷる震える口の端っこが、そんなつもりもないのに自然に持ち上がった。
へえ、そうなんだ。面白いことを聞いちゃった。
まよちゃんにもう一つ、訊いてみたいことができた。
本当にまよちゃんがぼくと同じだったら、お友達になれるかな。
学校にいるぼくのお友達は、みんなうららくんのお友達だ。うららくんの仲良しさんと、ぼくも仲良くしようとしているだけなんだ。うららくんとぼくは「同じ」なんだから、うららくんのお友達はぼくのお友達でもないとおかしいでしょ?
ぼくに本当のお友達はいない。お友達になりたい人なんて、今まで一人もいなかった。
うららくんさえいればよかった。うららくんを壊すことさえできれば、他には何もいらなかった。
でも、もしかしたら。ぼくと同じ気持ちの子が近くにいたら、ぼくの毎日は今よりもっと楽しくなるかもしれない。
一緒に壊すのは、やっぱりダメだけど。そうだな、「ライバル」なんてのはどうだろう。お話にはライバルがいる。ぼくが主人公で、まよちゃんがライバル。ぼくはまよちゃんからうららくんを守って、ぼくがうららくんを壊すんだ。
ああ、なんだかわくわくしてきたぞ。まよちゃんに出会った時は、こんな楽しいことになるとは思っていなかった。
ぼくはすっかり浮かれてしまって、これから起こるたくさんの楽しいことにうきうきしていた。顔がにやけてうららくんに怪しまれないようにするのに一生懸命だった。
夜中に目が覚めたのは初めてだった。
今何時か、ということよりも、隣にうららくんがいないことにぼくは焦った。暗闇に目を凝らしてみると、うららくんの右で寝ていたはずのまよちゃんまでいない。
やばいと思った。ぼくがいない間にまよちゃんがうららくんを壊してしまわないように、ぼくは今までとても気をつけてきた。やぐらの上や図書館でうららくんとまよちゃんが二人きりになるのを見逃したのも、周りに人がいたからだった。でも、今は家の中だ。おばあちゃんここで寝ている。
部屋のふすまは開いたままになっていた。廊下の向こう側にリビングのドアがある。下の隙間から光が差していて、電気がついているのがわかった。
ソロソロと廊下を進み、ぼくはリビングのドアの手前まで来た。
誰かの声がする。
「…………」
ぼくは息を止めて、廊下の壁に耳をくっつけた。おばあちゃんちの壁は古くて薄いから、こうしていても部屋の中の音が聞こえるんだ。
「私は、心良くんの、笑った顔が好きだよ」
「……わらったかお?」
二人の声と、ぼくの心臓の音が響く。
まよちゃんはうららくんに向かって、確かにこう言った。
「私、心良くんにずっと笑っててほしい。心良くんの笑った顔を、ずっと見ていたい」
その声は、うららくんと同じ声だった。
いつも聞いているから、ぼくにはわかってしまった。
どくん、どくんと脈打っていた心臓が、段々静かになる。寝る前までどきどきわくわくしていたのが、あっという間になくなって、体中に冷めたホットミルクみたいな何かが染み込んでいった。体が冷たいホットミルクでいっぱいになった時、ぼくはちょっとだけ、寂しい気持ちになった。
まよちゃんは、ぼくと「同じ」なんかじゃ全然なかった。
うららくんの笑った顔をずっと見る? そんなの、うららくんを壊すならぜったい無理だ。まよちゃんには最初から、うららくんを壊すつもりなんてなかったんだ。
まよちゃんは、うららくんと同じ側の子だった。
勝手に勘違いしていたのはぼくの方だから、まよちゃんは何も悪くないということはわかっている。腹が立つこともなかった。でも、ずっとまよちゃんを信じていたから、少し裏切られたような気持ちになるのも仕方ないと思う。
やっぱり、ぼくが信じられるのは、信じていいのは、うららくんだけだ。
ぼくは後ずさりをして部屋に戻ると、布団に潜り込んだ。うららくんたちが戻ってきて、すうすうと寝息が聞こえてきても、ぼくは眠ることができなかった。ばっちり目が覚めてしまっていた。
ぼくはこれからの計画をどうするか迷っていた。計画はまよちゃんのことを確かめるためのものだったから、もう必要なくなったのだ。
せっかく準備したんだから、ここでやめるのはもったいない。ぼくはそう考えて、結局予定通りに進めることにした。
「まよちゃん、まよちゃん、起きて」
耳元でささやいて、肩を揺さぶっていると、まよちゃんは鬱陶しそうに目を開けた。
まよちゃんは体を起こし、瞬きしながらぼくの顔を見た。ぼくはまよちゃんの前で手を振って、うららくんみたいに笑った。
「あ、起きた。ぼくだよ、れいやだよ」
しばらくぼーっとしていたまよちゃんは、うららくんやおばあちゃんの方に目をやると、もう一度ぼくの顔を真顔で見た。朝早く一人だけ起こされたことに文句を言いたげだ。
「あの、玲矢くん」
文句を言われることはわかっていたので、ぼくは黙ってまよちゃんの左手を掴んだ。
「きゃっ」
「しずかにしずかに」
唇に人差し指を当てて、ぼくは囁く。
ぼくはまよちゃんの手を引いてゆっくりと部屋の端っこを歩き、同じように廊下を進んだ。頭の中は計画のことでいっぱいだ。
計画はこうだ。まず、まよちゃんだけを起こす。うららくんやおばあちゃんに気づかれてはいけないから、なるべく朝早くがいい。目覚まし時計を使わずに早起きできるか心配だったけど、なんとかなって良かった。
次に、まよちゃんをリビングに連れていく。
「ねえ、玲矢くん、どうしたの」
まよちゃんの質問にぼくは答えない。答えなくてもこれからわかるからね。
そしてぼくは、台所からガラスのコップと、千枚通しを取ってきた。千枚通しを使うことは、昨日の夜に決めた。今回はこれが一番使いやすくて、成功しやすいだろうと思ったのだ。
ここからが本番だ。持ってきた道具を棚の上に置き、金魚に餌をやる。狙うのはぼくが捕った、「まよ」という黒い大きな金魚だ。できるだけ大きな金魚を捕まえようとしたのは、ここで使うためだった。
餌を食べに水面まで泳いできた金魚をコップですくい上げて、
コップを床にめがけてひっくり返す。
ぼくはコップを置いて、千枚通しを両手で握り、床に膝をつく。
「……れい、や、くん」
まよちゃんは変な声を出した。「れい」のところが裏返って、「や」で落ち着いて、「くん」でもっと低くなった。
その声をきっかけに、ぼくは千枚通しを金魚の上から振り下ろした。
びちゃん、びちゃん。金魚が床の上を跳ねる。
金魚があんまり激しく逃げるので、千枚通しを命中させるのはなかなか難しかった。どうして猫も金魚も、ぼくが壊そうとすると逃げたがるんだろう。ぼくに壊されるのが嫌なのかな。嫌なんだろうな。
うららくんはぼくがうららくんを壊そうとしていることを知らないから、逃げずに待っててくれてるけど、知ったらどうなるかわからない。うららくんを壊すのは、うららくんが逃げられないようにしてからの方が良さそうだ。
何回目かで、やっと千枚通しは金魚に刺さった。針でつらぬかれた金魚はぐにゃりと歪んで潰れた。刺さったところから血が小さい玉になって出てくる。黒い金魚は黒い血が出るのかなあと思っていたけど、普通に赤かった。
今度はちゃんと自分で壊せた! ただの実験台なのに、ぼくは嬉しくて嬉しくてたまらなかった。
「あっ、やったぁ! まよちゃん、刺さったよ!」
まよちゃんは床に座り込んで、口と鼻を押さえている。顔は真っ白になっていた。
ぼくは千枚通しを金魚から抜いて、まよちゃんに差し出した。もちろん、ちゃんと持ち手の方を向けて、だよ。それぐらいはぼくも知っている。
目をつむって動かないまよちゃんに、ぼくは訊きたかったことを訊いた。そのための計画だったのだ。
「まよちゃんも、やってみる?」
まよちゃんも、うららくんを壊すための練習、してみる?
ライバルなら、練習ぐらいは一緒にやってあげてもいいよ。
願いをかけた質問に、まよちゃんはあっさりと、首を振った。
ぼくは「そっかぁ」と答えた。昨日の夜の時にわかっていたから、もうそこまでショックではなかった。
「じゃあ、ぼくがやるね!」
黒い金魚の「まよちゃん」は、何回か針を抜き差ししたら動かなくなった。ううん、本当は、最初の一回の時には壊れてしまっていた。
「あーあ、ぐちゃぐちゃだ。もう動かなくなっちゃった」
ぼくはおおげさに言って、金魚が刺さったままの千枚通しを顔の前にかかげた。赤く濁った血が垂れて、床の隙間に入った。
「せっかくいちばん大きいのを捕まえたのに、やっぱり金魚じゃだめかぁ。でっかくても、ちっちゃいもん」
実験台にするには、猫ぐらい大きな動物じゃないとだめみたいだ。あの猫を先に壊されてしまったのは、やっぱりもったいなかったな。本当に気をつけないようにしないと。失敗は、二度繰り返してはいけないってよく言うし。
「あ、ラムネのびんどうしよう。いらなかった」
ラムネの瓶は、金魚を壊すのに使えるかなあと思ったんだ。千枚通しで弱らせてから、瓶の底で潰すのを試してみたかった。だけど、使うより前に金魚はぐちゃぐちゃになってしまった。ざぁんねん。
千枚通しを持ったまま、床を這って近づくと、まよちゃんは背中を丸めて苦しそうにした。ぼくが「ねーえぇ、まよちゃん、目え開けてってば」と言って、やっと目を開けてくれたが、
「いやあああああっ!」
すぐに甲高い悲鳴をあげてまた目を閉じてしまった。まよちゃんがずるずる足を引きずって離れようとするので、ぼくは慌てて近寄った。
「ねえ、なんで離れ……」
まよちゃんはぼくの言葉を遮った。
「それっ……やめて、近づけ、ないで! 見せないでっ!」
必死に嫌がられるので、ぼくはしょんぼりした。そこまで言わなくてもいいのに。ぼくはしぶしぶうなずいて、「じゃあ今度からはしないよ」と一応言っておいた。
猫のことはいつもと変わらない無表情で見ていたのに、なんで金魚はだめなんだろう。女の子ってわからない。
まよちゃんは頭を押さえて、やだやだって小さい子どもみたいにわめいた。いつもはおとなしくて静かで、しっかりしているまよちゃんが、だ。それはそれで面白かった。
「まよちゃん、これ怖い?」
ぼくは金魚を指差した。どうせなら、なんでまよちゃんが壊れた金魚をそこまで嫌がるのか訊いてみたかった。それなのに、うららくんの話をしても、涙を拭ってあげても、まよちゃんは狂ったように泣きわめくのをやめなかった。
そういえば。ぼくはナイスタイミングで、夏祭りでおばさんたちから聞いた話を思い出した。
「ねえ、まよちゃんのママが壊れたときも、泣いたの?」
まよちゃんは質問に答えてくれるどころか、ますます声を大きくした。
「知らないっ!!」
「知らないわけないでしょ、ぼく知ってるんだよ? まよちゃん、見てたんだよね」
まよちゃんは頭をぐしゃぐしゃに掻きむしって泣き叫んでいる。もうぼくの声は聞こえてないかもしれない。それでも、ぼくはもう一回訊いた。こんなことが訊けるのはまよちゃんぐらいしかいないんだ。
「ぼく、かぞくが壊れるところって見たことないんだけど、どんなきもちになった? まよちゃんは……」
まよちゃんは多分、ぼくたちとは違って、まよちゃんのママのことが好きだったんだよね? 好きな人が誰かに壊されるのを見るのって、どんな感じなの? 嫌だった? 悲しかった?
まよちゃんみたいな、うららくんと同じで、ぼくとは違う人って、どんな気持ちになるの?
そこまで訊きたかったのに、まよちゃんはぼくを突き飛ばした。
「さわらないでえっ!」
「あっ、待って」
よろめきながら立ち上がったまよちゃんはリビングから出ていき、そのまま玄関も飛び出して行ってしまった。
リビングには、壊れた金魚と、床に転がった千枚通し、そしてぼくが取り残された。
「あーあ……」
ぼくは長いため息をついた。まよちゃんに嫌われちゃったかなあ。うららくんになんて言おう。うまく説明できないや。
「どうすればいいと思う?」
金魚のまよちゃんにぼくが話しかけた時、開いていたリビングのドアから、
「…………れいやくん、何してるの?」
うららくんが入ってきた。
片付けてからうららくんを起こすつもりだったんだけど、まよちゃんの悲鳴で目が覚めてしまったらしい。ぼくはとっさに金魚を握りつぶして手の中に隠した。
きょとんとした顔で床に広がった水や血を見たうららくんは、「どうしたの、これ?」とやっぱりきょとんとした顔で言った。
ぼくはよいしょ、と立ち上がり、棚の上のラムネの瓶を片手で掴んだ。
実は、さっきひらめいたことがあった。ぼくってば天才かもしれない。
これは実験で、それから本番だ。うまくいけばすごいことになる。