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閉塞学級  作者: 成春リラ
1章 閃く悪意、僕の人形
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1話 閃く悪意、僕の人形①

これは、少女のエゴだ。

 欠けないお月さまの在り処はどこでしょう。


 広げた両腕に収まらない宇宙の真ん中に、私は立っていた。たとえば、そう、黒い空を落ちていく星を想像しながら、私もあれになりたいと思う。夜の端っこで重力に逆らわず流されて、まばゆい火の粉を散らしながら、魂の一片まで残さず燃やし尽くされるのだ。やがて塵芥のひとつになる前には、もう一度彼とすれ違えるかもしれないと願って。


 お月さまはどこかに墜ちてしまったらしい。長い長い、終わりの見えない一本道でどろどろに汚れた足を引きずって、私は今もお月さまを探している。もっと速く、流れ星のように速く駆け抜けられればいいのに。星も見えないこんな世界では、自分の足元さえ不安定だ。


 薄く開いた唇と乾いた眼球、伸びきった黒髪が夜風に曝される。両の眼に映るのは、光の灯らない空だけ。人の声も、蝉のさざめきも、風に揺れるひまわりの音も聞こえない。そうだ、私はひとりぼっちだった。だけど失えるものはまだ残っている。


 手を伸ばす。どこかの空にきっとある、金色のかがやきに向かって。


 価値のない明日は要らない。空虚なだけの未来なんてなくていい。


 行く先に広がる膨大な時間も、来た道に転がる数多の思い出も、使い道のない理性も感情も肉体も精神も言葉も想いも、ぜんぶぜんぶきみに捧げます。


 この夜は一生明けないままでいい。だから、あの子に、





 膝丈スカートのポケットには、生徒を取り締まるルールが入っている。


 生徒手帳に載っている生活規定を諳んじることができる生徒はあまりいないと思う。では、小田巻おだまき智春ちはるはどうかと言うと、一クラスに三十五人いたら一人か二人は紛れている根っからの生真面目だったので、皆が煙たがる校則の条文も、隅から隅まで一言一句違わずではないけれど、自慢になるくらいには把握していた。暗誦は智春の得意分野だった。もちろんそんなことを自慢したってしょうがないということは智春もわかっている。


 校則とは何か理由があってそう定められているのだから、生徒はそれに従うのが道理だろうということを以前幼馴染に話したら、あんな大人の都合で作ってあるものをいちいち守るとか馬鹿馬鹿しいわ、と一蹴された。言いたいことはわからなくもないが、だからと言って校則を知っていながら敢えて無視するのは、何というか、損である気がする。おとなしく守っていれば注意されることはないのだし。不必要に教師と衝突するのはそれこそばかばかしい。


 とは言え、自分に融通の利かないところがあるのは智春も自覚していた。真面目一直線な小うるさい委員長様、なんて陰口を叩かれないように、随分努力して性格や趣味を矯正してきたつもりだ。それでもクラスメイトを注意しなければならないときはある。


 紅黄こうおう中学校生活規定の「登下校時」の項目に、買い食いをしてはならない、と短く書かれている。これをどう解釈するか。言葉通りなら、食べ物以外を買うことは問題ないという意味だろうが、不要な金銭を学校に持ち込んだり、店に寄り道をすることを暗に禁止しているとも読み取れる。実際、コンビニにたむろしているところを見咎められ、教師から指導を受けた男子生徒を智春は知っている。生徒はいけしゃあしゃあと言い返していた。オレたちは確かにアイスの詰まったケースを覗き込んでいたけど、冷気に当たって涼みたかっただけで、買って食べるつもりはまったくこれっぽっちもありませんでした。反論は認められなかった。


 きっと彼らはアイスのケースを覗き込むだけでなく、大声を上げたり店の前に座り込んだりしていたに違いないから、生徒指導部の判断は妥当だ。日頃の行いが悪いからああいうことになるのだ。智春は同情しない。でも、だったら校則って何なんだろう。智春が同じことをしていても先生は同じように叱ったのか、と考えなくもない。


 ところで、制服姿でコンビニの文房具コーナーにいるクラスメイトに対してどういう風に声をかけるのが、クラス委員として正しいのだろうか。


 買っても食ってもいない。騒いでも座り込んでもいない。


 だけど彼は、万引きをしていた。


 今、彼の不安定に揺れる双眸が、智春の目を捉えている。


 

 


 智春の所属する一年C組で起きたとある事件が、そもそもの始まりだった。大袈裟だと言う人もいるが、事件は事件だ。何の問題もなく平穏に時が流れていた智春の日常に、その事件は小さな疵を入れた。


 今週に入ってから、この一年C組の中で何者かによる盗難が多発している。


 盗まれるものは専ら文房具が多いが、シャーペン、消しゴム、ハサミ、定規、ノートと種類も大きさもばらばらだ。他のクラスに入ることは原則禁止されているので、犯人はこのクラスの生徒と考えていいだろう。早急に犯人を見つけ出し、不可解な盗難事件を解決すること、それがクラス委員たる小田巻智春に課せられた使命である。智春は一昨日からさりげなくクラスメイトの動向を探っているが、今のところ怪しい素振りを見せる生徒はおらず、犯人の目星は未だ付かない。


「あんた、相変わらずだね」


 智春の机に肘をついて、はるかは小馬鹿にしたように言った。まばらに漢字が書き込まれた薄っぺらい再生紙に目を落とし、さらさらとシャーペンを走らせている。智春の話は真面目に聞くつもりがないみたいだ。


 九月一日木曜日の昼休み。


 一年C組の教室には、窓を開け放しているにもかかわらずねっとりと濃度の高い空気が停滞していた。勉強をしよう、という生徒でこの季節にわざわざ教室を選んでいるのは智春たちぐらいで、大多数はエアコンの効いた図書室に逃げている。その分、生徒で溢れかえる昼休みの図書室は騒がしい。智春は別にどちらでも構わないのだが、「うるさいのはヤダ」という遼の端的な要望で、今日の勉強場所は教室になった。


 智春と遼の二人は、智春の机に向かい合って座っていた。遼は漢字テストの練習、智春は数学の宿題。今日は部活が終わった後、夜遅くまで塾の授業が入っているので、家で学校の宿題をする時間が取れないのだ。


 最初は手を動かしつつ他愛もない雑談をしていたが、盗難事件の話題になった途端、遼の態度が一変した。露骨に鼻で笑われたことにカチンときて、智春も机に身を乗り出す。


「ちょっと、相変わらずって何」

「そういうお利口さんなとこ、昔から変わらないよねってことだよ」

「あたしが良い子ぶってるって言いたいの?」


 口を尖らせると、遼は面倒くさそうにへいへいと手で軽くあしらってきた。


「何も良い子が駄目とは言ってないでしょうが。良い子にも色々あるの。あんたはそれを考えたことがあるのかって話」


 智春は眉をひそめた。どうして盗難事件の話が智春の人間性の話に繋がるのかわからない。遼は偶にこうやって、飛躍した話をする。そして、往々にして理由を説明してはくれない。


「色々って、じゃあ、遼はあたしはどんな人だと思ってるの」

「んー、責任感が強くて、お人好しで、完璧主義で、頑張り屋」

「それのどこが悪いって言うのよ」

「だから、悪いとは言ってないでしょ」


 幼馴染の物言いに釈然としないまま、机の端に除けていたプリントの解答を手元に引き寄せると、ほとんど同時に背後からのしかかるように抱きしめられた。思わずひゃ、と変な声が出て、智春は持っていたボールペンを取り落とす。


「えへ、ちはるちゃんたーだいま」


 ふわふわの毛糸のような柔らかい髪が頬を撫でた。振り向かなくても誰だかわかる。智春のもう一人の親友である明佳めいかだ。この暑さの中でも遠慮なく親しげにくっついてくる腕を若干呆れながらやんわりと退けて、智春は周りをちらちら見渡してから小声で尋ねた。


「それで、どうだった」

「うん、やっぱり無かった」


 明佳は当事者とは思えないほどケロリとしていた。


「どこ行っちゃったのかなあ。さっきまであったのにな」

「一応訊くけどさ、本当に今日持ってきた?」

「もう、はるかちゃん酷い。社会の時間に使ったよ。ほらあ」


 机の中から社会のノートを取り出して、明佳はペンを使った箇所を遼に見せている。


 明佳が買ったばかりのペンを紛失していることに気づいたのは、四時間目の数学のときだった。念のため落とし物コーナーを見てきてもらったが、見つからなかったようだ。もし盗難事件の被害であるなら、これで七件目だった。


 一年C組は担任の日野ひの稜子りょうこ先生を筆頭に、基本的に優しくて真面目な人ばかりだと、智春は思っている。


 紅黄中は荒れてるよ、と智春は親戚に脅されていた。教師が生徒を妊娠させたとか、受験生なのに他校の生徒と暴力沙汰を起こして両目を失明したとか、女子生徒が入水自殺を図ったとか、そんな悪い噂の絶えない学校だよ。中学受験でもした方が賢明だって。


 望むところだ、何ならあたしがリーダーになってクラスを仕切ってみせると張り切って入学したのに、実際に通されたのは牧歌的な空気すら漂う、極めて平和な教室だったのだ。


 拍子抜けだった。授業を故意に妨害する人も、取っ組み合って喧嘩をする人も、理科室の試験管を片っ端から割る人もいない。生徒同士の関わりが薄いということもなく、みんな適度に仲良くやっている。テストの平均点も、宿題の回収率も高い方だ。授業を担当している先生は口々に言う。「C組は本当に良い子たちばっかりね」と。


 そこに今回の盗難事件である。先の噂に比べれば随分小規模ではあるものの、事件は事件だ。智春には、このクラスにそんないたずらをする生徒がいるとは到底思えなかった。だが、このままでは被害が広がる一方だろう。今は文房具程度で済んでいるが、エスカレートしないとは限らない。あたしがなんとかするんだ。決意を固めるように、智春は改めて呟く。


「そうよ、考えてみれば、中学に入ってから何もクラス委員らしいことしてないもの。ここはあたしが犯人をびしっと見つけ出して、しっかり反省させるんだ」


「ちはるちゃん、かっこいい! 警察官みたいっ」


 手をぱちぱち叩いて無邪気に智春を褒めそやす明佳とは対照的に、遼は無言になった。


 呼応するように、シャーペンの音がぴたりと止む。


「反省って、具体的には」


 智春はふと顔を上げた。遼の猫みたいなアーモンド型の目がこちらをじっと見ている。


 具体的? 智春が黙って首を傾げて瞬きすると、遼は呆れた口調で言った。


「犯人がわかったとして、あんたはどうすんの。皆の前で謝らせるわけ?」


 どうしてわざわざそんなことを訊かれるのかわからない。


「謝ってもらわないと、みんな納得しないじゃない」

「まあ、そりゃそうだけど」


 遼はあからさまに目を逸らした。神経質にシャーペンをカチカチと鳴らして芯を出し、漢字の書き取りを再開する。尋問、尋問、尋問。削れた芯の黒い粉が紙の上で散った。


 漢字を書く手を止めないまま、遼はぼそりと付け加えた。


「智春はあんまり、関わらない方がいいよ」

「遼、さっきから何なの」

「別に。わからないなら、あんたがしたいようにすれば」


 遼はシャーペンを置くと、椅子をギイイと引いて突然立ち上がった。どこ行くのと訊くと、お手洗い、と機嫌の悪そうに言い捨てられる。脱ぎかけていた上靴をとんとんと履き直して、遼は大股歩きで行ってしまった。


「何あれ。意味わかんない」

「まあまあ。はるかちゃんは、ちはるちゃんが心配なだけだよ」


 今まで遼が座っていた席について、明佳はふわりと笑った。少しだけ、胸の内が煙を吸い込んだみたいにもやつく。中学に入ってから知り合った明佳よりも、幼馴染の智春の方が遼のことをよく知っているはずなのに。明佳には遼の言いたいことがわかるのだろうか。


 智春の複雑な心を知ってか知らでか、明佳は教室の後方をすっと指差した。


「それよりちはるちゃん、あれ、いいの? 作文」

「あっ」


 盗難事件のごたごたですっかり忘れていた。机の中に入れっぱなしになっている原稿用紙の束に目をやる。元々沈んでいた気持ちが、さらに地下深くへと落ちていった。


 ぱちぱちと両手で頬を叩いて、よし、と気合を入れる。廊下側から二番目の列の、一番後ろの席に一直線に駆け寄り、智春は彼の机に手をついた。明佳の可愛らしい声援を背中に感じながら、精一杯声を張る。ほんの少しの八つ当たりも込めて。


網瀬あみせくん、今日という今日は作文を提出してもらうからね! 先生も困ってるんだから!」


 近頃、智春を悩ませているもう一つの案件である。


 うつらうつらと舟を漕いでいた網瀬あみせ心良うららは、顔をゆるりと上げて智春の方を見た。正確に言うと、智春の方に顔を向けた。自分が声をかけられていることには気づいたらしいが、焦点の合わない眠そうな目は、こちらを向いてはいてもどこを見ているのかわからない。


 長い前髪がはらりと一房落ちてきて、ただでさえ情報量の少ない表情がますます見えなくなった。今にも目に入りそうな髪を、智春はざっくり切ってやりたくてたまらなくなったが、心良の前では細かいところを気にしているといつまでも本題に入れないので控える。ここに辿り着くまで三日はかかった。


 返事がないので、智春はもう一度言った。さっきより語調を強めて、はっきりと。


「もう出してない人は網瀬くんしかいないの。原稿用紙、何枚目まで書いた? あとどれくらいで終わるの?」


 心良はぼんやりした顔のままぴくりともしない。智春は発言を急かすように爪でコツコツと机を鳴らす。音が効いたのか、心良は少し俯いた。というか、顎を数ミリ動かした。


 なに、と夢の中にいるような声音で心良は答えた。


「何って、夏休みの宿題のことだよ。まさか、作文のテーマも覚えてないの?」


 畳みかけるように言っても、心良は口を閉じて俯くだけだ。一回喋ったら次に話し出すまでに力を溜めなければいけないのか、この子は。


 そういえば、智春は心良に「何の」作文のことか伝えていなかったような気がする。宿題の内容を覚えていることは大前提で、当然だと思っていたから。智春は一旦自分の机に駆け戻って、夏休みの宿題について書かれた紙を取ってくると、このプリントが目に入らぬかとばかりに心良の前に突きつけた。


「見て、網瀬くん。総学の宿題。テーマは将来の夢、原稿用紙三枚以上。そして大事なのはここ、締め切りは八月二十四日! 始業式の日! 網瀬くん、今日は何日?」


 心良は答えない。なんだか、壁に向かって話しかけているような気分になってきた。


「今日は、九月一日です! 一週間以上過ぎてるんだよ、ねえ」


 作文は体育大会の後の授業参観で発表する場があること、発表しなかった生徒の作品も教室の後ろに飾られること、総学の宿題は数が少ないので提出しないと二学期の成績に響くこと、出していないのは心良だけなので先生が困っていることを、智春は弟や妹に言い聞かせるときと同じように、わかりやすい言葉で懇切丁寧に説明した。


 ここまで言えば、いくらなんでも多少の罪の意識を感じてくれるのではないか。ちょっと期待してみたが駄目だった。心良は小さくあくびをして、最初と何一つ変わらない無表情で明後日の方向を見ている。智春の話など一言だって頭に入っていないだろう。


 心良はいつもこうだ。課題を全然提出しない。何を考えているかわからない。話しかけてもまともに反応しない。出席簿から名前を読み上げられても、授業中指名されても返事一つしない。心良が誰かと話しているところを、中一の二学期になった今でも智春は滅多に見たことがない。どうやら部活動もやっていないようだ。


 明日からは本格的に体育大会の準備期間に入って、放課後も休み時間も忙しくなる。なんとしても今日明日中に出してもらわなければならない。


 どう言ったら伝わるものかと考えていると、心良はどこか遠くを見つめたままわずかに口を開いた。が、せっかく開かれた口はまたじわじわと閉じていく。


 心良はこてん、と首を傾けてその姿勢のまま机に頭を乗せた。まもなく、安らかな寝息が聞こえてくる。あろうことか、心良は智春の叱責をものともせず、目の前で眠り始めたのだ。


 智春は怒りに拳を震わせた。ああ、今日も失敗だ!





 智春が声をかけると、日野先生は慌てたように手元を教科書で隠した。でも、誰かのテストの点数が見えてしまった。七十四点。この間の夏休み明けテストの解答用紙だろう。あれ結構難しかったな、でもさすがに九十点は取れてるよねと考えつつ、智春は見なかったふりをした。


 勢い込んだ智春の進言に、先生は意外そうに目をぱちくりさせた。


「持ち物検査、ですか」

「はい、そうです」

「それは……文房具が盗まれているっていう、あの」


 真剣な顔でこくこくと頷いて、智春は力説した。


「月曜から毎日続いているんですよ? 多分、犯人は明日も誰かの持ち物を盗むと思います。しましょうよ、持ち検」

「で、でも、まだ盗難と決まったわけではないですし」


 何とも歯切れが悪い日野先生は、周りの教師に視線を送っている。


 事を荒立てたくないという気持ちがひしひしと伝わってきた。誰かの鞄や机の中から盗まれたものが見つかると、一番面倒なのは担任だ。犯人の生徒に指導をして、被害者に対して謝罪させなければならない。


 日野稜子先生がクラスを受け持つのは、一年C組が初めてらしい。日野先生は紅黄市内にある別の中学校で二年間講師として勤めた後、紅黄中に教師として採用された。授業をした経験はあっても新任教師なのだ。C組では目立ったトラブルが今まで何も起こらなかったので、こういったことには慣れていないのだろう。


 智春は気をもんでいた。現在、教室では誰もが普通に過ごしているように見える。だが、他人への疑念がクラスメイトの間でカビのように増殖していくのを、智春は肌で感じていた。遅くとも体育大会までには解決させたい、という焦りが募る。静観しているだけではだめだ。


 ぐいっと詰め寄ると、先生はわずかに顔を引きつらせた。担任の先生が、クラスの一生徒に怯えている。だったら、これは逆にチャンスだ。


「夏休み明けで気が抜けている生徒もいますし、必要のないものを持ってきていないかどうかの確認にもなるじゃないですか」

「ええと、そうですね」


 要領を得ない日野先生の目を、智春は熱心に見つめた。


「先生、お願いします!」


 にらめっこを始めて数秒。早々と根負けしたのは日野先生の方だった。


「小田巻さんの言う通りですね。明日、時間のあるときに持ち物検査をしましょう。皆さんには言わないでくださいね」


 やった!


 安堵と満足感で顔が緩みそうになるのを抑えて、智春は咳ばらいをした。優等生らしい笑顔を作り、丁寧にお辞儀をする。


「ありがとうございます。よろしくお願いします」


 日野先生は曖昧に笑った。少し困らせてしまっただろうか。良心の呵責を感じないこともなかったが、仕方ない、これは必要なことだ。


 では、と踵を返そうとすると、「あ、小田巻さん」と今度は日野先生の方が追加で話題を振ってきた。何を言われるかは薄々気づいているので、そろりそろりと逃げ腰になる。


「ええと、網瀬心良くんの作文はどうなってますか」

「明日までには出してもらいまーす!」


 自分の要求は通しておきながら、智春は言うだけ言って退散した。


 職員室を出ると、廊下のむっとした暑苦しい空気に包まれた。とりあえず、一歩前進だ。犯人が自分の鞄や机に盗んだものを隠しているとは限らないが、検査をしてみなければわからない。何もしないよりはましだ。これで空振りだったら、別の策を練らないといけないけれど。


 網瀬心良のことは――明日考えることにする。


 長い廊下の向こう端にある木工室から、サックスの音出しが聞こえていた。荷物を置いてから楽器を取りに行くか、このまま音楽室に向かうか、一瞬迷う。よし、先に木工室に行こう。


 鞄を持ち直し、気合を入れるように小さくガッツポーズをした智春は、隣に人がいることに気づいていなかった。


 ふいに肩を叩かれて思わず飛び上がる。嫌味のない涼しげな笑い声と共に、相手は智春から軽やかに距離を取った。


「あはは、ごめんごめん、驚かせるつもりはなかったんだけど」

「な、なあんだ。もう、びっくりしたよ」


 よく見なくとも見知った生徒だった。照れ隠しのつもりで、智春は強めに肩を叩き返した。今のガッツポーズ、絶対見られてたよね。気を付けないと。


「お疲れ、委員長。こんなところで何してたの」


 えっとね、と口走りかけたが、ぎりぎりで日野先生との約束を思い出す。


玲矢れいやくんにも内緒」

「えー、気になるなあ」


 気を悪くした様子もなく、にこにこと、玲矢は人好きのする笑顔を見せた。


 玲矢はクラスメイトの男子だ。加えて、智春と同じクラス委員である。中学に入ってから知り合った仲だが、C組の男子の中では一番気軽に話せる友達だと智春は思う。


 半年前の入学式の日のことを、智春は今でも覚えている。


 青い季節だった。


 昇降口の前まで付いてこようとする両親を振り切って、新入生の智春は走っていた。


 クラス名簿が一面に貼られた掲示板の前は、新品の制服に身を包んだ生徒でごった返している。その中に意気揚々と飛び込んだ智春は、C組の名簿から自分と遼の名前を見つけると、波に流されるようにして集団から抜け出した。


「はるか! おんなじ! 同じクラスだったよ! C組!」


 集団に入らず桜の木々を見上げていた遼は、「あ、そう」と簡素なコメントを残し、息せき切って突進してくる智春をさらっと避けた。


「なによぅ、遼はあたしと一緒で嬉しくないの?」

「一緒も何も、前からずっと一緒じゃん。せっかく中学に入ったのにまたあんたの暴走に付き合わないといけないって思ったら、憂鬱なだけ」

「それって、また仲良くしてくれるってことだよね? もー、ややこしいんだから」


 遼にべたべたとくっついていると、黒い影が智春の視界に入った。


 小柄な男子の学ラン姿。暗い赤のフレームの眼鏡に、清潔感のあるさらさらの髪と、凛とした端整な横顔が印象的だった。舞い散る薄桃色の花弁も相まって、どこか古風な文学少年のような雰囲気を醸している。


 なぜだか、目が吸い寄せられた。


 彼は少し離れた位置から一人でクラス名簿を見ていた。眼鏡の奥の瞳が左から右へと動き、自分の名前を見つけたのか、ぱっと見開かれる。


 そうして彼は、桜の似合う幸せそうな微笑みを満面に湛えたのだ。


 彼の気持ちに勝手に共鳴して、智春は今にも叫び出したくなるほど胸がいっぱいになった。


「ねえほら、あの人も仲良しの子と同じクラスだったみたい」

「はあ? どうでもいいわ。名前見つかったんなら教室行こうよ、私早く座りたいんだけど」

「ああっ、ちょっと待ってよ、亜子ちゃんたちのクラスも見ないと」


 智春が遼に首根っこを掴まれて引きずられている間も、男子生徒はその場に立っていた。


 彼と同じクラスであると知ったのは、それから十五分後のことだ。


「おとなしそうな文学少年だと思ったのに、ソフトテニス部だもんね」

「え、何の話?」

「ううん、何でも」


 真似をするように、智春はにこりと微笑み返した。


 玲矢は智春が思っていたより、ずっと活発で外向的な生徒だった。勉強にも部活にも真剣に取り組む努力家の面と、他の男子と楽しそうにふざけ合う少年の面を併せ持っていた。


 それだけではない。入学してすぐに知ることとなったが、玲矢は小学生の頃から同級生に何かと一目置かれていたらしい。玲矢がクラスの中心的人物になるまで、そう時間はかからなかった。男子のクラス委員も、皆がやりたがらなくて押し付け合っていたところを他薦で玲矢に決まったのだ。


 玲矢のことを、智春は密かに尊敬している。智春がそう言うと玲矢は決まって「大袈裟だなあ」と照れくさそうに笑うのだけど、本心だ。


「俺は今から塾だけど、小田巻は部活?」

「うん。体育大会近いし、練習頑張らなきゃ」

「あ、サックス吹くんでしょ。知ってるよ、俺。テナーサックスだっけ」

「そうそう。……あれ、あたしテナー担当になったって言ったっけ?」


 智春はついこの間までアルトサックスを吹いていた。夏に三年生が引退して楽器が一つ空き、テナーサックスを吹かせてもらえるようになったのだが、玲矢に話した記憶はない。


「俺はクラスの人のこと、何でも知ってるから」


 冗談とも本気ともつかないことを言って、玲矢は智春に背中を向けた。

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