18話 猫と願いとラムネいろ①
壊したい、とぼくは思う。
でもたった一個だけ、きっと誰にも壊せないものがある。
ぼくの名前は網瀬玲矢。網瀬心良の双子の弟。
おしまい。
……おしまいでいいんだけど、もうちょっとだけお話ししてもいいみたいだから、ぼくの話をしよう。ぼくたちの話じゃない。うららくんにも、そのほかの誰にも話したことがない、ぼくの話だ。こんなこといつもは絶対ないんだから、出血大サービス、だよ。
まあ、このひとりごとも、誰も聞いてないんだけどね。
…………。
ごめん、やっぱりぼくたちの話から始めるよ。
さっきも言ったけど、うららくんとぼくは双子の兄弟だ。うららくんがお兄ちゃんで、ぼくが弟。身長も体重もぴったり同じだし、顔も鏡に映したみたいにそっくり。友達や学校の先生どころか、ママやパパにも見分けがつかない。性格も、好きなものも、嫌いなものも、勉強も、運動も、書いた文字のくせも、描いた絵の上手さも、怒った顔も、泣いた顔も、笑った顔も、全部同じだ。うららくんのコピーがぼくで、ぼくのコピーがうららくん。二人で一人。違うところは一つもなく、どちらがどちらでもいい。
ここまでが、みんなの知っているぼくたち。
じゃあ、ほんとうのぼくたちとは何か? それを知っているのはぼくしかいない。
うららくんは何でも知っているけれど、ぼくの「ほんとう」を知らないんだ。
うららくんは何でも知っている。
うららくんとぼくが三才の時、ぼくはうららくんと一緒に砂場遊びがしたくなって、同じ保育園の女の子が使っているスコップを取った。女の子は別のことに夢中で、スコップは放ってあったから、黙って使ってもばれないだろうと思ったのだ。しばらくして、ぼくがスコップを勝手に使っていることに気づいた女の子は、ぼくの服の裾を引っ張って怒った。何を言われたかは覚えていないけど、うららくんと遊んでいるのを邪魔されて嫌な気持ちになったぼくは、持っていたスコップで女の子を殴った。女の子のおでこにスコップが当たって、真っ赤な血が噴き出した。
ぼくは保育園の先生にこっぴどく叱られた。それはどう考えても玲矢くんが悪い。女の子に謝りなさい、と命令された。泣いている女の子の前に立たされたが、ぼくは口を開いてやらなかった。遊びを遮られていらいらしたから攻撃しただけなのに、どうして頭を下げなければいけないのかわからなかったのだ。
そしたら、うららくんが転びそうになりながら走ってきて、女の子の前で勢いよく頭を下げた。
「ごめんなさいっ!」
うららくんは、「ぼくがスコップを使いたいって言ったの。だから半分はぼくのせいなの。ごめんね」と早口で言って、「ほら、れいやくんもごめんなさいしよ?」とぼくに笑いかけてきた。うららくんがそう言うならと、ぼくは女の子に謝った。うららくんのおかげで、その場はそれ以上怒られなかった。
保育園から帰る途中のバスの中で、ぼくはうららくんに訊いた。
「ねえ、なんで謝らないといけなかったの?」
うららくんはきょとんとして、少し頬を膨らませた。
「だって、お友達をぶっちゃだめだよ? あの子、泣いてたじゃん」
ぼくは自分で訊いておきながら、ふうん、と生返事をした。どうしてぶっちゃだめなの、どうして友達を泣かせたらだめなの、とは言わない方が良さそうだった。
「じゃ、なんでうららくんも謝ってくれたの。スコップ使いたいって言ったの、ぼくだったのに」
続けて質問すると、今度は笑顔になった。
「ぼくたち、二人で一人でしょ? 怒られるのも、謝るのも半分こだよ」
「……うん、そうだね」
ぼくはうららくんと同じように笑った。
うららくんはすごい。うららくんは、ぼくが知らないことを何でも知っている。
道端の草や花を踏み潰してはいけないこと。
ご飯を残してはいけないこと。
人の物を取ってはいけないこと。
友達を殴ってはいけないこと。女の子はもっと殴ってはいけないこと。
うららくんとぼくは同じ日に生まれて、同じ家で、同じものを見て、同じママとパパに育てられたから、もしかしたらぼくも同じことをどこかで聞いていたかもしれない。うららくん以外の誰かから言われたことなんて、何にも覚えてなかったけど。
ぼくは、良いことと悪いことの違いが全然わからなかった。なので、またうららくんに訊いてみた。
うららくんは、大人がするみたいに腕を組んで、長い間うーんうーんと唸った後、自信がなさそうに言った。
「誰かがかなしくなることが、わるいこと、かな……?」
なるほど、と思った。確かに大人から怒られる時は、いつも誰かが泣いていた。――ママは特に何もなくても怒っているけど。
それからぼくは、誰かが悲しくなることはできるだけしないようにした。どうして誰かが悲しくなることが悪いのかは、相変わらずわからなかった。でも、してはいけないことは心良くんに訊かなくてもわかるようになった。
悪いのはぼくだけなのに、うららくんがぼくの分まで謝っているのは見たくなかった。うららくんがだめだと言うことをするのはやめよう。ぼくは強く思った。
ぼくはうららくんが大好きだ。全部正しいのはうららくんだ。これからもずっと、うららくんを好きな気持ちは変わらないと思う。
うららくんとれいやくんはそっくりだね、とみんなが言う。見た目も中身もそっくりだ、かわいい双子ちゃんだ、と。
それは違う、とぼくは心の中で叫ぶ。見た目はそっくりでも、中身は全然違う。ぼくには、うららくんのわかることがわからないんだもの。うららくんが当たり前にわかることを、ぼくは何回考えても、全然全くわからないんだ。
うららくんとぼくは違うということをぼくが誰にも言わなかった理由は、もちろんうららくんにある。
うららくんは、ぼくが何もわかっていないということを、わかっていなかった。ぼくが何も言わないばっかりに、うららくんは「れいやくんも同じことを考えている」と思い込んでいた。
それどころか、うららくんはぼくとそっくりであることを、完全に自慢にしてしまっていたのだ。大人たちから二人はそっくりで可愛いねと褒められる度に、うららくんは鼻高々になって喜んだ。
一応言っておくと、ぼくだってうららくんとそっくりだと言われるのは嬉しい。うららくんのことは生まれた時から大好きだから。でも、本当はそっくりじゃないのにと思うと、モヤモヤが体中に溜まっていくような気持ちになる。
喜んでいるうららくんががっかりしないように、ぼくはうららくんの真似をするようになった。うららくんが笑っている時は笑い、うららくんが怒っていれば怒り、うららくんが泣いていたら泣き、うららくんが喜んでいるなら一緒に喜んだ。うららくんと同じように振る舞い、話し、動いた。そうしてぼくたちは、表だけはますますそっくりになった。
ぼくはうららくんの考えていることが何でもわかったから、うららくんの真似をするのは難しくなかったし、苦しくもなかった。大好きなうららくんに日に日に近づいていけるのは、ぼくにとっても幸せなことだった。
ぼくがうららくんの真似をしていることに、周りの誰も、うららくん自身も気づかなかった。それぐらい、ぼくの真似は完ぺきだった。うららくんは、うららくんとぼくがそっくりであることをよりいっそう疑わなくなっていたし、大人だってぼくたちを同じ人として扱っていた。
「うららくんとぼく」という二人が、「ぼくたち」という一人に変えられてゆくのを、ぼくは一人で眺めていた。
それでも、うららくんとぼくが本当にそっくりになる日は来ないと、ぼくは初めからわかっていたのだ。
ぼくにはまだ秘密がある。うららくんとぼくには、これまで話したのとは比べものにならないくらいの、大きな違いがある。
さて、小学校に入学して、保育園の頃と変わらずぼくたちは一人として扱われる毎日を送り、やがて訪れた最初の夏休み、
まよちゃんが現れた。
ぼくたちのママとパパは夏休みもお仕事で忙しく、ぼくたちの面倒なんて見ていられるわけがないということで、ぼくたちはパパのおばあちゃんがいる町に行くことになった。うららくんと一緒に電車に揺られて、辿り着いた先にいたのが、長く綺麗な闇色の髪をなびかせたあの女の子だったのだ。
まよちゃんは他の子と違う、不思議な雰囲気をまとった子だった。いつもにこにこ笑っているうららくんとは違って表情が読みにくく、まっすぐな目で前を見つめていた。ひらひらの白いワンピースは長い髪と合ってきれいだったけど、まよちゃんはあまり気に入っていないようだった。うららくんはあっさりまよちゃんを家に誘ったから、ぼくもそれに賛成した。まよちゃんは嫌な感じの子ではなかったし。
ぼくがまよちゃんに対して最初に考えたのは、これくらい。
まよちゃんがそれだけの女の子ではないことに気づくまで、そんなに時間はかからなかった。ううん、むしろ、最初から気づいていなかったのがおかしかったぐらいだ。
まよちゃんも他の人と同じように、うららくんとぼくを見て「そっくり」と言った。
それなのに、まよちゃんの目は、最初からうららくんのことしか見ていなかった。
まず、うららくんとぼくを見分けられることに驚いた。中身が違ったって、うららくんとぼくの見た目が同じなのは本当だ。一番長く一緒にいるはずのママでも、ぼくたちを区別できていない。まよちゃんは「いや、なんとなく……」と恥ずかしそうに言っていたけど、ぼくからすれば十分すごいと思った。当のうららくんは、見分けられていることにすらしばらく気づかなかったらしい。
次に、まよちゃんはどこを見てぼくたちを見分けているのだろう、と思った。あとになってからまよちゃんに訊いてみたところ、「心良くんの方が少しだけ声が低い」と返ってきた。うららくんの声を聞きながら自分のと比べてみたが、違いなんて全然なかった。きっとまよちゃんの勘違いだろう。
じゃあ、と三番目に考えたのは、どうしてまよちゃんは、うららくんと顔がそっくりのぼくに見向きもせず、うららくんのことだけを見続けているのだろうということだった。
もしかしてまよちゃんは、本物なのはうららくんだけで、ぼくは偽物のうららくんであることを、最初から知っているんじゃないか。ぼくの中身を見抜いているから、うららくんとぼくを見分けられるのではないか。
――ということに気づいた時、ぼくは意外とショックを受けなかった。ぼくたちはこんなに違うんだから、いつかばれるだろうとは思っていた。今までいなかったのがおかしかったのだ。やっとぼくたちを区別できる人が見つかった! とさえ思い、ぼくは心の中で喜んだ。
ぼくは淡々とまよちゃんを観察して、どうしてまよちゃんがぼくの中身に気づけたのか探ろうとした。
観察を始めてまもなく、ぼくはもっと大きな「可能性」に気づいた。
ええっと、まよちゃんの話は、また後で。
何回も言っているように、ぼくはうららくんのことが好きだ。
そして間違いなく、うららくんもぼくのことが好きだ。
けれど、ぼくの「好き」とうららくんの「好き」は根っこから違う。
この「好き」の違いが、うららくんとぼくの一番の違いだった。
ぼくはずっと、うららくんのことを「壊したい」と思っている。
うららくんが嬉しそうに笑うと、辺り一面に花が咲いたように明るくなって、ぼくも嬉しくなった。うららくんに「れいやくん、大好き」ととろける笑顔で言われたら、ぼくは「うららくん、大好き」と答えて笑顔を返した。うららくんのことは真似してばかりだったけど、これは真似じゃない。ほんとの気持ちだ。ぼくは本当に、うららくんのことが大好きなんだ。
だけど、ぼくの「好き」という気持ちの中には、初めから「壊したい」があった。
初めから、だ。
初めから、ぼくはうららくんを壊したいと思っていた。変な意味はないし、たとえ話でもない。
ぼくにとっては当たり前のことで、自分からおかしいと思ったことは一度もなかった。ぼくの「壊したい」は色を変え形を変え、「好き」に馴染んでしまっていた。
きれいに結びついた「好き」と「壊したい」を自分の中に住まわせ、うららくんを見つめて、ぼくはここまでやってきた。
もちろんぼくは、壊すことが悪いことであると知っている。何かを壊したら、それを大切にしている人が悲しい気持ちになるからだ。
知ってはいるけど、わかってはいない。
何かを大切に思う気持ち、というのも実はよくわかってなかった。大切にしたい気持ちは、「好き」と同じ? でも、「大切にしたい」と「壊したい」は逆の意味のような気がする。
一人で考えても何もわからない原因に、ぼくはちゃんと気づいていた。
多分、初めからぼくは間違っているのだ。うららくんの「好き」が本当の好きで、ぼくの「好き」は悪いことなんだ。いつだってそうだった。いつだって、うららくんが本物で、ぼくは偽物だった。
ぼくには、うららくん以外に好きなものがなかった。「好き」の始まりがうららくんで、「好き」の終わりもうららくんだった。うららくんへの「好き」を真ん中に置いて、他と比べることしかできなかった。
間違った「好き」を抱きしめている間は、ぼくは普通の気持ちを、自分のものとしてわかることはできないだろう。
でも、たとえ悪いことだとしても、ぼくは「好き」を諦めたくなかった。
ぼくは小学校に上がってから、たくさんの「壊したい」を見た。
金盞小学校は、いつもは普通の場所だけど、時々すごく怖いお兄さんやお姉さんを見かけることがあった。いきなり窓ガラスを割ったり、大声を出して机を投げつけたり、友達をめちゃくちゃ殴ったりするのだ。ほとんどが五年生や六年生だったから教室も結構離れていたのに、先生の怒鳴り声が一年生のところまで聞こえてきたりした。職員室の近くでケンカしているのを見たこともある。
お兄さんたちが暴れているのを見ると、うららくんはくちびるを噛みしめて、ぼくの袖を引っ張り「ね、あっち行こう?」と怖がった。
うららくんに手を引かれて、お兄さんたちを遠くから見ながら、あの人たちはものを壊してはいてもぼくとは違うな、と残念に思った。
ぼくはまだ「壊す」のをしたことはなかったけど、「壊したい」は「好き」なんだから、壊すのはぜったい、楽しくて幸せなことだと信じていた。
お兄さんたちはとてもイライラしていた。何かに怒っているみたいだった。とてもじゃないけど、楽しんで壊しているようには見えなかった。それに、お兄さんたちは壊すものを選んでいなかった。手当たり次第、って言うのかな。何も考えてなさそうだった。
ぼくは違う。ぼくが「壊したい」のはうららくんだけだった。
お兄さんたちを見ていて、よかったこともあった。学校で派手にものを壊した人は目立つ。何も壊していない時でも先生にじろじろ見られているし、友達にも避けられる。悪い意味で学校中に名前が知られてしまうのだ。まあ、壊すのは悪いことだから当たり前だ。
ぼくは、もしうららくんを壊す時には、できるだけ誰にも気づかれないようにしよう、と思った。ぼくはこれからも学校に行かないといけない。家に帰らないといけない。乱暴な子だと先生やママたちに思われたら、うららくんから離されてしまうかもしれなかった。それでは困るんだ。
ぼくはただうららくんを壊したいんじゃない。できるだけ長い時間をかけて、ずっとずっと壊し続けたかった。大好きなうららくんを壊すんだもの。たくさんたくさん「好き」って言いたいよ。
うららくんを壊す方法なら、いくらでも思いついた。色んな方法を、学校のお兄さんたちやテレビが教えてくれるから。でも、それはなんとなく違うような気がした。
ぼくはとりあえず、うららくん以外のものを実験台にして、壊す練習をしてみることにしたんだ。
最初は小さくて、動きの遅い虫から。だんごむしとか、ありさんとか。虫ぐらいだったら他の男の子も普通にやってるし、うららくんも嫌がらなかった。でも、こんなんじゃ全然ダメだ。小さな虫はちょっと踏み潰してぐりぐりすると、すぐに動かなくなってしまう。もっと大きいものじゃなきゃ。
もっと大きいもの……犬、猫、鳥。どれもぼく一人で捕まえて壊すのは難しそうだった。おまけに、大きいものはだいたい人に飼われていた。誰かの持っている物を簡単に壊したら大事件になる。学校の飼育小屋にはうさぎや鶏がいるらしいけど、入るのには鍵がいる。飼育委員会に入れるのは四年生からだ。そこまで待つのは、ちょっと遅すぎるな。
ぼくはうららくんと一緒に学校に通いながら、実験台になるものを探していた。
チャンスがやってきたのは、やっぱり夏休みの時だった。
ぼくたちのおばあちゃんちの近くには大人の野良猫が住んでいて、人によく懐いているんだと、おばあちゃんから聞いた。うららくんとぼくが来た次の次の日、さっそく野良猫は庭までやってきた。茶色のトラ柄で、けっこう大きい猫だ。
「わはー、かわいいー!」
うららくんは嬉しそうに猫を抱っこすると、おばあちゃんからもらった猫用のにぼしやかつおぶしをあげていた。「かわいい」という気持ちもぼくにはよくわからなかったけど、ぼくもうららくんの真似をして猫を可愛がった。
猫はもうかなりお年寄りみたいで、うららくんに触られてもおとなしく座っていた。人懐こいというか、人を怖がっていなそうだ。
「れいやくん、ねこかわいいねえ」
「うん! もふもふしてるね」
うららくんに明るく返事をしながら、実験台にするならこいつがいいかもとぼくは考えていた。猫はのろのろとしか歩けないから、今みたいに座っているうちに足を動けなくすれば何でもできる、はず。道具はあった。おばあちゃんが料理をしているところをよく見ていたから、包丁の場所はわかっていた。おばあちゃんがいない間に洗って戻しておけば、きっとばれない。
できる、と思った瞬間、どうやって壊そうかとわくわくがあふれてきた。包丁はするどくてあぶないから、こんな猫なんてあっという間に壊しちゃう。せっかく見つけた実験台なのに、すぐ壊すのはもったいない。もっと安全で、ちょっとずつ壊せるものがいい。たとえば、スコップとか。
あと考えたほうがいいのは、どうやってうららくんにばれないようにするか、だ。黙って外に出たら心配して探しにくるに決まってるし、遊びにいくと言ったら当たり前についてくるだろう。どうしようか……。
まよちゃんと出会ったのは、次の日のことだった。そしてぼくは、まよちゃんの「明日も、ここに来ていい?」という言葉でひらめいたんだ。
さらに次の日、ぼくは作戦を決行することにした。
「うららくん、ちょっとおねがいがあるんだけど」
朝ごはんを食べ終わって二人で歯みがきをしている時に、ぼくはうららくんの肩をトントンと叩いた。うららくんは歯ブラシを口に入れたままにこにこした。
「なあに?」
「ぼく、まよちゃんにおとといのねこを見せたいな」
うららくんは「いいね! それ」とぶんぶん首を振ってうなずいた。ぼくもうなずいて、付け加えた。
「でもね、ぼくたちがねこを探してる間に、まよちゃんが来たらたいへんでしょ? ぼくが探してくるから、うららくんは家にいてほしいの」
これがぼくの考えた作戦だ。
けど、まよちゃんが来るには少し早い時間だったので、うららくんがそう言い出さないかどきどきしながら、ぼくは返事を待った。
「わかったー!」
うららくんはまったく疑わなかった。ぼくはほっとした。
あとは簡単だった。うららくんとおばあちゃんの両方がリビングにいない時を狙い、台所から包丁を取ってきて(種類がたくさんあったから、てきとうに選んだ。これだけあるなら返さなくても気づかれないかも)、すばやくタオルで包み、にぼしと一緒にビニール袋の中に入れた。
スコップも入れようとして……あれ? 一昨日使った後リビングに置いておいたはずなのに、どこにもない。ソファの裏に回って探していたらうららくんが戻ってきてしまったので、ぼくは慌てて袋を隠し、「じゃ、ぼく行ってくるね!」と家を出た。スコップが使えないのは惜しいけど、しょうがない。
おばあちゃんの話によれば、猫はいつも家の近くにある空き地をうろついているそうだ。ぼくは袋からにぼしを出して、「おーい、ねこ、どこだー」と辺りを見回した。
空き地はすぐに見つかったし、一昨日の猫もいた。ともかくリラックスさせなきゃ、と思ったぼくは横に袋を置き、にぼしをちらちらさせて猫に近寄った。
「ほらほら、にぼしだよ。おいで」
猫はぼくの方をじっと見たかと思うと、ゆっくりと歩いてきた。猫が一歩一歩近づいてくるたびに、手のひらにじっとりと汗がにじんでいく。これからこの子を壊すんだ、と自分に言い聞かせたら、目の前にいる茶色の猫がうららくんに見えてきた。猫のくせにたれ目なところとか、優しそうな雰囲気が確かに似ている。
にぼしを持っていない方の手で、足元まで来た猫の頭を撫でた。手のひらに伝わってくる温度はお昼寝をしている時のうららくんと同じで、ぼくは思わず、つばを飲み込んだ。
おとなしくしていた猫が突然「みゃっ」と鳴いて、ぼくの手を引っかいた。
「いったあ!」
にぼしの入った袋がぽとりと地面に落ちる。
なんと猫は、ぼくの手からにぼしをひったくり、ぴゅーっと道路に向かって走り出したのだ。何があったのかわからなくて、引っかかれた手を押さえてぼんやりしていたぼくは、数秒経ってから猫に逃げられたことに気づいた。
「……あっ、まちなさいっ、こら!」
ぼくも空き地を飛び出して追いかけようとしたけど、丁度その時ぼくの目の前を大きなトラックが猛スピードで通り過ぎるところだった。ぼくはぎりぎりのところで踏みとどまった。
(あ、危なかった)
もう少し早く飛び出していたらはねられていた。そこまで考えて、ぼくは猫がぼくより早く飛び出していたことを思い出した。
「ね、ねこ……?」
トラックが走り抜けた後に、猫はいた。
道路の端で横たわっていた。
「……ねこ」
おそるおそるもう一度名前を呼んでみる。でも、猫は返事をしない。
もっと近くに行ってみて、ようやくぼくは猫がどうなっているのかわかった。体の下から半分が、ぐっちゃり潰れているのだ。耳もおかしな方向に曲がっていた。頭を強く打ったのかも。道路には猫の下から赤い染みが広がっていた。
猫を両手で持ち上げてみたら、体が真ん中からちぎれてずるり、と崩れた。赤い染みはさらに大きくなった。
猫も、心臓の音って、するのかな。
心臓は、人と同じで胸のところにあるよね。だったら下半分が離れていても、心臓の音は聞こえるはずだ。
ぼくは猫の残った体に耳を近づけてみたけど、何も聞こえなかった。
「ねこ……」
顔をこっちに向けて、猫の閉じた目を見る。
「壊れちゃった、の?」
猫は、壊れてしまった。トラックに轢かれて、あっという間に。
どうしていいかわからなくて、ぼくは猫の上半分を持って家に帰った。頭の中が真っ白になったまま庭に入る。うららくんもおばあちゃんも家の中にいるようで、ぼくが帰ってきたことに気づいていなかった。
リビングになかったスコップは、庭の真ん中に転がっていた。ぼくはスコップをちょこっと蹴った。少しも動かなかった。
ぼくは猫を抱えて考える。猫をゆっくり壊すつもりで、わざわざうららくんに嘘をついて外に出た。それなのに、顔も名前も知らない誰かに勝手に壊されてしまった。ぼくが壊すはずだったのに。
これってすごく、ひどいことだ。
もし――この猫がうららくんだったら?
ぼくはもう一度猫の顔を見た。ついさっき、猫がうららくんみたいに見えたことを思い出す。
抱えている猫が、体の下半分をなくして赤黒い血をまとって目を閉じて全然動かないうららくんとだぶった。
猫の上に、しずくが落ちた。
「……ふぇえっ」
ぼくは初めて、ぼくの気持ちで、悲しいと思った。
今まで本当に悲しくて泣いたことなんてなかったから、ぼくは涙の止め方がわからなかった。しかも、猫を持っているせいで手が塞がっている。ぼくは顔を濡らして、庭の真ん中で声を出さないようにひっそり泣いた。
(もし、この猫がうららくんだったら)
ぼくの関係ないところで、ぼくじゃない人に、うららくんが壊されてしまったら。
ぼくはうららくんを壊せなくなる。うららくんのことは、髪の先から足の爪まで、ぼくが壊さないといけないのに。
(そんなの、ぜったい、いやだ……っ!)
ぼくがうららくんを守らなきゃ。
うららくんは猫みたいにふわふわで柔らかくてあたたかくて優しいから、壊そうと思えば楽に壊せてしまう。きっと壊そうとする人がいっぱいいる。うららくんが誰にも壊されないように、ぼくがそばでちゃんと見ていなきゃ。ぼくが見張らなきゃ。
それから、うららくんが誰かに壊される前に、うららくんを壊す方法を、早く見つけないといけない。
庭で泣いているぼくを見つけたのは、うららくんでもおばあちゃんでもなく、まよちゃんだった。
まよちゃんが庭に入ってきていたことにぼくは気づかなくて、ふと顔を上げたら目の前に鼻と口を押さえて嫌そうな顔をしたまよちゃんがいた。まよちゃんが「何、それ」と言うから、ぼくは猫のことを教えてあげた。
まよちゃんは猫にちょっとだけ触ったが、すぐにびくっとして手を引っ込めてしまった。
「それ、埋めないの?」と、まよちゃん。
つい「え?」と訊き返すと、まよちゃんは目を逸らしてぼそぼそと低い声で言った。
「もう、動かないんでしょ? 早く埋めないと」
ぼくはまよちゃんを睨み付けた。そんなのぼくだってわかってる。ただちょっと最悪なことを考えてしまって、悲しかったから泣いてただけなんだ。
だけど、まよちゃんは別に泣いているぼくを怒ったわけじゃないことに気づいて、ぼくは睨むのをやめた。うららくんならそうするだろうと思った。そもそも、うららくんが誰かを睨み付けるところなんて、見たことないけども。
「今から埋めるの」とぼくは答えて、スコップを拾った。まよちゃんの言う通り、猫のお墓を作ることにした。
小さな虫は壊してもその辺に捨てていいのに、猫や犬だといちいち埋めないといけないのは、やっぱり、可愛がっている人がいるからなんだろうか。ぼくからすると、虫も猫も人も、うららくんじゃないならみんな同じなんだけど。あ、この猫はうららくんに似ていたから、例外。
まよちゃんはぼくの横にしゃがんで、ぼくが穴を掘るのをまばたきもしないでじっと見ていた。いっつも目をぱちぱちさせているうららくんとは、やっぱり全然違う。
「心良くんには、言わなくていいの?」
「うん」
すぐに答えて、ぼくは「うららくんも、かなしいって言うと思うから」と付け加えた。
うららくんは悲しい時、意外と涙がこぼれないように我慢して小さい声で泣く。悲しい気持ちはわからなくても、うららくんの気持ちはわかる。だからいつもは簡単に真似できるけど、今日はもう涙が枯れてしまったので、無理だなあと思ったのだ。
まよちゃんは何か勘違いしているのか、しみじみと「玲矢くんは、優しいんだね」と言った。
優しい? ぼくが?
ぼくは怖い顔を作って黙って穴を掘っていたけれど、正直今にも笑い出してしまいそうだった。ぼくにうららくんと同じ優しさが猫のしっぽの先っちょほどだけでもあったら、包丁を盗んで猫を探しに行ったりはしないのに。
まよちゃんがぼくの中身を知っているというのは、勘違いだったのかな。それとも、知っているのに意地悪で知らないふりをしているのかもしれない。
まよちゃんのことを知るには、もう少し一緒に遊んでみないとわからないな、とぼくは思った。
穴を掘り終えて、猫を埋めると、ぼくは手を合わせて目を閉じた。
えっと、何で手を合わせないといけないんだっけ。知らない人がお墓の前でこういう風にしているのを、うららくんと一緒にテレビで見ただけなんだ。あの人は手を合わせながら何を言っていたのか思い出そうとしてみたけど、一言も出てこなかった。
うららくんが何て言っていたかは覚えている。「ぼくはれいやくんと一緒にお墓に入りたいなあ」だ。ぼくは確か、「ぼくもうららくんと一緒がいいよ」って答えた。でも、うららくんを「壊す」のはぼくだ。全く同時にお墓に入るのはできないと思う。うららくんが落ち込んだらいけないので、そのことは言わなかった。
ぼくは結局、「次にぼくのところに来てくれたら、その時はちゃんと壊されてね」とお祈りした。にぼし、たくさん用意して待ってるよ。今度は逃げ出されないように、首輪も作っておこう。
お祈りが終わって立つと、まよちゃんはぼくを見上げ、小さく首を傾げて訊いてきた。
「長かったね。何をお祈りしてたの?」
ぼくは質問に答えなかった。
それは本当に訊きたいこと? 知っているのに試しているの?
まだわからない。わからないなら、確かめなきゃ。